高木三四郎
髙木 三四郎(たかぎ さんしろう、1970年1月13日 - )は、日本の男性プロレスラー、実業家。血液型A型。DDTプロレスリング所属。本名:髙木 規(たかぎ ただし)。大阪府豊中市出身。 DDTプロレスリングとプロレスリング・ノアを傘下に持つ株式会社CyberFight(サイバーファイト)の前代表取締役社長で現在は取締役副社長を務めている。 来歴高木の幼少期は、テレビ好きで活発な性格の子供であった。ある日父親が勤務するテレビ局のスタジオを訪れた際、制作現場に触れ、その裏方の世界に強く魅了されるようになったという。 また「オープンタッグ選手権」のザ・ファンクスvsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク戦をきっかけとしてプロレスに興味を持ち、教室ではプロレスごっこをしていた。この頃から将来の夢はプロレスラーになることであったという[1]。 関西大倉高校に進学した際にはプロレス好きの部員ばかりであった柔道部に入部した。顧問の先生が老齢で休みがちなことをいいことに柔道部では好き勝手していたといい、柔道の受け身などをロクにやらず、バックドロップやブレーンバスターで投げられることでバンプを身に着けていった。柔道場での練習はプロレス技ばかりであり、部は柔道部を装ったプロレス部というべき様相を呈していた。実際に柔道の昇段試験で高木はバックドロップを決めて一本勝ちしている[1]。 高校卒業後は駒澤大学に進んだが、駒大には学生プロレス部がなく、代わりにプロレス観戦を熱心に行った。1988年、新生UWFが旗揚げした春に、当日券狙いで前日の夕方から後楽園ホールの外へ並んでチケットを買ったこともある。この時一緒に徹夜したのが中島修明(元DDTスタッフ)である。 しかし大学3年生の頃にはプロレス熱が冷め、幼少期のテレビっ子ぶりが姿を見せるようになった。東京へ行ったらテレビに出たいとの願望があった高木は、大学の「テレビ番組研究会」に入会したのがきっかけでスタジオ観覧者やエキストラを派遣するようになる。さらに麻布十番の「マハラジャ」でのディスコパーティーへの参加がきっかけで、自身の手で一体になって盛り上がるイベントを開催したいと思いが現れ、最終的には在学中に芝浦で手がけたイベントで3,000人の集客に成功する[2][1]。 次々とイベントを成功させた高木は、どのディスコに行ってもVIPルームに通され、大手テレビ局のプロデューサーや芸能関係者からも一目置かれる存在となっていた。この頃の経験から、プロデュース力、イベント成功のノウハウ、さらには観客論といったのもを学んだという。また後に高木は、当時ジュリアナ東京でイベントを開催した経験などが、DDTが映像を用いた演出をいち早く取り入れた団体になったことに繋がったと語っている[1]。 このままイベント業界に進むかと思われていた高木は、ブレーメン大島に出会い横浜市鶴見区の屋台村・ヨンドンで定期的に行われていた屋台村プロレスの広報スタッフとしてプロレスに携わることになる。1994年3月に大学を卒業、同年8月にIWA格闘志塾に入門し、屋台村プロレスに参加。屋台村プロレスで試合をしており、12月31日の鴨井長太郎との試合でデビューを果たしているが、屋台村プロレスは正式な記録を取っていないため、正式デビューは翌1995年2月16日のPWC渋谷大会におけるトラブルシューター・コウチ(現:高智政光)とされていることが多い。屋台村でデビューしてからも、イベント活動は続けていたが、サークル仲間からは「高木さん、なんでプロレスなんかやるんですか?そんなの儲からないじゃないですか。何千人と集めることができる高木さんが屋台村なんてところで酔っ払い相手にプロレスって…」と呆れられていた。金銭的にも居心地の良さ的にもイベントプロデューサーの道を選択した方が賢明なのは明白であったが、これに関して高木は「あとは…本当に意地だけでしたね。認められていないという現実が悔しくて。イベントとかディスコに行けばVIPルームに通されていた自分がプロレス界では一兵卒で、業界からも同業者からも黙殺されて。それって、俺の人生ではないな…との思いが強かったんです」と答えている[1]。 1996年にPWCへ移籍するも、すぐにフリーとなる。この年、第41回衆議院議員総選挙に神奈川県第9区から、本名の高木規として自由連合公認で立候補するも、5人中最下位で落選する(2,788票で供託金没収。この時の選挙ポスターは、ハードコア戦で「精神的な凶器」として使われる事がある)[3]。 1997年にDDTプロレスリングの旗揚げに参加、以降エースとして団体を盛り上げる。 2000年12月14日、KO-D無差別級王座を獲得。2003年1月31日、KO-Dタッグ王座獲得(パートナーは橋本友彦)。 2004年1月、加代子夫人と結婚[4]。加代子夫人は両国ピーターパン2017のウェポンランブルとして登場し、高木にムーンサルトプレスを決めている[5]。 2006年1月29日に社長争奪ロイヤルランブルを制し、DDTの社長に就任。以後は「大社長」の肩書きで、DDTの成長に力を注いだ。鈴木健想(現KENSO)と電流爆破マッチを敢行する。 2008年4月、初の著書「俺たち文化系プロレスDDT」(太田出版)を出版。そのプロモーションとして東京・中井の伊野尾書店にて飯伏幸太を相手に「本屋プロレス」を行う。 2008年12月、後楽園大会でHARASHIMAを相手にKO-D無差別級選手権を防衛した直後、翌2009年8月にDDT初の両国国技館大会開催を発表。「自分たちのなかで限界を作ってたんじゃないのか?そんなことやったって上に行けないんだよ!限界を作ってたらなにもできないよ!」と団体創設以来初のビッグマッチ開催への意気込みをマイクで語った。 2009年8月、DDT初の両国国技館大会「両国ピーターパン 〜大人になんてなれないよ〜」を開催。8865人(超満員札止)の観衆を集め、見事成功を収める。この年米国のプロレス業界紙「レスリング・オブザーバー」のレスリング・オブザーバ・アワード2009のベストプロモーター部門第2位に選ばれた。 2010年2月11日KO-Dタッグ獲得。パートナー澤宗紀の意向により初防衛戦をスポンサーの工場(宮地エンジニアリンググループ)で行い防衛成功(vs GENTARO・中澤マイケル)。試合後、対戦相手のGENTAROから、「葛西純どころじゃねぇ!本物のキチ○イだよ!」と言われた。 2010年9月26日、マッスル坂井との引退セレモニーランブル(敗者は即日引退)に敗れ、現役引退。同時に、翌日の現役復帰を宣言。 2010年10月7日、DDT48総選挙結果発表の場において、同年12月をもって傘下団体のユニオンプロレスに移籍することを発表。ユニオンへは「TKG48」として乗り込む。その後、2011年限りでDDT社長として「武道館ピーターパン」の準備に集中するためユニオンでの活動を休止し、TKG48も解散。 2012年からは、社長であるにもかかわらず「DDTには反体制が足りない」と宣言。「反体制軍」を結成し、DDTゼネラルマネージャーの鶴見亜門と対立。その後反体制軍は「nWJ(new World Japan)」に発展。高木曰く「日米の反体制ユニット、維新軍とnWoをミックスしたユニット」。最高顧問には、元WJプロレスの永島勝司を迎えた。現在は、大鷲透・平田一喜と共に3人組ユニット『T2ひー』の一員として活動中。 2015年5月5日、WRESTLE-1の最高経営責任者に就任[6]、2017年4月まで勤めた[7]。 2018年4月1日、後楽園ホールで行われた「April Fool 2018」の「敗者追放マッチ」でDDTプロレスリングを追放される。 2020年1月29日、プロレスリング・ノアを運営するノア・グローバルエンタテインメントの社長に就任したことが発表された[8]。 2020年9月1日、DDTプロレスリングとノア・グローバルエンタテインメントの経営統合により設立された新会社・株式会社CyberFight発足に伴い、引き続き同社の代表取締役社長に。 2023年9月18日には東京から名古屋に向かう新幹線のぞみ号の車両内で鈴木みのると対戦。「新幹線プロレス」と銘打ったこの試合は、ABCやBBCといった主要海外メディアで取り上げられるなど反響を呼んだ。[9][10] 2024年1月3日、後楽園ホールで行われたDDTの興行の中で、同年7月21日の両国国技館大会を最後にプロレスラーとしての活動を休止し、経営に専念することを発表した。背景には自身の体調不良と、経営面での後継者育成という2つの問題があり、これらをクリアした際にはプロレスラーに復帰したいと語っている[11]。 人物
得意技「和製ストーン・コールド」のイメージが強いが、基本的にはアメリカンスタイルの技が顕著である一方、耐死使用の破天荒なファイトが大きな魅力。リング以外にも、路上やドーム球場といった場面でもエンタメ的なプロレスを見せる時もある。
入場曲
タイトル歴
著作メディア出演テレビ
Webテレビ
映画
脚注
外部リンク
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