1992年の横浜大洋ホエールズ(1992ねんのよこはまたいようホエールズ)では、1992年の横浜大洋ホエールズにおける動向をまとめる。
この年の横浜大洋ホエールズは、須藤豊監督の3年目のシーズンである。
概要
前年オフに中山裕章が幼児への強制わいせつ事件を起こし退団、さらに肝臓がんで休養していた大杉勝男前打撃コーチが退団するなど暗いニュースの相次いだ大洋はラリー・シーツを獲得し、打線の強化を図った。しかし開幕ダッシュに失敗し5月終了時までに借金11、その責任を取り須藤監督が5月3日から休養し江尻ヘッドコーチが監督代行に就任した(須藤監督は5月23日辞任)。江尻新監督はチーム改革に着手し、先発だった盛田幸妃をセットアッパーに配置転換して盛田・佐々木主浩のダブルストッパー体制を確立し、石井琢朗・進藤達哉らの若手を積極的に起用した。これらの改革は功を奏し、チーム状態が次第に上昇した。しかし開幕ダッシュの失敗が響き、シーズンを5位で終えた。また、親会社の大洋漁業がCIを導入するのに伴い球団創設の1950年から使われてきた「大洋ホエールズ」の名称が使えなくなり、翌年から名称を「横浜ベイスターズ」に変更することが発表され、横浜大洋ホエールズとしての公式戦最終戦となることが決定していた試合に、大洋一筋15年で134勝を挙げこのシーズン限りの引退を表明していた遠藤一彦が先発した。この試合の3番手でルーキーの三浦大輔がプロ初登板しており、ホエールズを長年支えた遠藤とベイスターズを長年支えた三浦の新旧エースが競演した最初で最後の試合となった[2]。投手陣は前年15勝の野村弘樹が開幕から打ち込まれる試合が多くわずか5勝に終わり、セットアッパーの盛田が最優秀防御率、守護神の佐々木が21セーブをあげるなど救援陣の活躍でチーム防御率3.75と健闘。打撃陣は本塁打が97本で前年より増加したものの、チーム打率最下位に終わった。
チーム成績
レギュラーシーズン
[3]
1992年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
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最終成績
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1位
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広島 |
--
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ヤクルト |
--
|
ヤクルト |
--
|
ヤクルト |
--
|
ヤクルト |
--
|
阪神 |
--
|
ヤクルト |
--
|
2位
|
阪神 |
2.0
|
広島 |
0.5
|
阪神 |
2.0
|
阪神 |
1.5
|
巨人 |
2.5
|
ヤクルト |
1.0
|
巨人 |
2.0
|
3位
|
ヤクルト |
3.5
|
阪神 |
1.0
|
巨人 |
3.5
|
巨人 |
2.0
|
阪神 |
3.0
|
巨人 |
1.5
|
阪神
|
4位
|
中日 |
4.0
|
中日 |
4.0
|
広島 |
5.0
|
広島 |
3.0
|
広島 |
5.0
|
広島 |
4.0
|
広島 |
3.0
|
5位
|
巨人 |
5.0
|
巨人 |
9.0
|
中日 |
6.0
|
中日 |
8.0
|
大洋 |
10.5
|
大洋 |
6.0
|
大洋 |
8.0
|
6位
|
大洋 |
6.5
|
大洋 |
9.5
|
大洋 |
7.5
|
大洋 |
9.5
|
中日 |
15.0
|
中日 |
8.5
|
中日 |
9.0
|
期間 成績
|
7勝13敗 勝率.350
|
10勝15敗 勝率.400
|
11勝7敗1分 勝率.611
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7勝11敗 勝率.389
|
13勝11敗 勝率.542
|
12勝8敗 勝率.600
|
1勝4敗 勝率.200
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オールスターゲーム1992
できごと
選手・スタッフ
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監督 |
- 78 須藤豊(5月2日まで)
- 91 江尻亮(5月3日から(5月22日までは代行))
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一軍コーチ | |
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二軍監督・コーチ | |
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投手 | |
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捕手 | |
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内野手 | |
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外野手 | |
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[4]
表彰選手
ドラフト
脚注
注釈
- ^ スタメン発表時は一塁手。
- ^ 偵察メンバーの水尾嘉孝(左翼手)と交代。
- ^ 偵察メンバーの野村弘樹と交代。
出典
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1953年開幕直前に松竹ロビンスと球団合併 |