Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

久野忠治

久野 忠治
くの ちゅうじ
生年月日 1910年2月27日
出生地 愛知県知多郡知多町(現・知多市
没年月日 (1998-10-25) 1998年10月25日(88歳没)
出身校 東海中学校(現・東海高等学校
所属政党民主党→)
自由党→)
自由民主党
親族 子・久野統一郎(衆議院議員)

日本の旗 第32代 郵政大臣
内閣 第2次田中角栄内閣
在任期間 1972年12月22日 - 1973年11月25日

選挙区 旧愛知2区
当選回数 14回
在任期間 1949年1月23日 - 1983年11月28日
1986年7月6日 - 1990年1月24日
テンプレートを表示

久野 忠治(くの ちゅうじ、1910年2月27日1998年10月25日)は、日本政治家郵政大臣正三位勲一等旭日大綬章。衆議院議員を14期務めた[1]。元衆議院議員久野統一郎は長男。愛称はクノチュー

来歴・人物

愛知県知多郡知多町(現・知多市)に、石材商・久野金之助の二男として生まれる。1929年に東海中学校(現・東海高等学校)を卒業後、家業に従事する。後に父親が設立した土建業「久野組」を引き継ぎ社長に就任。

1947年の第23回衆議院議員総選挙旧愛知2区から民主党公認で立候補するも、次点で落選。

1949年第24回衆議院議員総選挙に再び民主党公認で立候補し初当選を果たす(当選同期に池田勇人前尾繁三郎橋本龍伍麻生太賀吉小渕光平西村英一橋本登美三郎福永健司塚原俊郎藤枝泉介木村俊夫稲葉修河本敏夫森山欽司床次徳二有田喜一など)。

1950年、民主党が第3次吉田内閣への対応を巡って連立派と野党派に分裂すると民主自由党に入党し、吉田茂佐藤栄作に師事する。保守合同後は衆院内閣、文教、議会運営各委員長、自由民主党総務会筆頭副会長等を歴任。佐藤派では珍しい親中派であった。

1967年2月24日、佐藤と党幹事長の福田赳夫の意向により、自民党は、民社党が都知事選挙に向けて擁立した松下正寿の推薦を決定した[2]。久野は自民党都知事選本部事務総長に就いた[3]。社会党・共産党推薦の美濃部亮吉陣営が芥川也寸志に作詞作曲を依頼したテーマ・ソング「ブルー東京」が出回ると、久野は松下のために「松下正寿の歌」を作詞した[3][4]

1972年5月9日、田中角栄は、佐藤派102人のうち81人もの議員を引き連れ、派内派を結成した。次期総裁選を睨んだ田中派の旗揚げであった[5][6]。7月5日に行われた総裁選の決選投票で田中は福田赳夫を破り、7月7日に総理大臣に就任した。久野は田中派の有力幹部となるととともに、田中の盟友となった。

アジア諸地域、特に北朝鮮との関係改善に尽力し、1972年には初めて訪朝議員団長として北朝鮮入りし[7]平壌で日朝共同声明に調印した。同年12月22日に発足した第2次田中角栄内閣にて郵政大臣に就任。翌1973年、日中海底ケーブル建設の取極調印を行った。

1975年6月、旧愛知3区選出の江﨑真澄水田派を退会し、田中派に入会した[8]

1977年1月、朝鮮対外文化連絡協会の招きで、再度北朝鮮へ渡る[9]

1978年、江﨑が自民党愛知県連会長に就任[10]。久野は県連副会長として江﨑を支えた[11]

1983年の総選挙では落選を喫すが、1986年の総選挙で国政返り咲く。

1987年7月、経世会が結成され、田中派が竹下派(経世会)、二階堂グループ、中立系に3分裂した際は残留し、二階堂グループに所属した[12]

1989年6月2日の1日に限り衆議院仮議長を務めたこともある。1990年に政界を引退。1991年の春の叙勲で勲一等旭日大綬章を受章。

1998年10月25日、脳梗塞により死去。88歳没。叙・正三位。

人物評

佐藤栄作は日記の中で「この人も落ちつかなくてはならない。スパイまがいな処がある。気をつけないと馬鹿を見ると思ふ」と辛辣な評価を下している[13]

脚注

  1. ^ 久野忠治 | 衆議院議員 | 国会議員白書
  2. ^ 宮村文雄「学者戦争の都知事選」 『経済往来』1967年4月号、経済往来社、155-167頁。
  3. ^ a b 井出嘉憲「都市革新期の幕開け」 『朝日ジャーナル』1967年4月30日号、朝日新聞社、13-18頁。
  4. ^ 長谷川淳一「都市計画法の制定に関する一考察(3)」 『三田学会雑誌』Vol.102、慶應義塾経済学会、2009年。
  5. ^ 伊藤 1982, p. 78.
  6. ^ 楠田實資料(佐藤栄作官邸文書):解題”. ジャパン デジタル アーカイブズ センター. 2024年9月5日閲覧。
  7. ^ 久野忠治 (くの ちゅうじ)”. コトバンク. 2018年12月12日閲覧。
  8. ^ 立花隆『田中角栄研究 全記録(上)』講談社文庫、1982年8月15日、272頁。
  9. ^ 久野忠治氏 平壌に着く『朝日新聞』1977年(昭和51年)1月22日夕刊、3版、2面
  10. ^ 『中日新聞』1990年3月8日付朝刊、県内版、16面、「党分裂回避にホッ 自民県連会長の“円満禅譲” 駆け引き、思惑交錯 派閥対立や一宮市長選 江崎体制にきしみ」。
  11. ^ 『中日新聞』1980年8月2日付朝刊、11版、22面、「加藤氏も出馬の構え 出直し市長選、自民候補の一本化 『内田派切っても』 支持者と相談決める」。
  12. ^ 『国会便覧 昭和62年8月新版』(第76版)日本政経新聞社、1987年9月1日、333-336頁。 
  13. ^ 佐藤栄作 (1997). 佐藤栄作日記〈第4巻〉. 朝日新聞社. p. 414 

参考文献

公職
先代
三池信
日本の旗 郵政大臣
第32代 :1972年 - 1973年
次代
原田憲
議会
先代
栗原祐幸
日本の旗 衆議院予算委員長
1982年 - 1983年
次代
倉成正
先代
伊能繁次郎
日本の旗 衆議院議院運営委員長
1968年 - 1969年
次代
塚原俊郎
先代
床次徳二
日本の旗 衆議院文教委員長
1963年 - 1965年
次代
渡海元三郎
先代
池田正之輔
日本の旗 衆議院内閣委員長
1960年 - 1961年
次代
中島茂喜
先代
西村英一
日本の旗 衆議院建設委員長
1953年 - 1954年
次代
佐藤虎次郎
先代
田村良平
日本の旗 衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員長 次代
中野四郎
Kembali kehalaman sebelumnya