鈴木 直人(すずき なおと、1900年(明治33年)5月19日[1] - 1957年(昭和32年)9月20日[2][3][4])は、日本の内務官僚、政治家。熊本県知事(官選第35代)、参議院議員(1期)、衆議院議員(2期)。
来歴・人物
福島県[2][3]相馬郡磯部村[1](現相馬市蒲庭)で鈴木佳衛の二男として生まれた[1]。
旧制相馬中学、水戸高等学校[5]を経て、東京帝国大学法学部に進み、1926年(大正15年)に同政治学科を卒業し[1][2][3][4]、同年12月、高等試験行政科試験に合格した[5]。東京市役所に入り[2][3][4][5]、その後、内務省に転じ[5]、警視庁警部[5]、沖縄県特高課長、さらに山梨県、広島県の特高課長を歴任した[4]。
その後、埼玉県、東京府の経済課長を経て、1939年(昭和14年)に石川県経済部長に昇進した。次いで広島県経済部長、山口県部長や内政部長[6]を歴任した後、終戦前後には愛知県経済部長兼終戦処理局長の職にあった。戦後の1946年(昭和21年)、熊本県内務部長に就任、同県の桜井三郎知事が公選知事選出馬のため辞任したため、1947年(昭和22年)3月12日から3月25日まで約1ヶ月[7]、選挙管理知事として熊本県知事になった[1]。政府が官選から公選知事への切り替え期に、一度に44人の短命知事を作った時の1人である。熱塩加納村出身の遠藤直人が兵庫県知事になったのも、全くこれと同じケースであった。
1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙全国区に立候補して当選(6年議員)し[2][3]、第2次吉田内閣逓信政務次官、緑風会幹事長、両院法規委員長を務めたほか[2][3][4]、1951年(昭和26年)のサンフランシスコ講和会議には議員代表として出席した[4]。
1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で旧福島県第3区に自由党より出馬し、5万6000余票の最高点で当選[2][3]。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙には出馬しなかったが、1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙で当選。1957年(昭和32年)9月20日、現職のまま病死した。57歳没。死没日をもって勲二等瑞宝章追贈(勲四等からの昇叙)、正五位から正四位に叙される[8][9]。地盤は斎藤邦吉が継承した。
親族
田中真紀子の夫・田中角栄の女婿で元参院議員の直紀は三男[2][3]。
系譜
脚注
- ^ a b c d e 『新編日本の歴代知事』1051頁。
- ^ a b c d e f g h 『政治家人名事典』280頁。
- ^ a b c d e f g h 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』326頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』335頁。
- ^ a b c d e 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』260頁。
- ^ 『官報』第4940号、昭和18年7月2日。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』99頁。
- ^ 『官報』第9228号489頁 昭和32年9月26日号
- ^ 柳河瀬精『告発 戦後の特高官僚 反動潮流の源泉』184頁 日本機関紙出版センター、2005年
参考文献
- 『政治家人名事典』編集・発行 - 日外アソシエーツ、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
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第1回 (定数100) |
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†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。 |
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- 初代 松山基範 1949-1958
- 事務取扱/第2代 田中晃 1958/1958-1962
- 第3代 市川禎治 1962-1969
- 事務取扱 田中弘道 1969-1970
- 事務取扱/第4代 力武一郎 1970-1971/1971-1973
- 第5代 中村正二郎 1973-1977
- 事務取扱 戸田光敬 1977-1978
- 第6代 小西俊造 1978-1984
- 事務取扱 岩城秀夫 1984
- 第7代 粟屋和彦 1984-1990
- 第8代 三分一政男 1990-1993
- 第9代 村上悳 1993-1996
- 第10代 広中平祐 1996-2002
- 第11代 加藤紘 2002-2006
- 第12代 丸本卓哉 2006-2014
- 第13代 岡正朗 2014-2022
- 第14代 谷沢幸生 2022-
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