里見 浩太朗(さとみ こうたろう、1936年11月28日 - )は、日本の俳優・歌手。
旧芸名は鏡 小五郎・富士川 一夫・里見 浩太郎・風間 太郎を経て、1970年より今の芸名とする。本名は佐野 邦俊(さの くにとし)。東京市渋谷区道玄坂出身[1]、静岡県富士宮市育ち[1]。自らが社長を務める株式会社 里見プロモーション所属。
父・亀一は19歳で志願して近衛兵となり、帝国陸軍の麹町憲兵隊に転属したのち、秋葉原のパン屋で働いていた静岡県松野村出身の木伏エツと結婚[2]。里見が生後8か月のときに、盧溝橋事件により支那駐屯憲兵隊に臨時増加配属を命じられ、その年の9月に中国大陸山西省の小塞村(平型関の入り口)にて平型関の戦いで戦没しており、静岡県富士宮市にある母・エツの実家を頼った母子家庭で兄・要とともに育った。その父の死に様は当時の新聞や軍内部の報告書で英雄として祀り上げられた。当初は割腹自決と報じられたが、のちに同じ部隊にいた憲兵仲間から、負傷しながらも軍刀を抜き反撃しようとしたところを手榴弾を受けて亡くなったと報告があった[2]。「父の恩給だけでは生活が苦しかったため、母が縫い物の内職をして家計を支えてくれた。」という。戦後、恩給が打ち切られてからは彼の母は古着の行商などで2人の息子を養っていた。なお、父方の佐野家は山梨県南部町井出にあり、初代の佐野光次は戦国時代に武田信虎に仕えた武将。代々武田家の家臣として仕え、祖父・勝三郎の代には農業・林業のほかに塩の販売なども手掛け、村で一二を争う財産家だった[2]。
中学時代はテニス部所属、高校時代は音楽部に所属していた。高校卒業間近に『NHKのど自慢』に出場する機会があり、伊藤久男の代表曲「山のけむり」を熱唱し予選に合格した。後年、里見はコンサートMC等で「この合格が芸能生活への原点である」と語っている。静岡県立富士宮北高等学校卒業後上京。築地の魚市場で仲卸を営んでいた叔父の会社に就職し、働きながら歌手を目指した[3]。レコードデビューが内定していたが、仲買卸業の娘が悪戯で里見を東映ニューフェイスに応募[4]。
1956年、第3期東映ニューフェイスに合格し、何事も経験が必要だと云われ東映へ入社[1]。同期には大川恵子・桜町弘子・大村文武らがいる。鏡を見て現代劇の姿を写して見たり、ハンカチで、時代劇の羽二重を付けた様にして写して見たりして、考えた末、京都には社宅が完備されていたことから自ら希望して東映京都撮影所(以下、東映京都)専属となる[1][4][5]。翌1957年、『上方演芸 底抜け捕物帖』『誉れの陣太鼓』がステップになり[6]、3本目の大友柳太朗主演『天狗街道』で本格デビュー[6]。同作品のプロデューサー・神戸由美から[6]、大当たりした東映の映画『里見八犬伝』が縁起がいいと「里見」を[6]、「富士山の悠々たる姿を見て浩然の気を養う」という意味から「浩」[6]、時代劇らしく「太郎」と合わせ[6]、里見浩太郎(1970年に現名に改名)という芸名をつけてもらう[1][6]。1958年、4本目の『金獅子紋ゆくところ』初主演[1]。その主題歌『金獅子紋道中唄』で歌手デビュー。映画では時代劇を中心に出演し、主演は子供向け作品が多かった。初期は美空ひばりや中村錦之助主演映画での助演や『十三人の刺客』では片岡千恵蔵を補佐する役を演じた。時代劇以外では高倉健主演の任侠映画『侠客列伝』(1968年)、千葉真一主演のオールスターキャスト作品『日本暗殺秘録』(1969年)や、村田英雄・北島三郎ら主演の歌謡映画などにも出演している。
1965年2月26日に京都地裁から拳銃密輸と所持により、懲役8か月(執行猶予3年)の判決を受けている(詳しくは後述「人物」)。
当時の岡田茂東映京都所長が、同撮影所の改革として時代劇映画をテレビに移し、映画は任侠映画を中心とするラインナップに変更する[7]。
岡田が「時代劇に固執するものは一人もいらないんだ」などと強行に改革を進めたため[7]、里見は時代劇映画を守ろうと中村錦之助 (萬屋錦之介)や東千代之介らと1965年5月9日、東映の俳優組合(東映俳優クラブ組合)を結成した[7][8][9]。しかし組合活動は上手くいかず[8][9]、「任侠路線は自分には似合わない」と活動の場をテレビ時代劇に移す[5][4]。このときは岡田と反目に回ったが、「私は岡田茂さんに育てて頂いた」と述べている[10]。
里見は1967年の東映・関西テレビ製作の『仮面の忍者 赤影』を始め、数々のテレビ時代劇に出演するようになる。だが映画の頃とは打って変わって四番手ないし五番手の役が多くなり、1970年には芸名を「里見浩太郎」から「里見浩太朗」に改名。時代劇のみならず、刑事ドラマやアクションドラマにも出演した。
1971年5月、ナショナル劇場『水戸黄門 第3部』(TBS / C.A.L)(放送は同年11月29日)で杉良太郎に代わり2代目佐々木助三郎に就任。1982年7月8日の初代水戸光圀役・東野英治郎の降板発表を受け自身も降板を考えたが逸見稔の強い希望で残留する[注釈 1]。1987年11月26日の第17部収録終了(最終話は1988年2月22日に放送)をもって降板。足かけ16年半、457回にわたる活躍だった[4]。
1974年、『大江戸捜査網』にて久々に主演[11]を務め、以降『長七郎天下ご免!』、『松平右近事件帳』、『長七郎江戸日記』など幾多のテレビ時代劇作品で主演を務め、時代劇俳優の地位を不動のものとする[4]。主演作品では主題歌も数多く担当している。1985年から93年にかけて、年末に放送されていた日本テレビ系列の『年末時代劇スペシャル』では、最多の6度主演している。
「時代劇の殺陣がどんどん激しくなっていくのとは対照的に、かつての市川右太衛門的な立ち回りを復権させようと、舞い踊るような美しい殺陣を見せており、市川の華麗な部分と片岡千恵蔵的な重厚な芝居と併せ持つ、東映時代劇の申し子[12]」と評されている。
2002年10月14日より放送開始したナショナル劇場『水戸黄門 第31部』で、病気降板した石坂浩二に代わる5代目水戸光圀役として14年ぶりに復帰[注釈 2]。里見は1959年公開の映画『水戸黄門 天下の副将軍』(主演:月形龍之介)で渥美格之進役を務めており、同作とあわせて「水戸光圀・佐々木助三郎・渥美格之進の三役を経験した唯一の俳優」となった。またゲスト出演での共演を含め、シリーズ歴代の佐々木助三郎・渥美格之進役全員との共演を果たしている。2011年12月19日の『最終回スペシャル』をもって42年にわたるシリーズの一時終了が決定した際の記者会見では、「ズバッと後ろから斬られた感じ。残念というよりも、痛い。」と語っている[13]。その後、2015年6月29日には3年半ぶりにスペシャルとして復活。放送当時の里見は78歳7ヶ月であり、同作における歴代最年長での光圀役となった[注釈 3]。
『大江戸捜査網』以降テレビ時代劇では、長年にわたり勧善懲悪作品の主演を専らとしてきたが、1993年の『炎立つ』への出演を皮切りにNHK大河ドラマにも出演するようになった。
舞台活動では1977年8月から名古屋御園座で座長公演を始め、主に東京では明治座、大阪では梅田コマ劇場などで年に1回から3回行っている。主演が多くなった1980年代以降は、「主婦のアイドル」として、歌手でもコンサート・ディナーショーを積極的に行っている。
現代劇でも新しい役柄に扮し、23年ぶりに映画出演した初の松竹作品『およう』(2002年)[注釈 4]では洋画家藤島武二を演じた。なおテレビドラマでは、刑事部長・警察署長(テレビ東京系『信濃のコロンボ』シリーズ他)などの役柄が多く、京都で一日署長を務めたこともある。主演シリーズの終了後から、俳優としてのスタンスも徐々に「存在感のある脇役」へとシフトし、 2012年のドラマ「リーガル・ハイ」の服部役では、当時の小学生世代にまで知名度を広げる[4][14]。
2013年2月17日に放送されたスペシャルドラマ『必殺仕事人2013』では芸歴55年余にして初めて敵役を演じた。起用にあたって「もちろん、これまでも斬られる役を演じたことはあるのですが、敵役として斬られるのは初めてなので、本当に楽しみにしています。まだまだ立ち回りは動けますし、どんな長い殺陣でもできる自信はまだありますから(笑)。丁々発止、斬られたいと思います」と、その心境を語っている[15]。
1966年3月に最初の結婚。翌年10月には長男・圭亮が誕生したが、テレビの仕事が順調に進む中、多忙によるすれちがいが原因で1974年に離婚。1976年10月に元レスリング選手・風間栄一(ベルリンオリンピック日本代表)の娘でパンアメリカン航空に勤務(客室乗務員を経て結婚時は地上勤務)していた現在の妻と再婚した。
私生活では多趣味多芸で、多忙を極めつつも絵画を描き、ゴルフも得意であるが、2006年夏にプレイ中に左耳に小さな昆虫が入り、その虫が耳奥で死に腐敗した影響で(気が付くのが遅れ)鼓膜が破れる事故が起き、2007年2月に鼓膜再生手術を受けている。
アメリカカリフォルニア州サンディエゴに別荘を持っており、『水戸黄門』などの撮影や舞台公演が終わると、オフタイムでは渡米し長期滞在することが多い。
自他共に認める下戸で、妻と共に食事した際に出された梅酒を一杯飲んだだけで悪酔いし、気分が悪くなる程で全く受け付けない[4]。そういった事情から、自宅で役者仲間やスタッフらを招待しての(打ち上げなどの)宴会などでは、歌や接待につとめ進行役に専念しているという。
ナショナル劇場『水戸黄門 (第22-28部)』で3代目水戸光圀役を演じた佐野浅夫は親戚(従叔父)関係にある[16][17]。
先述した1965年の拳銃所持事件の背景には、当時警察当局は大手暴力団の壊滅作戦(俗に言う第一次頂上作戦)を進めており、とりわけ三代目山口組田岡一雄の周辺は多くの逮捕者が出た。これもその一環で芸能界に深いつながりのある山口組との関係に対する制裁の面が強かった。若き日の里見にも多くの映画スターと並んだ田岡一雄との写真がある。容疑は1963年4月にハワイ旅行で山城新伍と共に、SW22口径コルトを購入、日本に持ち込んでいた。山城の方は同年末に拳銃所持が発覚し検挙されて1964年の春には罰金刑を受けていたが、後に山城が持ち込んだ拳銃は山口組系暴力団組員へ売却され、山城自身が所持していた拳銃は里見が持ち込んだ物を譲り受けた物と判明し、2人揃って起訴された。山城は懲役10か月(執行猶予3年)の判決を受けたが、一方で里見は山城と違ってヤクザとの交友には消極的だった、という証言もある[18]。
2017年2月、60代男性が運転する軽トラックに、里見が運転する乗用車が接触する事故が発生したが、双方に怪我は無かった[19]。
以下の会場を中心に歌謡ショーを行っている(一部のみ)。
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