1974年の大洋ホエールズ(1974ねんのたいようホエールズ)では、1974年の大洋ホエールズにおける動向をまとめる。
この年の大洋ホエールズは、宮崎剛が1年だけ監督を務めたシーズンである。
概要
慶應義塾大学の山下大輔がドラフト1位で入団したこの年、秋山登ヘッドコーチの発案でユニフォームが山下の出身地である静岡県の名産であるお茶とみかんをモチーフにしたデザインに変更された(当時の主力だった重松省三が週刊ベースボールのユニフォーム物語のインタビューで「あのころは静岡でキャンプしていたから、静岡のお茶にみかんの組み合わせがユニフォームにふさわしいと秋山さんが中部オーナーに提案した」と綱島理友に語っている)。また1950年以来長く続いたボタン式及びベルト式が廃止されて、プルオーバー&Vネック、ベルトレスとなった。2年連続のデザイン変更に選手もファンも戸惑いを隠せず、チームは前年と違って4位と5位を往復するエレベーター生活が続き、最終的に前半戦を最下位で折り返したヤクルトに抜かれて5位に転落。投手陣は二枚看板の平松政次がチーム最多の15勝をあげ、山下律夫・高橋重行などもそれなりの成績を収めるがチーム防御率は前年から悪化して4.28のリーグ最下位。打撃陣は松原誠、江藤慎一らの活躍でリーグ3位の143本塁打を記録したが、最下位の広島同様チャンスに弱くリーグ最多の121併殺打を記録した。ユニフォーム変更もチームの成績上昇には結びつかず、宮崎監督もわずか1年で辞任。中部オーナーは1960年初優勝のV1戦士・秋山登ヘッドコーチを監督に昇格させ、秋山監督・藤田元司投手コーチ(巨人の川上哲治監督勇退に合わせ、藤田も退団していた)の新体制でチームの立て直しを図ることになった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1974年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
|
9月終了時
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最終成績
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1位
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中日 |
--
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巨人 |
--
|
阪神 |
--
|
阪神 |
--
|
巨人 |
--
|
中日 |
--
|
中日 |
--
|
2位
|
阪神 |
3.0
|
阪神 |
0.5
|
中日 |
3.5
|
巨人 |
2.0
|
中日 |
2.0
|
巨人 |
3.0
|
巨人 |
0.0
|
3位
|
巨人 |
4.0
|
中日 |
2.0
|
巨人 |
4.5
|
中日 |
2.0
|
阪神 |
4.0
|
阪神 |
10.5
|
ヤクルト |
12.0
|
4位
|
大洋 |
5.0
|
広島 |
5.0
|
大洋 |
6.5
|
大洋 |
6.5
|
ヤクルト |
10.5
|
ヤクルト |
13.0
|
阪神 |
14.0
|
5位
|
広島 |
6.0
|
大洋 |
6.5
|
広島 |
7.5
|
広島 |
9.5
|
大洋 |
13.5
|
大洋 |
14.0
|
大洋 |
17.5
|
6位
|
ヤクルト |
6.0
|
ヤクルト |
7.0
|
ヤクルト |
11.0
|
ヤクルト |
9.5
|
広島 |
15.0
|
広島 |
16.5
|
広島 |
19.5
|
[1]
オールスターゲーム1974
選手・スタッフ
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監督 | |
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一軍コーチ | |
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二軍監督・コーチ | |
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投手 | |
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捕手 | |
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内野手 | |
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外野手 | |
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表彰選手
ドラフト
出典
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1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
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1980年代 | |
---|
1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1953年開幕直前に松竹ロビンスと球団合併 |