劇団民藝(げきだんみんげい)は、神奈川県川崎市麻生区に本拠を置く新劇団のひとつ。「株式会社劇団民藝」が運営している。日本芸能マネージメント事業者協会会員。
概要
東京芸術劇場(1945年12月14日結成、1947年3月に分裂)にいた滝沢修が中心となって1947年7月28日、東京芸術劇場の脱退メンバーの森雅之らと新協劇団にいた宇野重吉が参加して結成された民衆芸術劇場(第一次民藝ともいう)[1]を前身とする。
この第一次民藝は、1949年7月に解散。解散理由は共産党の介入と、劇団幹部が資金稼ぎの映画出演を行い現場を離れがちであったこととされている[2]。1950年、宇野重吉[3]、滝沢修、北林谷栄らによって改めて劇団民藝が創立。特に宇野は終世劇団の顔として牽引役を果たした。1951年の「炎の人ヴァン・ゴッホの生涯」では、女優が背中を見せるなど熱演した。
1959年に法人化し、株式会社劇団民藝による運営形態となった。
宇野重吉、滝沢修の死後は大滝秀治と奈良岡朋子が劇団共同代表を務め、法人の代表を大滝、取締役を奈良岡が担った。大滝の没後は奈良岡朋子が劇団と法人の代表を務めた。
2023年3月23日に劇団の代表・奈良岡朋子が93歳で死去する。
2023年7月現在の法人役員は、丹野郁弓・白川浩司が代表取締役。
歩み
民衆芸術劇場(第一次民藝)
劇団民藝(第二次)
1950年12月22日、劇団民藝として創立された。第1回公演はチェーホフの『かもめ(岡倉士朗演出)』。翌1951年には『炎の人-ゴッホ小伝(三好十郎作)』が上演された。
その後、久保栄、木下順二らの創作劇からアーサー・ミラーの『セールスマンの死』、F&Aハケット『アンネの日記』、サルトルの『汚れた手』などの翻訳劇まで数多くの作品を上演し、新劇界の中心的役割を果たす劇団として多くの人々に親しまれている。日活が1954年に映画製作を再開した際、五社協定により他社の映画俳優を一切使えなかったため民藝と提携。一般作品の制作を断念する1971年まで多くの俳優が日活映画に出演している。1960年代には樫山文枝[4]、日色ともゑらがNHK朝の連続テレビ小説で人気となった。米倉斉加年、高田敏江、吉行和子らも過去に所属していたことがある。
1971年には内部で対立が起こり、佐野浅夫・佐々木すみ江・下條正巳・鈴木瑞穂らが退団。
2005年から2006年には、奈良岡朋子が無名塾の仲代達矢との共演で、『ドライビング・ミス・デイジー』を上演している。
2020年1月に篠田三郎が青山事務所所属となった。
2023年3月、劇団代表の奈良岡朋子が死去。
主な劇団員
青山事務所
篠田三郎
過去に所属していた俳優
脚注
- ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、361頁。ISBN 4-00-022512-X。
- ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、34-35頁。ISBN 9784309225043。
- ^ 1960年代には若者の注目の人物で上位に入るなど、時の人だったこともある
- ^ 大人気だった「おはなはん」に主演した
- ^ “自己紹介”. 麦人オフィシャルホームページ. 2021年10月23日閲覧。
外部リンク