全日本プロレス中継
『全日本プロレス中継』(ぜんにほんプロレスちゅうけい)は1972年10月7日から2000年6月21日まで日本テレビで放映されたプロレスの実況中継番組。全日本プロレスの試合を中継していた。 番組の放送時間が1時間から30分間に縮小したことに伴い、タイトル表記が『全日本プロレス中継30』となった時期もあったが、後に放送時間は30分間のままで、従前の『全日本プロレス中継』に戻った。 オープニングテーマは『日本テレビスポーツのテーマ』。 番組の歴史前史元々日本テレビでは1953年の開局以来、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木らを中心とした日本プロレスの試合を、『三菱ダイヤモンドアワー・日本プロレス中継』などのタイトルで放送していた。その後NET(現:テレビ朝日)もプロレス中継に参入することになるが、日本プロレスは先行の日本テレビに配慮して「馬場及び坂口征二の試合を放映しない」「ワールド大リーグ戦の試合を放映しない」「インターナショナルヘビー級選手権試合およびインターナショナルタッグ選手権試合を放送しない」ことを条件にして参入を認め、1969年より2局放送体制となるが、人気No.1の馬場の試合を中継できないNETは『NETワールドプロレスリング』の番組名で、No.2である猪木や大木金太郎らを中心とした番組を組んだ。 だが同番組におけるメインイベンターであった猪木が、1971年12月に日本プロレスを除名され、日本プロレスはNET向けのエースとして猪木に代わって坂口を起用するも、猪木時代のような視聴率をとれずに低迷、それを理由にNETテレビが馬場の試合中継を日本プロレスに要求し、馬場の試合を放送すれば放映権料をアップするが、拒否すれば放送を打ち切るという強硬手段に出る。 かねてから日本テレビは馬場に対して「あなたがNETに出たら、ウチと日本プロレスの関係は終わりだ。NETには出ないでくれ」と念を押しており、日本プロレスに対しても、馬場の試合をNETでは放送しないよう警告していたが、それに対して「馬場の試合をNETで放送しても、日本テレビ自体での視聴率も高いので、日本テレビが放送を打ち切ることはないだろう」「強行突破してしまえば、日本テレビも文句を言えまい」という意見が日本プロレスの役員会で大勢を占め、その結果、日本プロレス役員会は役員の一人であった馬場の反対を押し切ってNETにおける馬場の試合中継を認め、反対した馬場も「会社が決めたことだ。欠場だけは許されない」としてNETへの登場を決断し、NET中継をつなぎ止めるため、最終的に日本プロレスはNETの要求を飲むことを決め、1972年4月3日放送の『NETワールドプロレスリング』新潟市体育館大会の実況生中継に馬場を出場させた。 当初の約束を破り、なし崩し的にNETで放送された坂口の試合やワールドリーグ公式戦は渋々認めた日本テレビだが、馬場の試合中継だけは行わないように警告したにもかかわらず、試合中継を認めた日本プロレスの行為に、日本テレビと『日本プロレス中継』のスポンサーである三菱電機が激怒。契約更改を行わないまま、同年4月7日以降も『日本プロレス中継』を放送していた日本テレビは三菱電機との協議の末、同年5月15日の記者会見において同年5月12日放送分の東京都体育館大会(「第14回ワールドリーグ戦決勝戦」である馬場VSゴリラ・モンスーンなどを放送)をもって『日本プロレス中継』を打ち切ることを正式発表した(1972年5月19日以降は『日本プロレス選手権特集』として過去の名勝負集を同年7月14日まで放送)。こうして日本テレビは1972年3月31日限りで日本プロレスとの放送契約を解除し、放送契約は事実上NETとの独占契約となった。 NETテレビ中継への馬場登場直後から日本テレビは、原章プロデューサー(後に日本テレビ運動部長、福岡放送社長)が懇意だった猪木が旗揚げした新日本プロレスの中継放送開始を計画し、新日本プロレスも交渉に応じようとした。計画では、『日本プロレス中継』を打ち切った上で、1972年夏から新日本プロレス中継を開始する計画だった[1][2]が、最終的に日本テレビは三菱電機との協議の末、同年5月12日放送分を以って『日本プロレス中継』を打ち切り、1972年5月19日から7月14日までつなぎ番組として『日本プロレス選手権特集』を放送することにした[3]。『日本プロレス選手権特集』の後番組はドラマ『太陽にほえろ!』となったため(同時に1972年7月15日から日本テレビにおけるプロレス中継が初めて空白となった)、日本テレビにおける新日本プロレス中継放送計画は頓挫した。 しかし、プロレス中継の視聴率自体は高かったため、『日本プロレス中継』終了直後から当時の小林與三次社長が、日本プロレスやNETに極秘裏に馬場がエース格となる新団体を設立するという裏工作を指示し[4]、これを受けて馬場に接触し、馬場に日本プロレスからの独立と新団体設立並びに日本テレビでの中継を持ちかけ、「旗揚げに対しての資金は全て日本テレビが負担する」「放映権料も最大限用意する」「馬場がいる限り、プロレス人気が下火になっても放送は打ち切らない」等の好条件を提示した[5]。 NETテレビ中継への自分の登場に反対していた馬場は、日プロ経営陣への不満もあって日本テレビの提案に同意し、1972年の「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」開幕前に最終合意に至った。馬場はNETテレビが金曜20時台でも日本プロレス中継(『NET日本プロレスリング中継』)を開始した翌日である1972年7月29日に赤坂プリンスホテルにおいて、「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」終了(最終戦は8月18日に行われた宮城県石巻市中央広場大会)をもって日本プロレスを退団する記者会見を行った。会見で馬場は、「日本プロレス界は、力道山の熱意、正力松太郎読売新聞創設者の英断、三菱電機関・大久保社長の支援などにより、今日の隆盛を見るに至った。日本テレビの電波によって、今日の人気と地位を獲得できた。私馬場正平は、日本テレビに出るべく、日本プロレスを退団するに至った」「新団体を設立し、日本テレビのブラウン管に乗りたい」などと会見した[1]。 馬場は同年9月9日、自身がエース兼社長を務める全日本プロレスの創立会見を行い、同月18日には旗揚げシリーズの概要が発表された[6]。外国人招聘ルートの確保に関しては、ロサンゼルスのミスター・モトは当初「日プロと全日本の両方に選手を派遣してもいい」と馬場に伝えていたが、最終的に日本プロレスからの圧力と妨害工作により全日本へのブッキングを断った[7]。後に強固なパートナーシップを築くフリッツ・フォン・エリックのテキサス東部(ダラス地区)のルートも、この時点では日本プロレスとの提携関係が続いていたため見送りすることとなった[7]。最終的にはアマリロ地区にマシオ駒と大熊元司が遠征していた縁故もあり、当時NWA内で多大な発言力のあったドリー・ファンク・シニアのテキサス西部ルートを確保した[7]。駒から全日本プロレスの概要を聞かされたファンク・シニアは「俺が選手を送ってやろう。NWAのメンバーに入れてやると馬場に伝えろ」と答え、外国人選手のブッカーを買って出ており、すでに日本プロレスが加盟済みで「一つの地区に一人のプロモーター」が原則であるNWAのルールを変えてまで強引に馬場のNWAへの加盟を押し進めるなど全面的に協力している[7]。また、馬場のアメリカでの武者修行時代に構築された人脈もあり、馬場の親友であるブルーノ・サンマルチノも全面的な協力を約束し、そのラインでWWWFとも友好関係を築いた[8]。後にWWWFは新日本プロレスと業務提携を結び、全日本プロレスとは疎遠になるが、サンマルチノとの個人的な交流は続き、新日本プロレスとの提携後も新日本への出場を拒否し、全日本プロレスへ出場し続けている。 なお、新日本プロレス中継は東京12チャンネル(現:テレビ東京)における単発放送を経て、NETが1973年4月6日に『NET日本プロレス中継』を打ち切り、新日本中継に変更した上で『ワールドプロレスリング』に再改題して再スタートしている[1]。 土曜20時枠時代1972年10月、新番組『全日本プロレス中継』が毎週土曜日の20:00 - 20:55(1975年10月より20:00 - 20:54)に放送されることとなると同時に日本テレビにおけるプロレス中継が3カ月ぶりに復活した。当初は全国29局ネットで開始し、ネット局に関しても、『日本プロレス中継』を放送していた局の内、『日本プロレス中継』をもって日本テレビ系プロレス中継のネットを打ち切り、かつ『NET日本プロレスリング中継』も放送していた静岡放送(TBS系列、本番組は1974年4月にテレビ静岡(フジテレビ系列)で放送開始)と本番組開始直前に土曜20時台が日本テレビ同時ネット枠からNET同時ネット枠に変更された名古屋テレビ(当時は日本テレビ系列・NET系列、現在はテレビ朝日系列。これにより本番組は『NET日本プロレスリング中継』も放送していた中京テレビでの放送となった[注 1])以外の各局を引き継いだ。同時ネット局の数においても、『NET日本プロレスリング中継』への一元化によって同時ネット局が6局にまで減少した日本プロレス中継を圧倒することになった[注 2]。 第1回(10月7日)当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「お待たせしました! リングの王者ジャイアント馬場日本テレビに再登場! いよいよ今夜8時」「18年の歴史を誇る日本テレビ全日本プロレス中継」[3][注 3]と謳われていたように、日本テレビにおける馬場の試合中継並びに、日本テレビにおけるプロレス実況中継が5か月ぶりに復活する事をアピールした。第1回(10月7日[注 1])は「海外遠征第一戦『G・馬場対ザ・シーク』」(1972年9月20日、ホノルル)、第2回(10月14日)は「G・馬場アメリカ転戦記」と題し、団体旗揚げ前の馬場が、アメリカ遠征で行った試合の模様(一部、馬場以外の所属選手も含む)を放映。第3回目となる10月21日の「ジャイアントシリーズ前夜祭」(東京都町田市体育館)の生中継から、正式に新団体の中継放送に入り、翌10月22日に行われた旗揚げ第1戦である「'72ジャイアント・シリーズ」開幕戦日大講堂大会は10月28日に録画中継された[9]。外国人選手は、馬場の人脈を利して一流外国人を招聘することになり、「'72ジャイアント・シリーズ」にはサンマルチノ、フレッド・ブラッシー、テリー・ファンク、ドリー・ファンク・シニア、ダッチ・サベージなどを、次期シリーズの「'72ジャイアント・シリーズ第2弾」では、ザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、サイクロン・ネグロ、ルーファス・ジョーンズなど、日本プロレスでの実績がある外国人選手を招聘。同時期に開催された日本プロレス「第3回NWAタッグ・リーグ戦」に参戦したワルドー・フォン・エリック、ダニー・ホッジ、ネルソン・ロイヤル、次期シリーズの「'72インターナショナル選手権シリーズ」に参戦したジン・キニスキー、ボボ・ブラジル、キラー・カール・コックス、ザ・ストンパーなどにも引けを取らないメンバーを揃えた。 創立初期は、国際プロレスとも協力関係を築き、日本陣営に国際プロレスから移籍したサンダー杉山やザ・デストロイヤーを参加させたり、国際プロレスの選手を出場させるなど、選手の拡充を図った。日本プロレスの興行をプロモートしていたプロモーターも、旗揚げ以前から全日本プロレスへ鞍替えしたプロモーターも少なくなく[10]、それ故に創立時から、本番組開始を境に弱体化が進行していた日本プロレスを尻目に、1973年3月までテレビ中継がなかった新日本プロレス同様に全国各地で興行を打つようになっていった。 1973年2月3日にはNWAの正式加盟が認められた[8]。日本陣営では、鶴田友美(ジャンボ鶴田)、天龍源一郎などといった、話題性のある大型新人を、積極的にデビューさせていった。1973年6月に同年4月に崩壊した日本プロレスの残党が合流した他、1974年3月には国際プロレス中継番組であった『TWWAプロレス中継』(TBS)を打ち切られた国際プロレスと正式に提携した。 都内におけるビッグマッチは、初期は主に日大講堂を使用していた。全日本が日大講堂をビッグマッチ会場とした理由は、日本テレビと日大講堂との間でボクシング中継に関する包括契約が締結されていたためである[11]。日大講堂における全日本プロレスの興行は、日本大学が日大関連の行事以外の使用中止を通告した1977年3月まで続けられた[12]。 1970年代から1980年代にかけては「プロレスの本場」としてのアメリカや、NWAの権威や地位などがまだまだ保たれていた時代であり、そのまま実質的に日本で唯一のNWA加盟団体であった全日本の強味となっていた。NWAなど数々のメジャーなタイトル戦の開催や、NWA公認の数多くのタイトルの新設(もしくは復活)、そしてNWAvsAWAの世界ヘビー級ダブルタイトル戦などアメリカでも実現不可能といわれた豪華な企画やマッチメイクが出来たのは、まさに当時の「馬場・全日本」だからこそ成し得たものだった。 こうした豪華でグローバルなイメージは、テレビマッチのラインナップにも強く反映され、海外の試合(主に所属選手の海外遠征時の試合。NWAエリアが多かった)も数多く放映された。1974年9月には東京12チャンネルにて『国際プロレスアワー』が開始し、国際プロレス中継が復活したが、『国際プロレスアワー』はネット局が少なかったため、ラッシャー木村やグレート草津などの国際プロレス所属選手の出場試合は、大部分の地域では本番組でしか視聴できなかった他、馬場VS国際プロレス所属選手の試合、1975年に開催された「オープン選手権」は基本的に日本テレビの独占中継となるなど、馬場と日本テレビは、国際プロレスと東京12チャンネルに対する影響力も強めていった[13]。 なおこの時期、4~10月まではプロ野球ナイター(読売ジャイアンツ主管試合中心)が編成・開催された場合は野球を優先したため、23:45-24:40に繰り下げ(雨天中止の場合は定時通り)して放送が行われた。(後述参照) 視聴率は、開始当初の半年間は『NET日本プロレスリング中継』よりも上回る週もあった[14]。しかし、1973年4月以降は、プロ野球中継放送の場合は深夜に時差放送されていたことや、裏番組でなおかつ30%以上の高視聴率を叩き出していた『8時だョ!全員集合』(TBS)や、1975年4月より放送が開始された『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ)の影響で苦戦が続き、実力世界一路線や猪木とタイガー・ジェット・シンとの抗争で人気を博し、かつ視聴率が20%以上をたたき出していた『ワールドプロレスリング』を下回る週が多く[15][16]、1973年7月 - 9月の土曜20時台に放送されたときの視聴率は7%~9%といった有様で、同年8月には4%の回もあったという[16]。また、初期の日大講堂における興行も閑古鳥が鳴く有様だった[12]。テコ入れ策として、1973年10月にはアントン・ヘーシンクをデビューさせたり(同年11月24日のデビュー戦の視聴率は約18%)、1977年には「世界最強タッグ決定リーグ戦」の前身にあたる「世界オープンタッグ選手権」を開催したが、優勝決定戦の視聴率は15.9%に終わった他、翌1978年には11月25日に開催された国際プロレス「日本リーグ争覇戦」蔵前国技館大会の実況生中継を放送したり、第1回となる「世界最強タッグ決定リーグ戦」を開催したものの、最終的に視聴率アップには繋がらなかった[15][16]。全日本プロレスと国際プロレスとの関係も、「日本リーグ争覇戦」蔵前大会当日に新日本プロレスのストロング小林と小林邦昭が、1978年12月16日開催の新日本プロレス「プレ日本選手権」蔵前大会に木村、アニマル浜口、寺西勇、吉原功代表がそれぞれ登場したことから全日本プロレスと国際プロレスとの不協和音が発生。これに伴い、全日本と国際との提携は1978年を以って終了した。 1979年4月の日本テレビの大幅改編に伴い、土曜20時枠の放送は同年3月31日の新潟県三条市厚生福祉会館大会(「'79チャンピオン・カーニバル」第25戦)の生中継をもって終了した。 土曜夕方枠へ - ゴールデンタイム復帰1979年4月7日からは土曜17:30 - 18:24のローカルセールス枠に変更され(ローカル枠変更初回の放送は前日4月6日に秋田県立体育館で行われた「'79チャンピオン・カーニバル」優勝決定戦〈鶴田VSブッチャー〉の録画中継)、同時に『日本プロレス中継』から続いてきたスポンサー付横幕や提供スポンサーによる読み上げがなくなり、基本的に録画中継に変更された。当時の日本テレビの17時台枠の視聴率の合格ラインは、ゴールデンタイムで放送されていた『国際プロレスアワー』と同様の7〜8%に設定していた[17]。 この時期から、スタン・ハンセンやハルク・ホーガンなどのWWF勢の活躍や、初代タイガーマスクの登場によって新日本の人気がさらに上昇した。1981年には日本テレビにおけるインターナショナル・ヘビー級選手権試合の放送も『日本プロレス中継』打ち切り以来9年ぶりに復活した[注 4]。同時にブッチャーを引き抜いた新日本への報復で、全日本と日本テレビはシンとハンセンの引き抜き工作を開始し、全日本は最終的に両者を引き抜いた[15]。 しかし、土曜夕方枠へ移動後に全日本の経営が悪化したことから、日本テレビから役員が送り込まれ、松根光雄が代表取締役社長となると同時に馬場は代表取締役会長へ退いた上で、経営の立て直しが急務となった[15]。これにより、マッチメイクの見直しが行われることと同時に、現場責任者に馬場からの信頼が厚かった佐藤昭雄を指名。鶴田と天龍の2人を二枚看板とし、年功序列のマッチメイクもやめ、越中詩郎や三沢光晴、国際プロレスから移籍した冬木弘道などの若手育成に努め、1983年2月のザ・グレート・カブキ登場で、「'83エキサイト・シリーズ」は2月シリーズ初の黒字を達成した[15]。 1980年代前半には正月や『土曜トップスペシャル』の枠において、大規模大会においてゴールデンタイムの特番が数回組まれたことがあり、生中継で放送されたこともあった。『土曜トップスペシャル』では、1983年2月26日のハーリー・レイスVS馬場のPWFヘビー級王座戦(2月11日のセントルイス・チェッカードームからの録画放送。馬場が奪回に成功)が16.4%、1984年2月23日のニック・ボックウィンクルVS鶴田のAWA世界ヘビー級王座戦(蔵前国技館からの生中継。鶴田が奪取に成功)が14.9%、同年3月24日の馬場VSハンセンのPWF戦および鶴田VSボックウィンクルのAWA世界戦(蔵前国技館からの生中継)が16.5%と高視聴率を記録している[18]。 その一方、1980年代中期には全日本とジャパンプロレスとの業務提携や、木村の参戦に伴う国際血盟軍結成によって、日本人同士の抗争という新機軸も盛り込んだことで、現場は再び馬場が仕切るようになり[19]、ジャパンプロレス勢の全日本参戦やロード・ウォリアーズ登場に伴い、新日本や『ワールドプロレスリング』は新日本における日本人大量離脱やWWFとの提携解消、テレビ朝日の不振で人気や視聴率が低下していき、同時に全日本の人気も上昇していった。 一方で1985年3月には、新日本が一連の引き抜き戦争の報復としてブルーザー・ブロディを引き抜いたと同時に、ハンセン&ブロディのミラクルパワーコンビが解消したものの、全日本の人気が揺らぐことはなかった。同時期には前年に失踪した阿修羅・原が、テレビ中継が行われていた会場で、長州力を襲撃する行動に出る。長州に対する襲撃として、最初のターゲットを1985年4月3日開催の山形県体育館で行われた長州VS石川敬士に定め、石川に対してサソリ固めをかけた長州をウェスタンブーツで殴打[20][注 5]。2度目のターゲットとして、同年4月19日開催の神戸ワールド記念ホールで行われた長州&アニマル浜口VSディック・スレーター&ボブ・ブラウンに照準を定め、試合終了後に乱入してまたもや長州を挑発[20]。同年4月24日開催の横浜文化体育館にて、天龍とタッグを組み、長州&浜口と対戦したが、天龍を椅子で攻撃した後にそのまま試合放棄(天龍は、原のピンチヒッターに大熊元司を指名)。大熊も、同年5月19日開催の北海道網走市民総合体育館大会で原と対戦したが、後に「ヒットマン・ラリアット」と呼ばれることになるラリアットで秒殺された[21]。これらの模様はいずれも録画中継され、原は「ヒットマン」と呼ばれることになる。 この時期からゴールデンタイム復帰を見据えた動きがみられるようになり、1985年3月9日には、前日に行われた千葉県船橋市民体育館大会をレギュラー枠にて録画中継した他(ウォリアーズVS浜口&キラー・カーンなどを放送)、両国国技館におけるプロレスこけら落とし興行(鶴田&天龍VSウォリアーズのインターナショナル・タッグ王座戦と長州&谷津嘉章VSブロディ&キラー・ブルックスなどを放送)を『土曜トップスペシャル』にて実況生中継した。当日の視聴率は、船橋大会が13.6%と視聴率の合格ラインを大幅に突破したが、両国大会は10.9%に終わった[22]。同年6月21日には、1977年5月14日開催の「第4回チャンピオン・カーニバル」以来8年ぶりに日本武道館大会を開催。その模様は翌6月22日にレギュラー枠と『土曜トップスペシャル』にて録画中継された[23]。 1985年8月、日本テレビは本番組を10月19日より土曜19:00 - 19:54枠で6年半ぶりにゴールデンタイムへ復帰させることを発表した。発表記者会見には、全日本勢だけでなく長州を始めとしたジャパン勢も共に出席。日本人抗争をゴールデン復帰の切り札や売り物にしようとした思惑が窺えた。しかし、ゴールデンタイムへの復帰は必ずしも長州らの参戦が決め手となったわけではなく、前述の『土曜トップスペシャル』での実績が試金石になったと、当時の番組プロデューサーだった日本テレビの原章は語っている[18]。 ゴールデン復活第1回は、1985年10月19日に行われた「ワールド・チャンピオン・カーニバル」第12戦である後楽園ホールからの生中継であった。この時期から本番組は『ワールドプロレスリング』よりも視聴率で上回るようになっていた他、日本テレビ系新局開局などによる放映権移行などで、同時ネット局は土曜20時台時代よりも多くなっていた。 ゴールデンタイムに復帰後は、翌年の1986年に輪島大士をデビューさせ、1986年11月1日に石川県七尾総合市民体育館から生中継された輪島のデビュー戦は17.1%という視聴率を記録した[19]。輪島やジョン・テンタの大相撲出身者が全日本に入団したことが引き金となり、同年11月に日本相撲協会から全日本に対し両国国技館の無期限使用禁止を通告したが、全日本は日本武道館を都内のもう一つのビッグマッチ会場としていたため影響は受けなかった。同年4月にはカルガリーハリケーンズの試合の放送が解禁された。ブッチャーとブロディも1987年に全日本へ復帰したが、同年にはジャパンプロレスも分裂し、長州など一部選手が新日本へ復帰した。 1987年4月以降は『ワールドプロレスリング』が『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』にリニューアルされ、録画中継に移行したことに伴い、本番組が唯一実況生中継されるプロレス中継番組となったが、1988年3月26日の「'88チャンピオン・カーニバル」開幕戦である茨城県古河市立体育館大会の生中継を以って、土曜19時枠の放送並びに生中継も終了した。古河大会の翌日である3月27日の日本武道館大会は、鶴田VSブロディのインターナショナル・ヘビー級王座戦と天龍VSハンセンのPWFヘビー級王座戦&ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座戦が行われる事になっており、その矢先でのゴールデンタイム再撤退となった。 ローカル枠・プライムタイムへの移行、そして深夜枠へジャパンプロレス崩壊後でなおかつ「'88チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の1988年4月からは日曜22:33 - 23:26(22:30 - 22:33は予告番組)に放送時間が変更されたと同時に、以降は再度ローカル枠での放送と同時に録画中継となり、再度プロ野球中継で放送時間が左右されることも無くなった(プロ野球中継延長の際は放送時間繰り下げ)。同時期に土曜夕方に移行した『ワールドプロレスリング』共々ゴールデンタイムや実況生中継で放送されるプロレス中継は消滅した。しかし、「'90チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の1990年4月に、海外ドラマの放送を2年ぶりに再開したため、放送時間も日曜24:30 - 25:25に変更された。 しかしながら馬場をはじめ、三沢、川田利明、田上明、小橋健太のプロレス四天王や秋山準、高山善廣といった、後年団体を牽引する選手たちをこの番組から育て上げた。また、日本武道館における興行も1989年以降は札止めが続き、1990年には天龍や谷津嘉章などの大量離脱があったものの、巧みなマッチメイク、木村のマイクパフォーマンス、「プロレスニュース」で番組を乗り切った。 馬場自身は、第一線を退くとともに、解説者として放送席に座ることが多くなった。 放送時間短縮 - ジャイアント馬場の逝去放送時間は長らく1時間枠だったが、「'94チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の1994年4月2日からついに土曜26:35 - 27:05の30分枠に短縮され『全日本プロレス中継30(通称:プロレス30)』に改題、翌1995年からは、全国ネット中継とは別に、番組収録を行った放送エリアのみで放送する系列局限定中継も開始された。最後まで系列外ネットを継続していた宮崎放送と琉球放送(いずれもTBS系列)における放送も同時期に打ち切られ、以降は日本テレビ系列局のみでの放送となった。馬場が亡くなる直前の「'98世界最強タッグ決定リーグ戦」の優勝戦から、ビッグマッチは通常の30分枠を15分拡大し、45分枠での放送形態をとった(馬場追悼特集や東京ドーム大会は60分枠)。また番組内容も、タイトルマッチへの流れ・闘いの状況等をまとめたVTRを多用したり、画面右上にテロップが表示されたりと工夫が見られてきた。この頃から若林健治や竹内宏介等、かつての実況・解説者も復帰したが、馬場が1999年1月に結腸癌のため永眠した。 全日本プロレスの大量退団と番組の終焉ジャイアント馬場の逝去後、全日本プロレスは三沢を社長に就任するものの、馬場の未亡人である馬場元子との対立が表面化するようになる。「2000チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の2000年4月5日から放送時間を日曜24:55 - 25:25から水曜25:45 - 26:15に変更したと同時に、日本テレビのプロレス中継では『日本プロレス選手権特集』以来、27年9か月ぶりに平日での放送となった。しかし、同年に発生した「2000スーパー・パワー・シリーズ」終了直後における三沢の社長解任と全日本プロレスの大量退団騒動を端に、日本テレビは2000年6月19日に本番組の打ち切りを正式発表し、2000年6月21日の放送を以って27年9か月の歴史に幕を閉じた。 なお45分枠で放送された最終回では、番組名は『全日本プロレス中継』でありながらも、放送内容は三沢をはじめとする退団選手達の新団体旗揚げ記者会見がメインという放送であり、『全日本プロレス緊急拡大スペシャル』のサブタイトルを加えて放送された[24]。その新団体たるプロレスリング・ノアには、元日本テレビの大八木賢一も専務取締役として在籍しており、このことからもノアと日本テレビが当時から密接な関係だったことが窺い知れる。なお最後の試合中継は大量退団騒動直前の同年6月9日に行われた「2000スーパー・パワー・シリーズ」の最終戦である日本武道館(世界タッグ王座決定戦〈川田利明&田上明vs大森隆男&高山善廣〉など)からの録画中継であった。 本番組の27年9か月という放送期間は、1954年2月から2009年3月まで放送されていた日本テレビのプロレス中継の歴史の中でも最長寿であった。 放送終了後日本テレビはその後退団選手達が設立したノア側に付き、ノアが軌道に乗るまでの2000年6月28日から2001年3月までの約9か月間はプロレス情報番組『コロッセオ』でつないだ後、同年4月からは『プロレスリング・ノア中継』に正式に移行した。 日本テレビは打ち切り後も全日本の試合を『コロッセオ』内でダイジェストの形で放送しようと計画したが、「日本テレビさんとはまだ、解決すべき問題が残っている」と、馬場元子や渕正信などの残留派から猛反発を買い、「ジャイアント馬場3回忌興行」まで取材拒否を受けることになる。ちなみに日本テレビは本番組打ち切り当時、15%の全日本プロレスの株式を保有していた[注 6]。 離脱してノアに移籍した選手は、本番組終了10日後である2000年7月1日に開幕した「2000サマー・アクション・シリーズ」の4大会に興行の関係上(4大会とも、地元のプロモーターが全日本から興行権を購入して主催する売り興行)出場したが[注 7]、テレビマッチではなく、日本テレビでは中継されなかった。 本番組終了並びに大量離脱後における全日本プロレスの地上波中継は、テレビ朝日で2001年6月24日に「全日本プロレス中継」(関東ローカル)が、テレビ東京で2004年4月から2005年3月まで『プロレスLOVE 夜のシャイニング・インパクト』が、千葉テレビで2007年4月から2013年12月まで『全日本プロレス マザー』がそれぞれ放送された。テレビ朝日での放送は通常の『ワールドプロレスリング』に続けて放送され、三冠ヘビー級選手権「王者天龍源一郎vs挑戦者武藤敬司」、川田利明vs天山広吉のシングルマッチが放送された。後の2番組は本番組とは異なりテレビ東京・千葉テレビは制作には関与せず、映像はGAORAやFIGHTING TV サムライから提供を受け、全日本による番販(持ち込み)方式を取っていた。 2022年9月18日、全日本プロレス50周年日本武道館大会をBS日テレにて生中継されることとなった[25]。BS日テレでのプロレス中継は初で、日本テレビが関わる全日本プロレスの中継は「ジャイアント馬場3回忌興行」以来21年ぶりとなる[26][27]。 プロレスニュース福澤朗が実況を担当した1990年代前半には、中継を行わなかった試合の結果や関連情報を伝える「プロレスニュース」というコーナーがあった。後に「プロレスニュースプラス1」と改め、1994年まで続いた。 スタートのきっかけは、本番組が1990年4月に日曜深夜枠に移動した際、「日曜の深夜って、誰も見ない枠だよなってことで、いい意味で引っかかってもらえるようなことをやろうじゃないか」という発想からスタートした[28]。当初は『ニュースプラス1』『NNN昼のニュース』『NNNきょうの出来事』などで使われていた報道スタジオから伝えた。これは正式なスタジオ使用許可を得たものではなく、ニュースが放送されていない時間にスタジオに入り、常駐しているカメラマンに撮影を頼み、ゲリラ的に収録されていた。しかし、半年後に日本テレビ報道局にその事実が露見して報道スタジオを締め出され、以後は別のスタジオでプロレスニュース専用のセットを背景にして放送した[29]。 「プロレスニュースプラス1」とタイトルを改めてからは主に試合会場、中継が行われる地方都市に所在する観光スポット(岩手県営体育館で行われる大会の中継協力局だったテレビ岩手の近くにある盛岡城址公園など)、当時の日本テレビ麹町本社の敷地内、移動中のバスなどで、福澤が自分でデスク(=画板)を持って伝えるロケ方式に変更されている[注 8]。福澤が事情[注 9]で担当できない場合は、臨時で若林健治や金子茂など、他のプロレス実況担当アナウンサーが代わりに担当した。デスクにはネームプレートが付いていたが、福澤や金子などは漢字表記だったのに対し、野口敦史だけは手書きのひらがな表記となっていた。 「プロレスニュース」は「プ・プ・プ、プロレスにゅ~す」という福澤のタイトルコール[注 10]で始まり、選手のコメントを福澤がものまねで代読[注 11]したり、福澤がザ・デストロイヤーの覆面をかぶって「福澤デストロイヤー朗」と名乗って登場したり、あまり注目を集めていない外国人選手を面白おかしくプッシュする、「どぉ~ですか!?」というくだりから始まるなど、くだけた感じの進行だった。福澤自身は、「プロレスニュース」のことを「前衛的ミニコーナー」と表現していた(「週刊プロレス」リレーコラムより)。 「プロレスニュース」に対し、馳浩(当時新日本プロレス)が「プロレスを馬鹿にしている。許せない」「ぶん殴ってやる。あのアナウンサーあまりにもふざけすぎだよ」と息巻いていた[注 12]。また若林健治は初期の代理出演の際、「私はこの『プロレスニュース』 が嫌いです、大嫌いです、誰が何と言っても嫌いです! 身内からも賛否両論、…『プロレスニュース』をお伝えしました」と、コーナーを締めくくったことがある。 1994年最初の「プロレスニュースプラス1」では、冒頭部分のみ本家のキャスター(桜田順子・真山勇一)と共演した。 「プロレスニュースプラス1」は、1994年3月の放送時間短縮時に終了する。その最終回は福澤アナが「『プロレスニュース』に否定的な熱烈的プロレスファン」に刺され、「いつか、こんな日が来ると思ってたぁ…」と言うシーンで終了という、前述のような状況を茶化した(当然スタッフとの寸劇で、演技もわざと下手に行っていた)、いかにもプロレスニュース的な幕引きであった。 なお、本番組で放送された「プロレスニュース」の一部は、後述の『日テレプロレス中継アーカイ部』にて配信されている。 1997年に「プロレスニュースリターンズ」という形で一時復活したが、本放送では数回のみで自然消滅した。2023年1月27日に開催された「爆音! 日テレプロレス超名画座 ~重低音ストンピング祭り!~」に合わせ、『日テレプロレス中継アーカイ部』にて「プロレスニュースリターンズ」が復活した。『日テレプロレス中継アーカイ部』版における「プロレスニュースリターンズ」の出演は福澤が担当した[30]。以降も「プロレスニュースリターンズ」は『日テレプロレス中継アーカイ部』にて不定期配信されており、『日テレプロレス中継アーカイ部』版は本番組と同じく福澤がキャスターを担当する場合が多いが、2024年11月10日に開催予定である「日テレプロレス超名画座3」の告知は天龍源一郎がキャスターを務めた。 その他エピソード
主な実況アナウンサー
ローカル局アナウンサーは、主としてその地域で行われた興行の実況を担当する。ただし、山本純也・佐藤啓は、関東地区や札幌など、他地区の試合でも実況を担当した。 主な解説者登場ゲスト
また、1994年3月の「全日本プロレス中継30」移行時の告知に三遊亭楽太郎や円広志が登場した。 スタッフ
ネット局
ネット局に関する備考
一時期他局に移行していた地域地域によっては、一時期他局へ放映権移行が行われ、ネットを開始した放送局に放映権が復帰した地域もあった(太字は一時期ネットした放送局)。大分放送は『ワールドプロレスリング』もネットしていた他、鹿児島テレビは1982年10月の鹿児島放送(テレビ朝日系列)開局まで『ワールドプロレスリング』もネットしていた。
番組スポンサーに関する特筆事項日本プロレス時代のプロレス中継(定期番組)は「三菱ダイヤモンド・アワー」の放送枠(当初はディズニーランドとの隔週)で放送されており、長らく三菱電機の一社提供だった。元々三菱電機は力道山のスポンサーであり、日本プロレス自体のスポンサーでもあった。テレビマッチのメインイベントの前に、三菱電機製の掃除機(「風神」など)でリング上を掃き清めるというスタイルの生コマーシャルが見られたり、実況の合間に「この放送は、皆様ご覧のテレビジョンを始め、数々の電化(家電)製品でおなじみの三菱電機が、全国の皆様にお送りしています」といった旨のアナウンスが入ったのは、この頃の事である。しかし番組の末期には、三菱電機を筆頭スポンサーとしながら、鈴木自動車、さらに久保田鉄工も提供スポンサーに加わっていた。 馬場は日本プロレスからの独立にあたり、日本テレビだけでなく、『日本プロレス中継』の提供スポンサーで日本プロレスのスポンサーだった三菱電機との縁も強く主張したが、新たに始まった『全日本プロレス中継』では、三菱電機が提供に付くことはなかった(金曜8時の三菱アワー枠に残り、後継番組である『太陽にほえろ!』のメインスポンサー<複数スポンサーとの共同協賛>となった)。ただし馬場との個人的な縁、全日本プロレスとの縁は継続され、リング上で渡される花束の提供元が三菱電機だったことも多かった(同じ三菱グループに属する三菱自動車工業は、後年、番組提供スポンサーに付いている)。番組は日鐵サッシをはじめとする複数社による提供(当初は主に金属・工業の企業である大平洋金属や高田工業所、大阪精工などがスポンサーに携わっていた[注 32])となり、それも時代の推移と共に目まぐるしく入れ替わった。 主に1970年代の全日本プロレスでは、「オロナミンC」(大塚製薬)、「酒は黄桜」(黄桜酒造)「ヰセキ」(井関農機)など番組スポンサーをあしらった横幕がリングに張られていた。スポンサー付き横幕は1979年3月まで張られていたが[注 32]、同年4月の土曜17:30枠のローカルセールス枠移動と同時に横幕は「全日本プロレス中継 日本テレビ」→「ALL JAPAN PRO WRESTLING 日本テレビ」に変更された(2000年6月の当番組終了まで)。尚1979年4月以降のマットは、一時期赤青の2色を三角形状に分けたテレビ中継用マットと、青一色の未中継用マットに使い分けていたこともあったが[20]、番組最末期のマットはは青一色となった。1979年4月以降もリングスポンサーがついたケースがあり、1997年の「'97世界最強タッグ決定リーグ戦」は、開幕直前に「全日本プロレス FEATURING VIRTUA」を発売したセガが、「セガサターン」名義でリングスポンサーを務めた。 花束贈呈については、初期のころはダイヤモンドアワーからの名残でメインイベントやオープン選手権(現・チャンピオンカーニバル相当)、世界オープンタッグ選手権(現・世界最強タッグ決定リーグ戦相当)の開会式における選手への花束贈呈の協賛もしており、リングアナウンサーや実況席の解説者・アナウンサーが「この番組の提供スポンサー(1社ずつ読み上げ)より花束が贈呈されます」とアナウンスしていた。時間帯移行後同時に解説者・アナウンサーによる読み上げも廃止された。但し、17:30からの放送となった時のごく一時期に日本テレビ(関東圏のみ)では録画中継である場合に限り当時の実況アナウンサーがスポンサーの提供読みとその日の放送カードの紹介をしていたものもあった。時間帯移行後は「日本テレビ(または日本テレビ、地方協力局)より、花束の贈呈です。」、ゴールデン復活以降は「日本テレビ(または、日本テレビ、地方協力局)ならびに番組のスポンサーより、花束の贈呈です。」と実況アナウンサーより紹介されていた。 余談だが、三菱電機・鈴木・久保田(金8)・三菱自工[注 33]・大塚(土8)とも、プロレス撤退以後の後継番組でも協賛を続けていた。 アーカイブ放送・ネット配信アーカイブ放送は、かつて本番組で放送されたNWA戦などのビッグマッチを、CS放送の日テレジータスにて放送されている。2016年12月までは『プロレスクラシック』(第1期)として放送されていた。2017年1月から本番組のアーカイブ放送の他にも、『プロレスリング・ノア中継』のアーカイブ放送も放送する『プロレス激闘の記憶』としてリニューアルされたものの、2020年に再度『プロレスクラシック』(第2期)へ戻っている。『プロレスクラシック』(第1期)では、2009年3月まで1か月1回更新だったが、諸事情により、4月からしばらくは更新を途絶えていた。しかし、7月からしばらくの間は原則として奇数月に最新作、偶数月に過去放送の番組のアンコール放送を実施していたが、その後1か月1回更新に戻っていた。また全日本プロレスからプロレスリング・ノアに移籍したベテラン選手を特集したもの、日本プロレス中継時代の試合、『NOAH di コロッセオ』の再放送が放送されることもあった。 2020年から、『プロレスクラシック』の新シリーズとして、小橋建太が監修・ナビゲーターの「プロレス伝承人」を務める『プロレスクラシック~伝承~』なるシリーズの放送を開始した。主に小橋・三沢・川田・田上などの「超世代軍」が台頭した平成初期の頃の試合を取り上げている。 共通事項として、1980年代までは一部の試合で生中継や当日録画(日本テレビなど一部の同時ネット局)があるため、部分的に無音になっている個所もある(前述の長州VSマシンのマスク脱ぎのシーンなど)。 日本テレビは2022年5月から、YouTubeチャンネル並びにTikTokにて開始した『日テレプロレス中継アーカイ部』において、本番組の番宣や各大会のオープニング、一部試合のダイジェスト映像(但し入場シーンはカットされている)、ラッシャー木村のマイクパフォーマンス、プロレスニュースなどの配信を開始した他、『日テレプロレス中継アーカイ部』のTwitterも開設された[41]。『日テレプロレス中継アーカイ部』には、本番組の実況を担当していた平川健太郎と菅谷大介も不定期出演している他、諏訪魔など全日本プロレスに所属している選手が出演する事もある。また、『プロレスクラシック~伝承~』の番宣を行う場合もある。 Huluは2022年12月19日から、『日テレプロレス厳選プレミアムセレクション』として、本番組と『プロレスリング・ノア中継』のアーカイブ配信を開始した。毎週月曜日に5試合ずつラインナップが追加され、日本テレビが厳選した50試合を配信する。 TVerと日本テレビの見逃しサービスである「日テレ無料TADA!」で配信されている『神回だけ見せます!』では、前述のブッチャーVSシークと1982年2月4日に東京体育館で行われた馬場VSハンセンの2試合が配信されている。2試合とも解説は佐久間宣行、伊集院光、ユリオカ超特Qの3人が務めている。 CS放送のFIGHTING TV サムライにおいても、『全日本プロレス王道史』→『ボクら全日王道クラブ』[1] が放送された。これは週ごとに年代をおって全日本プロレスの40年を振り返っている番組で、そのため2000年の大量離脱後の試合も放送される場合があった。 脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
|