1964年の大洋ホエールズでは、1964年の大洋ホエールズの動向をまとめる。
この年の大洋ホエールズは、三原脩監督の5年目のシーズンである。
概要
開幕から自慢の打線「メガトン打線」は打ちまくり、阪神とのデッドヒートの果て、前半折り返し時点では首位大洋、2位阪神との差は6.5ゲームと引き離した。だが後半メガトン打線の「夏休み」で連敗が続き前半以上の阪神との激しいデッドヒート、そして9月18日の中日に勝った大洋は、20日の対阪神戦ダブルヘッダー、22日の対巨人戦ダブル、24日の対阪神戦ダブルの計6戦に「3勝3敗」以上で優勝となるところまできた。その後20日の阪神戦は阪神の連勝になるも、続く巨人戦は大洋が連勝。24日の阪神戦は台風の影響で2日延びて26日に行われるが、大洋は連敗して全日程を終了。阪神の残り3試合「29日の国鉄戦、30日の中日戦ダブル」が3連敗か1勝2敗なら大洋の優勝となる。しかし阪神はこの3戦を全勝し優勝をさらわれてしまった。大洋はこの年以後横浜ベイスターズ時代の1998年に優勝するまで、優勝はおろか優勝争いとは無縁の球団になってしまう[注 1]。投手陣は3年目の稲川誠が秋山登と並んでチーム最多の21勝、新人王の高橋重行が17勝をあげるなど、打高傾向の中でもチーム防御率3点台を記録。打撃陣はリーグ2位の134本塁打、リーグ1位のチーム打率.255とメガトン打線が活躍した1年間だった。この年からユニフォームに、日本球界初の背ネームを採用。ただしホーム用は本拠地名の「KAWASAKI」で、ビジター用は後期より選手名を着けるというやり方だった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1964年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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最終成績
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1位
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大洋 |
--
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阪神 |
--
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大洋 |
--
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大洋 |
--
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阪神 |
--
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阪神 |
--
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2位
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阪神 |
2.5
|
大洋 |
0.5
|
阪神 |
3.5
|
阪神 |
5.0
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大洋 |
2.0
|
大洋 |
1.0
|
3位
|
巨人 |
3.0
|
巨人 |
5.5
|
巨人 |
8.5
|
巨人 |
8.5
|
巨人 |
9.0
|
巨人 |
11.0
|
4位
|
国鉄 |
6.0
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広島 |
6.5
|
広島 |
11.0
|
国鉄 |
12.5
|
国鉄 |
15.0
|
広島 |
16.5
|
5位
|
広島 |
7.0
|
国鉄 |
7.0
|
国鉄 |
13.0
|
広島 |
13.0
|
広島 |
15.5
|
国鉄 |
18.5
|
6位
|
中日 |
8.5
|
中日 |
10.5
|
中日 |
18.0
|
中日 |
21.0
|
中日 |
24.5
|
中日 |
25.0
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[1]
オールスターゲーム
できごと
- 7月12日 - 巨人戦の9回表、レフトの守備についていた長田幸雄目掛けてウイスキーの空き瓶が投げられ、怒った長田は空き瓶を投げ付けた犯人近くの客に「その男を捕まえろ!」と怒鳴るも、犯人が逃げ出した事から、長田はフェンスの金網をよじ登って観客席へ乱入する。まもなく犯人は警備に当たっていた川崎署員に取り押さえられ、長田はグラウンドに戻るも退場を宣告させられる。
選手・スタッフ
表彰選手
脚注
注釈
- ^ 1979年には15年振りの2位になるが、この年は広島が8月以降独走したため優勝争いには加わらなかった。
- ^ 1960年に一塁手部門で受賞しており、通算5度目。
出典
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1953年開幕直前に松竹ロビンスと球団合併 |