主計局
主計局(しゅけいきょく、英: Budget Bureau)は、中央省庁である財務省の内部部局の一つ。 概要国の予算の編成、決算の作成、会計制度の企画立案を主な業務としている。 予算編成を司っていることから、霞ヶ関の中央省庁に対し圧倒的な力を持っているといわれている。主計局は他省庁のワンランク上の者と対等の場で交渉することが認められており、例えば主査(課長補佐クラス)は他省庁の課長と、主計官(課長クラス)は他省庁の部長・審議官と、次長は他省庁の局長と、局長は他省庁の事務次官を交渉相手にすることが通例になっている[1][2]。財務省主計局長を除く省庁の官房長・局長・政策統括官が指定職5号俸または4号俸であるのに対し、財務省主計局長のみが指定職6号俸である[3]。 歴史1886年(明治19年)1月、調査局を改称して創設[4]。国の予算編成、施行状況の監査、決算、会計制度の立案などを業務とした。各省が主計局に対して歳出概算書を提出して予算の要求を行い、これに対して歳出概算書と主税局の提出する歳入概算書とをあわせて、各省の要求を査定するというのが、通常の予算の編成方式であった(主計局中心主義)。また、閣議で大蔵省案の内示後、各省が復活要求を行い、査定案を練り直した後に閣議に再度諮っていた。しかし、1933年(昭和8年)8月の満洲事変以後、軍事費の優先的査定とその要求額の増加が容認されるようになり、陸軍省・海軍省以外の各省の行政費は徹底的に削減され、新規要求はほとんど認められなかった[4]。各省予算の要求が行われる前に大蔵省主計局長、主税局長、理財局長の三局長が陸海軍省に赴き、軍部に対して事前に歳入、歳出、公債の発行状況を説明し、陸海軍は、作戦計画、軍備について大蔵省の了解を求めるようになった。当局者は、陸海軍省予算係官、参謀本部の軍備予算担当者と個別的折衝を行い、折衝後、各省の予算概算の査定が行われた。また、国策統合機関として権限強化を目的として、1937年(昭和12)10月に企画院が設置されると、総動員計画の遂行上、各省および主計局に対して「予算統制事項」の実行に関する指示を行ったため、予算編成機関である主計局との間で権限争議を展開することとなる。さらに戦時財政遂行の過程で、1941(昭和16)年度から重要政策に関する予算措置の採否は、閣議において最後的折衝を行った後に決定することとなった。閣議中心主義が強まり、1942年(昭和17年)7月、主計局の4課(予算課、決算課、調査課、法規課)は改正され、予算編成を統一的に担当してきた予算課は廃止、予算調整の統括は主計局長のもとで行われるようになり、各省所管の一般会計および特別会計の予算および決算に関する事務は、第一課から第四課までの各課で各省別に分割して取扱われるようになった。1944(昭和19)年6月には、各課で担当していた各省所管の一般会計および特別会計の予算・決算事務は第一課にまとめられ、総合的に扱われるようになる[4]。 組織
主計局長現職
歴代
主計局次長歴代
席次
その他幹部
予算編成と主計局の1年のサイクル通常、6月末の経済財政諮問会議における骨太の方針策定を経て7月、予算要求の基礎となる概算要求基準が閣議決定される。これを基にして8月末日、各省庁の概算要求が財務省主計局に提出される。 9月1日より、主計局が中心となって予算編成が始まる。まず各省庁の担当者による概算要求の説明が行われ、一項目ごとに確認を行う。11月頃に説明がすべて終わると、各課の主計官と主査全員で要求額ひとつひとつを査定し、最終的に主計局長が加わって局議を行い、12月上旬に予算編成大綱が閣議決定される。近年は論点となるような予算はこの時点で事前大臣折衝で修正が行われ、12月20日ころに財務省原案が内示される。ここから更に大臣折衝を経て、24日頃に正式の予算案が決定、翌年1月下旬に国会に提出される。主計局はこの期間が最も忙しく、12月には昼間は業界団体や国会議員の陳情の対応に追われて仕事にならず、必然的に徹夜、泊まり込みが続くことになる。 なお、審査を直接担当する主査は課長補佐級であるにもかかわらず、審査を受ける各省庁の担当者は、企画官・室長〜課長級の者が務める。 実質的には下位者が上位者に対して厳しい審査を行うのであり、職級の高低と年次の長幼を絶対的に重んじる中央省庁では異例のことであり、主査が課長に対して「あんた」呼ばわりをするのも当たり前である。 財務省の格の高さを見せつけ、各省庁に対して絶対的な服従を強いるための大切な作法とされている[要出典]。 脚注注釈
出典
参考文献
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