松本 瀧藏 (まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo Frank Matsumoto[ 1] 、1901年 3月20日 - 1958年 11月2日 )は、日本 の政治家 、教育者 。衆議院議員 、外務 政務次官 、内閣官房副長官 (政務担当)、明治大学 教授 などを歴任した。広島県 佐伯郡 廿日市町 (現廿日市市 )生まれ[ 2] 。
生涯
生い立ち
私生児として生まれる。家族とともに2、3歳からアメリカ に渡り、カリフォルニア州 フレズノ で育つ[ 3] 。アメリカに落ち着くまもなく父が他界[ 4] 。母はレストラン を経営する日本人とすぐに再婚。瀧藏はフランク・ナルシマを名乗るようになった[ 4] 。1919年、高校を卒業すると「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ) 」に日系アメリカ人野球チームを創設した[ 4] 。多くの文献で同チームの創設は銭村健一郎 とする物が多いが、ロバート・K・フィッツ著『大戦前夜のベーブ・ルース』では、創設は松本(以下、松本)で、銭村がこのチームに参加するのは翌1920年と書かれている [ 4] 。松本は長くこのチームに在籍することなく、パサデナ に引っ越し、苦学してマサチューセッツ工科大学 (MIT)航空工学部に進学[ 4] 。しかし将来敵になるかも知れない日本人学生に最先端技術の秘密を教えることはできないと差別 され、自ら退学を余儀なくされた[ 3] 。複雑な家庭環境のためアメリカ国籍が取れず、3番目の父が死んだこともあって1923年 、22歳で帰国し旧制広陵中学 に編入した。再び日本名を名乗る[ 4] 。年は大きく違うが同級の加藤喜作 、銭村辰巳らと野球部で活躍[ 5] 。しかしあまり上手くなく、広陵中学が全国大会初出場(第9回全国中等学校優勝野球大会 (鳴尾球場 ))した同年、メンバーには入れずマネージャー として参加。五年時には9番センター でレギュラーとなるが、第10回全国大会 の山陽大会準決勝で、この年初の全国制覇を果たした石本秀一 監督率いる広島商業 とあたり惜敗した。なおこの年、松本が作った広陵高校野球部の応援歌 は当時としては珍しい英語の応援歌で現在も残るが[ 2] 、全編英語詞のため[ 6] 、今は歌える人がいないといわれている。
卒業後明治大学 に進学。進学年が分からないが、銭村健一郎 が「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ)」を率いて1924年・1927年に来日できたのは、松本に働きかけによるものなので[ 4] 1924年には明治大学に在籍していたと思われる。健一郎の従兄弟、銭村辰巳が明治大学に進学し、明治大学硬式野球部 に所属するようになると明治大学とフレズノ・アスレチック・クラブとの関係はさらに深まった[ 4] 。1927年のニグロリーグ 「the Philadelphia Royal Giants(フィラデルフィア・ロイヤルジャイアンツ)」の日本遠征に当たっては、松本と銭村が主催者のロン・グッドウィンに手を貸した[ 4] 。1929年には銭村の音頭で明治大学野球部がカリフォルニアに遠征した[ 4] 。松本は古賀政男 、三木武夫 とともに明治の三大名物男と呼ばれた[ 3] 。三木とは生涯に渡り交友を持つ[ 7] 。三木睦子 の著作に「三木武夫にとって松本瀧藏、平沢和重 、福島慎太郎 は、学生時代からの三人の親友」と書かれている[ 7] 。1927年 、ポール・ラッシュ の発案で発足した明治、早稲田 、立教 、東京商科 、慶応 の五大学の英語会(ESS)大学連盟共同代表[ 8] 。明治大学硬式野球部 でもマネージャーを務め、アメリカから野球の専門書を原書を取り寄せ、自ら翻訳 し選手たちに講義し、ミーティングを徹底し理論野球の追求に貢献した[ 9] 。ロバート・K・フィッツ著『大戦前夜のベーブ・ルース』では、明治大学硬式野球部監督に就任したと書かれている[ 4] 。1929年 、明治大学は岡田源三郎 監督下で異例の世界一周をした。この時も得意の英語で大いに働く[ 10] 。運動と勉強をよく両立、あまりの英語力を教授 に惜しまれ大学院 に残る。ポール・ラッシュの知遇を得て、ラッシュの所属する聖公会の教えに深く帰依していた沢田美喜 らと二世連合会を結成し、同会の会長を務めた[ 3] 。ラッシュとの親交から始まった二世連合会は、松本のアメリカ人脈を強化させた。スポーツを通じての国際交流という問題意識は、いつしか松本の生涯のテーマとなっていった。
アメリカンフットボール は、ポール・ラッシュ と日本に留学した日系二世を中心に日本に導入されたものだが、松本はその中心人物であった[ 11] [ 12] 。ラッシュの所属する聖公会が、立教大学や聖路加国際病院 の創設母体でもあったため、ラッシュは松本とはからって、立教大学 と明治大学にアメリカンフットボールチームを、それぞれ誕生させた[ 3] 。1934年 、フットボールのリーグ戦設立のためラッシュに協力を求めたのは松本であった[ 13] 。明治 、立教 、早稲田 により、東京学生アメリカンフットボール連盟 が設立され、同年12月からリーグ戦をスタートさせた[ 14] 。初代理事長・ポール・ラッシュに次ぐ書記長(共同)を務めた[ 15] 。
大リーグ がレフティー・グローブ 、ルー・ゲーリッグ らを含む"大リーグ選抜チーム"として来日した1931年 には通訳として参加[ 2] 。1932年 、東京六大学 の野球部指導のため来日したモー・バーグ と親しくなり、松本がバーグに日本語を教え、代わりにバーグが松本にフランス語を教えた[ 16] 。明治大学の松本の英語の講義に、バーグがゲスト講師として招かれたこともある[ 16] 。また二人は西日本を一緒に旅行した[ 16] 。過熱する大リーグ人気で、日本の少年少女たちが1934年 に来日したコニー・マック 監督に送った手紙の返事は松本が書いた[ 17] 。松本の翻訳によりマックは日本に親近感を抱いたといわれている(コニー・マック )[ 17] 。この1934年のベーブ・ルース やルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス らの"大リーグ選抜チーム"の来日時は、選手でない遠征団メンバーが観光に出かけるときには、松本がガイド兼通訳を務めた[ 17] 。1936年ベルリンオリンピック では、日本体育協会 の役員として参加し、幻となった1940年 の東京オリンピック 開催の招致運動にも尽力[ 18] 。このベルリンオリンピックでは、ヒトラー からハーケンクロイツ をかたどった勲章も授与された[ 3] 。1937年 にはモー・バーグ の世話でハーバード大学 に留学 し、同大学大学院 の経営科を修了[ 19] [ 20] 。モーが1932年 に初来日したとき、松本はモーに日本語を教え、植民地 だった朝鮮 に渡る渡航手続きの労をとってやり、その後も親交が深かった。モーは、1934年 に来日した際、聖路加国際病院 の屋上から東京市街一円を俯瞰 撮影したことで知られるが、聖路加国際病院は、松本と親交のあったポール・ラッシュ の所属する聖公会が経営母体であった[ 3] 。
ハーバード大学留学中には、ロサンゼルス領事 だった福島慎太郎 や在ニューヨーク総領事館 に勤務する平沢和重 らと親交を結ぶ[ 3] 。そのころ松本は、アメリカ人野球選手と親交があったにもかかわらず、日本の膨張政策 の熱心な支持者になっていた[ 19] 。帰国後、日本女子大学 教授、フィリピン国立大学交換教授、明治大学教授・理事を歴任した[ 10] 。明治の教授時代には広陵の後輩で、当時の六大学 の花形選手だった田部武雄 を苛めていた、という件が松木謙治郎 の著書にある[ 21] 。田部は明治大学在学中は小西得郎 宅に、巨人軍 在籍時には松本宅に住んでいたという[ 6] 。1939年 の第1回巨人軍フィリピン遠征に通訳として随行[ 3] 。1940年、海草中学 の嶋清一 がセネタース と契約するが明治に入学。大きな問題となったが、これを仲裁しセネタース側を折れさせたのは、松本から頼まれた鈴木龍二 だという[ 22] 。この他、占領軍(GHQ) 経済科学局長・ウィリアム・マーカット 少将の副官・キャピー原田 に通訳として日本語の勉強を勧め、原田は松本の講義を受けた[ 23] 。1945年 の敗戦直前に、フィリピン大使館 一等書記官だった福島慎太郎が引き連れて逃げてきたフィリピンのホセ・ラウレル 亡命政権の面倒を、逮捕覚悟で見る[ 3] 。
戦後
1946年 、戦後初の衆議院議員総選挙 に広島全県区から立候補し当選。この後第23回衆議院議員総選挙 から旧広島1区で岸田正記 (岸田文雄 の祖父)、灘尾弘吉 らと競い当選5回[ 10] 。広島の戦後復興に尽力[ 24] 。流暢な英語力を生かしてGHQ との交渉に当たり、旧知の福島慎太郎 や平沢和重 らと企図して1946年7月、サービス・センタートーキョーというGHQとの間の民間窓口組織をつくり、公職追放 者の解除問題に尽くす[ 3] 。鳩山一郎 とも懇意で鳩山のパージ 解除の他[ 25] 、正力松太郎 の早期追放解除も松本とキャピー原田の二つのパイプを使ったものといわれる[ 3] [ 25] 。GHQ 民政局 課長 ・次長 を歴任。新憲法 起草に尽力したGHQのケーディス 、ハッセー、ラウレルらと大学の同窓だった関係で親しかった[ 25] 。私学振興を促すGHQの部局・CIE と明治大学との会談をセッティングし[ 26] 、1946年45歳で最年少の明治大学理事となる[ 10] [ 26] 。1948年芦田内閣 において、栗栖赳夫 の経済安定本部総務長官 就任の際に大きな役割を果たした[ 25] 。
戦後はGHQとのパイプを生かして、政治及びスポーツ界に特異な地位を占めた[ 10] [ 14] [ 24] [ 26] [ 27] 。特に戦後日本のスポーツ復興に大きな功績を残す[ 10] [ 14] [ 28] 。
下田武三 (後にアメリカ合衆国駐箚日本国特命全権大使 、第7代日本プロ野球コミッショナー )は、日本のプロ野球 が戦後に再開されたのは、野球好きだったマーカット少将が「日本もプロ野球をはじめたらどうか、そうすればみんな元気になりゃしないか、そのためにはなんでもお手伝いしよう」と、松本に話したのが切っ掛けと話している[ 29] 。そのマーカットやキャピー原田とともに日本のプロ野球 、社会人野球 [ 30] 、中等野球(高校野球 )関係者との折衝を仲介[ 10] [ 31] 、GHQと様々な交渉を行う[ 18] 。鈴木龍二 がプロ野球を再開するにあたって、最初に相談に行ったのは当時片山内閣 の外務 政務次官 のポストにあった松本のところであった[ 3] 。GHQに接収されアメリカ軍人の娯楽場となっていた甲子園球場 の返還に佐伯達夫 らと尽力し[ 10] 、1947年 からの選抜中等学校野球大会 再開に貢献[ 27] [ 32] 。
GHQは「中学校全国大会は年に一度にすべき」と命令したが、選抜 と夏選手権 は日本の中等野球の二本柱と強調する佐伯の懇請を伝えたのは松本の雄弁という[ 18] [ 33] [ 34] 。アメリカ第八軍が接収しようとした神宮球場 の解除を交渉。しかし解除が難しいなら学生野球 のため、未接収だった後楽園球場 を代わりに使用すべく交渉にあたった[ 35] 。ところが戦後のプロ野球 リーグ再開に執念を燃やす鈴木惣太郎 の熱意に折れ、後楽園球場の使用は諦めた[ 3] [ 35] [ 36] 。神宮球場が接収解除されたのはこの後大きく遅れ1952年 までかかった。1949年 、日本社会人野球協会(現・日本野球連盟 )発足で顧問[ 27] 。1950年 、日本学生野球憲章 制定に関与[ 37] 。
またマーカットから、ちゃんとした日本の野球のルール、協約を作ったらどうか、とアメリカからルールを取り寄せ参考にしたらと、これを渡されたが、忙しいので福島慎太郎 に渡し、福島もやはり忙しいので平沢和重 が引き受け、大部分を引き写して出来たのが1951年 に発効された「日本野球協約 」という[ 29] 。
1949年、占領下でマッカーサー元帥 が後援し、戦後初の日米親善野球となったサンフランシスコ・シールズ 来日にあたり日本側の実行委員長としてその開催に尽力[ 27] 。元々正力松太郎 や鈴木ら、讀賣グループ を中心に招聘を予定していたが、マーカット少将が松本を委員長に据えたといわれている。やむなく鈴木が副委員長に就任。同年2月、正力の初代日本プロ野球コミッショナー 就任時にも立ち会い、マーカット少将の通訳を務めた[ 34] 。しかし、正力はシールズ来日にあたり「松本君みたいに、いままでプロ野球に関係のないものが委員長になるのは、スジが通らない。日本のプロ野球を代表する人物は、連盟 会長の鈴木龍二 君か副会長の君(鈴木惣太郎)なんだ。...」と憤慨していたといわれ[ 25] 、正力と松本の関係は必ずしも良好でなかったのかも知れない。
ノンプロの世界選手権シリーズ(アマチュア野球世界選手権)の開催に尽力した他[ 27] 、1952年には日本とフィリピン のスポーツ交歓としてマニラ の社会人野球チーム・マニラ・スターズを来日させた[ 38] 。これは1954年 設立されたアジア野球連盟 及び、アジア野球選手権大会 開催に繋がった[ 39] 。松本は永野護 らとともにフィリピン戦後補償 「日比賠償協定 」に深く関わった[ 40] [ 41] 。
1953年 秋からフィリピンに渡り、フィリピン国立大学 の教授を務めながら、マニラアジア競技大会 (1954年)の準備を進めた[ 42] 。この過程でマニラ体協がスポーツ使節として広島カープ を招待するという話を持ちかけ、1954年の広島カープ初の外国遠征を実現させた[ 6] [ 42] [ 43] 。当時のフィリピンはまだ日比賠償協定 (1956年締結)が成立しておらず、フィリピンは太平洋戦争 中、日本軍に占領され甚大な被害を受けたとされ、対日感情が非常に悪く、国家として緊張を残した状態での遠征であった[ 42] 。カープには、モンテンルパ 戦犯の釈放に対する日本からの答礼を伝えることと、スポーツを通じた交流により、国家間の賠償問題を円滑に進めるという親善大使 としての役割が与えられ、フィリピンとの国交正常化にひと役買った[ 42] [ 43] 。同年、フィリピンで開催された第1回アジア野球選手権大会の日本チーム副団長[ 44] 。1956年5月には鳩山一郎 首相 から日本政府全権団全権委員に任命され「日比賠償協定 」を締結させた[ 40] 。内藤雅之全日本野球協会 専務理事は「松本氏は日本野球の国際交流の先駆者」とその功績を讃えた[ 2] 。
松本は戦後の日本野球復興に多大な功績を残したが[ 45] 、「日本人に誇りを持ってほしい」とスポーツの振興に力を入れ[ 2] 、野球以外にもスポーツ各界に大きな影響力を持った[ 10] [ 25] 。第二次世界大戦 後、日本は世界のスポーツ界になかなか復帰できないでいたが[ 46] [ 47] 、松本は日本が一日も早く国際社会に復帰できることを念願し1947年、親友でホノルルの二世歯科医かつ朝日野球団会長の米谷克巳に「近くローマで開かれる国際オリンピック委員会 (IOC)総会に、日本のIOC委員も出席するよう通知を受けたが、日本の現状では旅費が出来ない。日本国民の感情を転換させるためには、スポーツを盛んにするのが一番の早道だと思う。ロンドンのオリンピック大会に選手を送ることは、招待されても実現出来ないと思うが、せめて国際オリンピック委員会に出て、一日も早くスポーツによる国際関係を回復したい、ついては五千ドルあれば足りるから、ハワイの日系人社会に訴えて旅費を作って貰えないだろうか」という主旨の書状を送った[ 46] 。これを受け米谷は活動を開始し、言論機関や、日系人有志の協力を得て、熱心に募金活動を展開し一万一千ドルの浄財が集まった[ 46] 。この募金によって1949年4月に開催されたIOCローマ 総会に日本のIOC委員・永井松三 を送った[ 46] [ 47] 。永井が各国との繋がりをつけ、同じIOC委員・東龍太郎 を送ることが出来た[ 46] 。これはハワイの日系人社会が、日本のスポーツ界に尽くした最も大きな業績の一つといわれる[ 46] 。日本人の海外旅行が制限され旅券 発行が厳しい中、GHQに掛け合い旅券を発行させた[ 25] 。
1948年 、日本陸上競技連盟 のヘッド・コーチで同郷の織田幹雄 の5ヶ月に渡る欧米競技会視察に尽力[ 48] 。日本水泳連盟 理事として1949年、松本が中心となって[ 49] 、やはりマーカット→マッカーサールートで海外旅行 が困難な時代に即座に旅券 を交付させ、他の競技団体に先駆け水泳 の国際社会ー国際水泳連盟 復帰に尽力[ 50] [ 51] [ 52] 。1950年 の日本水泳チーム米国遠征団長を務め全米水泳選手権に参加した[ 11] [ 53] 。古橋広之進 は松本に感謝の言葉を述べている[ 54] 。1964年東京オリンピック 招致などで知られる和田勇(フレッド・イサム・ワダ )は、この時のロサンゼルス の受け入れ側として日本のスポーツ界に関わるようになったもの[ 55] 。
戦後の学校柔道 の復活に占領軍と折衝[ 56] 。この他、高校野球の応援などで広く使われる立教大学の第二応援歌「St.Paul's will shine tonight[ 57] 」誕生のきっかけとなった「フレスノ野球団」を立教大学に案内したのは松本という[ 58] [ 59] [ 60] 。二世連合会会長として灰田勝彦 とフローレンス君子の結婚式 の仲人 も務めている[ 61] [リンク切れ ] [出典無効 ] 。
日本体育協会 理事などの要職を歴任、スポーツ外交に大きく貢献し、オリンピック には戦前の1936年ベルリンオリンピック 、1952年ヘルシンキオリンピック に本部役員として参加。戦後日本が初めて国際舞台に復帰した1951年 、第1回アジア競技大会(ニューデリー) 、1954年、第2回アジア大会(マニラ) 日本代表役員などを務めた。
国民協同党 、改進党 と親友・三木武夫と政治行動を共にした[ 7] 。1947年 片山内閣連立政権 、1957年 第1次岸改造内閣 でそれぞれ外務 政務次官 就任。1954年第1次鳩山内閣 ~第3次鳩山内閣 で内閣官房副長官 を務め、1951年サンフランシスコ講和会議 全権随員、日ソ国交正常化 全権委員顧問として参加[ 62] [ 63] 。1956年 フィリピン賠償全権委員などを務め、日本の戦後補償 にも尽力[ 40] 。またインド ・ネール首相 など外国からの要人来日時の通訳も務めた。
三木武夫夫人の三木睦子 は「公職追放 の解除にあたって松本さんの世話にならなかった人はほとんどいませんでした。A級戦犯 の岸信介 さんが総理大臣 になれたのも瀧さんのおかげだと思います。第1次岸内閣 で、瀧さんを外務 政務次官 に抜擢したのもそのためです」と話している[ 3] 。副島隆彦 は、松本瀧藏は"アメリカのスパイ "と指摘している[ 64] 。この他、ポール・ラッシュが行なった山梨県での開発(キープ協会 )にオブザーバー として参加した[ 65] 。清里高原 に松本の名を冠したユースキャンプ場がある。
日本社会人野球協会 副会長などの要職を歴任[ 27] [ 66] 。広島では1953年から松本の名を冠した社会人野球大会が続いている[ 2] [ 67] 。人あたりの良いスマートな紳士で面倒見の良い人物といわれたが、政治家として脂の乗り切った1958年総選挙 に落選して程なく57歳で死去した。従四位 勲二等 旭日重光章 。
2004年 、アメリカンフットボールの日本に於ける普及の功績により、日本アメリカンフットボール殿堂入り[ 68] 。
2016年 、戦後の野球界復興や国際交流に尽くした功績により、野球殿堂 表彰者(特別表彰部門)に選出された[ 69] 。二つの競技に跨る殿堂入りは史上初[ 14] 。松本瀧藏の野球殿堂表彰式は同年5月28日、平成28年春季東京六大学野球リーグ戦 最終節の早慶戦 (明治神宮野球場)第1戦の試合開始に先立ち、同じく野球殿堂表彰者の山中正竹 (法政大学 出身)と同時に執り行われた[ 70] 。
脚注
参考文献
「白球太平洋を渡る―日米野球交流史」(1976年)池井優 、中央公論社
「真説 日本野球史7」(1980年10月)大和球士 、ベースボール・マガジン社
「広島県大百科事典」(1982年10月)中国新聞社
「プロ野球を変えた男たち」(1983年8月)、鈴木明 、新潮社
「限りなき前進 日本アメリカンフットボール五十年史」(1984年9月)日本アメリカンフットボール協会
山梨日日新聞社 編『清里の父ポール・ラッシュ伝 do your best and it must be first class 』山梨日日新聞社、1986年8月。
「私の昭和野球史」(1988年6月)伊達正男 、ベースボール・マガジン社
「祖国へ、熱き心を - 東京にオリンピックを呼んだ男 -㊤㊦巻」(1990年4月)高杉良 著、世界文化社
「歴代国会議員経歴要覧」(1990年11月)政府広報センター
「野球を変えた男」(1992年2月)ウォーリー与那嶺 、山本茂、ベースボール・マガジン社
「広陵野球史」(1992年10月)広陵野球史編纂委員会
「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀 」(1994年11月)佐野眞一 著、文藝春秋
「1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実」(1994年12月)井尻俊之、白石孝次共著、ベースボール・マガジン社
「日米野球史―メジャーを追いかけた70年」(2001年10月)波多野勝 、PHP研究所
「佐伯達夫自伝」(1980年8月)佐伯達夫 、ベースボール・マガジン社
西本恵『広島カープ昔話・裏話』トーク出版、2008年7月。ISBN 9784904014073 。
「プロ野球を救った男 キャピー原田」(2009年4月)市岡弘成・福永あみ共著、ソフトバンク クリエイティブ
ロバート・K・フィッツ/山田美明(翻訳)『大戦前夜のベーブ・ルース 野球と戦争と暗殺者 』原書房、2013年10月。ISBN 978-4562049530 。
松木謙治郎 、奥井成一 『大阪タイガース球団史 1992年度版 』ベースボール・マガジン社、2013年11月。ISBN 978-4583030296 。
波多野勝 編『日米野球の架け橋 ー鈴木惣太郎の人生と正力松太郎 』芙蓉書房出版、2013年11月。ISBN 978-4-8295-0604-2 。
「岡山県人海外発展畧史」(1941年9月)山口平治 、岡山県海外協會
外部リンク
競技者表彰
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代
90 真田重蔵 , 張本勲
91 牧野茂 , 筒井修 , 島岡吉郎
92 廣岡達朗 , 坪内道則 , 吉田義男
93 稲尾和久 , 村山実
94 王貞治 , 与那嶺要
95 杉浦忠 , 石井藤吉郎
96 藤田元司 , 衣笠祥雄
97 大杉勝男
99 中西太 , 広瀬叔功 , 古葉竹識 , 近藤貞雄
2000年代 プレーヤー
エキスパート
特別表彰
1950年代 1960年代
60 飛田忠順 , 河野安通志 , 桜井彌一郎
62 市岡忠男
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65 井上登 , 宮武三郎 , 景浦將
66 守山恒太郎
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69 三宅大輔 , 田部武雄 , 森岡二朗 , 島田善介 , 有馬頼寧
1970年代
70 田村駒治郎 , 直木松太郎 , 中馬庚
71 小西得郎 , 水野利八
72 中野武二 , 太田茂
73 内海弘蔵 , 天野貞祐 , 広瀬謙三
74 野田誠三
76 小泉信三
77 森茂雄 , 西村幸生
78 伊丹安広 , 吉原正喜 , 岡田源三郎
79 平沼亮三 , 谷口五郎
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