リニアクイン
リニアクイン(欧字名:Linear Queen、1974年4月8日 - 1993年4月7日)は日本の競走馬、繁殖牝馬[1]。 生涯誕生の経緯1960年桜花賞優勝のトキノキロクに、ゲイタイムが配合されて生まれた牝馬のエンタープライズは、松田由太郎厩舎に所属し、23戦5勝[注釈 1]を挙げた[2]。競走馬引退後は、北海道浦河町の村下牧場で繁殖牝馬となり、トキノキロクとその母であるマルタツと同様に、桶谷辰造が仔分けで所有した[3]。初年度には父タマナーの牝馬を生産したのち、2年目にはアイルランド産の輸入種牡馬ハードリドンを配合された。1974年4月8日、村下牧場で鹿毛の牝馬(後のリニアクイン)が誕生[3]。 なおリニアクインのエンタープライズは、同じ「エンタープライズ」という名の牝馬(1964年生[4][注釈 2])が存在するため、血統において1966年生の本馬を「エンタープライズII」と表記している[2]。 幼駒時代鹿毛の牝馬は、牧場では「誉泉」という幼名が附された[5]。誉泉は生後半年で離乳し、牧場分場で育成が施された。2歳9月から脚腰の強化できる砂馬場で運動が行われた[5]。横尾一彦によれば走りぶりは、大跳びで「男馬」のようだったという[5]。11月には三重県四日市市の育成牧場で調教された[5]。 祖母トキノキロクと母エンタープライズや、同じハードリドン産駒であるロングエース、ロングホークを管理した松田が誉泉を管理することとなった[3]。「リニアクイン」と名を改められた後、3歳となってすぐに栗東トレーニングセンターの松田厩舎に入厩した[5]。 松田による調教が進んだ3月初旬に、松田は村下牧場に電話し「リニアクインは相当期待できますよ。じっくり仕上げれば、かなりいいところまで行くでしょう。桜花賞はだめでもオークスは狙えます[5]」と連絡していた。 競走馬時代4歳となった1977年1月5日、京都競馬場の新馬戦(芝1400メートル)に松田幸春が騎乗してデビュー、3番人気での出走となった。第3コーナーで先頭となり、そのまま先頭で入線して初勝利を挙げた[6]。続いて2月6日のクロッカス賞で2着に敗れたが、2月27日のつくし賞で好位から抜け出して勝利した[6]。続いて4月10日の桜花賞に出走した。 桜花賞では、4歳牝馬特別を含めて4連勝を果たしたダイワテスコが1番人気と目され単枠指定に選ばれた。しかし、直前になって脚部不安により出走取消となった。代わって2戦目の新馬戦と若菜賞と連勝したインターグロリアが1番人気に推された。対してリニアクインは「惑星」(横尾一彦)という評価で8番人気に留まった[6]。リニアクインは7,8番手から進んだが、最終コーナーで不利を受けて3着[6]。勝利したインターグロリアから3馬身4分の1離された敗退であった。 続いて、優駿牝馬(オークス)のトライアル競走であるサンケイスポーツ賞4歳牝馬特別ではなく、東京競馬場の4歳中距離ステークスに出走。スタートでは後方だったが次第に好位にとりつき、直線コースで後方に7馬身差をつけて優勝した[6]。騎乗した松田は「走破タイム[注釈 3]、レース内容とも満足な一戦です。キャリアは浅いが、その分日増しに成長している感じです。オークスになればもっと力がつくでしょうし、力が入りますね[6]」と振り返っている。 5月22日の優駿牝馬(オークス)に出走。リニアクインが見送ったサンケイスポーツ賞4歳牝馬特別にて、インターグロリアが9着に敗退し評価が減退したこともあり、代わってリニアクインが1番人気に推された[6]。スタートから中団馬群に待機し、ペースは平均的であった。第3コーナーで加速して先頭に取り付き、単独先頭で直線コースに入った[6]。内から2番人気のアイノクレスピンが伸びてきたものの坂を登ると失速し、リニアクインが差を広げ、アイノクレスピンに3馬身離して優勝した[6]。栗東トレーニングセンター所属の関西馬は、1970年のジュピック以来7年振りの優勝となり、騎乗した松田は、デビュー9年目でクラシック競走初勝利となった[6]。走破タイムは優駿牝馬レコードタイムとなる2分28秒1であった。翌週に行われた東京優駿(日本ダービー)の決着タイム2分28秒7を上回るものであり、連闘して東京優駿に参戦すればクリフジやヒサトモに続く牝馬3頭目の優勝も十分考えられたという[注釈 4][6]。しかし、東京優駿には登録されず、栗東トレーニングセンターで夏休みに入った。一部菊花賞への出走を期待する声も上がったが、出走することはなかった[7]。 秋は、10月2日の神戸新聞杯、10月30日の京都牝馬特別をエリザベス女王杯の前哨戦として選択し、共に敗戦[7]。2レースをたたき台にして臨んだ11月20日のエリザベス女王杯では、アイノクレスピンに次ぐ2番人気に推された。第3コーナーで他の馬との接触する不利を受けて、一番外から追い上げる羽目になった[7]。好位から抜け出したインターグロリアに半馬身及ばず、2着に敗退した[7]。続く阪神牝馬特別でもインターグロリアに及ばず3着。明けて5歳に入り、1978年1月5日の金杯(西)に1番人気に支持されて出走し、直線内から抜け出して、ダイフクジュに半馬身差で勝利、優駿牝馬以来の勝利を果たした[7]。 続く2月19日の京都記念は、ホクトボーイ、エリモジョージの2頭の天皇賞優勝馬に次ぐ3番人気に支持されたが、5着に終わった。レース直後に、繋靭帯炎を発症、陣営は引退させず復帰を模索し、村下牧場で治癒が図られた[7]。1979年夏には良化して、栗東トレーニングセンターに戻ることができた。しかし、再び繋靭帯炎が再発。高知県桂浜に移動して、治癒を試みたが完治することなく、1980年3月に競走馬を引退することが決定した[7]。 繁殖牝馬時代引退後は生まれ故郷の村下牧場で繁殖牝馬となった。仔出しは悪くなかったが、産駒で中央勝ちは1頭と成績的には厳しかった。誕生日を翌日に控えた1993年4月7日、出産直後に動脈瘤破裂のため急死した。牝系子孫にも目立った活躍馬は出ないまま、途絶えてしまった。 競走成績以下の内容は、netkeiba.com[8]およびJBISサーチ[9]の情報に基づく。
血統表
脚注注釈出典
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