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エルネスト・ゲバラ (Ernesto Guevara 、1928年 6月14日 - 1967年 10月9日 )は、アルゼンチン 生まれの政治家 、革命家 で、キューバ のゲリラ 指導者。
「チェ・ゲバラ (Che Guevara )」の呼び名で知られるが、「チェ 」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語 (リオプラテンセ・スペイン語 をはじめとする諸方言)で「やぁ」「おい」「お前(親しみを込めた)」「ダチ」といった砕けた呼び掛けの言葉であり、ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していたことから、キューバ人たちが「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名 である。ラテンアメリカ ではキューバ革命以降「チェ」もしくは「エル・チェ (El Che )」(「el 」男性定冠詞 単数形)といえば彼のことを指す。
生涯
幼年期
5歳。伝統的なガウチョ の服装でロバに乗る(1933年)
17歳の時(1945年)
1928年 にアルゼンチン第三の都市ロサリオ でバスク系アルゼンチン人 とアイルランド系アルゼンチン人 の両親のもとに誕生する。父はアルゼンチン人 のエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ(1900〜87)、母はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ(1905〜65)。
1824年 にシモン・ボリーバル 、アントニオ・ホセ・デ・スクレ らのラテンアメリカ解放軍とアヤクーチョ で戦ったペルー副王、ホセ・デ・ラ・セルナ の末裔であり、経済的には恵まれた家庭であった。両親はカトリック 国であるアルゼンチンの保守的な慣習にとらわれない比較的リベラル な思想の持ち主であった(母のセリアは無神論者 でもあった)。
未熟児 として生まれ、肺炎 を患い、2歳のとき重度の喘息 と診断された。両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数回転居している。幼い頃は痙攣 を伴う喘息の発作 で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入 器を使用して回復するという状態であった。しかしラグビー など激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。重度の喘息は彼を生涯苦しめた。医学生時代には友人と「タックル」というラグビー雑誌 を発行し、自ら編集 もつとめた。
青年期
ブエノスアイレス大学 で医学 を学ぶ。在学中の1951年 に年上の友人のアルベルト・グラナード とともにオートバイ で南アメリカ をまわる放浪旅行を経験した。旅の過程で、チリ の最下層の鉱山労働者やペルー のハンセン病 患者らとの出会いなど、当時比較的裕福であったアルゼンチン以外の南米各地の状況を見聞するほか、ホセ・カルロス・マリアテギ の著書に影響を受けマルクス主義 に共感を示すようになった(このことは著作『モーターサイクル南米旅行日記』に記され、後にこれを原作として映画『モーターサイクル・ダイアリーズ 』も制作された)。このオートバイを、スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』で主人公が乗る馬の名前にちなんでロシナンテと命名した。
1953年 、大学卒業の25日後、友人のカルロス・フェレルとともに再び南米放浪の旅に出る。J.D.ペロン の独裁政権 下のアルゼンチンを離れ、当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、ボリビア革命 の進むボリビア を旅した際に、それまで虐げられてきたインディオ が解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな衝撃を受けた。その後ペルー、エクアドル 、パナマ 、コスタリカ 、ニカラグア 、ホンジュラス 、エルサルバドル を旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン 時代のポプリスモ (社会主義 とする見方もある)政権下のグアテマラ に行き着いた。グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルー を追われ、グアテマラに亡命 していた女性活動家 のイルダ・ガデア と出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くとともに、彼女と結婚する。
1950年10月の選挙によって成立したグアテマラのアルベンス政権は、スペイン植民地時代から続く構造化された収奪や、長きに渡る腐敗した独裁政権による社会の荒廃の改革を進めていた。アメリカ 企業(ユナイテッド・フルーツ 社)による搾取 からの経済的独立や、グアテマラにおける農業資本主義 経済確立のため、マヤ 系インディオ の復権のために、それまで半農奴 的な扱いを受けていた土地無し農民への農地分与など、グアテマラ革命 と呼ばれるほどの急進的な改革を進めていた。しかし、アルベンス政権がユナイテッド・フルーツ社の社有地に手をつけると、アメリカ合衆国内で猛烈なグアテマラへの非難が巻き起こった。アルベンス政権が軍部の裏切りによりCIA に後押しされた反抗勢力のカスティージョ・アルマス に倒されると(PBSUCCESS作戦 )、民主的 な選挙によって選出され、ゲバラが「ラテンアメリカ で最も自由で民主的な国」と評したグアテマラの革命政権は崩壊した。この出来事が直接のきっかけとなり、ゲバラは武力によるラテンアメリカ革命を本気で志すようになった。
その後、アルマス新政権によってゲバラの暗殺 指令が出されたため、妻のガデアとともに、失意と怒りを抱いてメキシコ に移る。1955年 7月、この地に亡命 中の反体制派キューバ人のリーダーである、フィデル・カストロ と出会う。7月26日運動 を率いてキューバのフルヘンシオ・バティスタ 独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、このとき、一夜にして反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意したとされている。こうしてスペイン内戦 で共和派 の生き残りとなったアルベルト・バーヨ 中佐による本格的な軍事訓練 を受けて、キューバ上陸への準備が進んでいった。
革命家ゲバラ
ラバ に乗って 1958年11月、ラスビラスにて
妻と娘のイルディーダをメキシコに残し、単身キューバへ向かう。1956年 11月25日 、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名はプレジャーボート 「グランマ号 」に乗り込んだ。しかしこの「グランマ号」は7人乗りで、その10倍以上も詰め込んだ収容過多によって衛生環境などが劣悪となったことに加え、目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、それに伴い士気も下がっていた。さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。結局生きて上陸できたのは82人中、ゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ 、カミーロ・シエンフエゴス などを含む12人のみだった[ 注釈 1] 。オルトドクソ急進行動の指導者で部隊の副官格のマヌエル・マルケスやバヤモ兵営襲撃の生き残りニコ・ロペス(ゲバラとカストロの仲立ちをした)ら多くの人間が拷問のすえ虐殺された。
上陸後、反乱軍はシエラ・マエストラ山脈 に潜伏し、山中の村などを転々としながら軍の立て直しを図った。その後キューバ国内の反政府勢力との合流に成功し、反乱軍は徐々に増強されていった。当初、ゲバラの部隊での役割は軍医 であったが、革命軍の政治放送をするラジオ局 (ラジオ・レベルデ)を設立するなど、政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を遺憾なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。上陸から1年後の兵員増加に伴う部隊の再編成に際して、カミーロやラウルらを差し置き、カストロから第2軍(名前の上でだけは第4軍)のコマンダンテ(司令官 。司令官の下に分隊がある。分隊指揮者は「隊長」)に任命され、指揮権と少佐 の階級を与えられ、名実ともにカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2となった。
革命成就
1959年1月2日、革命成就直後に
1958年 12月29日 にはこの第2軍300人を率いて政府軍6000人が迎え撃つキューバ第2の都市サンタ・クララ に突入する。そこで、政府軍の武器と兵士を乗せた装甲列車を転覆させ政府軍を混乱させる。反乱軍を支援する多数の市民の加勢もあり、激戦の末にこれを制圧し、首都ハバナ への道筋を開いた。
1959年 1月1日午前2時10分に、フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国 へ亡命し、1月8日カストロがハバナに入城、「キューバ革命 」が達成された。闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権 を与えられた。
革命成立6ヵ月後の1959年6月、ゲバラはカストロの特使、6人の親善使節団の団長としてアラブ連合 (エジプト 、シリア )やユーゴスラビア 、インド 、ビルマ 、インドネシア 、アフリカ ガーナ など11ヶ国歴訪の旅に出た[ 1] [ 2] [ 3] 。当時欧米 ・ソ連 に対して「第三世界 」と呼ばれた国々にキューバ革命の真実を伝えるとともに、親善友好を促進しようという狙いであった[ 1] 。出発前は日本はスケジュールに組まれていなかったが、7月4日、神田襄太郎駐キューバ大使 に日本に行く旨の正式通告があった[ 1] 。カストロが日本びいきであったとされ[ 1] 、ゲバラも日本人 の精神力や勤勉さ、日本の心を高く評価していたことが「第三世界」ではない日本を訪問国に選んだ動機とされる[ 4] 。日本訪問は、それ以外に特産 の砂糖 の輸出 を増やし、その資金で農業 や繊維 などの軽工業 機械、漁船 、武器 の購入に充てたいという経済使節の役目も兼ねていた[ 1] 。キューバはまだ共産国に入らず、政局 も流動状態にあり[ 1] 、ゲバラもまだ閣僚 ではなく、中南米 にいた日本の見本市船 から藤山愛一郎 外相 に打たれた公電 のゲバラ評は「カストロ首相の信頼の厚い人物ながら、極左 的色彩を有する革命家(本人は否定)で首相特使の資格」と書かれていた[ 1] 。ゲバラは当時、ガバーニャ要塞指令官という地位で、ゲバラが表面に出るのは、訪日後の1959年11月に国立銀行 総裁に就任してからである[ 1] 。
日本来訪
1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの通商使節団5人を引き連れて日本 を訪れ[ 5] 、羽田空港 に降り立った[ 1] [ 2] 。当時日本でのゲバラの知名度 は低く[ 1] 、第一線で活躍する新聞記者 も知らない状態で[ 1] 、『朝日新聞 』が「カストロ・ヒゲ [ 6] 」と揶揄同然に報じたのみで、他社には無視された。同日、麻布プリンスホテルに宿泊[ 1] 。16日、東京都庁 を表敬訪問し、東龍太郎 東京都知事 と会談[ 1] 。この日と離日の7月28日に記者会見 が行われたが、日本の新聞の大半は一行も報じず[ 1] 。産経新聞大阪版 のみが会見を掲載した[ 1] 。ジャパンタイムズ は、AP 特約記事として何度がゲバラの動向を報じた[ 1] 。17日、藤山愛一郎 外相 と会談[ 1] 。ゲバラは事前に岸信介 首相 との会談を申し入れていたが、岸はヨーロッパ を旅行中で岸との会談は果たせなかった[ 1] 。同じ日に牛場信彦 外務省 経済局長とゲバラの会談では、日本対キューバの貿易が日本の大幅入超になっていたことから、キューバに関税 の撤退を求められた[ 1] 。7月18日ー7月20日足取り不明[ 1] 。ゲバラ来日の最大のミッションは日本への砂糖の売り込みだった[ 1] [ 2] 。キューバ経済は砂糖が主体であり、キューバ砂糖の三大輸出国は、アメリカ、日本、アラブ連合[ 1] 。アメリカが最大の輸出国だったが、当時のキューバはアメリカとの関係が悪化し始め、アメリカと対決する方向に足を踏み出し、砂糖の輸出が上手くいかなければ、共産圏諸国 と双務協定 を結び、共産国と提携する必要に迫られるかもしれない、すでに共産圏から取り引きの申し出がある、などと来日中に共産圏への接近をほのめかした[ 1] 。当時日本は40万トン以上の砂糖をキューバから買っており、ゲバラとしては、その維持の確約を訪日のおみやげにしたかった[ 1] 。しかし日本側は輸入超過を問題視し、関税の撤退を確約しなければ交渉に応じられないという姿勢[ 1] 。このためゲバラは関係省庁 を次々訪れ、21日には福田赳夫 農相 、翌22日には池田勇人 通産相 と会談し、盛んに砂糖を売り込んだ[ 1] [ 2] 。しかし池田から「現在の日本の対キューバ貿易は、輸入と輸出の比率が10対1だ。どのくらい日本品を買ってくれるか。問題は砂糖より日本品の買い付けだ、豪州 との協定は1対3だ。そのうちに1対2になるだろう。10対1という国はキューバ以外にない。キューバこそ日本商品をもっと多く買い付けるべきだ」などとけんもほろろに断られた[ 1] [ 7] 。池田との会談でゲバラと日本政府との交渉は終止符が打たれた[ 1] 。この池田との会談で日本の新聞はようやくゲバラを活字で取り上げた[ 1] 。革命後日が浅く、政権の基盤がまだ十分に整わない"カリブ海 の点の国"の使節団に対する日本の扱いは冷たかった[ 2] [ 3] 。ゲバラが離日して間もない、8月21日に砂糖の大量生産国だったソ連がキューバ糖17万トンの買い付けを発表して世界中を驚かせた[ 1] 。以降、成長著しい日本の工業を精力的に視察[ 4] [ 5] 。7月22日、関西 へ向け出発し名古屋市 に宿泊[ 1] 。23日には午前中に愛知県 のトヨタ自動車 工場のトラック やジープ 型4輪駆動車の製造ラインを見学[ 1] [ 5] 。当時のトヨタの本社工場は出始めのトヨエース など小型トラック の製造が主体で、ゲバラ一行も乗用車 よりトラックやジープに興味を持っていたといわれる[ 1] 。午後には新三菱重工 の飛行機製作現場を訪れた[ 1] 。夕方急行「西海」 に乗り、大阪 入りし大阪グランドホテル に宿泊[ 1] 。24日には久保田鉄工 堺工場で農業機械 の製造ラインを見学し実際に農業機械を動かして試した[ 1] [ 5] 。久保田は外務省からの申し入れでゲバラ一行を「農業使節団」として受け入れた[ 1] 。この後、丸紅 、鐘紡 と回って夕方に大阪コクサイホテルで大阪商工会議所 主催のパーティーに出席した[ 1] 。この他にもゲバラは通商のために、ソニー のトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。ゲバラはキューバに帰って、日本の工業力への称賛をカストロに語ったとされるが[ 1] 、日本の経済界 はアメリカに気兼ねしてキューバとの貿易はあまり進まなかった[ 1] 。
7月24日に大阪に泊まった際、広島 が大阪から遠くないことを知り[ 2] 、翌25日、神戸 の川崎造船所 を視察した後、神戸での以降の予定をキャンセルし[ 1] [ 2] 、帰京予定を変更してオマール・フェルナンデス大尉とマリオ・アルスガライ駐日大使 を伴って全日空機 で山口県 岩国空港 に飛んだ[ 1] [ 2] 。広島訪問は予定に入っていなかったが、ゲバラが突如、「他の予定を犠牲にしても、広島平和記念公園 内の原爆死没者慰霊碑 に献花したい」と言い出した[ 1] [ 2] [ 4] 。広島訪問を熱望した理由は、ゲバラにとって広島は原爆 で壊滅的な被害にあった後、驚異的な復興を遂げていた奇跡の街[ 5] 。キューバの国を再建するヒントにしたかったという説[ 5] 、米帝国主義 と戦うキューバ、その中でカストロ首相に次ぐポストにあるゲバラにとって、"アメリカの手によるヒロシマの惨劇 "を自らの目で確かめ、無数の非戦闘員を含む犠牲者の霊をキューバ革命政府の名で弔いたかったのでは、という説などがある[ 2] 。急ぎ外務省の大阪事務所が広島県庁 に電話し、一行の対応を要請[ 1] 。岩国に車で出迎えた広島県庁職員案内の下、途中、廿日市市 の宮島口 で車を停め、日本有数の名勝 を対岸から見学[ 1] 。ゲバラ一行は宮島口で写真に収まったが、その際、和服 の女性が通りかかり、ゲバラは日本で初めてキモノ を見たと喜んだ[ 1] 。宮島口に寄ったのは、献花用の花を新広島ホテル のフロントに持ってくることになっていた予定が間に合うかを気にしてのことだった[ 1] 。午後2時過ぎに新広島ホテルに到着。近くの広島平和公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し[ 2] 、原爆資料館 を約1時間見学[ 1] 。ゲバラは館内に展示された原爆の惨禍の凄まじさに同情と怒りを見せ[ 1] 、それまで終始無口で通していたゲバラが突然、広島県庁職員・見口健蔵に対して英語で「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」と言った[ 1] [ 2] [ 8] 。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、同国では現在でも初等教育 で広島と長崎への原爆投下 を取り上げている[ 2] [ 9] 。その後原爆病院 を訪れ[ 2] 、当時紙屋町 の住友銀行広島支店の入り口前にあった"死の影 "(人影の石 )にも接した[ 2] 。また当時の広島県知事 ・大原博夫 と会談している[ 2] [ 10] 。娘のアレイダ・ゲバラも2008年、2010年に[ 11] [ 12] 、2017年8月には息子のカミーロ・ゲバラ(アレイダの弟)も広島を訪問している[ 13] 。ゲバラは日帰りを予定していたが、帰りの飛行機が満席で、7月25日夜は新広島ホテルに宿泊した[ 1] 。この日「革命家ならこの地を訪ねるべきだ」などと書いたキューバの妻宛てに広島から投函した絵葉書 が現存している[ 2] [ 3] [ 12] 。翌26日朝、朝10時発の列車で広島駅 を立った[ 1] 。大阪から空路で東京に戻り、7月26日はキューバの革命政府にとって記念日にあたるため、麻布プリンスホテルで「7月26日運動 」記念パーティに出席[ 1] 。27日夕方5時に外務省で日本側と最後の交渉を行い、帰路に着いた[ 1] 。ゲバラが日本で受けた最大の感銘は、広島訪問だったといわれ[ 1] [ 2] [ 3] 、帰国後、ゲバラは日本を語るとき、ヒロシマを必ず口に出した[ 2] 。ゲバラが自らが発案して広島を訪れたことを切っ掛けとして、キューバをはじめラテンアメリカ 諸国でヒロシマへの関心が広がっていったとされる[ 2] 。
このゲバラの広島行に関しては、「神戸市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、宿を密かに抜け出して夜行列車 で広島に向かった」という説もある[ 2] 。しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはなく、当時の通訳であった広島県外事課の見口健蔵が、飛行機での公式の来訪を語っているほか[ 1] 、1972年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。日本語の全く分からない3人がこっそり抜け出して夜行列車に乗ることの不自然さ、無断で抜け出した場合の日本側の反応についての言及がないこと、カストロが一時的に首相を辞職するといったキューバ本国の政治的混乱の中で、使節団代表であるゲバラが、受け入れ国である日本政府や商工団体に対してそのような配慮に欠ける行動をとるとは思えない点、また、夜行列車で抜け出したにもかかわらず広島で県庁職員が待っているのは不自然でもあり、フェルナンデスの記憶違いもしくは脚色である可能性が高いと考えられている[ 14] 。
日本各地を視察した後、7月27日に日本を発ってインドネシア 、パキスタン 、スーダン 、ユーゴスラビア 、ガーナ 、モロッコ を歴訪して9月8日にハバナへ戻った。翌年には池田や牛場らとの会談で話に出た日本とキューバの通商協定 が締結され[ 1] 、今日も継続中である[ 1] 。
政治家ゲバラ
キューバを訪問したジャン=ポール・サルトル 、シモーヌ・ド・ボーヴォワール 夫妻(左側の男女)と(1960年)
革命の1ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、およそ600人が処刑された。ゲバラは処刑の責任者を務め、さらに政治犯収容所 の建設を指揮した。この時迅速に処刑を決断したのは、「グアテマラ革命の失敗は、軍内部にアルベンスへの裏切りがあったため」と後に語っている。6月には通商大使として独立したばかりのアジア、アフリカ、東欧などを歴訪し、各地で熱狂的に迎えられた。帰国後、農業改革機構工業部長および国立銀行総裁に就任。農地改革と企業の国有化 を進めた。
1960年 8月6日 、カストロがアメリカの資本から成る石油関連産業を接収、国有化すると、これに対してアイゼンハワー 大統領はキューバへの経済封鎖 を行った。翌1961年 4月にはケネディ 大統領がキューバ侵攻作戦を認可したため、プラヤ・ヒロン侵攻事件 が勃発し、アメリカに支援された傭兵軍がPBSUCCESS作戦 後軍事独裁政権が続いていたグアテマラからキューバに侵攻したが、ゲバラはカストロと共に侵攻軍を破った。この事件の後、5月1日にカストロはキューバ革命の社会主義革命化を宣言した。
ゲバラは各国に外遊を行い、8月にウルグアイ のプンタ・デル・エステ で開催された米州機構 の総会では、ブラジル のジャニオ・クアドロス 大統領から南十字星勲章 を授与された。帰国後同年10月に、工業相に就任した。経済封鎖による資源不足、さらに社会福祉 事業の無料化により経済が徐々に逼迫していく中、「生産効率の低下は人々の献身的労働によって補える」とし、自らも休日はサトウキビ の刈り入れや工場でのライン作業の労働、道路を作るための土運び、建物のレンガ積み等、積極的にボランティア に参加した。しかしこうした行動も経済を好転させるには至らず、理想主義的なゲバラは徐々にキューバ首脳陣の中で孤立を深めていった。
1964年12月11日、国連総会 にキューバ主席 として出席。演説の中でこう述べた[ 15] 。
我らの人民は声を上げた、“もう十分だ”と。
この偉大な人民の行進は、真の独立を勝ち取るまで続く。
あまりにも多くの血が流されたからだ。
代表の皆さん、これは、アメリカ大陸における新たな姿勢だ。
我らの人民が日々上げている、叫び声に凝縮されている。
また全世界の民衆に支持を呼びかける叫びだ。特にソ連が率いる社会主義陣営の支持を。
その叫びとは、こうだ――“祖国か、死か!”
— 1964年12月11日、国連総会にて
1965年 1月、各国との通商交渉のために外遊を行う。2月27日に独立の過程 によりキューバの盟友だったアルジェリア のアルジェ で行われた「第二回アジア・アフリカ経済会議」において、ベン・ベラ 大統領と共に起草した[ 16] 演説を行い、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦 の外交姿勢を「帝国主義 的搾取の共犯者」と非難し、論争を巻き起こした。3月に帰国後、キューバ政府は「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告をソ連から受ける[要出典 ] 。これを受けて[要出典 ] カストロにキューバの政治の一線から退くことを伝え、カストロ、父母、子供たちの三者に宛てた手紙を残してキューバを離れた。このことはしばらくカストロの側近以外には知らされず、半年後の10月3日 のキューバ共産党 大会においてカストロが手紙を読み上げたことで、初めて世人に知られることとなった。
再び革命の戦いへ、そして死
コンゴ で
ゲバラは1965年中にコンゴ民主共和国 に渡り、コンゴ動乱 後混乱が続く現地で革命の指導を試みたが、コンゴの兵士たちの士気の低さに失望する。
コンゴでは喘息を再発、発作に苦しめられるようになり、1966年3月から7月までチェコスロバキア のプラハ 近郊の町ラードビーにて、情報当局に匿われながら潜伏していた[ 17] [ 18] [ 19] 。偽名を使ったほか、髭を剃り落とし、髪を短く切るなどして別人になりすまし、ドイツ人らと滞在した。そこでチェコスロバキアの現状を目の当たりにし「これは社会主義ではなく、その失敗作だ」と述べたと伝えられている。7月19日にウルグアイ のパスポートでチェコスロバキアを出国し、モスクワを経由して秘密裏にキューバに帰国した。
カストロとの会談の後、新たな革命の場として、かつてボリビア革命 が起きたものの、その後はレネ・バリエントス が軍事政権 を敷いており、南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなしたボリビア を選んだ。ボリビアと国境を接するアルゼンチン、パラグアイ 、ブラジル 、ペルー 、チリ に連絡組織が作られ、チリ社会党 の指導者サルバドール・アジェンデ はこれを支援した。1966年11月、アドルフォ・メナ・ゴンザレスの偽名でウルグアイ人 ビジネスマンに変装して現地に渡る[ 20] 。
ゲバラが使用したウルグアイのパスポート
ボリビア での最後の戦いにて
ゲバラが収容されたイゲラ の小学校
独自の革命理論に固執したため、親ソ的なマリオ・モンヘ (スペイン語版 ) 率いるボリビア共産党 からの協力が得られず、カストロからの援助も滞り、また革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たなかった。さらに、西ドイツ から逃亡して来ていた元ナチス親衛隊 中尉 クラウス・バルビー を顧問としたボリビア政府軍が、冷戦 下において反共軍事政権を支持していたCIA とアメリカ陸軍特殊部隊群 (グリーンベレー)の軍事顧問団から武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。農民とは異なり、6月24日にカタビ鉱山では鉱山労働者がゲバラを支持する動きを見せるも、先手を打った政府軍がシグロ・ベインテ鉱区でサン・フアンの虐殺 を行って労働者を制圧すると、ボリビア国内勢力からのゲバラへの支援は事実上失われた。
1967年10月8日 、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、アンデス山脈 にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉率いる政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる[ 注釈 2] 。部隊を指揮していた“ウィリー”シメオン・クバ・サラビア とともに、渓谷から7キロほど南にある村イゲラに連行され、小学校に収容された。翌朝、60キロ北のバジェグランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラで午前10時に「ゲバラを殺せ」を意味する暗号 「パピ600」の電報を受信[ 注釈 3] 。午後0時40分にまずウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹[ 注釈 4] にM1 で撃たれた後、午後0時45分、ゲバラは政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹[ 注釈 5] に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。死亡の証拠として両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められた[ 21] 。
銃撃を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」、そして撃ち損じた当人に向けての「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!臆病者め!!」が最期の言葉であった[ 22] 。(実際にはマリオ・テラン軍曹が撃つ時に躊躇していたため、ゲバラに「恐れるな、早く撃て!」と言われ、右脚を撃ち抜いたものの、ゲバラはまだ生きていた。恐怖で部屋を出たテラン軍曹を上官が叱責し、とどめをさしてこいと命令され、もう一度ゲバラが収容されている部屋へ入った。ゲバラは「ちゃんと狙って撃て」と言い、テラン軍曹は左胸と首を撃った。それでも絶命しなかったため、別の兵士がゲバラを仰向けにし、至近距離で心臓を撃ち抜いて絶命した)
落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ。お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!臆病者め!!
ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに前衛 、本隊 、後衛 とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。
死後の影響と「帰国」
ジム・フィッツパトリック による『英雄的ゲリラ 』
コロンビア国立大学 のチェ広場(サンタンデル広場)
ゲバラの生涯と思想は、反米 的思想を持つ西側 の若者や、冷戦 下における南アメリカ諸国の軍事政権 ・独裁政権 下で革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代 の後半頃からTシャツ やポスター に印刷されるシンボルとなった。南アメリカ諸国の大学では、現在でもゲリラ時代のゲバラの顔を描いた大きな垂れ幕を掲げているところがある。
思想的にはラテンアメリカ解放の英雄 、シモン・ボリーバル 、ホセ・デ・サン・マルティン 、ホセ・アルティーガス (英語版 ) 、ホセ・マルティ 、アウグスト・サンディーノ らのアメリカ主義の系譜を引き継ぎ、同時代に同じ南米で生きたチリ の革命家サルバドール・アジェンデ とは、お互いを敬愛し続けたといわれた。また、ボリビアの山中で活動していた際にはトロツキー の全集を読んでいた。
冷戦体制が崩壊し、アメリカの後ろ盾を失った独裁者 が南アメリカ諸国の多くから去った今日でも、ゲバラは南アメリカ諸国を始めとした第三世界 では絶大な人気を誇るカリスマ である。特にボリビアでは「イゲラの聖エルネスト」と呼ばれ聖人 同然の扱いである。ゲバラが最期を迎えた小学校は現在記念館として開放されている。2006年にボリビアの大統領に就任したエボ・モラレス は、就任後初めてゲバラを公式に再評価した大統領となった。
日本でもゲバラの肖像写真などがプリントされたTシャツが売られている他、サッカースタジアムのゴール裏のファンがゲートフラッグにゲバラの顔を描いたものを掲げていることがある。日本では浦和レッズ のサポーターなどに見受けられる。またロック・ミュージックにおいても影響を与え、一部アーティストは公認グッズでゲバラの顔写真を使用している。
1997年 、キューバとボリビア の合同捜索隊により、死後30年にして遺骨がボリビアの空港滑走路の下で発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。ボリビアはゲバラが英雄視されているために位置を伏せておきたがったが、関係者の告白によってこの事実は陽の目を見た。キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。フィデル・カストロは長時間のスピーチで有名であるが、この時のスピーチは珍しく簡潔であった。遺体はキューバ中部の都市サンタクララ に設けられた霊廟に葬られた。
革命の英雄として高い評価を受ける一方、混乱や戦闘を引き起こした当事者として批判も根強い。故郷のアルゼンチンの都市ロサリオの公園にはゲバラの銅像 が建立されているが、2017年にはゲバラに批判的な人々により銅像撤去に向けた署名活動 も行われた(2021年時点で撤去は行われていない)[ 23] 。
年譜
人物
アメリカの爆撃で沈没した貨物船「ラ・クブル号」の犠牲者追悼行進に参加するカストロ(左端)とゲバラ(右から2人目、背広服の人物の向かって右側)
誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息 を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。しかし、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。ゲリラ軍に志願して来た農民にも、資格として読み書きができる成年者であることを最低限要求し、条件を満たさない者はどんなに熱意があろうと容赦なく切った。一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。
フランスの作家レジス・ドブレ は、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。他にもジャン=ポール・サルトル から「20世紀で最も完璧な人間」、ジョン・レノン には「世界で一番格好良い男」、カストロには「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評された。逆に親米 ・反共主義 の諸国・人々の間では評価されていない。
「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(反帝国主義 人民戦争)を作れ」という彼の言葉に象徴されるように、武力闘争を圧政から逃れる道とし、アウグスト・サンディーノ らの過去のゲリラ戦争をよく研究してゲリラ戦の手引き書である『ゲリラ戦争 (La Guerra de Guerrillas)』(1960年)を著した(しかし、その『ゲリラ戦争』においてすら「平和革命と選挙による変革の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。しかし、現在の条件のもとではラテン・アメリカのどの国においてもそのような希望は実現されることはありそうもないと思われる」と情勢規定している)。また理想主義者でもあり、工業相時代にキューバ国民の労働意欲の低さを目の当たりにし、(これはキューバに限らず、彼の出身国アルゼンチンも含めたラテンアメリカ全般に言えること)「共同体のために尽くし、労働を喜びと感じる『新しい人間』」の育成を目指し、その出現を国家展望の下敷きとした(狭義でのゲバラ主義はこれにあたる)。彼の言葉「何キログラムの肉が食べられるか、あるいは一年に何回休みの日に海岸に遊びに行けるか、あるいは現在の給料でどれほどの美しい輸入品を買えるか、それは問題ではない」[ 27] に象徴されている。キューバに招聘されたソ連・ヨーロッパの左翼学者たちからは「理想論に過ぎる」と反発を招くとともに、現実的な政治路線を目指すキューバ新体制の中で、徐々に彼を孤立させる遠因となった。彼の直接行動主義と理想主義 は、前者は一面として「戦禍を撒き散らす男」のイメージとなって各国に広まり、後年彼自身のゲリラ闘争の障害となった。一方で後者は彼の自己犠牲的な行動力と相俟って、「清廉で理想に燃えた革命家」としての肯定的なイメージを作り出す要因ともなった。
喘息持ちでありながらも葉巻 の愛好家として知られている。葉巻は革命家の象徴であり、ゲリラ戦での虫除けにも用いられた。また、キューバの特産品でもあるため、これを世界に向けてアピールする狙いもあったとされている。酒は飲まず(後述の#語録 でも明言されている)、マテ茶 (アルゼンチンの国民的飲料)が好物。父親がマテ茶をプランテーション 事業で手がけていたこともあり、幼い頃から親しんでいた。
趣味は写真撮影で「司令官になる前、僕は写真家だった」と彼自身が語っている。カメラ は1954年に発売されたニコン S2 (レンズはNikkor -N 5cm f1.1)を愛用していたが、革命戦争中に同じ部隊にいた軍医オスカル・フェルナンデス・メルに譲った。代わりに旧ソ連製のキエフ を貰った。上記のS2は現在もハバナのカバーニャ要塞に保管されている。
逸話
国立銀行総裁に就任した際、それまでフルネームで行うことが慣例だった紙幣へのサインに「チェ」とだけ記した。貨幣 に否定的な考えから行われたものだとされる(貨幣というよりは、拝金主義に対する批判のため。革命前は札束が物を言う社会であった)。また、金融に関して素人であるゲバラの総裁就任を訝った人々が、以下のようなジョークを囁いていた。
新政府の閣僚を決めるに際し、カストロが「誰かエコノミスタ(経済通)はいないか?」と尋ねた。連日の激務で疲労し、居眠りをしていたゲバラがこれを「コムニスタ(共産主義者)」と聞き間違えてとっさに手を挙げ、彼の国立銀行総裁就任が決まった」
実際にはこのような事実はなかったが、正式な就任発表の際には小規模ながら預金の取り付け騒ぎ が起きるなど金融不安が広がった。
現在のキューバ3ペソ 紙幣にその肖像を見ることができる。
ボリビアのゲリラ基地に入る際、トヨタ・ランドクルーザー BJに乗っていた。
1956年12月、グランマ号がキューバに上陸して直後、アルグリア・デ・ピオの地で、政府軍から突然の集中砲火を受けたためゲリラ部隊の仲間たちがサトウキビ畑の中に逃げ込もうとしている時、仲間の一人がゲバラの足元に、中身の詰まった弾薬箱を置き去りにして行ってしまった。もうひとつ彼の目の前には、医薬品の詰まった背嚢 があったが、弾薬箱と医薬品の両方を背負うのは重すぎると思われた。 彼自身もまたサトウキビ畑に逃げ込もうとする際、「医者としての天職と革命戦士としての義務のどちらかを選ぶかのジレンマに直面させられた一瞬であった」[ 28] が、弾薬箱だけを手に取り、走り出した。
ゲバラの生け捕りをミッションとしていたCIA工作員のフェリックス・ロドリゲスが射殺命令が出たことをゲバラに対し伝える際に「残念だ。努力したのだが……」と告げた(当時ボリビアでは最高刑が禁錮30年であり、警備が厳重な監獄も無かったことから、裁判にかけることを嫌ったボリビア政府の判断であったと言われる)。ゲバラは驚いたようだったが、「それでいい。自分は生きて捕虜になるべきではなかった」と言ったという[ 29] 。
ゲバラを処刑した元兵士は後年、目の治療のために第三世界で最も高度な医療を無料で受けられるキューバを訪れたが、同国政府は特に問題にせず、彼は無事に治療を受けることができた。
語録
我々は、二つのヴェトナム、そして、三つのヴェトナム、さらに、数多くのヴェトナムをつくるべきであると主張すべきである。(歴史的遺言)
グラナダ 最後のカリフ の母がその息子に言った。“お前が守ろうとしなかった都が亡ぶと言って、何も泣くことはないのだ”(日記)
バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家 は偉大なる愛 によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家など想像できない。(国連総会出席のためにニューヨーク滞在中、インタビューでの質問“革命家にとって重要なことは?”に応えて)
私のことを冒険家というのなら、たしかにそうだ。しかし、私は違うタイプの冒険家だ。自分の真理を証明するためなら、命も賭ける冒険家だ。
祖国か、死か!(これは7月26日運動 のスローガン 、また合言葉でもある)
我々にとって社会主義 の確かな定義は、“人間の人間による搾取の撤廃”以外にない。
一人の人間の命は、地球上で一番豊かな人間の全財産の百万倍の価値がある。隣人の為に尽くす誇りは、高所得を得るより遥かに大切だ。蓄財できる全ての黄金よりも遥かに決定的でいつまでも続くのは、人民たちの感謝の念だ。
人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことができるのはダイヤモンドしかない。人間を磨くにも、人間とコミュニケーションを取るしかないんだよ。
国民の英雄たるもの、国民から遠く離れていてはいけない。高い台座に上って、国民の生活と無縁なところに収まるべきでない。
指導者とは、人が自分と同じところまで追いつけるように誘導するものだ。ただ言葉で強いるのでなく、後ろにいる人たちを力づけて、自分のレベルまで引き上げようとするのだ。
国民に意思を伝えるためには、国民の一人となって感じなければならない。国民の欲するもの、要求するもの、感じるものを知らなければならない。
酒は飲まない。タバコ を吸う。女を好きにならない位なら、男を辞める。だからと言って、あるいはどんな理由であっても、革命家としての任務を全うできないのなら、僕は革命家を辞める。
僕を導くものは、真実への情熱だけだ。あらゆる問題について、僕はこの点から考える。
世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。(5人の子供たちに遺した手紙の一部 キューバを去ってボリビアに向かうに当たり自分の死を予感して)
今世界の他の国が、僕のささやかな力添えを望んでいる。君はキューバの責任者だからできないが、僕にはそれができる。別れの時が来てしまったのだ。喜びと悲しみの入り混じった気持ちで、こんなことをするのだ、と察して欲しい。僕はこの地に、建設者としての希望の最も純粋なもの、そして僕が最も愛している人々を残して行く……また僕を息子のように受け入れた国民からも去って行く、それは僕をとっても悲しい気持ちにするのだが。僕は、新しい戦場に、君が教えてくれた信念、我が国民の革命精神、最も神聖な義務を遂行するという気持ちを携えて行こう、帝国主義 のあるところならどこでも戦うために、だ。(フィデル・カストロに宛てた別れの手紙の一部)
もし私たちが空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義 者だと言われるならば、できもしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「そのとおりだ」。
私はキリスト ではないし、慈善事業家でもない。キリストとは正反対だ。正しいと信じるもののために、手に入る武器は何でも使って戦う。自分自身が十字架に磔になるよりは、敵を打ち負かそうと思うんだ。
君達はアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか?(1959年7月、来日の際に広島平和記念公園も訪れて、随行の日本人達に)
どこで死に襲われようと、我々の戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、我々の武器を取るために別の手が差し出され、他の人たちが立ち上がるなら、喜んで死を受け入れよう!
「きみは、そこで何をしているんだね? 民主主義を再建しにきたのか」(アメリカのキューバ侵攻軍の捕虜の中に黒人を発見して)
落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の男を殺すのだ。……撃て、臆病者め。お前の目の前にいるのは英雄でも何でもない、ただの男だ!(ボリビアで捕まり銃殺された際に、自分を撃った兵士に向かって放った最期の言葉)
日本語訳著作
参考文献・関連資料
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海堂尊 『ポーラー・スター ゲバラ覚醒』『― ゲバラ漂流』、文藝春秋、2016年。文春文庫、2019年
ゲバラを題材にした作品
ドキュメンタリー
映画
ミュージカル
音楽
1965年 アスタ・シエンプレ (カルロス・プエブラ 作詞作曲) - ゲバラがキューバを去ったことが発表されたことを受けて、そのゲバラへの感謝の気持ちを捧げるために作られた曲。その美しさから現在でも幅広く歌われ続けており、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ もカバーしている。
スライ&ロビー - スライ&ロビーらが1976年にレヴォリューショナリーズとして発表したアルバム『Revolutionaries Sounds』のジャケットは『英雄的ゲリラ』を模写したものである。
ゲーム
漫画
絵画
『Che Guevara (RED)』 -ロンドン在住のアーティスト、コンラッド・リーチ が2008年に発表した新作。帽子を被った写真が有名なゲバラだが、この絵画では葉巻をくゆらす姿が描かれた。
脚注
注釈
^ 生き残った人数が20人、17人という説、30人程生存したが逃亡や戦傷により脱落し、その後再集結した人数という説がある。
^ プラドは後に「"Como Capture al Che" 」という回想録を出版し、その中で自分はゲバラを捕えただけで、殺害は命じておらず、関与もしていないとしている。
^ 処刑は米国CIAのフェリックス・ロドリゲスとともに到着したボリビア国軍情報局のセンテーノ・アナヤ大佐の指示による。ゲバラについては顔や頭は撃たないように指示した。
^ ワンカ軍曹はその後報復を恐れ、ボリビアから離れてアメリカに亡命している。
^ テラン軍曹は30年近く基地内で暮らし、顔の整形手術を経て、現在はボリビア東部の農園で暮らしている。
出典
関連項目
政治思想
関連人物
家族、友人
キューバ人
交友のあった世界の指導者
敵対した世界の指導者
ゲリラ戦士
映像作品
ゲバラを演じた人物
著作
その他
外部リンク