藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、劇作家、演出家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。本名同じ。牧野省三のマキノ・プロダクションの助監督としてキャリアを始め、牧野の没後、脚本家として河合映画製作社、新興キネマに移籍、1934年(昭和9年)に監督に昇進した[1][9][12][13]。山中貞雄らによる「鳴滝組」にも参加し、片岡千恵蔵プロダクション、日活、東宝映画と転々とした[1][9][12][13]。第二次世界大戦中から戦後にかけて「エノケン一座」の座付作家として活動し[1]、初期のテレビ放送劇の台本も書いた[16]。脚本家としての別名に三田 一(みた はじめ)[1][8][9][12][13]、1965年(昭和40年)からは黎明期の成人映画を量産、この時代には藤田 潤八(ふじた じゅんぱち)、岡野 進(おかの すすむ)等と名のった[1][9][11][12][13]。連続テレビ映画『遊星王子』の監督としても知られる[15][17]。
人物・来歴
マキノから鳴滝組の時代
1910年(明治43年)、兵庫県有馬郡三田町(現在の同県三田市)に生まれる[1][6]。
1920年代にマキノ・プロダクションに入社、助監督を務め、中島宝三(1904年 - 没年不詳)に師事する[1][13]。1929年(昭和4年)からは中島作品のために脚本を書く[1][13]。同年7月25日、同社代表の牧野省三が死去し、同年9月にマキノ正博による新体制が発表になるが、当時助監督であった藤田の名はその一覧表には登場しない[18]。師の中島が1930年(昭和5年)末に同社を退社し帝国キネマ演芸に移籍すると[19]、明けて1931年(昭和6年)1月30日に公開された『幕末風雲記 堀新兵衛の巻 新門辰五郎の巻 清水次郎長の巻』(監督マキノ正博・稲葉蛟児・久保為義)の脚本を最後に同社を退社、東京・巣鴨の河合映画製作社(代表・河合徳三郎)に移籍した[9][12][13]。翻案・オリジナル含めて14本の脚本を量産し、1932年(昭和7年)7月22日に公開された琴糸路の主演映画『人生の岐路』(監督吉村操)を最後に、師の中島がいる京都の新興キネマに移籍、『人生の岐路』公開の翌日である同23日に公開された『父をたづねて三千里』(監督川手二郎)ではすでに藤田の脚本を使用していた[9][12][13]。いっぽう師の中島は同年末には、中島が1年半在籍した河合映画製作社に移籍している[19]。
藤田が監督としてデビューしたのは、満24歳になる年にあたる1934年(昭和9年)7月26日に公開された小金井勝の主演映画『肥後の駒下駄』(原作・脚本上島量)である[1][9][12][13]。『日本映画監督全集』の藤田の項を執筆した岸松雄は、偶然、同作のクランクアップの日に京都の新興キネマの撮影所(のちの新興キネマ京都撮影所、現在の東映京都撮影所)を訪れ、その疲れた顔をよく記憶しているという[1]。岸が同撮影所を訪れたのは、山中貞雄と親交があったからで、当時山中は、三村伸太郎、稲垣浩、八尋不二、滝沢英輔、藤井滋司、土肥正幹(鈴木桃作)、萩原遼とともに「鳴滝組」と称した脚本グループとしても活動しており[20][21][22]、藤田はこの集団に井上金太郎、荒井良平、石田民三らとともに、鳴滝のアウトサイダーとして参加していた[21][22]。「鳴滝組」が集団執筆したときの脚本クレジットの「梶原金八」は、8人のメンバー数から命名されたが、それが増えても「八」で固定された[20][21][22]。
1935年(昭和10年)3月7日に公開された河津清三郎の主演映画『春雪白日夢』(脚本八尋不二)で、藤田は監督のほか、原作者三田 一としてクレジットされて以来、これを脚本家としての別名として使用するようになり、1936年(昭和11年)1月25日に公開された杉山昌三九の主演映画『闇討仁義 雪宵鴉』(原作木村恵吾)では、「三田一」名義で脚本・監督としてクレジットされた[1][9][12][13]。同年、片岡千恵蔵プロダクションに移籍、同年7月31日公開の『女殺油地獄』(原作近松門左衛門、脚本梶原金八)、1937年(昭和12年)4月15日公開の『浅野内匠頭』(原作・脚本三村伸太郎)の2本の片岡千恵蔵主演作を監督している[1][9][12][13]。『女殺油地獄』は藤田の千恵プロ入社第一回作品であり、「鳴滝組」が梶原金八第十六回目作品として取り組んだものであった[23]。「鳴滝組」の三村伸太郎がオリジナル脚本を執筆した『浅野内匠頭』を最後に片岡千恵蔵プロダクションは解散しており、藤田は、同社と配給提携していた日活に片岡以下全員とともに移籍する[1][9][12][13][24]。
藤田は、片岡の日活入社第一作である『謳へ春風』の監督を務め[25]、同作は、同年6月3日に公開された[1][9][12][13]。藤田が、日活で片岡の主演作を手がけたのは同作が最後になり、月形龍之介の主演作を2作監督したあとは、東宝映画京都撮影所に移籍、1938年(昭和13年)12月8日に公開された『幼い英雄たち』で現代劇に転向した[1][9][12][13]。このころ、同撮影所で岸松雄と再会し、藤田と岸は、日活太秦撮影所の前通り(現在の大映通り商店街)にあった二階家で共同生活を始めたという[1]。それは女優の白石明子が以前住んでいた物件で、隣には市川男女之助夫妻の住居があった[1]。同社の東京撮影所(現在の東宝スタジオ)にも出張して9本を監督したが、1941年(昭和16年)5月8日に公開された徳川夢声の主演映画『大いなる感情』(製作竹井諒、原作阿木翁助、脚本外山凡平)を最後に撮影所を去った[1][9][12][13][26]。
同年3月には、女優の不忍鏡子(本名・進藤幸、1919年 - )と結婚している[1][27]。鏡子の姉が、当時、東宝映画東京撮影所の文芸課に所属した阿木翁助(1912年 - 2002年)の妻であったこと、阿木の原作を採用した文芸課長の竹井諒が製作した『大いなる感情』を藤田が監督したこと等に縁があって、見合い結婚したものである[1][27][26]。挙式は東京・赤坂の氷川神社で、竹井夫妻を媒酌人として行われた[1][27]。鏡子の実兄は、美術デザイナーの進藤誠吾[28](1913年 - 2003年、日本映画・テレビ美術監督協会元理事長)であり、鏡子は結婚を機に引退したものの、藤田は映画一家の一角を担うことになった[27]。
エノケン一座で劇作家に転向
第二次世界大戦が始まると、藤田は、当時東宝傘下であった「エノケン一座」(東宝榎本健一一座)の座付き作家(劇作家・演出家)、に転向し、1942年(昭和17年)11月公演で『河童の国』(原作塩谷寿雄)を脚色・演出している[1][29][30]。戦中戦後の藤田は、「エノケン一座」にあった[1][29][30]。1946年(昭和21年)8月、「エノケン一座」は東宝から独立し、株式会社榎本健一劇団に組織変更しているが、藤田はその後も同劇団の作品を書き、演出した[1][29][30]。1949年(昭和24年)12月30日には、藤田の脚本に渡辺邦男が手を加えて監督した『エノケン・笠置のお染久松』が公開され、合計3作、榎本健一の主演映画に脚本を提供している[1][9][10][11][12][13]。1952年(昭和27年)4月3日公開の花柳小菊の主演映画『お洒落狂女』(監督佐伯清、原作本田美禅、配給東映)にも、藤田は脚本家として参加した[1][9][10][11][12][13]。劇作家、演出家としての仕事面は成功し、家庭でも2男に恵まれたが、放縦な生活の結果、1953年(昭和28年)には離婚した[1][27]。鏡子は翌1954年(昭和29年)には映画界に復帰した[27]。
その後、3年間の仕事については伝えられていないが、1956年(昭和31年)には、日本テレビ放送網の喜劇番組『喜劇天国』に脚本を提供している[16][31]。同番組は益田喜頓、榎本健一、有島一郎、清川虹子、小桜京子、山東昭子、高橋とよ、古川緑波、柳家金語楼といった喜劇人が出演しており[31][32]、藤田は1957年(昭和32年)12月2日放映の『師走の風』(主演瀬川路三郎)まで数本、脚本を書いていることがわかっている[16][31]。古川緑波は『古川ロッパ昭和日記』において、同企画の初期において藤田が関わっており、『午后3時の恋人』を藤田が書いたことや、すでにこの当時、藤田が宣弘社と関わっていたことなどを書き残している[31]。1958年(昭和33年)11月4日に放映を開始した連続テレビ映画『遊星王子』(製作宣弘社プロダクション)の全49話を脚本家の伊上勝と組んで、ほぼすべてを監督し、成功を収めた[1][15][17]。1961年(昭和36年)2月2日に放映を開始した連続テレビ映画『おてんば天使』(原作横山光輝)も監督を手がけ[15]、作品は人気を博した。
独立系成人映画の時代
1965年(昭和40年)からは独立系成人映画の世界に転身[1]、同年5月には藤田 潤八の名で『艶説四谷怪談』、岡野 進の名で『熱い夜』をそれぞれ監督、いずれも東京放映(代表・吉野達弥)の製作、新東宝興業の配給によって公開された[5][13]。同年7月には、『艶説四谷怪談』に主演した左京未知子を起用して『性の代償』を監督[13](「岡野進」名義とも[5])、自らのプロダクション(藤プロダクション)の製作、センチュリー映画社(代表・井上猛夫、1964年10月設立[2])の配給により公開された[5][13]。追って同年8月、東京都港区麻布笄町(現在の西麻布)に設立された六本木映画株式会社(代表・長屋喜代美)に参加する[2][4]。『日本映画発達史』の田中純一郎によれば、同社は、藤田を中心とした製作会社である[2]。1966年(昭和41年)前半にセンチュリー映画社が倒産しており、藤田は、同年7月15日に同区西新橋2丁目5番1号に設立された株式会社東京映画社(代表取締役・高木波英、常務取締役・藤村政治)の設立に参加、同社の取締役製作担当に就任する[5]。東京映画社が製作した映画は「島村公平」が監督した『偽れる性』(1966年8月)以外の記録が残っていない[33]。藤村政治(生年不詳 - 2010年)は、その後、ワールド映画の営業部長を経て、プリマ企画を設立した。田中純一郎は、『日本映画発達史』のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、深田金之助、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、藤田の名を挙げている[2]。
1967年(昭和42年)11月21日に公開された岸信太郎との共同監督作『ダブルドッキング』(主演辰巳典子)以降の作品歴が不明である[1][3][5][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。「岸信太郎」とは、ヤマベプロダクション代表の山邊信雄の変名であり、同プロダクションの製作、関東映配の配給により公開された[9][13]。山中貞雄の弟子であり、かつて「鳴滝組」のメンバーとして藤田とは近い存在であった萩原遼もまた、1969年(昭和44年)4月に公開された乱孝寿の主演作『異常の性 年上の女』で独立系成人映画の世界に踏み出している[34]。萩原は5作を監督したが、いずれも東京興映(代表・小森白)が製作したものであり[34]、藤田との直接の関係は不明である。
『日本映画監督全集』が発行された1976年(昭和51年)12月24日の段階では、藤田の項を執筆した岸松雄は「最近聞けば先日まで病院で療養の身だった」という当時の近況を知らせている[1]。離婚した妻が育てた2人の子息は、いずれも外食チェーンのスエヒロに勤務したという[1][27]。
フィルモグラフィ
特筆以外のクレジットはすべて「監督」である[1][3][5][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[8]。
藤田潤一
「藤田潤一」名義のもの[1][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。「三田一」名義のものは特筆した[1][8][9][12][13]。
藤田潤八
特筆以外は「藤田潤八」名義で「監督」したもの[5][8][9][11][12][13]。
テアトログラフィ
すべてエノケン一座(榎本健一劇団、1946年8月以降)の公演である[1][29][30]。
- 『河童の国』 : 原作塩谷寿雄、1942年11月公演 - 脚色・演出
- 『何処へ』 : 御園座、1942年12月公演 - 作・演出
- 『ベンゲットの星』 : 原作織田作之助、1943年5月(8月とも[29])公演 - 脚色・演出
- 『たった一人の鉱山』 : 1943年11月公演 - 作・演出
- 『太閤記』 : 1944年2月公演 - 作・演出
- 『無法松の一生』 : 1944年公演 - 脚色・演出
- 『リリオム』 : 有楽町・有楽座、1946年3月公演 - 脚色・演出
- 『エノケンのターザン』 : 1946年夏秋公演 - 演出
- 『法界坊』 : 1946年公演 - 脚色・演出
- 『アリババと盗賊』 : 有楽町・日本劇場、1947年1月公演 - 作・演出
- 『ABC娘』 : 有楽町・有楽座、1947年4月公演 - 作・演出
- 『霧の夜の女』 : 帝国劇場、1947年5月公演 - 作・演出
- 『婿殿は華族様』 : 関東・東海道巡業公演、1948年6月公演 - 作・演出
- 『愉快な相棒』 : 有楽町・有楽座、1949年1月公演 - 作・演出
- 『あゝ世は夢か幻か』 : 有楽町・有楽座、1949年7月公演 - 作・演出
- 『ブギウギ百貨店』 : 1950年1月公演 - 作・演出
ビブリオグラフィ
国立国会図書館蔵書等にみる書誌である[7]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak キネ旬[1976], p.341-342.
- ^ a b c d e 田中[1976], p.85-86.
- ^ a b c 年鑑[1961], p.385.
- ^ a b 年鑑[1966], p.403.
- ^ a b c d e f g h i 年鑑[1967], p.325-332, 391.
- ^ a b 藤田潤一、jlogos.com, エア、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b 国立国会図書館サーチ検索結果、国立国会図書館、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 藤田潤一・三田一・藤田潤八、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 藤田潤一・三田一・藤田潤八・岡野進、日本映画情報システム、文化庁、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c d e f 藤田潤一、日本映画製作者連盟、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 藤田潤一・藤田潤八、KINENOTE, 2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 藤田潤一・三田一・藤田潤八、allcinema, 2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 藤田潤一・三田一・藤田潤八・岡野進、日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c d Junichi Fujita、インターネット・ムービー・データベース (英語)、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g 藤田潤一、テレビドラマデータベース、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 学術情報検索システム 著者名等検索検索結果、早稲田大学、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b 遊星王子、宣弘社、2014年9月2日閲覧。
- ^ 1929年 マキノ・プロダクション(御室撮影所)所員録、立命館大学、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b キネ旬[1976], p.284.
- ^ a b 朝日日本歴史人物事典『梶原金八』 - コトバンク、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c 猪俣・田山[1978], p.112.
- ^ a b c 新藤[1989], p.139.
- ^ 加藤[2008], p.262.
- ^ 片岡千恵蔵プロダクション撮影所、立命館大学、2014年9月2日閲覧。
- ^ 片岡千恵蔵 - 日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b 年鑑[1942], 12章p.27.
- ^ a b c d e f g キネ旬[1980], p.353.
- ^ 進藤誠吾 - 日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b c d e 内山[1967], p.221.
- ^ a b c d 井崎[1993], p.277-279.
- ^ a b c d 古川[2007], p.112, 127-130.
- ^ 喜劇天国、テレビドラマデータベース、2014年9月2日閲覧。
- ^ 偽れる性、日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。
- ^ a b 萩原遼 - 日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。
- ^ 雲月の鈴蘭の妻、衛星劇場、2014年9月2日閲覧。
参考文献
関連項目
外部リンク
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