ミッキー・カーチス(Mickey Curtis[2]、1938年7月23日 - )は、日本のミュージシャン、ロック歌手、音楽プロデューサー、ハーモニカ奏者、俳優。東京府東京市赤坂区(現在の東京都港区)生まれ。植木等の死去後、所属しているワタナベエンターテインメントでは最古参の部類に入るタレントである[3]。
出生名はマイケル・ブライアン・カーチス(Michael Brian Curtis)、帰化後の本名は加千須 ブライアン(かちす ブライアン)、作詞家としては川路 美樹(かわじ みき)、レーサーとしてはブライアン・カーチス、落語家としてはミッキー亭 カーチス、華道家としては加千須 岩水(かちす がんすい)を名乗る。主演作品である『ロボジー』出演時に使用した五十嵐 信次郎(いがらし しんじろう)[4]は、出生名が英語であり、また、ハーフであることから戦時中に非国民とされ、いじめを受け、日本語の名前と日本人に憧れて子供の頃に作ったもの[5]。キャロル、ガロ、荒木一郎をプロデュースし、所属事務所によれば「5か国語が堪能」で、趣味もハーモニカ、宇宙研究、ピラミッド・パワー研究と多彩である[6]。
来歴
生い立ち
日英混血のバーナード三浦と、日英混血の百合子(リリー)・ブライアンの長男として生まれ、生後まもなく兵庫県神戸市の父方の祖母三浦レオニー(日本におけるイギリス刺繍の第一人者。昭和48年度神戸市文化賞受賞)に預けられる[7]。父方の祖父の三浦昇三は鉄道省国際観光局による観光通訳案内業試験の第1回合格者で、英作家サマセット・モーム、英俳優ノエル・カワード、のちのオランダ女王ベアトリックス王女、ベルギー国王ボードゥアン1世、元米大統領夫人エレノア・ルーズベルトらの通訳を務めた[8]。
1942年、第二次世界大戦中に父や母や姉とともに中華民国の上海に渡り、共同租界で生活。戦時中、実父が失踪してしまったため、イギリス国籍の義父を迎える。1945年秋に母や姉や義父とともに日本へ帰国、東京荻窪の母方の親戚宅に身を寄せる[7]。1946年、東京千歳烏山に転居。以後、長く千歳烏山に住む。
1950年、和光学園小学校の5年生に編入学[7]。和光高等学校在学中、1955年頃、ティーブ・釜萢が校長を務めた「日本ジャズ学校」に通う[7]。1958年、成城大学文芸学部文芸学科映画科に入学するも、のち中退[9]。
「ロカビリー3人男」
戦後は日本の占領に当たった連合国の一員であるアメリカ軍をはじめとした連合国軍兵士のキャンプ廻りや、朝鮮戦争に出征するイギリス軍などの国連軍兵士の慰問を行った。
その後、徐々に音楽活動が認められロカビリー歌手として1958年から始まった日劇ウェスタンカーニバルに出演。当時は平尾昌晃、山下敬二郎と共に「ロカビリー3人男」として高い人気を誇る[10]。1960年には第11回NHK紅白歌合戦に出場。この第11回紅白はラジオ中継の音声が現存し、2004年にもカーチスの歌の音声がNHKのラジオ番組で紹介されている。
多彩な活躍
この頃より歌手としての活動以外に、俳優、タレントとしても活躍しており、その頃は共演者でもあった雪村いづみとのロマンスなども話題となり婚約まで交わしたのちに破局。1962年に『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ)の初代司会者として共演した縁で芳村真理と結婚、1児をもうけたものの、1964年にわずか2年弱で離婚している。
デビュー当時に担当していたバック・バンドはロカビリーバンドのクレイジー・ウエスト(メンバーに加藤茶も在籍していた)であったが、1963年頃にはバック・バンドを再編し「ミッキーカーティスとシティ・クロウズ」を結成し、ラウンジ・ジャズなどを演奏しアルバム・レコードを発表した。
1966年にはヴァンヂャケット提供のテレビ音楽番組「VAN MUSIC BREAK」とのタイアップでメンバーチェンジとバンド名を「バンガーズ」に変更し東アジアを渡辺貞夫らと演奏旅行する様子が放送され、その後香港、バンコクにて長期滞在の演奏活動を行い、1967年に一時帰国後メンバーを刷新し「ミッキーカーチス&サムライ(当初はミッキー・カーチスとザ・サムライズ)」を結成し[11]、レコード用の録音を終えるとただちにヨーロッパへ旅立ち音楽ツアーや長期公演で[12]、ライブ活動のほか、西ドイツで二枚組アルバム・レコードを製作、イタリア、イギリスでシングル・レコードを発表し1970年に帰国後アルバム収録と短い期間公演活動を行い解散。
村井邦彦らとマッシュルーム・レコード創立に参画し音楽プロデューサーとして、合歓ポピュラ-フェスティバルのイベントで自作の曲『地球最後の日』が作曲賞を受賞。ガロや小坂忠、矢沢永吉のいたキャロル等を担当する。また、1973年には左とん平の楽曲『とん平のヘイ・ユウ・ブルース』をプロデュースした。
俳優・落語家
歌手活動にとどまらず、俳優として、『野火』、『独立愚連隊』、『スワロウテイル』、『お墓がない!』、『死に花』など、多数の映画に出演。殊に岡本喜八の監督作品では常連俳優であった。また、立川流落語会家元・立川談志との出会いにより、落語家「ミッキー亭カーチス」として「立川一門会」Bコースでは1998年に真打昇進している。
元々、学生時代は、学校をサボって寄席通いするほど落語好きで、単位が足りなくなったときも一席やって教師から単位を貰えるほどだったという。幅広いジャンルで活躍中で、「いつの時代でも若者の味方」というイメージが強く、『スワロウテイル』などで、それを不動のものとした。現在は、本人も、「そういう役柄ばっかだよ」と語るほど浸透している。2013年10月には、Dステ14th「十二夜」に、サー・トービー・ベルチ役で出演。
趣味
趣味は多く、射撃、モータースポーツ、オートバイ、宇宙研究から彫金、最近は養蜂を手掛けるなど幅広い。1960年代には元祖「タレントレーサー」としていすゞ自動車とワークス契約を結んだこともあり、1980年代には東京都目黒区にオートバイショップ「ブライアン・カーチス」を開いていたこともある。
所属事務所経歴
アクターズプロモーションを経てワタナベエンターテインメントに所属。
家族
両親共に日本人とイギリス人のハーフ[13]。
1962年に芳村真理と結婚したが1964年に離婚。芳村との間に授かった息子は元歌手の大伴修。
1971年にタレントの西野美代子[14](ミカカーチス)と再婚するが、2002年、長い離婚訴訟の末に離婚した。西野との間に授かった長男が元ミュージシャンでいしだ壱成らとバンドを組んでいた加千須ユージン(邑壬カーチス)[14]。次男のトム・カーチス[14]はベーシスト。
2008年1月下旬に、33歳年下のピアノ講師[14]と再々婚した。
2022年10月より北海道名寄市在住[15]。
出演
テレビドラマ
映画
バラエティ
NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 |
曲目 |
対戦相手
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1960年(昭和35年)/第11回
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恋の片道切符
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森山加代子
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ラジオ
ラジオドラマ
書籍
PV
ゲーム
その他
- CM 日産ドラマinドラマ「あなたが追いつめる バカリーズムの兄弟」(2013年) - 森山 役
- ひるまえほっと (2024年11月27日)[26]
ディスコグラフィー
「ミッキーカーチス&サムライ」名義で発売した作品はミッキーカーチス&サムライ#ディスコグラフィーを参照(1967年~1971年)。
SP
- ミッキー・カーチスとクレージー・ウェスト / 月影のなぎさ/小熊のテデー(1958年2月。日本ビクター A-5228)
- ミッキー・カーチス / 君は我がさだめ/おおジュリー(1958年4月。日本ビクター A-5231。 B面のバックはブライト・リズム・ボーイズ)
シングル
- ミッキー・カーチス / 君は我がさだめ/おおジュリー(1958年4月。日本ビクター AS-6014)
- ミッキー・カーチスとデューク・エイセス / 浮気なパトリシア/ファースト・ロマンス(1958年11月。日本ビクター AS-6019)
- 雪村いづみとミッキー・カーチス / 恋の片道切符/ミッキー・カーチス / おおキャロル(1960年2月。日本ビクター AS-6024)
- ミッキー・カーチスとブライト・リズム・ボーイズ / G.I.ブルース/イッツ・ナウ・オア・ネヴァー(1961年2月。日本ビクター VS-457)
- ミッキー・カーチスとブライト・リズム・ボーイズ / カレンダー・ガール(1961年6月。日本ビクター VS-507。B面は島田マリ「素敵なひととき」)
- ミッキー・カーチス / それだけの幸せ/また陽がおちる(1972年。ヴァーティゴ/日本フォノグラム FX-5)
- ミッキー・カーティス / みんなのアイドル/全ては時の流れるまま(1972年。ヴァーティゴ/日本フォノグラム FX-12)
- ミッキー・カーチス&ポーカーフェイス / 雨の日には・・・/スーパー・センチメンタル(1976年。ブラック/テイチク BC-1007)
- ミッキー・カーチス&ポーカーフェイス / 北風/知りたくないの(1976年。ブラック/テイチク BC-1036)
- ミッキー・カーチス / ヴァイブレイション/ここはオアシス(19??年。六本木シティ/日本フォノグラム FW-2509)
- 平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎 / 上陸!ロックン・ロール・タイフーン/聖者の行進(1977年6月。CBS/SONY 08SH-158)A面は1950年代〜1960年代のロックンロールのヒット曲のメドレー。平尾昌晃、山下敬二郎と共演
- Bryan Curtis / One Way Ticket(1989年。Brian Curtis Records BCM-001。)
- KANREKIロック/ダンシン ワルツ(1998年6月24日。PANAM/日本クラウン CRDP-190。作詞:高田文夫、作曲:ミッキー・カーチス)
EP
- ミッキー・カーチスとクレージー・ウェスト / 森の小径~好きだった~月影のなぎさ~小熊のテデー(1958年3月。日本ビクター EV-2011)
アルバム
- ミッキー・カーチスとアイビー・ファイブ / 土曜はミッキーと(1958年7月。日本ビクター LV-21)
- ミッキー・カーチス / ミッキーの童謡(1961年3月。日本ビクター LV-181)
- 高山礼至、ミッキー・カーチスとシティ・クローズ / 魅惑のアコーディオン(1962年11月。日本コロムビア ALS-163)
- ミッキー・カーチスとシティー・クローズ / リズムで踊ろう(1963年2月。東芝音楽工業 JPO-1263)
- ミッキー・カーチスとシティー・クローズ / 今宵浜辺で(1963年4月。東芝音楽工業 JPO-1273)
- ミッキー・カーチスとシティー・クローズ / ミュージカル・ヒット・パレード(1964年3月。日本ビクター SLJ-5082)
- ミッキー・カーチス / 耳(1972年。ヴァーティゴ/日本フォノグラム FX-8602)
- 平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎 / ロックンロール~甦るロカビリー3人男(1972年11月。キング SKW-53/4)
- ミッキー・カーチス&ポーカーフェイス / ファースト・ゲーム(1976年。ブラック/テイチク BAL-1008)
- ミッキー・カーチス&ポーカーフェイス / スーパー・センチメンタル(1976年。ブラック/テイチク BAL-1017)
- ミッキー・カーチス&ポーカーフェイス / マラカイボ・マジック(1976年。ブラック/テイチク BBL-2004)
- ミッキー・カーチス&ポーカーフェイス / ロックン・ロール・スペシャル(1977年。ブラック/テイチク BBL-2007。カバーアルバム)
- ミッキー・カーチス&ポーカーフェイス / ロックン・ロール・スペシャル Vol.2(1977年。ブラック/テイチク BBL-2009。カバーアルバム)
- ミッキー・カーチス&ポーカーフェイス / カントリー・スペシャル(1977年。ブラック/テイチク BBL-2012。カバーアルバム)
- ミッキー・カーチス&ポーカーフェイス / ロックン・ロールハリケーン(19??年。六本木シティ/日本フォノグラム S-5005。ライブ・アルバム)
- 平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎 / 甦るロカビリー3人男(1977年。キング SKM-1410/1)
- ミッキー・カーチス&山本剛 / オータム・コレクション(1990年。Brian Curtis Records BCM-0100)
- ミッキー・カーチス / FROM THE MOON FOR THE TREES JUST ROCK'N ROLL(1994年10月5日。BMGビクター BVCR-3103/4。40周年記念アルバム)
- ミッキー・カーチス / Mr.RAINBOW(1996年8月21日。BMGビクター BVCR-766)
- ミッキー・カーチス / The CRAZYCURTIS Band(2005年12月1日。TRCL-0026)
プロデュース
- 「ルイジアンナ」キャロル(1973年)
- 「ファンキー・モンキー・ベイビー」キャロル(1973年)
- 「GAROファースト」ガロ(1971年)
- 「GARO2」ガロ(1972年)
スーパーヴィジョン
演じた俳優
脚注
関連項目
外部リンク
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女性タレント | |
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お笑い芸人 | |
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系列事務所 |
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関連人物 | |
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★は九州事業本部、▲は関西事業本部、△は名古屋事業本部所属。 |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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- ^ “俺の結婚の保証人”. ダイアモンド☆ユカイオフィシャルブログ「ユカイなサムシング」Powered by Ameba (2016年5月10日). 2016年5月10日閲覧。