アリオナ・サフチェンコ
アリオナ・サフチェンコ(ドイツ語: Aljona Savchenko, 英語: Aliona Savchenko, ウクライナ語: Альона Савченко1984年1月19日 - )は、ウクライナ出身のドイツの女性フィギュアスケート選手(ペア)。パートナーはブリュノ・マッソ、ロビン・ゾルコーヴィ、スタニスラフ・モロゾフなど。 世界フィギュアスケート選手権優勝6回。2002年ソルトレイクシティオリンピックウクライナ代表、2006年トリノオリンピックドイツ代表。2010年バンクーバーオリンピック、2014年ソチオリンピック銅メダリスト。2018年平昌オリンピック金メダリスト。 人物2016年8月18日、イギリス軍所属の男性と結婚した[1]。 表記名ではアリョーナ、姓ではサブチェンコ、サヴチェンコなどの表記がある。ウクライナ語ではオレーナ・ヴァレンティーニウナ・サウチェンコ(Оле́на Валенти́нівна Са́вченко)になるので、ドイツ語表記からはロシア語を母語とするとも思われる。ロシア語ではアリョーナ・ヴァレンチーノヴナ・サウチェンコ(Алёна Валенти́новна Са́вченко)である。ただし、ウクライナ語でもアリョーナ(Альо́на)と表記される場合がある(個人的にロシア語風の発音で呼ぶ習慣があって、その発音になるようウクライナ語表記を作るという例は、今日のウクライナ人のあいだにしばしば見られる)。 経歴ウクライナのキエフに生まれ、3歳の時に父の指導のもと湖でスケートを始めた。4歳の時には父がキエフのフィギュアスケート教室に入れようと申込むが、まだ小さすぎるので一年後に来るように言われた。ドミトリー・ボーエンコとペアを組んで1998年の世界ジュニア選手権に出場、13位。 1999-2000シーズンからスタニスラフ・モロゾフとペアを結成し、ISUジュニアグランプリに出場。初出場ながらJGPファイナルで優勝、世界ジュニア選手権でも優勝を果たした。また、シニアクラスの欧州選手権およびISUグランプリシリーズにも出場し、ウクライナ選手権ではシニアクラスで優勝を飾った。翌2000-2001シーズンからシニアクラスに完全移行したが、各大会で入賞はあったものの、メダル獲得までには至らなかった。2002年ソルトレイクシティオリンピックに出場し15位。シーズン終了後にスタニスラフ・モロゾフとのペアは解散する。 2003年、ドイツに渡り、ロビン・ゾルコーヴィとペアを結成。2004-2005シーズンからISUグランプリシリーズにドイツ所属選手として出場し、表彰台の常連となっていった。トリノオリンピックを控えた2005-2006シーズンにはスケートカナダでISUグランプリシリーズ初優勝を飾り、初出場のグランプリファイナルでは3位。2005年12月29日にはドイツ国籍を取得し、コーチであり振付師でもあるインゴ・シュトイアーのシュタージ協力をめぐる騒動に巻き込まれながらも、ドイツ代表としてトリノオリンピックに出場し、6位となる。 2006-2007シーズン、欧州選手権で初優勝、世界選手権で初表彰台の3位となる。2007-2008シーズンはネーベルホルン杯で優勝し、ISUグランプリシリーズのスケートカナダでも優勝、次戦のロシア杯では2位となったものの、3戦目となるNHK杯では優勝を飾った。3度目の出場となったグランプリファイナルでは、SPとFSでともに1位となり、初優勝を飾った。年が明けて欧州選手権では自己最高得点をマークし2連覇を達成した。世界選手権では初優勝を果たし、1997年に自身のコーチであるインゴ・シュトイアーが優勝した以来の栄冠をドイツにもたらした。 2008-2009シーズン、シーズン序盤から安定した成績を収め、グランプリファイナル以外の大会では全て優勝。世界選手権では2連覇を果たした。 2009-2010シーズン、エリック・ボンパール杯では転倒や要素が抜けるなどの大きなミスがあり3位、フリーのプログラムを一新して臨んだスケートカナダでは史上初めてPCSで10.00の評価をジャッジから受ける演技で優勝。グランプリファイナルではSP2位につけるが、FSでのミスが響き2年連続の3位に終わった。4連覇を狙った欧州選手権でもSPではミスのない演技だったが、FSで逆転を許し2位となった。「金メダル以外はいらない」という思いで臨んだバンクーバーオリンピックだったが、FSでのミスが響いてSP2位から1つ順位を落とし、3位となった。 2010-2011シーズン、シーズン序盤から安定した成績を収め、出場した全ての大会で優勝。世界選手権ではFS、合計得点で歴代最高得点を塗り替えて3度目の優勝を果たした。 2011-2012シーズン、グランプリシリーズは3大会にエントリーして好成績を収め、グランプリファイナルでは前年に引き続き優勝した。欧州選手権は大会前の練習中の怪我が原因で、SP直前に棄権を発表。世界選手権には無事出場し、SPで両足着氷ながらスロー3回転アクセルを成功させ、4度目の優勝を果たした。 2012-2013シーズン、スケートカナダでは優勝したがエキシビションを発熱で出場を辞退した。その後、静脈洞感染症になりエリック・ボンパール杯の出場を辞退し、8年連続のグランプリファイナルの出場を逃した。世界選手権ではFSの最後のエレメンツにスロー3回転アクセルを組み込む構成で2位、7年連続でメダルを獲得した。 2013-2014シーズン、中国杯の優勝でグランプリシリーズ6大会制覇を達成した。続くロステレコム杯でも優勝。グランプリファイナルではSP、FSともにパーソナルベストの演技で4度目の優勝を果たした。欧州選手権はSP2位だったが、風邪を引いたために棄権した[2]。引退を決めたソチオリンピック[3]ではSPを3シーズン前のFSのピンクパンサーに変更し挑み、パーソナルベストで2位。最終滑走で迎えたFSでは2度の転倒が響き4位、総合3位で2大会連続の銅メダルに終わった。しかし、大会終了後のインタビューでは世界選手権に出場の意向を示した[4]。世界選手権ではSP、FS共に1位で5度目の優勝。ゾルコーヴィが今大会をもって引退するため、これが最後の試合となった[5][6]。8年連続の世界選手権でのメダルはイリーナ・ロドニナに次ぐ記録であり、同一のパートナーによるメダルではリュドミラ・ベルソワ/オレグ・プロトポポフに並ぶ歴代1位の記録である。その後、フランスのブリュノ・マッソとのペア結成を発表した[7]。4月26日に練習拠点のケムニッツで行われたアイスショーを最後に、ゾルコーヴィとの11年に及ぶペアを解消[8]。ドイツまたはフランスでの代表の可能性を模索していた中、7月17日にフランス氷上競技連盟より、マッソのドイツへのリリースが拒否が発表された[9]。しかし、9月28日にはドイツスケート連盟との間で署名がなされ、ドイツ所属で競技を続けていくことが決まった[10]。その後、シュトイアーとの長年の師弟関係を解消し、新たにアレクサンダー・ケーニッヒをコーチに迎えた[11]。 2015年9月、フランス氷上競技連盟による活動費用の負担を主張され、マッソのリリースが再度拒否された。またリリースには70,000ユーロを要すると報道された[12][13]。その後リリースにかかる費用は30,000ユーロに減額された。10月26日、フランス氷上競技連盟のディディエ・ゲヤゲ会長との間で話し合いが持たれ、ドイツへのリリースが決定した[14]。 2015-2016シーズン、チャレンジャーシリーズに参戦。タリントロフィー、ワルシャワ杯で連続優勝。シリーズ全体では、2位に50点近い大差をつけ、最上位の成績を収めた。欧州選手権では銀メダルを獲得した。世界選手権では3位となり、マッソーとのペアとしては、初めてのメダルを獲得した。 2016-2017シーズン、グランプリシリーズに参戦し連勝。しかしながら、フランス杯FSでスロー3回転アクセルを転倒し、右足首を負傷した。その影響でグランプリファイナル出場を辞退した[15]。欧州選手権では2年連続で2位。世界選手権では銀メダルを獲得した。 2017-2018シーズン、スケートカナダで2位、スケートアメリカで優勝し、グランプリファイナルはマッソとのペアとしては初めて優勝した。平昌オリンピックのSPでは、マッソの3回転サルコウが2回転になるミスがあり、4位発進となった。しかしながら、最終グループ一番滑走となったFSでは自身の持つ世界最高得点を2ヶ月で更新する会心の演技を披露し、SPでの6点近い差を逆転して優勝。五度目の出場で、悲願だった五輪の金メダルを獲得した。世界選手権はSPで82.98点のパーソナルベストを更新するとFSでも162.86点の歴代最高得点を更新。総合得点では245.84点をマークし、タチアナ・ボロソジャル/マキシム・トランコフ組の持つ歴代最高得点を4年半ぶりに更新し、ペア史上初の1シーズンでグランプリファイナル、オリンピック、世界選手権を制覇する快挙を成し遂げた。 その後、同年4月に2018-2019シーズンは競技会に出場せずに11月29日から翌年2月24日までのアイスショー契約を結んだと発表した。 主な戦績
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脚注
参考文献
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