南方貨物線(なんぽうかもつせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が愛知県内で東海道本線(大府駅 - 名古屋駅間)の複線線増(複々線化)として建設していた貨物支線(延長:約26.1 km)。本項目では主に、未成区間となった大府駅 - 笠寺駅 - 名古屋貨物ターミナル駅間(約19.5 km)について解説する。
東海道本線と武豊線が合流する大府駅(大府市)から、笠寺駅(名古屋市南区)まで東海道本線に線路別複々線の形で並走し、笠寺駅で分岐してからは東海道新幹線の高架橋や南郊運河[注 4]に並行して、名古屋貨物ターミナル駅(同市中川区・1980年開設 / 仮称:「八田貨物駅」)[注 2]に至る[注 5]。そして同駅から名古屋駅まで(約6.2 km)[注 6]は、「西名古屋港線」[注 7]および「稲沢線」[注 8]を充当し、西名古屋港線(名古屋貨物ターミナル駅 - 名古屋駅間)に並行して1線を増設(複線化)[注 9]することで、名古屋駅・稲沢駅(稲沢操車場)方面へ至る計画だった。この路線が完成すれば、大府 - 名古屋 - 稲沢間は稲沢線(名古屋 - 稲沢間)と併せ、客貨分離が実施される予定だった[注 10]。
名古屋付近の東海道線の輸送力強化を図るため、1967年(昭和42年)から建設が開始されたが、並行する東海道新幹線の騒音公害訴訟問題によって工事は中断し、1983年(昭和58年)には国鉄の財政難・鉄道貨物輸送需要の激減[注 11]を受け、建設が凍結された。それまでに高架橋の大半が完成していたが、工事は再開されず、2002年(平成14年)から完成していた高架橋の解体が行われた。
概要
昭和30年代後半の鉄道貨物輸送の好調[注 12]により、大都市付近の国鉄路線では旅客輸送の増加と相まって輸送力の不足が目立ち始めた。特に、「南方貨物線」の建設が決まった1966年(昭和41年)当時、名古屋地区の東海道線は名古屋 - 稲沢間 (11.1 km) が(貨物専用線の「稲沢線」[注 8]により)複々線化されていた一方、名古屋以東は複線のままで、長距離旅客列車・名古屋圏通勤電車と貨物列車が混在して列車本数が多くなっており、東海道線で最大の隘路区間となっていた。そのため、圏内輸送は幹線直通輸送の合間を縫って行うような状態が続き、圏内輸送機関として大きい役割を果たすことができなかった。そこで大府 - 名古屋間 (19.5 km) を複々線化し、貨物列車を新線(南方貨物線)に移すことで、名古屋駅を中心に客貨分離を行い、同区間の輸送量増強・旅客輸送の改善が図られた。
また、名古屋地区における貨物ターミナル駅は、名古屋駅の南側に設けられていた笹島駅[注 13]であったが、同駅と東海道線(および名古屋港線・西名古屋港線[注 7])や関西線との接続には、同駅から約11 km北側に位置する稲沢操車場を経由する必要があったため、折り返し運転などのために無駄な時間を必要としていた。そこで、同駅の南方約3.9 km(西名古屋港線の沿線)へターミナル機能を移転する形で、名古屋貨物ターミナル駅(仮称:「八田貨物駅」)[注 2]を開設することになった。笹島駅発着の上り(東京方面行)貨物列車は当時、稲沢経由で折り返し運転を強いられていたが、この新貨物駅は「南方貨物線」上に位置するため、南方貨物線が完成すれば、名古屋貨物ターミナル駅・笹島駅とも同線上の駅となることで、稲沢での折り返し運転が解消されることになり、上下列車のスルー運転・物流システムの効率化が期待された。また、同時に名古屋港線[注 14]・西名古屋港線とも結びかえを行い[注 5]、南方貨物線(貨物輸送ルートの基幹)から分岐する線形とすることで、能率的な輸送体型が整備されることも期待された。しかし、「南方貨物線」の大府 - 笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間は未成に終わり、名古屋貨物ターミナル駅発着の上り貨物列車は、同駅が開業した1980年(昭和55年)以降も稲沢経由のままとなっている。
国鉄は南方貨物線の建設と併せ、日本鉄道建設公団が建設していた岡多線と瀬戸線[注 15]を利用し、東海道線の岡崎 - 稲沢間を迂回する形で貨物複線を設ける「北方貨物線」[注 16]計画も有していたが、こちらも貨物輸送需要[注 11]の減少を受け、1987年(昭和62年)3月の国鉄分割民営化に伴い、新たに発足した日本貨物鉄道(JR貨物)が計画を放棄した。
路線データ
- 路線距離:大府駅 - 名古屋駅間(約26.1 km、うち大府駅 - 八田貨物駅間は約19.5 km)
- 大府駅 - 笠寺駅間(東海道本線との並走区間):約12.1 km[注 17]
- 笠寺駅 - 八田貨物駅間(別線線増区間):約7.4 km
- 八田貨物駅 - 名古屋駅間(西名古屋港線):約6.2 km[注 6]
- 電化区間:全線(直流1,500 V)
- 複線区間:全線(大府駅 - 笠寺駅間は東海道本線の線路別複々線区間)
- 三線区間:八田貨物駅(仮称) - 名古屋港線交点(仮称)
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南方貨物線のルート(赤線に並行しているのが着工部分。途中で分岐する曲線は
名古屋港線への連絡線。1995年・2000年撮影)。画像上では2本の線となっているが、実際には高架橋が途切れ途切れになっていた。
帰属:国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」 配布元:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス
歴史
名古屋付近鉄道総合改良計画
南方貨物線の原型は1939年(昭和14年)に鉄道省岐阜工事事務所(後の国鉄岐阜工事局)が立案した名古屋付近鉄道総合改良計画にある。当時、日中戦争勃発後の軍需輸送増大により稲沢操車場の貨車中継能力が限界に達しており、同計画では貨物輸送増強策の一環として新たに八田、勝川、大府に操車場を設けることが構想されていた。付随する貨物線の新設も検討され、それぞれ南方貨物線(八田)、北方貨物線(勝川)、東方貨物線(大府)と呼ばれていた。この中では八田操車場と南方貨物線がもっとも有力視され、1941年(昭和16年)から翌年にかけて東海道本線大府 - 枇杷島間の線増扱いで測量費が予算計上され、地形測量が実施された。
一方、鉄道省名古屋鉄道局運輸部でも岐阜工事事務所の計画と前後して貨車中継の改良計画を立てていたが、むやみに操車場を新設するのは貨車の輸送効率の面で不利であり、同局では稲沢操車場にハンプを2か所設ける一大ヤードとする案を推していた。このため八田操車場の新設は省内も賛否両論であったが、最終的には稲沢・八田の2操車場案でまとまり、1943年(昭和18年)以降も南方貨物線・八田操車場の建設を推進することとなった。しかし、戦争の激化により同年以降は予算計上できず、計画はいったん棚上げとなった。
計画の再開からルート選定まで
終戦後はただちに測量が再開され、1946年(昭和21年)4月には当時の計画線28 kmの測量を終えた。同年9月には天白川 - 枇杷島間の用地設計案を運輸省に上申し、翌年には鉄施第645号として承認された。その後、南方貨物線計画は名古屋市の都市復興計画と連動して構想された名古屋付近鉄道復興計画(鉄施第1492号)に組み込まれた。当時の計画ルートは最終決定案とやや異なり、関西本線を跨ぎ越して市街地を北上し、庄内川を渡り五条川信号場付近で稲沢線[注 8]に合流するという、後に「中村ルート」と呼ばれるルート案に近いものであった。
南方貨物線は東海道本線の線増を目的としていたが、同様の目的を別の形で推し進める新幹線建設計画が立ち上げられるとそちらが優先され、貨物線の分離のみを目的とする南方貨物線計画は再び停滞する。不要不急論に対し、当時名古屋港東岸(東臨港)の貨物線整備が不十分であったため、臨港地域の貨物集約機能を南方貨物線に付加する案も出された(「海岸線ルート」)。種々検討の結果、ルートを大府 - 笠寺 - 八田 - 笹島に変更し、さらに貨物専用ではなく旅客輸送も行う計画に修正されたが、これも1961年(昭和36年)の東港線の建設決定(のちに臨海鉄道方式に移行)により廃案となる。
このように構想と中断を繰り返した南方貨物線だが、完全に中止されることは無く、1962年(昭和37年)2月には国鉄常務会(第234回)の承認を経て新幹線並行区間(笠寺・堀川間)の用地が新幹線用地と共に買収され、1964年(昭和39年)に企画された第3次長期計画(1965年を初年度とする7か年計画)にも東海道本線大府 - 名古屋間複々線化工事として予算計上されていた。その後、計画ルートの選定も新幹線工事の進捗と共に最終段階となり、区間別に以下のような比較検討が行われた。起点が大府駅(東海道本線と武豊線の合流点)とされたのは、知多半島の東岸にある衣浦臨海工業地帯からの貨物列車や、名古屋駅に直通する旅客列車が増加することを想定し、武豊線の複線化が企画されていたためであった。
- 大府 - 笠寺間
- 臨港貨物集約機能を兼ねる「海岸線ルート」が比較検討されたが、大きく迂回し地盤も悪いことから建設費が膨大となるため、当初案通り本線併設ルートが選定され、既設線沿いの盛り土に敷設された。新設線については貨客併用案・貨物専用案・(既設線とともに)方向別複々線として運用する案が検討されたが、貨物専用線として運用されることが決まった。これにより、新設線の「南方貨物線」は完成後、貨物専用線として24時間走行が予定され[40]、並行する既設線は旅客線として運用されることとなった。
- 笠寺 - 名古屋間
- 笠寺以北の併設は市街地のため建設費が高くつくこと、同区間も併設にすると八田操車場と連絡できないことから、この区間は笠寺・八田間の「運河ルート」が選定された。なお、堀川・八田間約2 km区間については1963年(昭和38年)にルートの再検討が名古屋市との間で行われ、南郊・小碓運河利用案と東海通直上高架案の二案が提示されていた。これも比較検討の結果、埋め立て計画により用地取得が容易になる南郊・小碓運河利用案が採用された。
- 八田 - 枇杷島間
- この区間を「中村ルート」にすれば瀬戸線ともども名古屋駅を経由する必要がなくなり[注 18]、貨客分離の観点からもメリットがあった。しかし中村区の家屋密集地域を縦貫するため、市との設計協議さえ困難な状況であった。建設費の高騰も予想されたため、結局、国鉄用地のみでほぼ建設可能な名古屋経由ルートが選定された。
選定ルート案は1966年(昭和41年)4月の常務会で承認され、同年5月の設備投資計画に盛り込まれた(用地費52億円、主体工事費114億円、付帯電気工事費25億円で総額191億円)。同年、運輸大臣が建設計画を認可。新幹線開業後も東海道本線名古屋付近の列車回数はほとんど減少せず、その後も大幅な輸送量の増加が見込まれていた。名古屋商工会議所[注 19] (1971) は、南方貨物線の建設効果について「名古屋付近の線路容量の限界が解消され、同時に計画された八田操車場(現:名古屋貨物ターミナル駅)の新設が稲沢操車ヤード[注 20]の行詰りを解決することとなり、更に今後名古屋港南部及びに西部、四日市地区、衣浦地区と臨海地帯の発展に対応し、また関西線[注 5]、名古屋臨港線[注 14]の発着貨車の操配運用効率を高める効果など名古屋付近の鉄道輸送は画期的な改善をみせるものと期待される。」と述べている。
着工
当工事は東海道本線の線増工事として企画されたもので、鉄道敷設法の予定線としては取り扱われていなかったため、日本鉄道建設公団ではなく国鉄が自ら工事を担当した。1967年(昭和42年)2月から用地買収が開始され、同年3月からは天白川橋梁の工事も着手された。また、1968年(昭和43年)11月からは八田貨物駅の測量工事も開始された。総工事費は約三百数十億円[注 21]が見込まれ[注 22][48]、国鉄は1972年(昭和47年)10月の全面使用開始を目指して工事を進めた[注 23]。1969年(昭和44年)度末時点で、工事進捗率は36%(用地57%、主体工事30%)に至っていた。沿線は迷惑施設である貨物線の受け入れ条件として、駅の高架化と旅客列車の運転を要望していたが、用地全体を4 m嵩上げすることで代替された。
環境問題による工事中断
しかし、南(大府方面)から開始された工事が名古屋市内に進んできた1971年(昭和46年)ごろから、沿線住民たちが南方貨物線の建設を「新幹線公害との複合公害になる」と問題視していた。当該区間は東海道新幹線と並行して敷設される予定だった南区豊田(山崎川付近)から熱田区四番町にかけての区間(約2.9 km)[注 24]で、これらの地域住民の間では、以前から新幹線の騒音・振動への不満が高まっていたところ、貨物線の騒音に対する懸念や、土地を奪われることへの反発も重なり、公害反対運動が活発化していた。同年4月、名古屋市政懇談会にて「新幹線公害反対運動が行われている地域に新幹線と並行して南方貨物線の建設が進められているが、これが開通すれば、すでに新幹線で被害を受けている生活環境がさらに悪化することは必至である。したがって市として国鉄に対し強く公害対策を要望するように」との意見が出た。この沿線住民の要望を受け、名古屋市は同年5月 - 1972年(昭和47年)5月にかけ、国鉄岐阜工事局長に対し、以下6点を要望した。
- 列車開通時の騒音・振動対策
- 工事中の公害対策
- 沿線住民に対する説明
- 列車開通時のテレビ障害対策
- 鋼桁の騒音対策
- 夜間運行の減少
それらの要望に対し、国鉄は防音壁の設置・ロングレールの使用などといった対策を示したが、1972年7月には名古屋新幹線公害対策同盟の会員が中心となって「南方貨物線公害追放委員会」を結成した。「追放委員会」は国鉄に対し、「南方貨物線の建設を否定するものではないが、沿線住民が納得できる公害対策を要望する」と表明。同年8月、名古屋市長[注 25]は国鉄本社で担当常務理事に対し、南方貨物線の公害対策について要望した。これに対し、国鉄側は「深夜運行の禁止は実施困難だが、鋼桁橋はコンクリート橋に変更して騒音対策を実施する。その他の騒音・振動対策も実施・努力する」と回答した。
1973年(昭和48年)4月には、名古屋市立明治小学校[注 26](南区)にて開かれた住民大会で、「市は南方貨物線問題について、公害防止協定を国鉄との間で締結してほしい」との要望が出されたため、同年7月に名古屋市は国鉄に対し「沿線の生活環境を良好に維持できる公害防止協定の考え方を示すこと」「公害防止協定が締結されるまで、工事を一時中止すること」を要望した。国鉄側は「公害防止協定については全国的な問題であるため、関係方面と打ち合わせに向けて努力するが、工事の一時中止はできない」と回答したが、同月には一部の工事が中止された[注 27]。名古屋市長[注 28]は同年9月に再び国鉄本社へ出向き、国鉄総裁[注 29]に対し「緩衝地帯の設置」[注 30]「夜間の運行速度の低減」「軌道構造による騒音振動防止」「沿線住民との公害防止協定の締結」を改めて要望した。同年以降、工事は事実上中止され[注 31]、翌1974年(昭和49年)3月に地元住民から提訴された新幹線の減速・損害賠償請求訴訟のあおりも受けたことで、工事は大幅に遅延[注 32]。住民による環境対策面での合意[注 33]が成立するまで、工事は中断された。国鉄側は公害防止対策・環境保全対策に加え、いったん提出した土地収用法に基づく事業認定の申請を取り下げるなどの措置を講じたが、地元住民の理解を得るには至らず、用地買収なども著しく難航した。
結局、工事が凍結されていた笠寺 - 八田貨物駅間の工事は、裁判闘争も踏まえながら、国鉄が名古屋市と環境対策について交渉を続けた。その後、国鉄は名古屋市および「公害追放委員会」と公害防止協定の締結に向けて議論したが、具体的な進展がなかったため、それに代わる措置として、名古屋市が国鉄に対し環境アセスメントの実施を求めた。国鉄もこれに応じ、名古屋市が開発・指導した新型の防音壁を採用したところ、大幅な騒音低減効果が得られたため、1979年(昭和54年)暮れには環境対策で住民らとの和解が成立[48]。1980年(昭和55年)1月には国鉄から名古屋市長[注 28]宛てのアセスメント書[注 34]が提出され、同年2月から工事が再開された[注 35]。名古屋市公害対策局 (1982) はこのような経緯で建設再開の合意に至った南方貨物線の事例について、「(沿線の)住民、国鉄、地方公共団体が三位一体となって(住民合意に向けて)努力した成果であり、全国的に見てもめずらしいケース」と述べている。
また、同年10月には八田貨物駅(建設期間約12年[注 2]・総工費約300億円)が「名古屋貨物ターミナル駅」として開業。名古屋鉄道管理局は1981年(昭和56年)に発表した『PLAN80』で、名古屋貨物ターミナル駅をコンテナ基地・笹島駅[注 13]を車扱貨物基地として位置付けると同時に、南方貨物線を「名古屋圏での貨客分離を実現する機関ルートとして、早期竣工する」と表明し、名古屋・衣浦の両臨海鉄道と南方貨物線を直結する輸送体系の確立も求めていた。
国鉄の財政難による建設凍結
しかし、国鉄の財政悪化や、鉄道貨物需要[注 11]の激減により、同年以降は十分な予算を獲得できなくなった。また、1982年(昭和57年)9月24日に出された閣議決定「日本国有鉄道の事業の再建を図るために当面緊急に講ずべき対策について」[59]では、「老朽設備取替、安全対策及び環境保全のための投資のうち特に緊急度の高いもの[注 36]を除き、(設備投資は)原則として停止する。」とされた。
南方貨物線は当時、完成後の使用見通しについて、単線営業化、旅客化などが検討されていたが、当時の大府 - 名古屋間は旅客・貨物とも輸送量が横ばいないし減少傾向[注 37]にあり、「当面これらが大幅に増加する状況も考えられない」とされた。そのため、当初の投資目的(客貨輸送の増に対応)からみて「緊急性に乏しい工事」とされ、翌1983年(昭和58年)1月に再び工事が中止されることとなった[48]。当時は用地買収が100%完了し[64]、未着工部分は名古屋市内の約1.3 kmを残すのみで[注 38][48]、笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間の下部工事は8割方完成していた[注 39]状態で、全線開通までに必要な予算は約100億円が見込まれていた。この時点までに投じられた工費は約345億円(用地買収費用を含む)[66]。
名古屋貨物ターミナル駅の開業後、大阪方面から同駅に発着する貨物列車は稲沢線を経由し、名古屋貨物ターミナル駅に直接入線できるようになった。一方、その先の南方貨物線(笠寺 - 名古屋貨物ターミナル間)が開業しなかったことから、名古屋貨物ターミナル駅の開業後も[66]、同駅と東海道本線の静岡・東京方面の相互に発着する貨物列車は、いったん稲沢へ向かい、稲沢駅でスイッチバックすることとなった。その結果、名古屋貨物ターミナル - 東京間の所要時間は(南方貨物線が開業した場合に比べ)約1時間長くなっていた[66]。
会計検査院は、工事凍結後の1985年(昭和60年)11月までに、「これまでに建設のため投入された資金はすべて借金で、金利だけで毎年約20億円ずつ増えている状況だ。国民経済上大きな損失となっているため、早急に何らかの改善が図られるべきだ」として、国鉄建設局に対し事態の進展を求めていた[48]。しかし、国鉄建設局はこれに対し「着工当時と比較して貨物輸送が激減しており、新たな貨物線の建設は無意味だ。今後のことは国鉄分割民営化で同線を継承するだろう新会社[後の東海旅客鉄道(JR東海)]が決めるが、それまでは工事凍結となり金利が累積することもやむを得ない」と回答していた[注 40][48]。また、国鉄側は南方貨物線の今後の処遇について、「貨物会社[後の日本貨物鉄道(JR貨物)]が継承する」「東海会社(後のJR東海)が継承する」「清算事業団に継承する」の3案で検討していたが、貨物会社案は「当面、現在の東海道線だけで十分貨物輸送が賄える」との理由で除外され[69]、旅客会社(JR東海)の中核となった名古屋鉄道管理局も、毎年20億円の金利負担・採算性を問題視し、引き受けを拒んでいた。日本国政府が衆議院国鉄改革特別委員会に出した国鉄分割民営化後の経営見通しを示す資料でも、南方貨物線の今後については言及されていなかったため、1986年(昭和61年)10月13日には衆院特別委員会で草川昭三議員(公明党・国民会議、愛知2区)がこの問題を追及した[69]。これに対し、橋本龍太郎運輸大臣は「使用中の区間(名古屋貨物ターミナル - 名古屋駅間:約6 km)は東海会社に継承させる」との意向を示した一方、それ以外の区間については「東海会社の経営状態や、(鉄道としての)利用可能性を考えて結論を出したいが、現時点では未定」と答弁していた[70]。
1987年(昭和62年)4月に国鉄分割民営化が行われ、その際に名古屋 - 名古屋貨物ターミナル間(西名古屋港線[注 7]・約6 km)はJR東海に移管され、JR貨物が利用した[71]。一方、未完成区間である名古屋貨物ターミナル - 大府間の19.5 kmは「処分対象資産」とされ[66]、大半の区間(大府 - 笠寺間の既開業区間を除く約12.2 km)が日本国有鉄道清算事業団[注 3][現:鉄道建設・運輸施設整備支援機構 (JRTT) ]の所有となった。
建設再開計画の迷走
1991年(平成3年)2月15日の衆議院連絡委員会では、運輸省(現:国土交通省)の審議官が「南方貨物線を旅客線として活用したい」との意向を示したが、東海旅客鉄道(JR東海)社長の須田寬は同年2月20日の記者会見で「議事録を精読したが、『JR東海に売る』とまで踏み込んだ答弁内容ではなかったと認識している。旅客線として活用しても、採算が合わない見込みが強く、活用するとなれば(この時点で)さらに百数十億円の投資が必要であり、とても当社の手に負える代物ではない。買い取る意思は全くない」と述べ、運営に関わりを持つことを否定した[72]。一方、須田の発言を受けて愛知県交通対策室長・中村真は「県としては、貨物線として再生してほしいという従来の姿勢に変わりはない。その望みが薄いなら、清算事業団自らが新会社を作るなり、主導的に有効利用に知恵を絞ってもらいたい」とコメントしたが[72]、土地・高架橋を保有していた国鉄清算事業団は「(我々は)資産を処分するのが役割で、建設主体になるのはあり得ない」という反応を示していた[66]。
運輸省事務次官・中村徹は翌1992年(平成4年)1月10日、運輸政策審議会答申12号(名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について)にて、「東海道線名古屋地区の混雑緩和を目的に、南方貨物線を西名古屋港線[注 7]とともに、旅客線として開業させてはどうだろうか?」と提案し[74]、同答申では「鉄道貨物輸送力増強の必要性、旅客輸送動向などを勘案して検討する」とされた[75]。同年時点で、(南方貨物線・西名古屋港線に並行する)東海道線名古屋 - 笠寺間を走る貨物列車の数は上下それぞれ約60本/日だったが、貨客混合の同区間のダイヤは既に過密状態で、増発が困難な状況となっていた[66]一方、このころにはトラック輸送業界の運転手不足・大気汚染・交通渋滞による遅配などの問題から[66]、(特に長距離貨物輸送で)[66]モーダルシフト(鉄道・海運などへの輸送形態の変化)が進んでいた[注 41][77]。そのため、中部運輸局が関係者を集めて「幹事会」を組織し、南方貨物線・西名古屋港線の旅客線化に向けた勉強会を開始した[78]ほか、同年6月5日に開かれた鉄道貨物協会名古屋支部の通常総会では、南方貨物線の早期開業を国に働き掛ける決議がなされるなど[77]、陸運業界を中心に、南方貨物線開業への期待が高まっていた[注 42][66]。
当時、仮に南方貨物線を旅客・貨物併用線として工事を再開した場合の事業費は約165億円と概算されており[78]、その建設費の捻出方法については「トラック運送業界や関係自治体(愛知県・名古屋市など)、JR東海・JR貨物などで第三セクターを設立するしかない」との見方が強かった[66]。しかし、1992年当時の名古屋駅 - 熱田駅間[注 43]の混雑率は約135%で、南方貨物線の旅客化は「意義が薄い」とされ、見送られた[注 44]。1997年(平成9年)6月には、JR貨物の完全民営化のための基本問題懇談会で、南方貨物線について「将来、少なくとも貨物鉄道としてその有効活用を図ることが適当であると考えるが、種々解決すべき課題が残されていることから、今後、さらに関係者間において必要な検討・調整を進めていく必要がある」という意見が出たが、JR貨物[注 45]・JR東海・名古屋市・愛知県など関係機関は、いずれも「自ら事業主体となることは考えられない」という姿勢を示しており、活用に向けた事業化は極めて難しい状況になっていた。
それ以外にも、常滑沖に建設された中部国際空港(セントレア)への空港連絡鉄道として活用する案[注 46]も出されたが、これも実現しなかった。一方、西名古屋港線の旅客化工事の際には、南方貨物線が分岐できる構造となっていた高架橋がその阻害となったため、該当部分が撤去された[注 47]。
開業断念・高架橋解体
その一方で高架橋の高欄(主にブロック造)は建設から20数年が経過し、経年劣化による老朽化が進んだことで、剥離・落下する危険な状況となっていた[注 48]。このため、日本鉄道建設公団国鉄清算事業本部(旧:清算事業団の事業を継承)[注 3]は1999年(平成11年)10月 - 2001年(平成13年)5月にかけ、高欄の撤去工事を行った。日本鉄道建設公団国鉄清算事業本部は2000年度(平成12年度)以降、南方貨物線の最終的な処理方法[注 49]を決定するため、関係する事業者などへの最終意向確認を行った。この時、国鉄清算事業本部は高架橋の撤去費用に数百億円が必要となることを踏まえ、「仮に撤去しなくて済むような整備をして鉄道・道路などに使う者がいる場合、約100億円を助成する」「鉄道路線として活用する場合は高架橋などをある程度完成させてから引き渡す」などの提案を含め、JR貨物東海支社などに打診した。しかし、いずれの関係先も「鉄道としても、鉄道以外の利用にしても、自ら取得することは考えられない」と回答した[注 50]。これにより、同年6月には日本鉄道建設公団国鉄清算本部[注 3]により、鉄道利用の可能性が皆無であることが最終確認され、同本部は鉄道としての利用を断念することを決めた。
2001年8月、中部運輸局は南方貨物線の鉄道路線としての利用を断念し、撤去費総額300億円[注 51]を前提に、2002年(平成14年)度の撤去費用46億円を予算要求した[注 52][93]。老朽化による崩壊の危険性があることに加え、景観の改善も兼ね、2002年度から不用となった高架橋などを撤去して更地化し、土地を一般競争入札で売却することが決まった[71][90]。これにより、JR東海に移管された約8 km(笠寺駅・大高駅周辺など)を除き、未開通区間の高架橋約12 km分については、莫大な解体費用[注 51]をかけて撤去されることとなったが、バブル経済崩壊による地価下落の影響・幅10 mほどの細長い土地形状という事情から、撤去費との差額分にも国費が負担されることとなった[71]。日本鉄道建設公団は土地処分に当たり、経費削減の観点から構造物付での処分を進めたが[注 53]、約13 kmの高架橋を更地化する経費として約200億円[注 54]が必要になった一方、売却で回収できる金額は約40億円程度にとどまることになった[97]。国鉄清算事業本部は、南方貨物線および「梅田・吹田」[注 55]「武蔵野操車場」の土地処分を「三大プロジェクト」と呼んでいる。このうち、南区内の「豊代児童遊園地」は無償で名古屋市へ譲渡されたほか、市立明治小学校横の土地[100](1,094.48m2 / 331.66坪)[注 26][101]は名古屋市教育委員会が有償で取得[100]し、2010年(平成22年)1月には同校の運動場として利用が開始された[101]。
大府 - 笠寺間(東海道線並行区間)は土地幅が狭く、JR東海が継承した土地(東海道線敷地)内にJRTTに帰属した構造物が存在するなど複雑な要因が絡み合っていることなどから、土地処分が困難とみなされたため、JRTTはJR東海に一括での土地取得を要請[92]。その結果、JR東海は2006年(平成18年)12月に、JRTT側が必要な措置[注 56]を講ずることを前提に要請を引き受ける旨を回答し[92]、土地・構造物は2010年(平成22年)7月にJRTTからJR東海へ引き渡された[104]。これにより、南方貨物線の土地処分は完了したため、JRTTは同年11月に国鉄清算事業東日本支社中部事務所を廃止した[105]。
南方貨物線の建設中止について、名古屋新幹線訴訟の弁護団は「南方貨物線の撤去はそれ自体朗報であった」[93]「これを廃線に追い込んだことは周辺住民の生活環境保全にプラスである」という見解を示している[40]。
ルート
大府 - 共和間(約5.2 km)は盛土式、共和 - 天白川橋梁間(約4.7 km)は盛土および擁壁式(約3.8 km)+高架橋(約0.9 km)、天白川橋梁 - 笠寺間(約2.6 km)は擁壁式、笠寺 - 八田貨物駅間(約7.4 km)および八田貨物駅 - 名古屋間(約5.7 km)は高架橋[注 57]で設計されていた。
大府駅 - 笠寺駅間は途中の区間(大高駅付近)を高架化した上で、東海道本線と並行する形で複線の線路を敷設(線路別複々線化)。笠寺駅の名古屋寄りで東海道新幹線の高架橋をアンダークロスして東海道本線と分岐し、そこからはスラブ高架で臨海地区を抜ける。笠寺駅を出ると、山崎川を橋梁で渡河してから東海道新幹線の高架橋と斜めに交差(アンダークロス)する。南区豊田二丁目(東海道新幹線とのアンダークロス地点付近)からは東海道新幹線と並行し、国道247号・名鉄常滑線とオーバークロスする。堀川を渡河して南区(明治一丁目)から熱田区(千年二丁目)に入ると[注 58][112]、六番町駅(名古屋市営地下鉄名城線)の南側で東海道新幹線と別れ、南郊運河[注 4]に並行して、西進する。名古屋市立東海小学校(港区)[115]の付近で名古屋港線(名古屋港駅へ向かう東海道本線の貨物支線)とオーバークロスし[注 14]、中部鋼鈑の工場付近(港区正保町)で北向きに進路を変えると同時に、西名古屋港線[注 7][注 9][注 59]と連絡して名古屋貨物ターミナル駅へ至るルートだった。そして、名古屋貨物ターミナル駅[注 5] - 名古屋駅間 (6.3 km) は在来の西名古屋港線(単線)を下り線とし、上り線を増設する。これによって西名古屋港線を複線化・高架化[注 9](一部スラブ軌道化)し、名古屋駅で「稲沢線」[注 8](名古屋 - 稲沢間の複々線)に接続する予定だった。
高架線の現況
完成したものの鉄道路線として日の目を見なかった高架橋のうち、解体されなかったものは高架橋付きの土地として一般に売却された[126]。それらは高架橋を屋根代わりにして、高架下を駐車場や住宅用地・高速バス事業者の営業所[126]、資材倉庫・事務所などとして活用しているものや、高架橋の上に住宅が建てられたり[127]、高架上がゴルフの練習場として活用されたりしている場所もある[126]。
大府駅 - 笠寺駅間の早期に完成した路盤は先行して使用され、1967年(昭和42年)9月には共和駅構内 (0.7 km) [注 62]が、1982年3月には笠寺駅構内 (1.2 km) [注 63]がそれぞれ供用を開始した。また大高駅付近(約2.4 km)は本線の高架化に合わせ、1974年3月から約4年間にわたり[注 64]、仮線として活用されていた。
大高駅 - 笠寺駅間では、東海道本線の天白川橋梁が老朽化したため、1986年(昭和61年)1月からは東海道本線の線路を南方貨物線側に振り替えている[注 65]。また、大府駅南方の東海道本線および武豊線それぞれにおける、旅客線と貨物線の分岐と立体交差は、南方貨物線計画の一環として建設され[注 66]、この部分は本来の目的通りに使用されている。
なお、あおなみ線(西名古屋港線)の高架橋のうち、中島駅付近は単線高架橋の並列となっているが、上り線(名古屋方面)はかつて南方貨物線を建設していた当時に建設されたものである[注 67]。ただし、これはあおなみ線に乗車したままでは分からない。また、あおなみ線と南方貨物線が分岐する予定だった地点の付近(中島駅 - 港北駅間の西方)には、中部鋼鈑の工場敷地の一部と隣地に高架橋が残されている。
-
あおなみ線に流用された
中島駅付近の単線並列高架橋。
右の高架は2004年、左の高架は1974年竣工。
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名古屋港線交点までの高架は3線分の幅がある。
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新幹線と並行する南方貨物線。
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新幹線との立体交差。
ここでは高架線基礎を残したまま
集合住宅が建てられた。
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笠寺駅北で東海道本線(左)と合流。
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大高駅から笠寺駅方向を望む。
右手前の東海道本線が左奥の南方貨物線に向かって大きくカーブしている。
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大高駅から見た南方貨物線複線路
(2007年当時。現在は撤去済)
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1987年当時の名古屋貨物ターミナル駅および中部鋼鈑本社工場の周辺
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2007年当時の名古屋貨物ターミナル駅および中部鋼鈑本社工場の周辺
脚注
注釈
- ^ 写真の高架橋は名古屋市熱田区五番町3番地にあった(現在は撤去済み)。
- ^ a b c d 八田貨物駅(現:名古屋貨物ターミナル駅)は1968年3月に着工。同年から用地買収が開始され、1972年から本体工事に着手、1980年10月に「名古屋貨物ターミナル駅」として開業した。
- ^ a b c d 国鉄清算事業団は1998年(平成10年)10月22日に解散し、同事業団が保有していた資産は日本鉄道建設公団に継承されたが、同公団は2003年(平成15年)10月1日に運輸施設整備事業団と統合され、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構 (JRTT) となった。
- ^ a b 南郊運河(延長約0.2 km)は中川運河の横堀(支流)。水運の減少によって一部が埋め立てられ、埋立地の一部は南郊公園など緑地として活用されている。
- ^ a b c d e 名古屋貨物ターミナル駅構内では、南方貨物線の下り線から線路2本が分岐し、関西本線(四日市・亀山方面)へ向かう連絡線となる計画だった。この連絡線が完成していた場合、関西本線と西名古屋港線のデルタ線が形成されることとなっており[26]、中川区内(〈名古屋貨物ターミナル方面〉万町 - 柳森町〈八田駅方面〉)に両線を結ぶ円弧状の用地(および側道)が確保されていた。しかし、その計画も未成に終わっており、用地は住宅用地として売却されている[26]。
- ^ a b 岐阜工事局 (1970) によれば八田・名古屋間は約5.7 km。
- ^ a b c d e f 西名古屋港線は後に旅客線として整備され、2004年(平成16年)10月6日に名古屋 - 金城ふ頭間(営業キロ15.2 km)が名古屋臨海高速鉄道あおなみ線(通称「あおなみ線」)として旅客開業した[73]。
- ^ a b c d 「稲沢線」は東海道本線の名古屋・稲沢間に敷設された貨物列車専用の複線。1925年(大正14年)に単線で開業し、1936年(昭和11年)に複線化(東海道本線の名古屋 - 稲沢間が複々線化)された。
- ^ a b c 西名古屋港線(現:あおなみ線)は南方貨物線との接続を想定し、1983年に名古屋貨物ターミナル駅 - 東海通(現在の港北駅付近)間(約3.4 km)を高架化しており(一部はスラブ軌道化された)、名古屋貨物ターミナル - 名古屋間(約3.9 km)は1998年時点で一部区間を除き、高架化・複線化が完了していた。また、JR貨物の負担(運輸施設整備事業団の認定事業)により、1998年3月30日には名古屋貨物ターミナル - 名古屋間が電化されていた[118]。一方、荒子駅付近以南の西名古屋港線(貨物本線・現在の金城ふ頭駅方面)は2001年時点でも単線だったが、西名古屋港線は旅客化(2004年に開業)に当たり、最終的に名古屋 - (名古屋貨物ターミナル方面への分岐点) - 金城ふ頭間の全線が複線化された[119]。
- ^ また、第3次愛知県地方計画 (1970) では「名古屋都市圏の通勤通学需要の増大と、名古屋 - 北陸、名古屋 - 高山方面への都市間および観光輸送が急速に増大しつつあるため、昭和53年度(1978年度)までに稲沢 - 米原間の複々線化を進め、客貨分離による輸送力の増大を図る。」と計画されていた。
- ^ a b c 鉄道による貨物輸送は、中長距離・大量輸送の分野で高い効率性を有してはいたが、高度経済成長による産業構造の変化により、石炭から石油へのエネルギーの転換や、それに伴う石炭・木材などの一次産品の(輸送量の)減少(および、ロットの小さい金属機械工業品などの二次産品の輸送需要増大)や、輸送距離の短距離化(コンビナートを中心とする産業立地の変化)といった現象が発生した[11]。加えて、高速道路網の整備も相まって、次第に機動性・迅速性などに優れるトラックによる貨物輸送が主流になっていき、鉄道による貨物輸送量は大幅に減少した[11]。また、1975年度(昭和50年度)時点では景気の低迷に伴う国内貨物輸送需要の低迷に加え、(国鉄の)争議行為、台風・雪害などによる輸送障害も、鉄道貨物需要の低迷の原因として挙げられていた[12]。
- ^ 鉄道による輸送は旅客・貨物とも、終戦直後に急増し、それ以降も1970年代まではほぼ漸増傾向にあった。
- ^ a b 笹島駅(広さ160,000 m2)は名古屋地区貨物駅の中心的役割を果たしてきたが、周囲を東海道本線・関西本線・中川運河に挟まれており、狭隘だった。1968年(昭和43年)10月にはコンテナ取扱設備を増強したが、1980年に名古屋貨物ターミナル駅(コンテナ基地)が開業して以降は車扱貨物主体の駅となり、1986年(昭和61年)11月1日に廃止された(跡地はグローバルゲートとして再開発済み)。
- ^ a b c d e f 南方貨物線と名古屋港線の交点の南西には、名古屋港線(名古屋港駅方面) - 南方貨物線(名古屋貨物ターミナル駅・笹島駅方面)を連絡する単線の短絡線が建設されていたが、南方貨物線とともに途中で建設が放棄されている。
- ^ その後、岡多線(岡崎 - 瀬戸市間)および瀬戸線のうち瀬戸市 - 高蔵寺間は愛知環状鉄道線として、瀬戸線のうち勝川 - 枇杷島間はJR東海交通事業城北線として、それぞれ開業している。一方、瀬戸線のうち中央線に並行する高蔵寺 - 勝川間は建設されず、買収済みだった敷地は国鉄清算事業団に譲渡され、1999年度 - 2001年度にかけて売却された。また、瀬戸線(城北線)の小田井駅 - 稲沢間の貨物線も未成に終わり、こちらも買収済みだった敷地は住宅用地として売却された。
- ^ 大阪府・兵庫県内にある東海道本線の貨物支線「北方貨物線」(吹田貨物ターミナル - 尼崎間)とは別物。
- ^ 岐阜工事局 (1970) によれば大府・笠寺間は約12.5 km。
- ^ 名古屋駅経由ルートを採用した場合、名古屋駅の構内に無理が生じるほか、瀬戸線の名古屋駅乗り入れにも問題が生じることが懸念されていた。
- ^ 同所は1962年(昭和37年)6月末、国鉄関係方面へ南方貨物線の建設工期短縮について、地元関係者の熱望に応えるよう要望していた。
- ^ 当時、稲沢操車場の能力は限界に来ており、貨物輸送力の増強が求められていた。
- ^ 愛知県 (1973) によれば、南方貨物線の建設+八田貨物駅(名古屋貨物ターミナル駅)の建設による総事業費は約390億円。
- ^ 1983年の工事凍結時点までに費やされた300億円はすべて借金(金利年約20億円)で賄われた[48]。
- ^ 愛知県 (1973) によれば、南方貨物線・八田貨物駅ともに1976年(昭和51年)3月の完成を予定していた。
- ^ 東海道新幹線との並行区間(約2.9 km)は豊田学区・明治学区(以上いずれも南区)・千年学区(熱田区)に当たり、山崎川を越えた地点(大府駅から11.4 km地点)を起点に、新幹線豊代架道橋(同12 km地点)の下をくぐり、14.3 km地点(千年地区と船方地区の境)までである。特に、豊代架道橋をくぐってから西方14.3 km地点までは、新幹線と完全に並行し、両線間に隙間がない状態だった。
- ^ 1972年時点では杉戸清(第20 - 22代)が名古屋市長を務めていた。
- ^ a b 明治小学校は1967年ごろ、貨物線の建設に協力する形で2,800万円で校地の一部を旧国鉄に売却したが、後に名古屋市会議員・横井利明がJRTT側に「明治小に土地を返してほしい」と要請[101]。土地は名古屋市教育委員会により[100]、3,600万円(坪10万円)で買い戻された[101]。
- ^ 名古屋市 (1998) では「工事中断時期は1973年(昭和48年)5月以降」とされている。名古屋新幹線訴訟の第一審判決[名古屋地裁民事第4部・1980年9月11日宣告/事件番号:昭和49年(ワ)第641号]によれば、同年時点で南方貨物線は大府 - 笠寺間と、新幹線との並行区間(約2.9 km)を過ぎて八田(現:名古屋貨物ターミナル)まで入るところの路盤工事が完了していた一方、並行区間で用地買収未了区間(5件)があった。
- ^ a b 1973年9月および1980年1月時点では本山政雄(第23 - 25代)が名古屋市長を務めていた。
- ^ 1973年9月時点では第6代・磯崎叡(同月21日まで)および第7代・藤井松太郎(22日以降)。
- ^ 新幹線との並行区間(約2.9 km)では騒音対策のため、国鉄が緩衝地帯となしうるような土地を確保するため、南方貨物線の線路外側から20 mの範囲の土地を買い上げた。
- ^ また、名古屋市は1974年6月に改めて「住民の理解と納得を得るまで工事再開を見合わせてほしい」と要望している。
- ^ 会計監査院は1977年度(昭和52年度)決算検査報告で、当路線について「建設費は184億円、開通時期は1971年10月」と報告していたが、1978年(昭和53年)9月には「建設費357.8億円、開通見込みは1982年(昭和57年)10月」と、建設費が大幅に増え、完成予定も大幅に遅れた。
- ^ 公害防止協定の締結、緩衝地帯の設置、新幹線公害訴訟で係争されていた(騒音・振動に関する)差止請求値の遵守など。1975年(昭和50年)5月には当時の「名古屋新幹線公害対策同盟連合会」会長・「名古屋新幹線公害訴訟原告団」団長や、「南方貨物線公害追放会」会長を務めていた千草恒男が、南方貨物線の建設・公害防止をめぐり、16項目にわたって国鉄と協定を結ぼうとしたが、その協定内容と、内部での合意形成が不十分である点を問題視した他の原告団リーダーや弁護団がその判断を問題視。批判を受けた千草は連合会・原告団の代表を辞任することとなった。
- ^ アセスメント書では「今後も騒音提言のための技術開発に努める」「開業前には運行計画などについて名古屋市へ提出する」などの旨が表明されていた。
- ^ 名古屋市 (1998) では工事再開時期は1978年(昭和53年)とされている。
- ^ 同閣議決定後、「緊急を要するもの」として停止されなかった設備投資は、安全投資のほか、東北新幹線の大宮以南の工事、通勤新線の工事など[60]。
- ^ 1961年度(昭和36年度)の大府 - 名古屋間は旅客輸送実績が98,173人/日キロ、貨物輸送実績が59,564トン/日キロだった一方、1982年度(昭和57年度、4月 - 9月)には前者が60,072人/日キロ(1961年度の61%)、後者も29,674トン/日キロ(1961年度の50%)に落ち込んでいた。
- ^ 路盤の未完成部分は約500 m[64]。
- ^ 一方、架橋が後回しになった道路上などの跨線橋は完成しておらず、高架橋がぶつ切れになっている区間もあった[65]。
- ^ 当時『読売新聞』の取材に対し、北井良吉・国鉄開発工事課長は「着工から20年近く経過しても未完成なのは残念だが、国鉄を取り巻く諸情勢が変化して国の方針で建設が中止されたことも理解していただきたい。巨費を投じて鉄道路線として建設した以上、将来的にはぜひ鉄道路線として利用したいと願っている」とコメントしていた[48]。
- ^ 日本放送協会 (NHK) 解説委員だった藤吉洋一郎は、1992年に放送されたNHKの番組で「南方貨物線を当初計画通り整備する必要がある。さらに東京 - 大阪間に貨物専用線を新たに敷くと、(南方貨物線の整備と併せて)2兆円を超す経費がかかるが、貨物列車がその分増発でき、トラックから輸送転換ができる」と訴えていた[76]。
- ^ 当時、西濃運輸会長の田口利夫は「関係機関へなんとか完成を働き掛けたい」と述べていた[66]ほか、経団連物流部会の江里正義会長(当時:センコー会長)も1993年3月5日に名古屋市内で地元経済人らと懇談し、南方貨物線を視察した際に「(南方貨物線が未完成のまま)放置されているのは国家的損失。地元も挙げて(開業に向けて)取り組むべきだ」という認識を示していた[75]。また、藤田素弘(名古屋工業大学社会開発工学科講師)も1995年に「三大都市圏のうち、名古屋だけ貨物列車の専用迂回線が都市部にない。南方貨物線を建設して名古屋地区の(線路)容量不足を解消し、貨物のモーダルシフトが滞らないように配慮すべきだ」と指摘していた。
- ^ 大府駅 - 名古屋駅間は既設線経由で19.5 km、南方貨物線経由で26.1 kmと、南方貨物線経由は遠回りである上、名古屋地区第二のターミナル駅である金山駅を経由しない。
- ^ JR東海・須田社長は1992年6月4日に開かれた「名古屋圏交通網整備推進協議会」の会合で、「南方貨物線の貨物路線化・旅客化は直ちに必要ではない」と報告した[83]。
- ^ JR貨物は仮に南方貨物線が開業した場合、同線を利用して貨物列車を運行することが想定されていたが、「開業に必要な建設費は我々ではとても負担できない」という反応を示していた[66]。
- ^ 名古屋市南区氷室地区に南方貨物線と名鉄常滑線道徳駅を連絡する短絡線を敷設し、JR名古屋駅から中部国際空港へ向かう列車を運行する構想や、南方貨物線および笠寺駅で接続する名古屋臨海鉄道の路線(東港線・南港線)を経由し、新舞子駅(知多市)付近で名鉄常滑線に直通する案など[64]。
- ^ 1998年10月、名古屋臨海高速鉄道(西名古屋港線の旅客化後の運営主体)が西名古屋港線の旅客化に伴い、南方貨物線の用地の一部を購入することを希望したため、清算事業団は2000年度(平成12年度)に約0.2 haを処分した。
- ^ 1999年(平成11年)8月に国鉄清算事業本部長に就任した宮﨑達彦は、「自分が南方貨物線を視察した際、完成済みの高架橋から偶然コンクリートが落ち、(高架下の)駐車場に駐めてある車を壊していたことがあった。当時、新幹線のトンネルで天井からコンクリートが落下する事故があり、『人身事故でも起こすと大変なことになる。鉄道として使うか否かを早く決めなければならない』と思った」と述べている。
- ^ 利用方法としては鉄道路線としての活用のほか、高架橋を整備し直して新交通システム路線・サイクリングロードなどとして活用する案もあった。
- ^ 国鉄清算事業本部は2000年に改めてJR東海・JR貨物両社に引き受けを打診したが、いずれも拒否され、翌2001年(平成13年)5月には愛知県・名古屋市両者にも活用案を断られた[90]。
- ^ a b JRTTは当初、高架橋などの全ての撤去費用を約300億円と試算したが、2008年に「高架橋付土地売却を積極的に進めた結果、約100億円の経費が削減される見込み」と報告している[92]。
- ^ 2002年3月27日に成立した国の新年度当初予算で、2002年度分の撤去費用として46億円が計上された[71]。
- ^ 撤去工事を行う箇所は構造物付での処分が困難だったり、剥離されている箇所。一部高架橋が著しく劣化していた箇所については、2002年12月 - 2003年(平成15年)5月にかけて撤去工事を実施した。また、河川橋梁・道路上の跨線橋も撤去することとなり、山崎川橋梁は2003年5月 - 2004年(平成16年)3月中旬までに上部工(PC桁スパン27 m)を撤去した。
- ^ 河川上に架かった橋梁の撤去費用を除く[97]。
- ^ 梅田貨物駅の吹田地区への全面移転計画。2013年(平成25年)3月16日に吹田貨物ターミナル駅が正式開業し、梅田貨物駅は同月31日限りで廃止された[99]。
- ^ 不用橋梁の撤去[102]、高架橋補修・軌道撤去などの工事[103]。
- ^ 東海道新幹線と並行する区間(約3 km)における高架橋の基礎杭の基本的構造は、東海道新幹線が長さ6 m・直径0.35 mだった一方、南方貨物線は新幹線より列車比重の重い貨物列車を走行させるため、それに耐えうる長さ30 m(地下30 m付近の砂礫層に達する長さ)・直径1.2 mで設計されていた。
- ^ 東海道新幹線の堀川橋梁。
- ^ 南方貨物線下り線の高架路盤は、西名古屋港線の高架線の直上に設置されるよう設計されていたが、建設途中で放置された。
- ^ NTT名古屋グランド(名古屋市港区南十番町一丁目)[122]。NTT西日本名古屋野球クラブ(2002年解散)の本拠地球場として利用されていた。2004年9月に更地化された[123]。
- ^ 「マックスバリュ 南十番町店」および「コーナン南十番町店」の所在地はいずれも「名古屋市港区南十番町一丁目1番1号」[124][125]。
- ^ 下り線の待避線(3番線)として利用されている。
- ^ 駅構内の側線の一部。
- ^ 1978年(昭和53年)7月まで。
- ^ ただし、この区間は速度制限はなく、120 km/hで走行できる。
- ^ 大府駅の武豊線との接続部は1976年(昭和51年)7月から供用開始。1999年(平成11年)に武豊線の名古屋直通列車が大幅に増発されたことにより、この立体交差が真価を発揮するようになった。
- ^ 上り線は鉄板で耐震補強してあるが、下り線は当初から耐震基準に沿った高架橋のため、鉄板がない。
出典
参考文献
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