角盈男
角 盈男(すみ みつお、本名・旧登録名:角 三男〈読み同じ〉、1956年〈昭和31年〉6月26日 - )は、鳥取県米子市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ、解説者・評論家、タレント。パシフィックボイス所属。 1978年から1987年の登録名は角 三男。1988年から1989年の登録名は角 光雄(いずれも読み同じ)。 長男は元プロ野球選手の角一晃。次男は元プロ野球選手で、独立リーグ・ルートインBCリーグに所属する埼玉武蔵ヒートベアーズ球団社長の角晃多。 経歴プロ入り前1973年には4番・右翼手として夏の甲子園鳥取大会決勝に進むが、鳥取西に10回裏サヨナラ負けを喫した[1]。 1974年はエースとして活躍するが甲子園には届かず。 1976年の都市対抗では広島マツダの補強選手として出場し、2回戦で新日鐵堺に完封勝利。準決勝でも先発するが、北海道拓殖銀行の千藤和久、有沢賢持(日産サニー札幌から補強)に抑えられ完封負けを喫する[2]。 同年のドラフト会議で読売ジャイアンツから3位指名を受けるが、これを保留。 1977年の都市対抗では電電中国に補強され出場。1回戦で先発を任され、大昭和製紙の山根政明、池田信夫と投げ合うが惜敗[2]。その後、ドラフト期限前に巨人へ入団する。 巨人時代1979年は制球力の悪さが顕在化し不調に陥った。同年オフには地獄の伊東キャンプに参加、サイドスロー転向に成功した。 このサイド転向は、変則的なフォームでタイミングが取りづらいことや地肩が強く連投が利く角の特長とマッチし、球速こそ落ちたものの後年の活躍につながった。 1981年には8勝20セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得して、4年ぶりのリーグ優勝に貢献。全試合後楽園球場で行われた日本ハムファイターズとの日本シリーズでは、第1戦で同点の9回裏にリリーフで登板するも井上弘昭にサヨナラ安打を打たれ敗戦したが、同年に行われた日米野球第2戦ではメジャーリーガー相手に7連続奪三振を奪う活躍を見せた。 この後もリリーフとして貢献するが他球団からのマークにあって研究され、肘を壊しやや低迷。自身の制球難からの救援失敗などもあった。 1986年には肘に続き右の内転筋を痛めてしまい、それを痛み止めで騙し騙し投げていたがついに肉離れをしてしまったことによりリリーフエースの座を鹿取義隆及びルイス・サンチェに譲る[3]。右サイドハンドの鹿取に対し、左サイドハンドの角はセットアッパーやワンポイントリリーフとして重用され長く巨人のリリーフ陣の核として活躍。1986年の勝利の方程式「角-鹿取-サンチェ」は流行語にもなっている。 巨人時代初期の背番号変遷は目まぐるしく、また珍しいものがある。入団当初は「11」を与えられ、1978年のキャンプ時は同番号で参加していたものの、大洋ホエールズからジョン・シピンが移籍してくるのに伴い、公式戦前に同選手に番号を譲り「45」に変更。 1979年から2年間は当初の番号と1番違いの「12」を背負った後、シピン退団翌年の1981年に当初の「11」に戻ったもので、元の番号に戻ると共に、ストッパーとしても開眼した。 日本ハム時代1989年シーズン途中、左投手不足に悩む日本ハムに無償トレードで移籍。このトレードは日本ハム・近藤貞雄監督が巨人・藤田元司監督に駄目元で直接頼み実現したが、藤田が先発完投を強く志していたことや若手投手の台頭を受けて角自身も巨人での登板機会が減っており、藤田にトレードを直訴していたという事情があった。トレード期限ぎりぎりの6月30日の成立であり[4]、移籍後は先発を務めたため423試合連続リリーフ登板のNPB記録(当時)が途絶えたが、同年8月15日にプロ12年目にして初完投を達成する。通算では43試合に先発、3完投の成績を残した。 1990年6月6日の大阪近鉄バファローズ戦(東京ドーム)ではラルフ・ブライアントにドームの天井スピーカーを直撃する推定飛距離170mの本塁打を打たれているが、この試合前に同僚の大島康徳が「打球が天井のスピーカーに当たったら、特別ルールで認定ホームランらしい。もし当てられたらどうする?」と聞かれて、角は「野球辞めますよ。投手としてプライドが許しません」と答えた。そしてその直後の試合で実現してしまうが、辞めることはなかった[5]。 ヤクルト時代1992年に小川淳司との交換トレードでヤクルトスワローズに移籍。この時に角は日本ハムからの戦力外が確定していたが、「あと一人左(投手)が欲しい」と考えていたヤクルト・野村克也監督が目を付け、現役時代の同僚でもあった日本ハム・大沢啓二球団常務に直接申し入れて実現した。年上に八重樫幸雄、杉浦享がいたが、投手では最年長であった[6]。再びリリーフとして14年ぶりのリーグ優勝に貢献し、通算99セーブで同年引退。野村は、同年の活躍から角がまさか引退するとは思っていなかったため「引退するなら通算100セーブを取らせてあげればよかった」と後悔していた[7]が、本人は通算100SPを挙げているので気にはしていなかったという[6]。野村から「(角の巨人時代の先輩)新浦は使えるの?」と聞かれた際「大丈夫だと思います」と答え[6]、シーズン途中に金銭トレードで福岡ダイエーホークスから移籍しチームの優勝に貢献したが、角と同様に1992年で引退している。 引退後引退後はテレビ朝日・文化放送解説者と日刊スポーツ評論家が決まっていたがバブル崩壊の影響で無くなり[8]、1993年から1994年までニッポン放送解説者・サンケイスポーツ評論家[8]、それだけでは食っていけないと浅井企画所属のタレントとしても活動。バラエティ番組に出演したほか、俳優としては『かりん』『瀬戸内少年野球団』に出演した[8]。 1995年、ニッポン放送での解説を聞いた野村から要請を受けて、1年契約でヤクルト一軍投手コーチに就任[8]。1年契約の理由は、1994年オフに若松勉が新監督に就任する予定であったが、最終的に野村が1年契約で監督続投したため、角も野村同様1年契約になった[8]。在任中は野村が求めていた自分に正面から進言する役目を自分からバカになりきって平気でこなし、若手投手陣の山部太・石井一久とのクッション役を果たすと同時にテリー・ブロスの精神的支えになり、監督に唯一、ものが言えるコーチでもあった[9]。同年のヤクルトは日本一になり、角は予定通り1年で退任したが、野村は続投となり1998年まで監督を継続した。 退任後はTBSテレビ・ニッポン放送解説者(1996年)を経て、1997年には古巣・巨人に一軍投手コーチとして復帰したが、同年退任。 1998年から2004年までテレビ東京・ニッポン放送解説者を務めた[10]。 現在は評論家活動の傍ら、太田プロダクション所属のタレントとしても活動するほか、MXスタジアム解説者(1998年 - 2011年)、2008年からはロサンゼルス・エンゼルス日本担当スカウトを務めた。 2009年には東京・恵比寿でスナック「m-129」をオープンさせ、夫婦で経営している[11][12]。 2人の息子も野球選手となり、長男の一晃は東海大相模高校の野球部出身で2005年の第77回選抜高等学校野球大会に出場。次男の晃多も東海大相模高校の野球部で内野手として活躍し、2008年夏は北神奈川大会決勝まで進み、10月のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから育成選手枠3位で指名され、入団した。 2014年6月6日に放送されたTBS系『私の何がイケないの?』にて、前立腺がんであることを告白した[13]。健康診断を長らく受診していなかったという。 2016年1月に神戸、2月に東京で、アステラス製薬主催『がんサポートフォーラム』のパネルディスカッションに夫婦で登壇する[14]。 エピソード・人物詳細情報年度別投手成績
タイトル
表彰記録
背番号
登録名
関連情報出演
脚注
関連項目外部リンク
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