宮市亮
宮市 亮(みやいち りょう、1992年12月14日 - )は、愛知県名古屋市名東区出身のプロサッカー選手[2]。Jリーグ・横浜F・マリノス所属。ポジションはフォワード(ウインガー、サイドハーフ[3])。元日本代表。 来歴プロ入り前トヨタ自動車野球部でヘッドコーチを務めていた父親と高校時代にやり投で全国ランキング8位の実績を持つ母親との間に生まれた[4]。父親の影響で小学校の途中までサッカーと並行して野球もプレイしていたが、中学進学時にサッカーだけに専念することを選択した[4]。サッカーでは小学3年生の時から地元のシルフィードFCジュニアに所属し[5]、その後も愛知県トレセンに選ばれるなど順調にキャリアをスタートさせる[6]。中学に入るとシルフィードFCジュニアユースに進み、1年次にJFAエリートプログラム、2年次にU-14日本代表、3年次にU-15日本代表とそれぞれ選出された。中学時代までは主に右サイドバックを任され、当時は現在のようにドリブルで勝負するようなタイプではなく、とにかくタッチライン際を何度も往復する汗かき役であった[7]。 2008年4月、地元名古屋市の強豪校である中京大学附属中京高等学校に進学[5]。この頃に道家監督指導の下、現在の左ウイングをポジションとするプレースタイルに変わり[7][8]、1年生時からレギュラーを獲得し、AFC U-16選手権に出場するU-16日本代表にも選出された[9]。2年次にはU-17日本代表に選出され、同学年の宇佐美貴史や高木善朗らと共にFIFA U-17ワールドカップに出場し[10]、第88回全国高等学校サッカー選手権大会では大会優秀選手に選ばれた。3年生時、主将として出場した第89回全国高等学校サッカー選手権大会では、チームは初戦敗退に終わるも、1得点1アシストを挙げる活躍を見せ、2大会連続で大会優秀選手に選ばれた[11]。 2010年1月にドイツ・ブンデスリーガに所属するケルンの練習に参加し、世界に目をむけるようになる[12]。同年8月に再び海を渡り、イングランド・プレミアリーグのアーセナルと、オランダ・エールディヴィジのアヤックスの練習に参加し[13]、アーセナル監督を務めるアーセン・ベンゲルから高く評価され、5年という長期契約のオファーを受けた[14]。同年12月18日、アーセナルへの加入が正式に発表された[15]。しかし宮市は英国の就労ビザ発行基準を満たしておらず、イングランドでプレーすることが許可されなかったため、2011年1月31日、フェイエノールトへ期限付き移籍することが決定した[16]。 フェイエノールト2011年2月6日、フィテッセ戦(エールディヴィジ第22節)にて18歳1カ月23日での公式戦デビュー(先発フル出場)を果たし、森本貴幸の記録を抜き欧州主要リーグの日本人最年少デビュー記録を作った[17][18]。2月12日、ヘラクレス・アルメロ戦(第23節)にてホーム戦デビューを飾り、プロ初得点となる先制弾を左足で豪快に決め、森本の持つ欧州主要リーグの日本人最年少得点記録を18歳1カ月29日と更新した[17][19]。2月27日、フローニンゲン戦(第25節)でプロ初アシストを記録。4月17日、ヴィレムII戦(第31節)では2得点2アシストを挙げる活躍でチームの大勝に貢献した。 プレミアリーグ時代2011-12シーズン前、オランダでの活躍によりベンゲル監督からアーセナルのファーストチーム入りを明言され、2011年8月9日、アーセナルの申請で英国の労働ビザを特例で取得したことで、イングランドでのプレーが可能になった[20]。9月20日、カーリングカップ3回戦のシュルーズベリー(4部)戦で公式戦デビューを果たした。しかし、11月にリザーブリーグでの負傷による長期離脱などが影響し、前半戦の公式戦出場はカップ戦2試合のみに留まった。 2012年1月31日、ボルトン・ワンダラーズへ半年間の期限付き移籍が発表された[21]。2月11日、第25節ウィガン・アスレティック戦で後半開始から途中出場し、稲本潤一の記録を更新する日本人最年少となる19歳1カ月28日でのプレミアリーグ初出場を果たした[22]。2月18日、FAカップ5回戦ミルウォールでは初先発で移籍後初得点となる先制点を決めた[23]。3月10日、第28節QPR戦では決勝点となる移籍後初アシストを決めた[24]。その後、レギュラーに定着するがチームは2部に降格し、自身も終盤戦は右肩の怪我の影響もあり本領を発揮できなかった。 2012年8月13日、ウィガン・アスレティックへの1年間の期限付き移籍が発表された。同年11月17日のリヴァプール戦で右足首靱帯を負傷し長期離脱。2013年3月9日、FAカップ準々決勝エヴァートン戦で約4カ月ぶりに復帰を果たすも相手選手との接触により再び右足首靱帯を負傷し、後日手術を受けた[25]。最終的に2012-13シーズンの公式戦出場はわずか7試合に留まり、チームも2部に降格した。なお、宮市にとっては2年連続となる2部降格を経験した。 2013-14シーズンはアーセナルに残留。9月18日、欧州CLの第1節のオリンピック・マルセイユ戦に途中出場し、CL本戦デビューを飾った。9月22日、第5節ストーク戦でアーセナルでのリーグ戦初出場を果たしたが、リーグ戦出場はこの1試合に留まり、2014年3月にはハムストリングを負傷し戦線離脱となった。 FCトゥウェンテ2014年9月1日、昨シーズンからアーセナルに復帰していたが怪我の影響もあり、なかなかトップチームの出場機会がなかったためオランダ1部エールディヴィジのトゥウェンテへのレンタル移籍が決定した。スタメン起用が続くもインパクトは残せず、2014年11月1日のヘーレンフェーン戦でFOX.nlの解説を務めていたハリー・ファン・デル・ラーンに「前線で極端に酷い宮市がスタメンで固定されているのは商業的理由でしかあり得ない」とコメントされた[26]。その後、コンディションを戻すためにトップチームを外れてヨング・トゥエンテでのプレーが続いた。 2015年3月23日、トゥウェンテがレンタル移籍の契約満了を発表した。6月10日にプレミアリーグから開示された資料で、アーセナルとの契約が解除されていたことが明らかになった[27]。 FCザンクトパウリ2015年6月18日、ドイツ・ブンデスリーガ2部のザンクトパウリへフリーで移籍した[28]。しかし、7月18日に行われた親善試合ラーヨ・バジェカーノ戦で、左膝前十字靭帯を断裂、23日に手術を受けた[29]。2016年4月1日、第28節のウニオン・ベルリン戦で復帰し、5月15日、最終節のカイザースラウテルン戦で移籍後初先発して2得点1アシスト。 2016年8月8日、開幕戦のシュトゥットガルト戦で途中出場した。10月14日、ドイツカップ2回戦のヘルタ・ベルリン戦で負傷から約1カ月ぶりに出場。2017年6月28日の紅白戦で、以前の怪我とは反対側の右膝前十字靭帯を断裂[30]。同年8月9日に契約を2019年6月まで2年間延長し[31]、2018年3月にテストマッチで復帰し、同年4月28日に公式戦復帰するが13分で負傷交代。 2018年9月21日、第6節のインゴルシュタット戦で怪我から復帰し、途中出場で決勝ゴールを決める活躍を見せた[32]。2018-19シーズンは数回負傷による離脱があったものの、年間通して出場機会を確保し25試合5得点を記録した。 2019年8月16日、第3節のシュトゥットガルト戦では人生初となる3試合連続でサイドバックを務めた[33]。9月21日、第7節のオスナブリュック戦では本来のサイドで起用され、シーズン初ゴールをきめてMOMに選出された[34]。 横浜F・マリノス2021年7月5日、横浜F・マリノスへ完全移籍加入したことが発表された[35]。9月18日、J1第29節の名古屋グランパス戦で途中出場から地元愛知でJリーグデビューを果たした。その後はポジション争いに勝てず出場機会が限られ、リーグ戦2試合無得点に終わった。 2022年はチームのスタイルにも慣れ出場機会を増やし、J1第11節の浦和レッズ戦で待望のJ初ゴールが生まれた。7月には2試合連続ゴールも記録し、同月には日本代表に選ばれた[36][37]。しかし、後述する代表戦での負傷により長期離脱を余儀なくされた。 2023年、背番号を17から23に変更。FC東京へ移籍した同い年の仲川輝人の番号を継承する形となった[38]。自身のインスタグラムで「背負ってきた想いを今年から自分が引き継いでいきます!」と思いを示し「このユニフォームを着てピッチの上で最高のパフォーマンスが出来るよう、そして2023seasonを最高のものに出来るよう23にも因みまして頑張っていきます!!」と意気込んだ。このメッセージに反応する形で仲川も「頼んだぜ相棒」とエールを送った[39]。 5月24日、Jリーグカップ・グループステージ第5節の北海道コンサドーレ札幌戦で途中出場。301日ぶりの実戦復帰を果たした[40]。 6月10日のJ1第17節・柏レイソル戦では、途中出場後の3-3で迎えた試合終了間際に公式戦で339日ぶりのゴールを挙げた。これが決勝点となり、チームの逆転勝利に貢献した[41]。 日本代表2012年2月29日の2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選、対ウズベキスタン戦で初めてA代表に招集された[42](出場機会は無し[43])。 2012年5月23日、キリンチャレンジカップ・アゼルバイジャン戦で、A代表初キャップを記録した。その直後に行われたロンドン五輪ではメンバーに入ることができなかったが同年10月16日のブラジル戦で2キャップ目を記録。その後は度重なる怪我もあって長く代表に選出されていなかった[44]。 2022年7月13日、E-1サッカー選手権に出場する日本代表に約10年ぶりに選出され[44]、7月19日、初戦の香港戦で3563日ぶりの代表戦出場を果たした。 しかし7月27日、韓国戦で後半に負傷交代。右膝前十字靭帯断裂と診断され、全治8ヶ月と発表された[45]。 プレースタイル50m5秒台の快足ウインガー[46][47]。イギリスのデイリー・テレグラフによれば100mを10秒6で走ることができる[48]。 ポジションは主に左サイドでプレーするが[49]、右サイドでもプレー可能。ボルトン・ワンダラーズでは左右両方のCKのキッカーを任された[50]。 エピソード
所属クラブ
個人成績
その他の国際公式戦
タイトルクラブ
代表日本代表
代表歴
出場大会
試合数
出場
脚注
関連項目外部リンク
|