手形休下町(てがたきゅうかまち)は秋田県秋田市にある町。郵便番号は010-0863。住居表示実施済み。
地理
秋田市の東部、手形地域の中では西部に位置する。西端はJR奥羽本線、南端は手形蛇野赤沼街道(秋田県道28号秋田岩見船岡線の旧道)である。
西は奥羽本線を挟んで千秋北の丸・千秋中島町、北は手形からみでん・手形田中、東は手形住吉町、南は手形新栄町に接する。
歴史
久保田城下で小禄家臣の侍町だった旧手形休下町・手形本新町の各一部に相当するが、この地区は1896年(明治29年)の秋田歩兵第十七聯隊設置に伴い陸軍練兵場となって1945年(昭和20年)まで区画が消滅していたため、町内の道路などは北東部にある馬出(添川口[3])の一部を除き旧城下町の痕跡を残していない[4]。
1966年(昭和41年)の住居表示実施時、手形侍町の中では唯一旧町名が継承されたが、区画は変更されている。
(旧)手形休下町
(旧)手形休下町は、久保田城の城下町の一角を構成する侍町で、北ノ丸に対し外堀を挟んだ東側に位置する。久保田手形休下町・秋田手形休下町とも呼ばれた[5]。「梅津政景日記」寛永8年3月8日(1631年4月9日)の条に町割の記録がある[3]。西側南端に佐竹氏の祈祷所である宝鏡院があり、周囲より高台であるため宝鏡院山と呼ばれた[3]。東側南端に宝鏡院末寺遍照寺があり、続いて宝鏡院の御祈念衆(藩抱えの祈祷師)である威徳寺・泉光院・成福院・松門院・常堅院・梅真院の六供奉寺が並んでいた。そのため「手形斎家町」(てがたさいかまち)とも「手形六供町」「手形六句町」(てがたろっくまち)とも呼ばれた[5][3]。
北端で旭川に面し、川岸に藩主の御休所があった。この御休所が休下町の名の由来である[5][6]。御休所の脇には「御休橋」が架けられており[6]、泉山(現在の天徳寺山)の御鷹野へ繋がる橋であるため「御鷹野橋」とも呼ばれた[6]。
沿革
- 1631年8月7日(寛永8年7月10日) - (旧)手形休下町が町割される[5]。
- 1664年(寛文4年) - 黒沢重巽によって私塾の四如堂が設立される[5]。
- 1896年(明治29年) - 秋田歩兵第十七聯隊設置に伴い、手形休下町・手形本新町・手形西新町・手形東新町が陸軍練兵場として使用され、区画消滅[4]。
- 1945年(昭和20年) - 練兵場廃止。町名復活し、宅地化(一部は一時農地化)が始まる。
- ????年 - 手形休下町と手形本新町に跨って、秋田市立手形中学校が開校する。
- 1953年(昭和28年)4月1日 - 手形中学校と長野町(現在の中通二丁目)の久保田中学校が統合され、手形中学校地に秋田市立秋田東中学校が開校する。
- 1966年(昭和41年)4月1日 - 住居表示実施に伴い、(新)手形休下町が成立する。
町名の変遷
以下はすべて住居表示実施に伴う変更。
実施前
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実施年月日
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実施後(各町ともその一部)
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(旧)手形休下町
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昭和41年4月1日
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千秋北の丸 せんしゅうきたのまる
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昭和41年4月1日
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千秋中島町 せんしゅうなかじままち
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昭和41年4月1日
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手形からみでん てがたからみでん
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昭和41年4月1日
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(新)手形休下町 てがたきゅうかまち
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昭和41年4月1日
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手形田中 てがたたなか
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実施後
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実施年月日
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実施前(各町ともその一部)
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(新)手形休下町
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昭和41年4月1日
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新中島土手町 しんなかじまどてちょう
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昭和41年4月1日
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(旧)手形休下町 てがたきゅうかまち
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昭和41年4月1日
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手形本新町 てがたもとしんまち
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世帯数と人口
2016年(平成28年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
交通
鉄道
町内に鉄道は通っていない。最寄り駅は中通七丁目にあるJR東日本奥羽本線・羽越本線・秋田新幹線の秋田駅。
バス
道路
施設
参考文献
脚注
外部リンク
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※地域区分(秋田市の人口・世帯で使用されているもの)ごとに分割し、更にその中で冠称を同じくする町・字をまとめた。 平成の大合併で編入された旧2町は昭和の大合併における旧々町村の単位でまとめた。 |
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