小野次郎 (政治家)
小野 次郎(おの じろう、1953年8月7日 - )は、日本の政治家、元警察官僚、外交官。 内閣総理大臣秘書官(小泉内閣)、衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、結いの党幹事長、維新の党総務会長、同政務調査会長、民進党副代表等を歴任した。 経歴1953年、東京都板橋区に生まれる。本籍は山梨県北杜市明野町。親の転勤とともに宮城県仙台市に転居、仙台市立国見小学校入学、同木町通小学校卒。宮城教育大付属中学校に在籍。 1968年、東京に転居。1969年東京都保谷(現西東京)市立青嵐中学校卒業。72年東京教育大学(現筑波大学)附属駒場高等学校卒業。 1976年、東京大学法学部卒業・警察庁入庁。入庁後、79年人事院長期在外研究員としてフランス・アンジェ大学留学、81年法学修士号授与。帰国後、茨城県警察本部刑事部捜査第二課長。 1986年、外務省に出向、在フランス大使館一等書記官、89年帰国。同年、フランス国より国家功労勲章オフィシェ章を授与される。 1989年、警視庁教養課長、同防犯総務課長、1991年北海道警察本部総務部長、93年警察庁銃器対策室長/課長、95年同国際第二課長、1998年鹿児島県警察本部長、2000年警察庁暴力団対策第一課長を歴任。 2001年より、内閣総理大臣秘書官を小泉内閣発足時から4年4か月務めた。 この他、一般社団法人日本企業危機管理協会会長、公益財団法人澤田経営道場理事、一般社団法人ヒューマン&アニマル・ライツ機構副会長を務める。 政界入り2005年、秘書官を辞任して同年9月の第44回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で山梨3区より出馬。小選挙区では敗れるが比例南関東ブロックで復活し初当選。当選後、自民党新人議員による「83会」の幹事を務め、また自ら立ち上げた「無派閥新人議員の会」の代表幹事に就任するなど、党内新人議員のまとめ役を務めた。 2008年6月には、「税金の無駄遣いを一円たりとも許さない若手議員の会」代表として、「特別会計の廃止」など行財政改革に関する10項目の提言を行った。 2009年3月、定額給付金支給関連法案の衆議院再議決に際して、「国民の支持が得られていない」として本会議場から退席し採決を棄権した。 同年8月の第45回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補したが落選。 2010年1月、自民党を離党[1][2]。無所属となった後、みんなの党代表の渡辺喜美から要請を受け、入党。 同年7月の第22回参議院議員通常選挙にみんなの党公認で比例区から出馬し、当選。 2011年以降、小野が筆頭発議者となって以下の法律案を国会(参議院)に提出した(複数回再提出を含む)。
2013年12月、江田憲司らとともにみんなの党を離党。結いの党結成にともない幹事長就任[3]。 2014年9月、結いの党と日本維新の会が合流して維新の党を結成。2015年9月より党総務会長。同年12月に維新の党代表選挙に立候補したが、現職の松野頼久に敗れた[4]。代表選後党政調会長に就任。 2016年3月、維新の党が解党し、民進党に合流した際には、小野ら旧みんなの党比例選出の維新の党の参議院議員は国会法の規定により、民進党には参加できず、院内会派「民進党・新緑風会」への参加にとどまったが、「共同会派に所属する国会議員で、党所属議員でない者に役員、役職を委嘱できる」との規約が無所属となった議員への配慮として盛り込まれたため、無所属でありながら民進党副代表に就任した[5][6]。 7月、第24回参議院議員通常選挙において、民進党公認で比例区より立候補し、46,213票(20/22位)で落選[7]。 同年9月、民進党における役職を辞任し、党員でもなかったため自動的に党から離れた。 2021年10月、同月に行われる第49回衆議院議員総選挙において立憲民主党の南関東ブロック単独候補となったことが発表された[8]。単独29位で出馬したものの落選。 政策・主張
人物
文献
脚注
外部リンク
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