青木 真也 (あおき しんや、1983年 5月9日 - )は、日本 の男性 総合格闘家 、プロレスラー 、柔術家 。静岡県 静岡市 出身。パラエストラ東京 /Evolve MMA所属。第8代修斗 世界ウェルター級 王者[ 1] 。第2代、第6代ONE 世界ライト級 王者。第2代DREAM ライト級王者。
寝技 や極めの技術に長け、跳関十段 (とびかんじゅうだん)、バカサバイバー の異名を持つ。
来歴
幼少期
小さな工場を経営していた父の元に生まれる[ 2] 。幼少期は授業中も動き回ったり落ち着きのない子供であり、力も強く他の子との喧嘩も絶えなかった[ 3] 。それにより何度も家族が学校に呼び出されることがあったが、父は「子供ひとり言うこと聞かせられないあんたの器が小さいんだろ」と学校に啖呵を切り、「もう先生の言うことを聞かなくていいから」と青木にアドバイスした[ 4] 。青木は小学校高学年からはしっかりと授業を受けられるようになったが、この頃から孤立がちであった[ 5] 。
柔道との出会いから中学卒業まで
小学3年生から柔道 を始めたが、学校では問題児扱いされて孤立していた青木にとって柔道に集中している時間は救いであり、青木は柔道には真剣に取り組んだ[ 6] 。ところが東海大第一中学 時代にはレベルの差を痛感、2年生の頃には補欠に甘んじ、柔道部の顧問からは期待していないと言われた[ 7] 。才能も体格もない自分が強くなるには練習に打ち込むしかないと考えた青木は、並の部員の2倍練習し、部活外でクラブチームに参加して様々な指導者のエッセンスを自分に加えた。また格闘技雑誌を読み漁り、柔道では通常使わないような飛び付き腕十字などの技術も貪欲に取り入れる等、努力を重ねてレギュラーの座を得た[ 8] [ 9] [ 10] 。青木が力を付けて試合に勝つようになると顧問は手のひらを返したように期待を寄せるようになり、3年生の高校進学を控えた時期には「お前は日本代表になるかもしれない」と声を掛けた。そのまま自然な流れで高等部に内部進学することもできたが、青木はかつて自身を否定した顧問に憤りを覚え、ライバル関係にある静岡学園高校 に進学した[ 11] 。
高校時代
いきなり相手に飛び付いて決め技を狙う柔道スタイルに対する批判は高校でも止まず、先生から多くの生徒に見られる中で自分の技をこき下ろされたこともあり、青木の柔道生活は「背負い投げ」「内股」「大外刈り」を得意技としなければならないとする柔道界の暗黙の了解との戦いであった[ 12] 。しかし高校の柔道部における柔道生活自体は顧問の先生に好きなようにやらせてもらえる快適なものであった。顧問は、バンカラ気質の器の大きい人物で、全国大会の出場権がかかった県予選で勝利した時に青木は柔道の不文律を破って派手なガッツポーズを行い、他校の指導者からの抗議を受けるが、顧問は「すまん。見ていなかった」と知らんぷりして青木をかばってくれた[ 13] 。
大学時代
早稲田大学人間科学部 でも柔道部に在籍[ 14] 。この当時から既にさまざまな格闘技に通じ、跳びつき腕ひしぎ十字固め ・腋固 ・スピニングチョーク ・フットチョーク [要出典 ] など、柔道においては特異な技の数々で勝利をものにしてきた。その結果全日本ジュニア強化選手となったが、競技柔道(講道館柔道)では投げ技による一本勝ちを重視する傾向があるため、青木のスタイルは講道館柔道の世界からは異端扱いをされ、結果青木はその格闘技観の違いから、「極」を重視した格闘技へと活躍の場を移すことを決意。総合格闘技にシフトするきっかけとなったのは中学・高校時代に桜庭和志が"グレイシーハンター"として強豪外国人選手を次々と破り、一気にブレイクした過程をリアルタイムで見ていたことである[ 15] 。大学の柔道部では反骨心を剥き出しにして、伝統を重視する指導者の意見にも耳を傾けず[ 16] 、上下関係を前提にして油断している先輩と組み合えばタップアウトしても緩めることなく技を極め続け、倒れ込んだ相手の手のひらを踏んづけることすらあった[ 16] 。柔道部で衝突を繰り返す青木をだれも制御できなくなり、監督から呼び出されてクビを宣告され[ 16] 、大学3年生の内に格闘家としてのプロデビューを果たした[ 16] 。
格闘技デビュー
デビュー当初は練習場所のRJJ(Real Japan Judo)[ 17] やTeam ROKEN[ 18] を所属先としていたが、2004年10月のDEEP 16th IMPACTから中井祐樹 のパラエストラ東京 所属となった。なお、青木は中井からブラジリアン柔術 黒帯 を授けられている。
2003年 11月24日、club DEEP 4thで行なわれたフューチャーキングトーナメント82 kg以下級で優勝[ 19] 。
2004年 10月30日、DEEP 16th IMPACTで行われたウェルター級(-76 kg)トーナメント準決勝で中尾受太郎 と対戦。寝技を駆使し試合を優位に進めるも、スタンドの打ち合いで左ストレートを喰らい、KO負け。
2004年11月28日、COPA reversal 2004で弘中邦佳 と柔術マッチで対戦し、跳びつき腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。フィニッシュの腕ひしぎ十字固めで弘中は右肘を脱臼した[ 20] 。
修斗時代
2005年 1月29日、初参戦となった修斗 でキース・ウィスニエフスキーにスタンド状態から腕ひしぎ腋固め で一本勝ち。フィニッシュの腕ひしぎ腋固めでウィスニエフスキーは左腕を骨折した[ 21] 。
2005年5月4日、修斗で岩瀬茂俊と対戦予定であったが、眼底検査で網膜裂孔と診断され、インターナショナル修斗コミッションよりライセンスが発行されず、欠場となった[ 22] 。
2005年5月28日、ADCC 2005 では77 kg未満級の2回戦でマルセロ・ガッシア と対戦、バックを許し、チョークスリーパー で一本負け。翌日5月29日には無差別級 の1回戦でホジャー・グレイシー と対戦し、アキレス腱固め で一本負け。
2005年6月11日、プロ柔術関西「大阪夏の陣」で渡辺直由 へのリベンジに成功。試合後、セコンド についていた渡辺の師である早川光由 に「次はお前だ!」と対戦要求した[ 23] 。
2005年7月30日、網膜裂孔が完治し修斗よりライセンスが発行され、5月に中止となった岩瀬茂俊と対戦[ 24] 。開始35秒右ローキックを股間に受けてしまい、反則勝ちとなった[ 25] 。
2005年8月20日、修斗で桜井"マッハ"速人 と対戦し、判定負け。
2005年10月19日、カリフォルニア州 で行なわれたヒクソン・グレイシー 主催のブドーチャレンジ 77 kg未満級トーナメントに参戦。決勝でキャメロン・アールに一本勝ちし優勝を果たした。
2005年11月6日、1年前に柔術マッチで対戦した弘中と修斗で再戦し、三角絞めで固めた上での鉄槌で左眉付近をカットさせ、TKO勝ち。
2005年11月20日、カンペオナート・ジャポネーズ・ジュウジュツ・アベルトのアダルト黒帯アブソルート級1回戦で、階級が下の小野瀬龍也のスパイダーガードを攻略出来ずに敗北。
2006年 2月17日、修斗世界ミドル級(-76 kg)チャンピオンシップで王者菊地昭 に判定勝ち、史上最短の5戦目にして世界王座獲得に成功した。試合直後にリング上でマイクを握った青木は号泣しながら修斗への感謝を語り、「俺は一生修斗しかやりません」と宣言した[ 26] 。また、直後のインタビューでは「PRIDE さんからも声がかかったけど、PRIDEは競技ではない。あれはイベントであり、エンターテイメントだから僕の目指す競技ではない」と発言していた(後述)。
2006年3月に大学卒業後、警察官 (静岡県警)となり警察学校 に入るが2か月で退職し、プロ格闘家一本へ。そして雑誌にてPRIDE への参戦を仄めかし、後にPRIDE参戦が決定。
PRIDE時代
2006年8月26日、PRIDE 初参戦となったPRIDE 武士道 -其の十二- でジェイソン・ブラック と対戦し、三角絞め で一本勝ち。試合後、マイクを持つと「修斗第8代世界ミドル級王者の青木真也です。修斗もPRIDEも皆さんの応援がある限り、まだまだ頑張ります」とコメントした[ 27] 。
2006年10月14日、修斗でジョージ・ソテロポロス と対戦。足関節技を狙い続けグラウンドで支配するも、2R開始直後に相手の金的攻撃を受け試合続行不可能。反則勝ちとなった。
2006年11月5日、PRIDE 武士道 -其の十三- でギルバート・メレンデス と対戦予定だったが、メレンデスが負傷欠場。代役のクレイ・フレンチ と対戦し、三角絞めで一本勝ち。試合後、リング上でマイクを握った青木は、リングサイドで腕をギプスで固定しながら観戦していたメレンデスに対して、大晦日に試合をすることを呼びかけ、メレンデスもこれに賛同したものの[ 28] 、同年の大晦日は青木はヨアキム・ハンセンと、メレンデスは川尻達也 と対戦したため両者の対戦は実現しなかった。
2006年12月31日、PRIDE 男祭り 2006 でヨアキム・ハンセン と対戦。レインボーカラーのスパッツ&マウスピースといういでたちで登場、開始早々にグラウンドに引きずり込みフットチョーク (PRIDEの公式記録はトライアングルチョーク)で一本勝ち。
2007年 2月17日、修斗世界ミドル級王座防衛戦で菊地昭 と再戦し、三角絞めやオモプラッタ を交えた絞め技 (糸通し)、関節技 でグラウンドを支配するも、菊池のパウンド で若干ポイントを取られ、2-1の判定勝ちを収め初防衛に成功した。
2007年3月、DEEP GYMで自らが指導するクラスを開始させた。
2007年4月8日、PRIDE.34 でブライアン・ローアンユー と対戦。ローアンユーのパウンドや膝蹴りでダメージを負うも、冷静に下から腕ひしぎ十字固め を極め一本勝ち。
2007年6月17日、グラップリング大会『DEEP X』のメインイベントでペドロ・アキーラと対戦。開始38秒、チョークスリーパーで一本勝ち。
2007年12月31日、やれんのか! 大晦日! 2007 でJ.Z.カルバン と対戦予定であったが、カルバンの負傷による欠場により、代わりに参戦となった総合格闘技デビュー戦のチョン・ブギョン とメインイベントで対戦。腕ひしぎ十字固めを2度極めかけられるなど苦戦するも、パウンドで流れを引き寄せ3-0の判定勝ち。
DREAM設立後
2008年
2008年 3月15日、DREAM.1 のライト級グランプリ1回戦でJ.Z.カルバン と対戦。1R序盤、カルバンがガブッた体勢から振り下ろした肘が青木の首に当たってしまう。これが反則行為である延髄への打撃と見なされ、ダメージの残る青木に3分間のインターバルが与えられるも回復せず、偶発的なアクシデントによりノーコンテスト となった[ 29] 。トーナメントの勝ち上がりは主催者預かりとなったが、4月4日の記者会見で没収試合に裁定変更のうえDREAM.2 で再戦することが発表された[ 30] 。
2008年4月29日、DREAM.2 でJ.Z.カルバン と再戦。1Rにカルバンのパウンドを受けるもバックを奪い、2Rにも再三跳び関節を仕掛け、3-0の判定で勝利。前年の大晦日から続いた因縁に決着をつけた。
2008年6月15日、DREAM.4 のライト級グランプリ2回戦で永田克彦 と対戦し、マウントからのフットチョーク(アオキプラッタ)で一本勝ち。
2008年7月21日、DREAM.5 のライト級グランプリ準決勝で宇野薫 と対戦。終始ペースを握って次々と関節技を仕掛け、宇野の粘りに一本は奪えなかったものの3-0の判定勝ち。決勝ではリザーブから上がってきたヨアキム・ハンセン にパウンドでTKO負けを喫し準優勝となった。
2008年9月23日、DREAM.6 ではトッド・ムーア と対戦し、裸絞めで一本勝ちを収めた。試合後にマイクを持つと、「僕が大黒柱です」「僕の前に試合をした秋山“マイケル・ジャクソン”成勲先輩!青木真也と大晦日にネバーランドでワオワオしませんか?」と秋山成勲 に対戦を要求した[ 31] (秋山の「韓国 での自分の人気の高さはマイケル・ジャクソン に匹敵する」という発言への皮肉を込めた挑発である)。
2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜 でエディ・アルバレス と対戦し、踵固め で一本勝ち。試合後のマイクでは「UFC よく聞け、日本がトップだコノヤロー!」と絶叫した[ 32] 。この勝利により、初代WAMMA 世界ライト級王座に認定された[ 33] 。
2009年
2009年 3月8日、DREAM.7 でデイビッド・ガードナー と74kg契約で対戦。1Rにグラウンド状態でガードナーが会場に向けて「ハロージャパン」と発声したスキを突きチョークスリーパーを極め一本勝ちを収めた。試合後のコメントでウェルター級グランプリへの参戦を表明した。
2009年4月5日、DREAM.8 のウェルター級(-76 kg)グランプリ1回戦で桜井"マッハ"速人 と対戦し、開始直後にテイクダウン を奪ったもののバタフライ・スイープで体位の逆転を許し、開始27秒パウンドでKO負けを喫した。桜井からは「青木はチョン・ブギョン に2回も腕十字をとられかけている。寝技のレベルでいったらブギョンの方が上。俺はチョン・ブギョンと一緒に練習したが、全然寝技が強いとは思わなかった。青木程度の寝技は研究されると使えなくなる。結局技術が均衡したところで青木には無い体力がものをいう」と痛烈な批判を浴びた。
2009年4月29日、「DEEP M-1 CHALLENGE 3rd EDITION in JAPAN」でエメリヤーエンコ・ヒョードル とサンボ衣着用・打撃ありのスーパーエキシビションファイト を行なった。お互いに見せ場を作った後、終了間際に青木がヒョードルのアキレス腱固めにタップアウト[ 34] 。
2009年7月20日、DREAM.10 でビトー・"シャオリン"・ヒベイロ と対戦。シャオリンとの対戦が決定した際に「(柔術世界王者シャオリン相手に)思いっきり寝技で勝負します!」と宣言していた[ 35] にもかかわらず、試合では寝技を避けて終始スタンドでのミドルキックや膝蹴りで攻勢となり、判定勝ち。試合後のリング上で「いやー、ムエタイ って面白いでしょ?」(友人である藤原あらし の発言のオマージュ)と発言すると、会場からブーイング が起こった。また、試合後の会見では「最初から“判定上等!”でした」と発言した。
2009年10月6日、DREAM.11 のライト級タイトルマッチで3度目となったヨアキム・ハンセン と対戦し、試合終了残り4秒となったところで腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収め王座獲得に成功し、DREAM初の日本人王者となった。
2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜 のDREAM vs SRC (戦極)対抗戦でSRCライト級王者・廣田瑞人 との王者対決を戦い、ハンマーロック を極めるが廣田がタップアウト しなかったため、右上腕を骨折させ見込み一本勝ち[ 36] 。勝利後のリング上で横になったままの廣田に対し、舌を出しながら中指を立てるファックサイン で侮辱し、さらに会場中に向かってファックサインをして観客を侮辱するなど[ 37] など物議を醸す結末となった。その際にはセコンド陣から「止めろ!」と即静止させられた。試合後インタビューや記者会見[ 36] [ 38] で青木は、「彼の意地だと思いますが、タップしないので躊躇なく折りました」と語り、フィニッシュした極め技のことを「笹原圭一 プロデューサーから刺しにいけと言われたので刺したので『笹原圭一2010』です」と発言した。翌日会見では、廣田を試合後に侮辱したことに関して、笹原プロデューサーから厳重注意が与えられたことが発表された[ 36] 。一方で、笹原プロデューサーは、廣田の腕が折れてしまったことについては、「折れる前にレフェリーが止められたかもしれませんし、セコンドが察してタオルを投げられたかもしれません。そこはまったく青木選手を責める気はありません。廣田選手はタップの意志を示さなかったですからね」という見解を示した。この翌日会見で青木は廣田を侮辱したことについて、「昨日は試合後にちょっとエキサイトしてしまって申し訳ないという気持ちがあります」と謝罪した[ 36] 。
2010年
2010年 1月7日、Dynamite!! での試合後の不道徳行為について、パラエストラ東京から厳重注意が与えられ、パラエストラ東京の指導スタッフから解任されたことが発表された[ 39] 。
同日に行なわれた記者会見でSRC(戦極) サイドは、「形式的に謝罪の弁は述べているが、誠意と謝意は微塵も感じられない言葉を重ねている。青木自身はもとより、彼をその影響下におき、煽り立て、結果としてかかる振る舞いに至らしめたと推測される関係者に対して心からの猛省を促すと共に然るべき処罰を強く求めます。少なくとも「厳重注意」「反省」といった、お手盛りの言葉とやりとりで許される類いのものでは決してない」と処罰を要求する意見書を発表した[ 40] 。
2010年4月17日、アメリカ合衆国 で開催されたStrikeforce: Nashville のStrikeforce 世界ライト級タイトルマッチで、王者ギルバート・メレンデス に挑戦。テイクダウンを切られ続け、0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。試合後は、メレンデスの所属チームであるシーザー・グレイシー柔術アカデミー に弟子入りを申し出、ヘッドコーチであるシーザー・グレイシー より承諾を受けたが、結局弟子入りすることはなかった[ 41] 。
2010年5月21日付けで2006年2月17日から保持していた(2007年2月17日以降、防衛戦を行なっていなかった)修斗世界ミドル級王座を返上した[ 42] 。
2010年7月10日、DREAM.15 のライト級タイトルマッチで川尻達也 と対戦し、1Rにアキレス腱固めで一本勝ちを収め初防衛に成功した。試合後のリング上で「私事ですが、僕は結婚します!」と結婚することを宣言した[ 43]
2010年9月25日、DREAM.16 でマーカス・アウレリオ と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。試合前の煽りVTRでは結婚&父親となったことが発表された[ 44] 。
2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜 で長島☆自演乙☆雄一郎 と対戦。試合はミックスルール(1R目が3分の特別キックルール(フリーノックダウン制)、2R目が5分の総合格闘技ルール。2Rで決着がつかない場合は判定なし)で行われた。試合は、2R開始直後に青木がタックルを仕掛けた瞬間、長嶋の右跳び膝蹴りが直撃し、倒れ込んだところを鉄槌で追撃され、2RKO負け[ 45] 。この試合で青木は、1Rにクリンチ やドロップキック を何度も行い、反則であるロープを掴む行為も行なった。この試合は解説を行った須藤元気 には「バチが当たった」、魔裟斗 には「逃げてちゃ勝てないですよ」と酷評された。一方で、北岡悟 や菊野克紀 など他の格闘家達からは、「(あのようにラウンドごとに片方が有利になるルールであるなら、)勝つための手段としてならば責められるものではない」といった旨の評価もある。
2011年
2011年4月9日、Strikeforce: Diaz vs. Daley でライル・ビアボーム と対戦し、開始1分33秒、ネッククランク で一本勝ち。2戦目にして全米初勝利を挙げた。
2011年5月29日、DREAM JAPAN GP でリッチ・クレメンティ と対戦。終始グラウンドを支配し、2R2分14秒、フェイスロックで一本勝ち。当初はヴィラミー・シケリム と対戦する予定だったが、シケリムのパスポート切れで試合は消滅。その後、ジェイミー・ヴァーナー との対戦見込みが立っていたが消滅。5月16日にアントニオ・マッキー との対戦が決定したことが発表されるも、5月20日にマッキーの欠場が発表。最終的にクレメンティが選ばれた。非常に対戦相手選びが難航した試合だった。
2011年9月24日、DREAM.17 で元WEC 世界ライト級王者ロブ・マックローと対戦し、フェイスロック(DREAMの公式記録は裸絞め)で一本勝ち。
2011年12月31日、元気ですか!! 大晦日!! 2011 で練習仲間であり度々「戦う事は無い」と共に明言してきた北岡悟 を指名してDREAMライト級王座を賭けて対戦[ 46] 。全局面で圧倒し、判定勝ちを収め2度目の王座防衛に成功した。
2012年
2012年4月20日、Bellator 66でエディ・アルバレス と再戦し、アッパーでダウンを奪われるとパウンドで1RTKO負け[ 47] 。
2012年7月3日、自身のtwitterで東南アジアを中心に活躍するONE FC と契約を交わしたことを発表した[ 48] 。
2012年10月6日、ONE FC 6 でアルナウド・ルポンと対戦し、1R三角絞めで一本勝ち。試合後には同大会で勝利しONE FCライト級王者となった朴光哲 への挑戦をアピールした。
2012年10月18日、自身のブログでDREAMライト級王座の返上を発表した。
2012年12月7日、DREAM.18 でアントニオ・マッキー と対戦することが発表。しかし、青木は以前からDREAM の大晦日興業に出場しない意志を表明しており、今回出場するにあたっても「“剥奪”されたベルトですからね。僕がDREAMのチャンピオンだったとか、そういう気持ちはないですね」「DREAM自体は過去のものだったと思っています」などといった発言をし、かつては「親」とさえ呼んでいたDREAMサイドとの溝を示した[ 49] 。
2012年12月31日、DREAM.18でアントニオ・マッキーと対戦。2Rに右フックをヒットさせるとマッキーがタップし、マッキーの戦意喪失によるTKO勝ちとなった。試合後のマイクアピールでは「僕とDREAMで親子喧嘩があって見苦しいことがありました。でも、俺は一生懸命やっているからみんな応援してよ!」と言った[ 50] 。2018年現在、全キャリア中スタンドでの打撃で決まった唯一の試合となっている。
ONE Championship
2013年
2013年 4月5日、ONE FC 8 のONE世界ライト級タイトルマッチで王者・朴光哲 に挑戦し、2Rにリアネイキドチョーク で一本勝ちを収め王座獲得に成功した。試合後に朴が「蛇に睨まれたカエルのように動けなかった」と語ったほど一方的な青木ペースの試合であった[ 51] 。
2013年10月18日、ONE FC 11でコディ・スティーブンスとフェザー級契約で対戦し、判定勝ち。
2013年11月、UFC からシンガポールで開催されるUFC Fight Night 34 への出場オファーを受けるも金銭面の不満から断念した[ 52] 。
2013年12月24日、第2子が誕生。
2013年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2013 のMMAライト級ワンマッチにてTOSHIと対戦し、開始49秒で腕ひしぎ三角固め (IGFの公式記録は三角絞め )で一本勝ち。TOSHIの戦績は11勝9敗で青木との実力差は明確だったが、TOSHIの師である桜井"マッハ"速人 はこの試合が青木の指名による成立であると発言した[ 53] 。
2014年
2014年8月29日、ONE FC 19のONE世界ライト級タイトルマッチで挑戦者のカマル・シャロルス と対戦し、リアネイキドチョークで一本勝ちを収め初防衛に成功した。
2014年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2014 で山本勇気と対戦し、ツイスター (IGFの公式記録は変形ネックロック)で一本勝ち。
2015年
2015年 5月22日、ONE Championship 27のONE世界ライト級タイトルマッチで挑戦者の安藤晃司 と対戦し、3-0の判定勝ちを収め2度目の防衛に成功した。
RIZIN
2015年12月29日、RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYS に出場。桜庭和志 と対戦し、バックマウントの体勢からパウンドを打ち続け、タオル投入でTKO勝ちを収めた。
ONE Championship
2016年
2016年 11月11日、ONE Championship 49のONE世界ライト級タイトルマッチで挑戦者のエドゥアルド・フォラヤン (英語版 ) と対戦。試合を優勢に進めていたが、3Rにグラウンド状態で膝蹴りを頭部に受けパウンドでTKO負け。3度目の防衛に失敗して王座から陥落した。
2019年
2019年3月31日、ONE Championship :A NEW ERAのONEライト級タイトルマッチで、エドゥアルド・フォラヤン (英語版 ) と再戦。打撃で互角の展開からテイクダウンすると肩固めでフォラヤンを絞め落とし1R一本勝ち。リベンジを達成すると共に、再びONEライト級王者となった。
2019年5月17日、ONE Championship 96: Enter the DragonのONE世界ライト級タイトルマッチで挑戦者のクリスチャン・リー (英語版 ) と対戦。1Rは青木がグラウンド状態でリーに何もさせず圧倒し続けたが、2Rにパンチでダウンを奪われ逆転TKO負け。王座防衛に失敗した。
2020年
2020年 9月11日、Road to ONE 3rd Tokyo Fight Nightで江藤公洋 と対戦し、3R判定勝ちを収めた。試合後、青木はケージの中で「俺が試合したいのは5年ぶりにさいたまスーパーアリーナで試合がしてえんだよ!この意味分かるか? 青木真也が人生懸けて、存在懸けてこの想いを伝えているんだよ!」と叫び、RIZIN出場アピールとも取れるマイクパフォーマンスを行った[ 54] 。直後のインタビューでは「話題作らないとね。一番インターネットがザワザワする言葉でしょ。日本ではONEよりRIZINの方が大きいから、話題になるでしょ。」と火消しのような発言をしたが[ 55] [ 56] 、青木はその後も、試合を組まないONEに対して怒りの言葉と共に契約解除を要求。「練習相手がRIZINで試合があるので羨ましい。僕は(ONEで)試合が組まれないので、これは飼い殺しなの!?と疑心暗鬼になっているような状況」「いいから試合組んで。俺には時間が無い。早く次のことをしたい。」「ONEを盛り上げようとかそんな気持ちは一切無いです。そのくらいの溝はできてしまった。」などと、TwitterやnoteでONEに対して不満の声を上げ続けた。
2022年
2022年 3月26日、ONE Championship: ONE Xで秋山成勲 とライト級 契約で対戦。1Rにスタンドバックの体制から足で4の字ロックを組みチョークを狙い続けるも耐えられ、2Rに右ストレートをうけて動きの落ちたところをパンチを連打され、崩れたところを更にパウンドで追撃されて、TKO負けを喫した[ 57] 。
2024年
2024年1月28日、ONE 165に出場し、セージ・ノースカット と対戦予定だったが、ノースカットがコーチのビザ問題により試合当日に欠場。ノースカットは「ONEは不測の事態で俺が欠場したと発表したがそれは完全に間違っている。ビザのこともONEが我々に対して事前に言っていたことが全然違った。ONEの舞台裏や試合を辞退した理由などもいずれSNSやメディアで話すつもりだ」という内容の文章をSNSに投稿して、過去のことも含めて様々なことでONEとトラブルになっていたことを明かした[ 58] 。青木はその影響を受けて、急遽試合の数時間前に、観客席で試合を見る予定だった2階級下(約10kg下)のジョン・リネカー との対戦となった。試合は、リネカーに何もさせず、1Rにリアネイキッドチョークで一本勝ちした[ 59] 。
グラップリング
2013年6月9日、ロサンゼルス で開催された「Metamoris 2」でクロン・グレイシー と対戦し、ギロチンチョーク で一本負け。
2016年8月13日、マカオ のザ・ベネチアン・マカオ で開催された「ONE GRAPPLING HCALLENGE MACAO」に出場し、2回戦でブルーノ・バルボーサに反則負けで敗れた。
2017年5月26日、シンガポールのシンガポール・インドア・スタジアム で開催された「ONE 55」でゲイリー・トノンと対戦し、ヒールホールド で一本負け。
柔術
2016年8月27日、韓国 でチョイ・ワンチョイと対戦し、引き分ける。
プロレス
2014年 4月27日、「パキスタン・ジャパンフレンドシップフェスティバル」のIGF 提供試合にてプロレスラー として澤田敦士 と対戦してプロレス デビュー。試合後には「プロレスでも総合格闘技でも要望のある方で戦う」と語った。
2015年2月20日、IGFのGENOME32でケンドー・カシン と対戦し、体固めで敗れた。
2016年5月29日、IGFのGENOME36で鈴川真一 とタッグを組み、崔領二 &不動力也 組と対戦するが、鈴川が相手チームに攻撃されても救出する動きを見せず。また、自身は攻撃を受けず、コーナー最上段に腰掛けて場外乱闘を傍観するなど無気力ファイトを見せた。そして試合後には「お粗末。今まで生きてきた中で一番苦痛な時間だった。金がほしくて試合をしているわけじゃない。やりたいことをやっているわけだから」「今後はIGFに限らず、自分が情熱を燃やせる舞台に立ってみたい」とIGF離脱を示唆した[ 60] 。
2016年6月19日、新日本プロレス・大阪城ホール大会を木谷高明オーナーの隣で観戦。かねてから新日本プロレス出場を熱望していた青木だったが、木谷オーナーは「あくまで最終判断は現場に任せます。」として判断を現場に委ね、青木は新日本プロレス出場を果たせなかった[ 61] 。
2017年4月5日、IGFの新ブランド「NEW」の旗揚げ大会「NEWオープニングシリーズ後楽園大会」で藤原喜明 と対戦し、時間切れ引き分け。
2018年よりDDTプロレスリング に参戦。
2024.8.25 DDTプロレス KO-D無差別級王座奪取
2018年10月28日、DDT ・後楽園ホール大会にて第41代DDT EXTREAME級王者 HARASHIMA と対戦。王座を奪取。
2019年1月3日、DDT ・後楽園ホール大会にて挑戦者タノムサク鳥羽 と対戦。初防衛に成功。
2021年大晦日、日本武道館 で開催の『ももいろ歌合戦 』(BS日テレ ・ニッポン放送 ・ABEMA などが生中継)にて、大仁田厚 と「ノーロープ電流爆破デスマッチ」にて対戦。
2024年8月25日、DDT・後楽園ホール大会にて上野勇希 とのKO-D無差別級王座 選手権試合に勝利、第83代王者となる。
戦績
総合格闘技
総合格闘技 戦績
59[ 62] 試合
(T)KO
一本
判定
その他
引き分け
無効試合
48 勝
4
31
11
2
0
1
11 敗
9
0
2
0
ミックスルール
グラップリング
勝敗
対戦相手
試合結果
大会名
開催年月日
×
マイキー・ムスメシ
1R 3:05 アオキロック
ONE Fight Night 15
2023年10月07日
×
ケイド・ルオトロ
10分1R終了 判定負け
ONE 157: Petchmorakot vs Vienot
2022年5月20日
△
キャプテン☆アフリカ
10分1R終了 時間切れ
Road to ONE: 5th Sexyama Edition
2021年10月5日
△
世羅智茂
10分1R終了
Road to ONE:2nd
2020年4月17日
○
マラット・ガフロフ
1R 12:22 チョークスリーパー
ONE: KINGS OF COURAGE
2018年1月20日
×
ゲイリー・トノン
ヒールホールド
ONE 55
2017年5月26日
×
ブルーノ・バルボーサ
反則負け
ONE GRAPPLING HCALLENGE MACAO
2016年8月13日
×
クロン・グレイシー
ギロチンチョーク
Metamoris 2
2013年6月9日
○
ペドロ・アキーラ
1R 0:38 チョークスリーパー
DEEP X 2007
2007年6月17日
○
キャメロン・アール
アキレス腱固め
ブドーチャレンジ 【77 kg未満級 決勝】
2006年5月26日
○
アリ・アブデルアジズ
跳びつき腕ひしぎ十字固め
ブドーチャレンジ 【77 kg未満級 1回戦】
2006年5月26日
○
鶴屋浩
2R 1:04 フットチョーク
修斗
2006年3月24日
×
ホジャー・グレイシー
アキレス腱固め
ADCC 2005 【無差別級 1回戦】
2005年5月29日
×
マルセロ・ガッシア
チョークスリーパー
ADCC 2005 【77 kg未満級 準々決勝】
2005年5月28日
○
マルコス・アヴェラン
ポイント
ADCC 2005 【77 kg未満級 1回戦】
2005年5月28日
○
藤原正人
腕ひしぎ十字固め
ADCC 2005日本予選 【77 kg未満級 決勝】
2005年3月20日
○
マテウス・イリエ・ネキオ
ヒールホールド
ADCC 2005日本予選 【77 kg未満級 準決勝】
2005年3月20日
○
西内太志朗
スピニングチョーク
ADCC 2005日本予選 【77 kg未満級 2回戦】
2005年3月20日
○
チョン・チャニョル
ポイント
ADCC 2005日本予選 【77 kg未満級 1回戦】
2005年3月20日
柔術
勝敗
対戦相手
試合結果
大会名
開催年月日
△
チョイ・ワンチョイ
10分終了 引き分け
SPYDER INVITATIONAL BJJ CHAMPIONSHIP FINAL
2016年8月27日
○
マルコス・ヨシオ・ソウザ
10分終了 ポイント2-0
PRO JIU-JITSU X Grand Prix 2006
2006年3月18日
○
渡辺直由
10分終了 ポイント5-0
プロ柔術関西「大阪夏の陣」 【アダルト黒帯メジオ級】
2005年6月11日
○
弘中邦佳
3:17 跳びつき腕ひしぎ十字固め
COPA reversal 2004 〜FESTA DO JIU-JITSU〜
2004年11月28日
×
渡辺直由
8分終了 ポイント0-8 アドバンテージ1-1
プロ柔術GroundImpact 〜Gi-05〜 昼の部
2004年9月19日
獲得タイトル
MMA
全日本サンボ選手権 男子シニア82 kg級 3位(2003年)
DEEP フューチャーキングトーナメント 82 kg以下級 優勝(2003年)
全国体育系学生体重別選手権 81 kg級 優勝(2003年)
イサミ杯 優勝(2004年)
全日本ブラジリアン柔術オープントーナメント 優勝(2004年)
何気杯 優勝(2004年)
全日本サンボ選手権大会 男子シニア82 kg級 優勝(2004年)[ 63]
全日本ブラジリアン柔術選手権大会 アブソリュート級 優勝(2004年)
ブラジリアン柔術コパアクシス紫帯メジオ級 優勝(2004年)
ADCC 2005 日本予選 77 kg未満級 優勝(2005年)
ブドーチャレンジ 77 kg未満級 優勝(2005年)
第8代修斗 世界ミドル級 王座(2006年)
初代WAMMA 世界ライト級 王座(2008年)
第2代DREAM ライト級王座(2009年)
第2代ONE 世界ライト級王座(2013年)
第6代ONE 世界ライト級王座(2019年)
プロレス
DDTプロレスリング
表彰
人物・エピソード
寝技 に対する拘りは強く、「今の総合格闘技 界は打撃偏重だからこそ、俺は寝技に拘る」と語っており、打撃によるKO が本人の意思とは関係なく起こるのと比べて、関節技や絞め技による一本勝ちは相手に自らの意思でタップさせることにより怪我のリスクを少なく、屈服させることが出来るので芸術的と語っている。しかし、「相手も僕を殺す気で殴りに来るので僕も躊躇なく骨を折りにいく」とも語っており、実際に相手選手を骨折に追い込んだこともある。自身の(総合格闘技における)寝技の技術は世界一でアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ よりも自分のほうが上である、という発言もしている。
自他共に認める格闘技おたく で、近代柔道 やレスリング 、サンボ のテクニック解説本を小学校3年生の時から収集していた。また、ムエタイに関するマニアックな知識をインタビューなどで度々披露している。
物欲が全く無く、独身時代はテレビもパソコンも無い家賃4万8千円の6畳1Kのアパートに住んでいたが、交際していた女性と同棲生活を始めてからは、テレビぐらいは見るようになった。トロフィーや賞状も要らないと話している[ 64] 。
ファイトマネーを稼ぐようになっても、質素な生活を変えていない。コーヒーショップに行くときはクーポンを使い、試合を終えた後の食事も支給された残り物の弁当で済ます[ 65] 。
練習を共にしている北岡悟 や今成正和 とは親交が深く、お互いにセコンドに付くこともある。
秋山成勲 を激しく嫌っていると見受けられる発言を多くしており、体重差を無視して秋山に対戦を要求したが拒否された。
かつては「DREAMの大黒柱」を自称し、DREAMと日本の格闘技界への愛着を語っていた。
世界最高峰のUFC への参戦をファンから望まれていたが、金銭を始め様々な条件が障害となりUFCと契約する事を断念している[ 66] [ 67] 。青木はUFCと契約しない事に関して「人と同じキャリアを送りたくない。UFCと契約してしまうと自分のキャリアはUFCの作るキャリアになってしまう。『青木真也』が選択する『青木真也』オリジナルのキャリアを生みたい」と語っている[ 68] 。また、2013年 には「UFCに出ている選手が日本で一番でない事に問題があって、自分以外に日本一の選手が出てきてくれれば自分がこんなに批判される事はない」といった趣旨の発言をしている[ 69] 。
UFC参戦について、2009年頃は「僕は彼らと勝負しても十分に勝てるレベルにいると思うし。正直、僕はあと2年あれば総合格闘家としてジョルジュ・サンピエール やBJ・ペン と同じ領域にいけると思っています。」と発言していたが[ 70] 、2016年には「UFC行ったら絶対負けるでしょ。だから行かないよ、絶対。」と発言している[ 71] 。
2013年の大晦日からプロレス色の強いIGF に参戦するようになるが、2014年 に自身のIGF参戦について「彼ら(大晦日に青木にオファーを出したDEEP )は競技をやりたいでしょうが、僕は競技をやりたくない。彼らには彼らの価値観、僕には僕の価値観がある」と語った[ 72] 。
2016年9月28日に『空気を読んではいけない』を出版。青木自身がtwitterで場所を告知して、集まったファンにサインをした本を路上で売り歩くゲリラ的な販促活動を行う。初版8千部を売り、重版2万部が決まった[ 73] 。
お笑い芸人のハリウッドザコシショウ は母親同士が姉妹である従兄弟だが[ 74] 、青木自身はTwitterで「ハリウッドザコシショウというお笑いの芸人さんが僕の従兄弟でして。。。そのネタ見たら衝撃でした。…びっくりするほどつまらないです」とコメントを残している[ 75] 。
ボクシングの亀田一家を稼げるプロ格闘家として純粋に一目置いており、亀田一家のおかげでスポットライトを浴びたボクサーもいると指摘している[ 76] 。
判定に関しては「勝てば幸運、負けたら自分のせい」と割り切っている。そのため、青木は試合において勝負をジャッジなど他人に委ねることなく勝ち切ることを心がけている[ 77] 。
ハイパーリカバリーが流行していた頃も、青木は減量の限界は3,4kgであるという考えを崩さなかった[ 78] 。
ロングスパッツの着用
総合格闘技の試合時に、ロングスパッツの着用が世界的に許可されなくなる中で、青木や盟友である北岡悟 は、ロングスパッツを着用して試合に臨んでいたため、ロングスパッツが試合に影響を与えているのでは、として2006年末頃から主にインターネット上で着用の是非が議論の的となった。これについて青木自身は「寝技の時に相手や自分の汗で滑りやすくなることがあるので、それを防ぐために着ている」と語っていた[ 79] [ 80] [ 81] 。
2010年7月10日のDREAM.15 の川尻戦では、ロングスパッツでは無く普通のトランクスを着用し、アキレス腱固めで一本勝ち。川尻戦後、自身のTwitter 上で「スパッツにウダウダ言ってたやつ合掌!」と発言した。
秋山成勲との因縁
2008年9月、DREAM.6 ミドル級グランプリ2008 決勝戦 のトッド・ムーア 戦勝利後リング上で「秋山“マイケル・ジャクソン”成勲先輩、この大黒柱と試合をしませんか?」と対戦を呼びかけ、翌日の会見でも「やらせてもらえるんであれば、僕は正々堂々と戦います」と対戦をアピールした。しかし会見に同席していた秋山は「正直に言わせてもらうと、興味ないです。今は吉田(秀彦)先輩にしか目は行ってないので、そっちのほうに集中したい。(吉田戦を)やることに意味があると思っているんで」と眼中にないと返答。その後、秋山はUFC 、青木はONE Championship に主戦場を移し、対戦は実現不可能となっていた[ 82] 。
しかし、2019年から秋山がONE Championship に移籍。青木は2021年4月28日のエドゥアルド・フォラヤン戦勝利後インタビューにおいて「いま日本の放送席にいる秋山、秋山! 適当なことやってんじゃねえよ、試合で穴空けたこと分かってんだろ? 次はお前だ、首洗って待っとけ」と解説を務める秋山に対戦要求し、秋山も「実現できることを願っています」と対戦に前向きな返答をした[ 83] 。
また、2021年10月のRoad to ONE: 5th Sexyama Editionで、グラップリングマッチを戦った試合後のマイクで主催者の秋山に対し「オイ、お前何で(試合を)断ったんだよ。笑いごとじゃないんだよ、何とか言えよ!嘘を付くんじゃねぇよ!何とか言えよこの虚構野郎!」と直接問いかけた。秋山は「断った理由として筋肉を断裂して……」と言うと即座に青木は「だから何だよ。2カ月あればやればいいじゃないか。お前の言うことは正論だろ。お前がやる気あるならやれよ、『格闘技を盛り上げる』なんて綺麗事で、ONEと一緒だよ。オメエに覚悟あるんだったらなやってみろよ」と否定。秋山は「もちろんやらないという選択肢はないんだ。当たり前のようにやるつもりでいるし。まあ、待ってろよ」と答えると、青木は「はっきり言ってやるよ。オマエにそんな時間ないんだよ」と答えた[ 84] 。
2022年2月24日、2人の対戦が正式発表された。
2022年3月26日、ONE Xにて秋山戦が実現し、2R 1分50秒パウンドでのTKO負けを喫した。
書籍
DVD
跳関十段 青木真也(2006年3月18日)
跳関十段 青木真也 2(2008年2月20日)
跳関十段 青木真也 3(2010年3月20日)
脚注
関連項目
外部リンク
前王者 朴光哲
第2代ONE 世界ライト級 王者
2013年4月5日 - 2016年11月11日
次王者 エドゥアルド・フォラヤン
前王者 エドゥアルド・フォラヤン
第6代ONE 世界ライト級 王者
2019年3月31日 - 2019年4月17日
次王者 クリスチャン・リー
選手
スタッフ
役員 王座
興行
トーナメント・リーグ戦
ビッグマッチ
DDTブランド 他団体との共催 独立
関連項目
カテゴリ
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