いすみ市
太東岬から南方の海岸部は南房総国定公園に指定されている。大原漁港沖合には日本最大級の岩礁群がある好漁場であり、イセエビの漁獲量は日本一である[1]。 概要平成の大合併によって2005年(平成17年)12月5日に夷隅郡夷隅町、大原町、岬町が合併し、千葉県内34番目の市として誕生した。千葉県内において名前に平仮名を用いた市町村はいすみ市が初であり、唯一の存在である。 地域経済循環を拡大しての雇用の創出、地域資源の価値を再認識しての地域所得の向上、都市通勤圏にある自然豊かな地域性を生かしての人口減対策、豊かな自然環境・子育て支援の充実を発信しての地域の魅力の向上を目指した地方創生に取り組んでいる。 大原漁港沖合には器械根(きかいね)と呼ばれる日本最大級の岩礁(暗礁)群や海中林がある[2]。面積は約120平方キロメートルで、水深は20メートル程度[3]と魚介類の生息に向く適度な浅さである。親潮と黒潮がぶつかる海域でもあることから1900年代後半は宝の海とも呼ばれ、多種多様な魚をはじめイセエビやサザエ、アワビなどの海産物の宝庫で、好漁場となっている。特にイセエビは、外房イセエビと称され、プライドフィシュ・千葉県水産ブランド・いすみブランドに認定されている。 今後発生が予見されている南海トラフ巨大地震の際には、最大6mの津波が到達することが予想されている[4]。 交通事情を見ると、鉄道では東岸に沿ってJR外房線が走っている。大原駅から千葉駅までは、普通列車で所要時間65分程度、特急わかしおで蘇我駅までが40分、東京駅まで1時間10分である。大原駅は内陸部へ向かういすみ鉄道いすみ線との乗り継ぎ駅でもある。いすみ鉄道は菜の花列車(観光列車)としても知られる。 地理千葉県南東部に位置し、県庁所在地である千葉市から約45キロメートルの距離である。東京都の都心から70 - 80キロメートル圏内である。なお、東京都(特に東京国際空港(羽田空港)や神奈川県からは東京湾アクアライン若しくは東京湾フェリーを利用した場合が移動距離の短縮となる[5]。茂原市への通勤率は10.2%(平成22年国勢調査)。 北東部には九十九里平野の南端に位置する太東岬があり、ここで九十九里浜は終わる。これより南方は、少しずつ丘陵地になっており、沿岸部は南房総国定公園に指定されている。北東部では、稲作のほかに梨栽培をする農家も見られる。南西部はなだらかな房総丘陵に連なっており、荒木根山(三等三角点・標高157.8メートル)や、市域最高地点(勝浦市境の無名丘陵・標高187メートル)が所在する。中央部には溜池や河川水を利用した水田が広がる。南部では、特に国道128号沿線から海岸まで丘陵地が続き、磯海岸になっている。 当市内を塩田川と支流の新田川、夷隅川と支流の落合川・桑田川が流れる。穏やかな起伏の丘陵地の谷津には水田が見られる。丘陵地には、夷隅地域に荒木根ダム、大原地域に東第一・第二ダム、岬地域に岬ダムがある。 隣接する自治体歴史概略古代古代の当地域は伊甚国と呼ばれていた。『日本書紀』安閑天皇元年(534年)の条には、伊甚国の国造の伊甚稚子の真珠献上が遅れ尋問のため都に上った国造が春日皇后の寝殿に逃げ込んだが、その罪を免れるため自らの領地を献上し伊甚屯倉となったという記事がある。この時の真珠はアワビの中に出来る真珠と考えられ、当地域から大和朝廷にアワビや真珠などの海産物を献上していたと推測される。また、『類聚国史』弘仁7年(816年)8月23日の条には、夷灊郡衙の諸施設で火災が発生し、正倉60棟が焼け落ちたという記載があるが、この正倉の数は他の郡衙に比べて極めて多い。これらのことから当地域は古代から海産物や農産物が豊富であり、朝廷にとっても重要な地域であったと考えられる。 中世鎌倉時代末、禅僧として有名な夢窓疎石がこの地で隠棲生活を送った。夢窓疎石は建治元年(1275年)に伊勢国に生まれ、その後甲斐国に移り、9歳で出家、20歳で禅宗に入門し夢窓疎石と名乗り行脚に出て、全国各地を遍歴した。疎石は後醍醐天皇など7代の天皇・上皇から帰依を受け国師号を賜り、足利尊氏・直義兄弟ら時の権力者からも帰依を受けるなど当時を代表する名僧となり、鎌倉瑞泉寺、甲斐恵林寺、京都天龍寺などを開山する。また、作庭家としても有名で、開山した寺院以外にも、京都西芳寺などの庭を作庭している。元亨3年(1323年)1月、横須賀の泊船庵から千町荘能実(いすみ市能実)の退耕庵に移り住み、正中2年(1325年)の秋、後醍醐天皇に請われ京都南禅寺の住持となるまでの約2年半、この地で隠棲生活を送る。長い修行の終着地が退耕庵だったと言える。現在も疎石が修行のため籠ったとされる坐禅窟(県指定史跡)が残り、奥壁には、疎石が自ら刻んだとされる「金毛窟」の刻銘が確認される。坐禅窟の前方には太高寺があり、疎石のものとされる袈裟2領(県指定文化財)が伝わっている。「能実」という地名は疎石が、この地に稲が能く実るようにという思いを込めて付けたと伝わる。 戦国期になると、上総土岐氏が当地域を支配するが、その領域は現在のいすみ市域とほぼ重なる。土岐氏の勢力は決して大きく無かったが、県内でも屈指の中世城郭万喜城を築き、庁南武田氏、安房の里見氏、正木氏をはじめとする周辺の勢力と渡り合った。土岐氏は土岐為頼が当主の頃に最盛期を迎え、万喜城を拠点に夷隅川流域に多くの支城を築き勢力を拡大していった。万喜城は夷隅川を堀の代わりにし、水運も利用でき、城を築くには絶好の立地条件にあった。 万喜城は幾度か周囲の敵に攻められたが、落城したという記録は残されていない。最終的には、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐で、為頼の子・頼春(義成)が小田原北条氏側に属したため、豊臣方に包囲されて開城したものと思われる。一時、徳川四天王の一人、本多忠勝が入城したが、大多喜城に移った後は廃城となった。 近世本多氏による支配では、特に本多忠朝の代に新田開発が積極的に進められた。市域の多くは大多喜藩の領地であったが、本多氏の転封後は、大多喜藩、苅谷藩をはじめ旗本領や各藩の飛地領に細分化された。著名な領主としては、岩熊村(岬町岩熊地区)を領した、遠山金四郎家が挙げられる。江戸時代の中期になると沿岸地域では地引網漁が盛んになり、賑わうようになった。それを裏付けるように、大原から岬地域周辺の寺社には多くの大漁絵馬が奉納されている。この頃には五穀豊穣・大漁祈願をする祭礼も行われるようになり、市内でも大原はだか祭、中根六社祭、上総十二社祭などが現在にも引き継がれている。 江戸時代中期、現在の岬町長者地区では宇佐美灊水、中村国香に代表される儒学者を輩出した。中村国香は、房総各地を巡り、寺社や史跡、伝承を採録した地誌『房総志料』を編纂した。『房総志料』は、読本作家曲亭馬琴が『南総里見八犬伝』の執筆にあたり大いに参考にした。 江戸時代後期には、「波の伊八」として有名な彫刻師である武志伊八郎信由が、円熟期から晩年までの間、行元寺や飯縄寺などに傑作の欄間彫刻を彫った。なお、伊八の波の作風は、浮世絵師として著名な葛飾北斎の富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」の波の造形に影響を与えたともいわれている。 近代明治維新後の廃藩置県では、市域は大多喜県・花房県・宮谷県の管轄区域となったが、のちに木更津県、そして現在の千葉県となった。 明治初期の自由民権運動の広がりにより、市域でも、私塾「薫陶学舎」を創設した三島村(上布施地区)の井上幹らにより以文会が結成された。1884年(明治17年)11月の夷隅事件により官憲からの弾圧を受けたが、以文会はその後も大政翼賛会の結成まで戦前を通じて千葉県政に大きな影響を与え続けた。 房総鉄道の整備に伴い、夷隅川河口付近から大原海岸にかけては、東京方面から多くの人々が訪れる避暑地となり、別荘も建てられるようになった。 この時期多くの著名人も当地を訪れている。作家山本有三は、大原海岸の塩田川河口近くの旅館に逗留し、この周辺を舞台にした小説「真実一路」を著した。林芙美子は「放浪記」の中で、日在海岸の情景や人々との交流の様子を記している。 文豪森鷗外は夷隅川の河口近く(日在地区)に別荘を建て、「妄想」の中で周辺の光景を描写している。鷗外の別荘近くには、鷗外の親友で陸軍軍医の賀古鶴所、日活の前身であるM・パテー商会など映画事業で財を成して中国の革命家孫文の革命運動を支援した梅屋庄吉の別荘もあった。 昭和初期には国吉周辺で生産された米は「国吉米」として東京方面に出荷され高値で取引され、皇室献上米にもなった。現在でも「いすみ米」としてそのブランドは引き継がれている。 沿革
行政区域変遷現いすみ市市域に関連する行政区域変遷 1889年(明治22年) 1893年(明治26年) 1899年(明治32年) 1900年(明治33年)
1953年(昭和28年)
1954年(昭和29年) 1955年(昭和30年)
1961年(昭和36年)
2005年(平成17年)
人口平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、5.78%減の38,594人であり、増減率は千葉県下54市町村中38位、60行政区域中44位。
行政市長市役所
立法県政
国政警察・消防・救急救命
国の機関県の機関
市の機関
地区
経済産業
夷隅川流域や大原浪花地区では粘土質の地質を活かして水田が多く、コシヒカリ・ふさおとめ・ふさこがねなどが生産されている。なお、いすみ米は皇室献上米[注 1]として扱われた歴史をもつほど味、形共に優れ、早場米としても知られる。岬町谷上地区から隣接の一宮町にかけてナシの栽培が行われている。 山間部の里山地帯では、カキ・キウイフルーツ・シイタケ・タケノコ・ブルーベリー・マコモタケなどの栽培が行われている。温暖な気候を生かし、ハウス・露地栽培のキンギョソウ、食用ナバナなど商品植物の栽培も盛んである。 土着菌完熟堆肥センターを活用した「有機の里」づくりを目指し、土着菌を利用した有機栽培による農作物の栽培・販売を展開している。
大原地区の大原漁港を中心に岩船漁港と岬地区の太東漁港などは「夷隅東部漁業協同組合」を形成しており、器械根の漁業資源を活かして、漁協のイセエビ水揚げ量が日本一となっている。また、タコ漁も盛んである。夷隅川水系では川魚の放流も行われている。
漁港
地下資源として南関東ガス田由来の世界有数のヨウ素があり、市西部では天然ガスも含めて日宝化学、合同資源、伊勢化学工業などがかん水から採掘を行っている。
平地や人口が少ない夷隅郡市北西部や南部に比べ、国道128号沿線は比較的平地が広く人口も多いので、大型店が出店しやすいためか、当市内の国道128号沿線にはスーパーセンター(ベイシア、せんどう)、ホームセンター(カインズホーム、コメリ)、家電量販店(ケーズデンキ、ヤマダデンキ)などが出店し、夷隅郡市の経済中心地となっている。 本社・本店を置く企業
姉妹都市・提携都市旧夷隅町、旧大原町、旧岬町の姉妹・友好都市は、いすみ市に引き継がれる。 国内
海外地域住所表記旧大原町および旧夷隅町は「いすみ市」となるが、旧岬町(みさきまち)は「いすみ市岬町(みさきちょう)」となる。
教育専修学校
高等学校中学校
小学校
特別支援学校障害者支援施設
教育施設
医療二次医療圏(二次保健医療圏)としては山武・長生・夷隅医療圏(管轄区域:山武・長生・夷隅地域)である[9]。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。 施設郵便事業金融機関
交通鉄道路線
バス路線※以前は小湊鉄道・千葉中央バス・都自動車の路線が市内域を運行していたが、現在では純然たる民営の路線バスは市内では運行されていない。 道路
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事名所・旧跡
いすみ市旧大原町(城山地区、深堀地区)の文学碑は、山本有三の代表作「真実一路」の一路橋のそばに「真実一路碑」・若山牧水の歌碑、八幡岬に若山牧水・林芙美子の歌碑、椿の里に窪田空穂の歌碑がある。いすみ市大原の美しい風景や素朴な人情は多くの文人に愛され、昔から訪れた文人達の足跡が町内に散在している。別荘「鷗荘」をこの地に建てた森鷗外はじめ、若山牧水、井伏鱒二、前田夕暮、窪田空穂、斎藤茂吉、竹久夢二、鈴木信太郎[要曖昧さ回避]、宇佐美灊水、林芙美子など文人・墨客の心をとらえた。
観光スポット
海水浴場
祭事・催事
文化財→「いすみ市指定文化財一覧」も参照
著名な出身者
いすみ市を舞台・ロケ地とした作品ドラマ・映画のロケ誘致に積極的である。
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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