1950年の大洋ホエールズでは、1950年の大洋ホエールズの動向をまとめる。
この年の大洋ホエールズは、チーム創設1年目のシーズンであり、渡辺大陸が1年だけ監督を務めたシーズンである。
概要
1949年に巨人の正力松太郎オーナーが「プロ野球発展のためにも、2リーグ制にするべき」と発言。正力発言を受けて各企業がプロ球団の創設に動いたが、その過程で大洋漁業の社会人チームは主力選手をごっそり持っていかれる事態。これを受けた大洋漁業の中部兼市社長(創業者・中部幾次郎の長男)は「わが社もプロ野球チームを作ろう。そのためにも他球団から選手を持ってこい」と役員(この当時弟の中部謙吉は公職追放されていた)に大号令をかけ、こうして現在も続く「横浜DeNAベイスターズ」の前身・大洋ホエールズが誕生した。
チームは球団創設1年目にして同じく主力選手を引き抜かれた阪神と4位争いを演じたが、最終的には勝ち越しながらも5位でシーズンを終えた。投手陣は高野裕良の25勝を筆頭に2ケタ勝利投手を4人輩出したが、打線の援護で勝つ試合も多くチーム防御率は4.47のリーグ5位。打撃陣は4番で後に選手兼任監督を務める藤井勇がチーム最多の34本塁打、正捕手門前真佐人が25本塁打を放つなどチーム打率.273でリーグ3位。1年目を勝率5割で終えたものの1953年の松竹との合併、そして翌1954年から始まる6年連続の最下位とホエールズは1960年の初優勝まで苦難の連続で、チームも下位をさまよい続けた。
この年、一応の本拠地として下関市営球場を定めるが、当時は交通事情の問題、また地方都市での遠征試合を積極的に行った影響などもあって、140試合(20回総当たり)でありながら下関での開催はわずか9試合[2]であり、6月21日(於・兼六園球場)を皮切りに、8月27日(於・後楽園スタヂアム)までの2か月間、下関を離れて北は旭川市から西は山口県東部の徳山市(現・周南市)までの17会場・36試合を足掛け70日間行脚するという異例の日程が組まれたことがあった[3]。
チーム成績
レギュラーシーズン
1950年セントラル・リーグ順位変動
順位
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3月終了時
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
|
10月終了時
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最終成績
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1位
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中日 |
--
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中日 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
2位
|
松竹 |
1.0
|
松竹 |
0.0
|
中日 |
1.0
|
中日 |
5.0
|
中日 |
5.0
|
中日 |
7.5
|
中日 |
9.0
|
中日 |
8.5
|
中日 |
9.0
|
3位
|
巨人 |
2.0
|
巨人 |
2.5
|
巨人 |
8.0
|
巨人 |
6.5
|
巨人 |
11.5
|
巨人 |
10.5
|
巨人 |
10.5
|
巨人 |
14.0
|
巨人 |
17.5
|
4位
|
大洋 |
3.0
|
大阪 |
10.0
|
大阪 |
10.0
|
大阪 |
8.5
|
大阪 |
14.5
|
大洋 |
20.0
|
大阪 |
22.5
|
大阪 |
25.5
|
大阪 |
30.0
|
5位
|
大阪 |
5.5
|
大洋 |
10.0
|
大洋 |
12.0
|
大洋 |
11.5
|
大洋 |
15.0
|
大阪 |
22.5
|
大洋 |
24.0
|
大洋 |
27.0
|
大洋 |
31.0
|
6位
|
西日本 |
7.0
|
西日本 |
11.5
|
西日本 |
18.0
|
西日本 |
19.0
|
西日本 |
22.0
|
西日本 |
28.5
|
西日本 |
34.5
|
西日本 |
43.5
|
西日本 |
48.5
|
7位
|
広島 |
7.5
|
広島 |
18.0
|
広島 |
20.0
|
広島 |
20.0
|
広島 |
25.5
|
広島 |
36.5
|
広島 |
43.0
|
広島 |
49.5
|
国鉄 |
57.5
|
8位
|
国鉄 |
10.0
|
国鉄 |
20.0
|
国鉄 |
27.0
|
国鉄 |
29.5
|
国鉄 |
34.5
|
国鉄 |
42.5
|
国鉄 |
48.5
|
国鉄 |
54.0
|
広島 |
59.0
|
[1]
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
脚注
注釈
出典
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1953年開幕直前に松竹ロビンスと球団合併 |