ASモナコ
アソシアシオン・スポルティヴ・ドゥ・モナコ・フトボル・クルブ(仏: Association Sportive de Monaco Football Club、通称:ASモナコ (AS Monaco, フランス語発音: [ɑ.ɛs mɔnako])、またはモナコ (Monaco))は、モナコを本拠地とする、リーグ・アンに所属するプロサッカークラブ。ホームスタジアムはスタッド・ルイ・ドゥ。 地中海に面したコート・ダジュール地方に拠点を置くニースとの試合は、コートダジュール・ダービーとして扱われる。ダービーでサポーターが相手チームをけなす事は欧米では珍しくないことであるが、モナコのサポーターはそのようなことはせず、自チームの応援のみを目的としている[1]。 ホームタウンのモナコは人口が約3万8千人で、世界で最も裕福で安全な場所としても知られる。また、サッカーは数多くあるエンタメの内のひとつにすぎないため熱狂的なファンは少ない。ホームスタジアムは収容人数約1万9千人と中規模である。 キリアン・エムバペをはじめ世界屈指の選手がASモナコでプロキャリアを始めている。 概要1919年に創立し、1948年にプロのクラブチームとして認可された。1953年に1部昇格を果たして以来、レーニエ大公(当時)の打ち出した企業への税制優遇措置に乗る形で優秀な外国人選手を大量に加入させ、フランスリーグでも有数の強豪へとのし上がる。 通算リーグ優勝8回、カップ戦の優勝は5回を数える。さらにヨーロッパの舞台でも実績を残しており、UEFAカップウィナーズカップおよびUEFAチャンピオンズリーグで、それぞれ1992年大会と2004年大会で準優勝を果たした。 また、欧州クラブ協会の会員でもある。2011年にはクラブの3分の2がロシアの大富豪(オリガルヒ)である、ドミトリー・リボロフレフが率いる投資グループによって買収された[2]。 歴史1910年代 - 1950年代ASモナコFCは、1919年8月1日にフランスとモナコ公国の5つのクラブ(Swimming Club、モナコ・スポール、ASボーソレイユ、エトワール・ドゥ・モナコ、ACリヴィエラ)が合併して公式に設立された[3]。合併したクラブの中の、モナコ・スポール(旧称エルクリス)は1904年に創設されたモナコの象徴的なクラブだった[3]。このASモナコFCは、1924年8月23日に総合スポーツ組織ASモナコへと吸収された[3]。1924-25シーズンに南東リーグにて最初の試合を行った[3]。 1948年にプロ化された[3]。1952-53シーズンのディヴィジョン・ドゥで2位となり[4]1953-54シーズンにトップリーグであるディヴィジョン・アンに初めて昇格した[3]。 1960年代 - 1970年代1958年に監督に就任したリュシアン・ルデュクの下でモナコは躍進を遂げ、1960年にフランスカップの決勝でASサンテティエンヌを4-2で破り、初めての主要タイトルを獲得した[3]。1961年より、モナコ公妃グレース・ケリーの提案によって、斜めに白と赤を分割した有名なシャツを着用するようになった[3]。1960-61シーズン、モナコは初めてのリーグタイトルを獲得した[3]。1962-63シーズンにはリーグとカップのダブルを達成した[3]。しかし、1963年にルデュクが退任、そして優勝に貢献した主力選手たちもモナコから離れていくにつれチーム力が衰え、1969年に降格した[3]。 しばらくは昇格と降格を繰り返していたが[3]、1975年[5]に若くして会長に就任したジャン=ルイ・カンポラの下で、クラブの再構築が進んでいった[3]。1960年代に成功したリュシアン・ルデュクを再び監督に迎え、1977-78シーズンにディヴィジョン・アンに昇格すると、昇格1年目のシーズンに15年ぶりのリーグ優勝を果たした[6]。フランスサッカーの歴史において昇格1年目のクラブがリーグ優勝した例は、このシーズンのモナコのみである[7]。1973年から1980年まで7シーズン在籍したアルゼンチン人の点取り屋デリオ・オニスは223ゴールを挙げ、現在もクラブの最多得点記録者となっている[8]。GKジャン=リュック・エトリは、1975年からの17シーズンのキャリアのすべてをモナコで過ごし、クラブの最多出場記録(755試合)およびリーグ・アン全体での最多出場記録(602試合)を有する[8][9]。 1980年代 - 1990年代1979年から1983年までのジェラール・バニドの監督時代には、1979-80シーズンに17年ぶりのクープ・ドゥ・フランス優勝、1981-82シーズンに4度目のリーグ優勝を果たした。1985年1月25日、現在のスタッド・ルイ・ドゥが開場した[3]。 1987年から7シーズンのあいだチームの指揮を執ったアーセン・ベンゲルの時代には、グレン・ホドルとマーク・ヘイトリーのイングランド代表コンビを中心に、堅守速攻の近代的なサッカーで毎年優勝争いを繰り広げた。ベンゲルの下では国内(1987-88シーズンにリーグ優勝、1990-91シーズンにカップ優勝)だけにとどまらず、欧州の舞台でも成功を収め、1991-92シーズンにUEFAカップウィナーズカップで準優勝(ヴェルダー・ブレーメンが2-0で勝利)、1993-94シーズンにUEFAチャンピオンズリーグの準決勝に進出(優勝するACミランに敗退)した。[3]また若い世代の選手のスカウト・育成にも力を入れ、この頃に見出された選手にリリアン・テュラムらがいた。 その後ベンゲルの後を継いだジャン・ティガナ、そしてモナコの生え抜き選手だったクロード・ピュエルの時代も好調を維持した。ティガナ時代の1996-97シーズンは9シーズンぶりのリーグ優勝を果たし、UEFAカップでは準決勝でイタリアのインテルに敗れた[3]。1997-98シーズンのチャンピオンズリーグでは準決勝でユヴェントスFCに敗れた。この時代の主要な選手にはファビアン・バルテズ、エマニュエル・プティ、ティエリ・アンリ、ソニー・アンデルソンらがいた[3]。ピュエル時代の1999-2000シーズンには7つ目のリーグタイトルを獲得した。 2000年代しかし1990年代末頃、それまでの放漫経営がたたって巨額の負債を抱え込み、好成績を収めながら2003-04シーズン開始直前には2部への強制降格を言い渡されるほど厳しい経営状況に追い込まれる(この時は各方面からの援助もあり、降格措置は免れた)。長年にわたってクラブの会長職にあったジャン=ルイ・カンポラは2003年6月に辞任した[10]。しかしこの2003-04シーズンはディディエ・デシャン監督の下、レアル・マドリード、チェルシーFCを破ってUEFAチャンピオンズリーグ決勝まで進出し、初のCLのタイトルを手にしかけるが、FCポルトに3-0で敗れて準優勝に終わった[3]。当時の主なメンバーは、パトリス・エヴラ、リュドヴィク・ジュリ、ジェローム・ロタン、フェルナンド・モリエンテス、ダド・プルショなどがいた[3]。 2003-04シーズン終了後、チームを支え続けてきたジュリら主力選手が他クラブへ次々に移籍。その代替要員として獲得した新戦力がなかなか戦術に馴染まず、徐々に弱体化した。 2005-06シーズンはチャンピオンズリーグ本戦出場権を賭けた試合でレアル・ベティスに苦杯を喫し、その後も上向かないチーム状態の責任を取る形でデシャン監督がシーズン途中に辞任した。後任のフランチェスコ・グイドリンも結果を残せず、僅か8ヶ月の在任に終わる。2006-07シーズンからはスタッド・レンヌの監督を務めていたルーマニア人、ラースロー・ベレニを招聘。全ポジションの積極的な補強も行ったが、10節を終えてわずか2勝と振るわずに在任5ヶ月で解任された。同年10月からはアシスタントコーチのローラン・バニドが暫定的に指揮を執り、一時は最下位に沈んだクラブを9位にまで押し上げたものの、フロントとの不和もあってかシーズン終了後に解任された。 2007-08シーズンはFCジロンダン・ボルドーで堅守速攻のサッカーを展開して好成績を収めたリカルド・ゴメスが監督の座に就き、不振からの脱却を目指したが、またしても低迷。ミシェル・パストール会長とジェラール・ブリアンティ副会長が成績不振の責任を取って辞任するまでに至った。 2009-10シーズンからは前レンヌ監督のギー・ラコンブが監督に就任。捲土重来を期するも、中位を彷徨うシーズンがまたしても再現された。2010-11シーズンもラコンブが引き続いて指揮を執るが、前シーズン活躍を見せたネネを放出したことにより攻撃力が低下。守備ユニットの構築にも誤算が相次ぎ、勝ちきれないゲームを積み重ねた結果、降格圏にまで落ち込んでしまう。フロントはウィンターブレイク中のフランスカップで5部リーグのチームに敗北を喫した責任を取らせる形でラコンブ監督を解任し、前回の緊急登板でチームを上昇気流に乗せたローラン・バニドを4年ぶりに招聘。レアル・マドリードで出番を失っていたマアマドゥ・ディアッラを始めとして大量補強に踏み切るも、低迷からは抜け出せず18位に終わりリーグ・ドゥへ降格となった。 2010年代2011-12シーズンは開幕から低迷し、シーズン途中まで最下位に沈んでいた。2011年12月、ロシアの実業家ドミトリー・リボロフレフが株式3分の2を取得し、筆頭株主となったことを発表。4年間で1億ユーロの投資をするとの宣言通り、冬の移籍市場では早速1500万ユーロを投じ、人員補強を行った。しかしリーグ・アン昇格圏内の3位以内には程遠く8位に終わった。 2012-13シーズンはリーグ・ドゥの首位で昇格した。シーズン終了後、ラダメル・ファルカオ、ハメス・ロドリゲス、ジョアン・モウティーニョ、リカルド・カルバーリョ、ジェレミー・トゥララン、エリック・アビダルといった実力者を獲得している。2014-15シーズンは中心選手のラダメル・ファルカオ、ハメス・ロドリゲスがW杯後に移籍し、トマ・レマル、ティエムエ・バカヨコといった有望な若手選手を獲得して若手育成に力を入れた。2015-16シーズンはアントニー・マルシャルがマンチェスター・ユナイテッドに移籍し、アイメン・アブデヌールがバレンシアCFに移籍した。 2016-17シーズンはカミル・グリクらを獲得し、ファルカオが復帰した。チャンピオンズリーグで予選3回戦から決勝トーナメントに進出。準々決勝ではボルシア・ドルトムントと対戦して2戦合計6-3で勝利。これにより大会史上初めて予選から勝ち上がったチームが準決勝に進出した。リーグ戦では2017年5月17日のASサンテティエンヌ戦で2-0で勝利して、リーグ4連覇中のパリ・サンジェルマンFCを2位に抑えて17年ぶりの優勝を果たした。 2017-18シーズン、昨年までの主力であったナビル・ディラル、ベルナルド・シウバ、バンジャマン・メンディ、ティエムエ・バカヨコ、ヴァレール・ジェルマン、キリアン・エムバペが退団。一方でユーリ・ティーレマンス、ディエゴ・ベナリオ、ラシド・ゲザル、ステファン・ヨヴェティッチ、ケイタ・バルデらを獲得した。 2018-19シーズン、夏の移籍期間ではロシアW杯で活躍したアレクサンドル・ゴロビンをCSKAモスクワから、そのほかにも、ウィレム・ジュベル、ベンヤミン・ヘンリヒス、ジャン=ユード・アフル、ベルギー代表MFナセル・シャドリらを獲得。リーグ戦では、初戦のFCナント戦では勝利を収めるも、その後は14節まで勝ち星なしという結果になり、この時点でリーグ順位は19位と降格圏内だった。10月には近年の躍進の立役者であるレオナルド・ジャルディム監督を解任。 後任には監督未経験の元フランス代表ティエリ・アンリが就任した。冬の移籍市場ではリザーブチームからブノワ・バジアシーレを昇格させ、レスターからアドリエン・シウバをレンタルで獲得、他にも、セスク・ファブレガス、カルロス・ヴィニシウス、ジェルソン・マルティンスらを獲得したが、チームの調子は変わらず、アンリ体制は3ヶ月で終わった。また、その後、再度ジャルデム監督が就任し、17位で降格を免れた。 2020年代2021-22シーズン、チャンピオンズリーグでプレーオフまで進んだが敗退し、6シーズンぶりにUEFAヨーロッパリーグに出場したが、ベスト16で敗退した。 2022-23シーズン、リヴァプールFCから加入ということもあり期待感の高かった南野拓実は、全く活躍できず各メディアから酷評されワースト選手にも選出された。 2023-24シーズン、9得点6アシストを記録し、チームの支柱へと這い上がった南野拓実の活躍もあり、リーグ戦を2位でフィニッシュし来季の6年振りのチャンピオンズリーグ本戦出場が決定した[11]。チーム歴代2位の得点数を記録していたウィサム・ベン・イェデルは来季の構想外となり契約満了で退団した。 2024-25シーズン、開幕戦では先発フル出場した南野の決勝点で1-0で勝利した。マグネス・アクリウシェ、エリース・ベン・セギルも台頭し、層の厚い攻撃陣となった。欧州チャンピオンズリーグ(以下欧州CL)では第1戦のFCバルセロナ戦で勝利した。開幕から公式戦11戦、リーグ戦8戦無敗だった[12]。欧州CL第4戦のボローニャ戦の先発メンバーの平均年齢は23歳であった。これは欧州CL史上最年少の先発平均年齢である[13]。シーズン前半戦で、守備陣のレッドカードによる退場がCLで3試合、リーグ戦で4試合と不安定なゲームコントロールが目立った[14]。 ライバル関係近郊チームとのダービーマッチとしては、コートダジュール地方にホームを構えるOGCニースとの「コートダジュール・ダービー」や、フランス南東沿岸にホームを構えるオリンピック・マルセイユとの「南仏ダービー」があるが、小国で観光立国でもあるモナコにはサッカーに対する熱心なファンが少ないため、ホームで開催するダービーであってもアウェイの熱狂的なサポーターに占拠される奇妙な光景を目にすることが出来る。 ユニフォームホームゲーム用シャツは、赤と白を基調に、赤白の境界が右肩から左腰へ斜めに入った特徴的なデザインとなっている。 創設当初はチームカラーがなく、他のクラブが使っていない色を中心に毎年替えていた。その後1950年代に赤白のストライプ模様を採用し、チームカラーがほぼ固定された。このストライプ時代の1960年にクラブ初のタイトルとなるフランスカップを獲得している。 現在も使用されている斜め模様は、モナコ公国妃(当時)グレース・ケリーによってデザインされたもの。採用された1960-61シーズンにクラブ初のリーグ制覇を成し遂げたという縁起の良いユニフォームである。 タイトル国内タイトル
国際タイトル
過去の成績→詳細は「ASモナコのシーズン一覧」および「ヨーロッパサッカーにおけるASモナコ」を参照
欧州の成績
現所属メンバー
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印は外国人枠選手を示す。 ローン移籍
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
歴代監督
歴代所属選手→詳細は「Category:ASモナコの選手」を参照
歴代記録
脚注
関連項目外部リンク
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