宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年(明治17年)1月12日 - 1963年(昭和38年)5月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。
長野県庁勤めを経て、一時実業界入った後、逓信、内務各大臣秘書官[1]。その間、昭和3年(1928年)郷里の広島3区から衆議院議員に当選して政界入り[1]。以来連続6回当選し、鉄道政務次官、商工省参与などを歴任[1]。内閣総理大臣などを務めた宮澤喜一は長男。
来歴・人物
出生から学生時代まで
広島県沼隈郡金見村(現・福山市金江町金見)の小さな農家に生まれた。父・鹿吉の時代は生活は楽でなかった[2]。だが教育熱心な鹿吉は、裕が村の小さな小学校を卒業すると、苦しい家計をやりくりして福山中学校に通わせた[2]。裕は中学を卒業すると、さらに上級の高校を目指そうとした[2]。しかし家の状況は中学校に通わせるのが精いっぱいで、とても高校へ進学させるほどの余力はなかった[3]。そこで裕は学資をかせぎ出すために京都へ行き、アルバイトをはじめた[3]。裕がやっとありついたのは市電の車掌だった[3]。
こうして苦労しながら、コツコツと金をためているとき、たまたま学資を援助しようという奇特な人物が現れた[3]。六高から東大の法科へ進んだ。
苦学を重ね東京帝国大学法科大学政治学科卒業後は、内務省に入省する。
山下汽船へ
「役人生活は性に合わない」といって後に実業界に転じ、山下汽船に入った[4]。社長の山下亀三郎に大いに可愛がられ、親友の小川平吉を紹介された[4]。小川の次女と見合い結婚した[4]。
政治家として
小川家と姻戚関係で結ばれると、故郷から政界に進出し、鉄道政務次官を務めた。
戦前、1933年「司法官赤化事件」を契機に貴族院議員菊池武夫ら国会議員とともに、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張し、司法試験委員であった瀧川幸辰を非難し、瀧川事件の当事者となっている。
池田勇人とは同郷ということもあり古くからの付き合いで、池田の結婚を世話したこともあった。長男の喜一は池田の「秘蔵っ子」として参議院議員2期目にして経済企画庁長官などを務めた[5]。その出世は、池田という大政治家の後ろ盾があったことが一番であったが、それにもまして閨閥で結ばれた名門小川一族の伯父たちが大いに庇護してくれたからでもあった[5]。
略歴
人物像
長男の喜一の1991年当時の証言によると「父は小さな百姓の長男でね、いま(1991年当時)でもその生家が残っていますが、山の中の本当の一軒家です。とにかく私が参議院に出てから(昭和28年)はじめて電灯を引いてもらったようなところなんですよ」という[2]。
福山中学校(誠之館)に在学中は、金江の自宅から山南を通って学校まで、毎日往復4時間の徒歩通学をしたという[1]。
二男の弘によると、「典型的な明治人で、愚直ともいえるほど融通のきかない人。厳父そのもので、たいへんな読書家で敬神崇祖を信条とした。自らにも家族にも厳しい人柄だった」という[1]。
家庭
宮澤家
- (広島県福山市金江町、東京都渋谷区)
こと夫人は弁護士、政治家小川平吉の次女。長男は元内閣総理大臣の宮澤喜一。次男は元広島県知事の宮澤弘。三男は外交官(西ドイツ大使)の宮澤泰。孫に元大蔵官僚の宮澤洋一、曾孫にタレントの宮澤エマがいる。
著書
- 『平易なる思想論』隆文館、1923年。
- 『買ひ被ぶつてゐた欧米 万国議員会議に使して』先進社、1932年。
- 『機関説と帝国憲法』日本新聞社、1935年。
- 『税制改革と予算案の検討 国民の生活にどう響くか』今日の問題社、1936年。
- 『日本政治学原論』巌松堂書店、1941年。
脚注
参考文献
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- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』、鈴木・小川・宮沢家 門閥ゼロからのスタート(153-157頁) 角川書店 1983年
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』、第10章 宮沢家-高級官僚・政治家を輩出する華麗なる一族(197-211頁) 角川書店 2002年
衆議院建議委員長 |
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