南部氏(なんぶし)は、武家・華族だった日本の氏族。本貫地は甲斐国巨摩郡南部郷で家祖は甲斐源氏の流れを汲む南部光行。建武新政下で北奥羽奉行に抜擢されたことで奥州に勢力を張るようになり、室町・戦国時代には、三戸南部氏が北奥羽全域に勢力を広げる。江戸時代には盛岡藩主となり、維新後には華族の伯爵家となる[3]。
歴史
平安時代末期に起きた前九年の役や後三年の役では、清和源氏の棟梁、 源頼義父子が現在の盛岡に来歴したが、頼義の嫡子義家の弟の源義光の孫である清光の子孫は甲斐源氏と称された武田氏、加賀美氏、安田氏、浅利氏などの諸氏族があり、加賀美氏からは、さらに南部氏、秋山氏、小笠原氏などが分かれている。
奥州南部氏の始祖、南部三郎光行は、清和源氏義光流(甲斐源氏)の加賀美二郎遠光の三男とされ、甲斐巨摩郡富士川西岸の南部郷(現・山梨県南巨摩郡南部町)を領し南部三郎を名乗ったが、父の官途信濃守から信濃三郎とも称された[4]。
光行の子息は、『尊卑分脈』によれば、太郎朝光、二郎実光、三郎行朝、小四郎実長の四人であるが、「秋山系図」(『続群書類従』)は、行朝を太郎、実長を「南部破切の六郎」とし、五郎行連を加える。そのうち、光行の嫡子実光とその子時実の名は、将軍の供奉を務める御家人でかつ北条時頼の側近として、しばしば『吾妻鏡』にあらわれる。[4]
文治 5年(1189年)秋の奥州平泉攻撃に、加賀美遠光父子四人が頼朝の本陣に従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、その功によって南部光行は陸奥国糠部五郡の土地を給され[5]、建久 2年(1191年)の末 家臣数十人とともに入国したと、家伝では伝えられているが、拝領を支証するものはない[6]。確実な資料による限り、南部氏と奥州の関わりがみえてくるのは鎌倉時代末期とされる。
南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(岩手県二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなったため、本拠地を盛岡に移した。
南部宗家は三戸南部氏であり、南部光行の嫡子・実光の子孫である。後の八戸南部氏の祖となる波木井実長は弟であり、二代実継・三代長継のあと、宗家三代時実の子政行の次男師行が長継の娘婿となって波木井家を継いだとされるが、実継・長継の名は波木井南部家一族の名を記した同時代史料には見えない。八戸(遠野)南部家文書には鎌倉時代の波木井領に関する文書は存在せず、八戸南部氏が波木井家の子孫とする「八戸家系」は、享保4年(1719年)信有の時代において八戸家と身延山久遠寺との交渉を通じ遠野南部家文書の中に入った。
鎌倉時代
源義光の玄孫の光行は甲斐国南部の河内地方にあたる巨摩郡南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に住んでいたことから南部氏と称したが、平安時代末期の奥州合戦の頃に奥州糠部(現在の青森県から岩手県にかけての地域)の地に土着したという。また『奥南旧指録』によれば、承久元年(1219年)の暮れに南部光行が家族と家臣を連れて由比ヶ浜から出航し、糠部に至ったという。
初代・光行の奥羽入部の日が12月30日で、正月への準備不足のため、やむなく12月を特に大の月として1日延ばし、正月2日をもって元旦としたという故事に由来する「南部の私大(わたくしだい)」が入部以来の伝統行事となった(なお、江戸時代の南部重直の代に不合理だとして正規の元旦に戻している[8])。
光行には6人の息子がおり、長男の行朝は庶子のため一戸氏の祖となり、次男の実光は後の宗家三戸南部氏の祖となり、三男の実長は波木井南部氏や根城南部氏の祖となり、四男の朝清は七戸氏の祖、五男の宗清は四戸氏の祖、六男の行連は九戸氏の祖にそれぞれなった。
なお、光行の兄・小笠原長清は巨摩郡小笠原荘に住み、小笠原氏の祖となっている。
『吾妻鏡』によると、光行、実光、時実の三代が将軍家随兵として記されているが、弘文元年(1261年)および同 3年の実光、時実は北条時頼の御内人扱いであった。これは本領の南部領が得宗領の駿河国富士郡と隣接し、また宝治合戦(三浦氏の乱)後に、糠部郡総地頭職が得宗領となったことによるものであった。
鎌倉時代末期
鎌倉幕府と討幕側となった南部氏一族
鎌倉時代末期には、南部氏一族は幕府側と討幕側に分かれた。鎌倉幕府打倒未遂事件の1つの「元弘の乱」が起きた1331年(元弘)元年には、波木井南部氏の家祖・南部実長の子、二代目実継は護良親王・尊良親王両親王とともに河内の赤坂城で戦うが親王とともに捕らえられ、実継は京の六条河原で最初に斬首されている。新田義貞の鎌倉攻めでは、三戸南部氏の南部右馬頭茂時や南部孫二郎[9]、南部太郎[10]らは鎌倉幕府についた。だが、甲斐南部氏の南部義行の嫡子、義重[11]や、南部時長・奥州の南部政長らは倒幕軍の新田氏の軍勢と鎌倉に向かい、時長は北条一門伊具土佐孫七を討ち取る等武名を挙げている。鎌倉幕府の滅亡の際に、南部氏宗家は2代・実光の頃から南部長継までに、南部師行の父、南部政行が工藤氏に入るなどして、鎌倉幕府の命で奥州に地盤を張っていた同族を頼り、奥州に向かった[12][13]。
建武の新政時代
建武の新政とこれに離反した足利氏にそれぞれ合流した南部氏
波木井南部氏の奥州の勤王勢力は甲斐を本拠に奥州の糠部で鎮守府将軍の北畠顕家、北畠顕信に従い活躍した。鎌倉幕府が崩壊して後醍醐天皇による「建武の新政」が始まると、建武元年(1334年)8月、奥州鎮撫を目的とした義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠顕家に従い、南部師行は伊達行朝・結城宗広・葛西貞清らと共に奥羽に下向する。
建武2年(1335年)4年7月、京から下向、北条時行が主導した中先代の乱を8月に平定した足利高氏が鎌倉に入ると、護良親王はすでに足利直義に殺害されていた。高氏は自ら征夷大将軍を名乗り、建武政権から与えられた新田氏の所領を乱の平定の恩賞にするなどして、新田氏と足利氏の対立が始まる(『太平記』第14巻)。
建武2年11月8日、宣旨を受けた義貞は節度使として刀を賜るとその軍勢は足利尊氏の討伐に京を発っした[14]。南部氏一族の分裂はさらに続き、11月の矢作川の戦い[15]から伊勢南部氏が従う直義軍は義重が参陣する尊良親王・新田義貞の尊氏追討軍を迎え撃ったが敗れた。賊軍となることを恐れていた尊氏の箱根・竹ノ下の戦いへの出陣で追討軍を破った足利氏の軍勢は京に向かうが、これを聞いた後醍醐帝は供奉の者と比叡山に入り、奥州からの軍勢を待った。山崎の合戦などで再び足利勢を迎えうった新田氏らの軍勢を破ると、尊氏ら足利氏の軍勢は京都に入った。
―奥州軍の1度目の西上―
前年11月に綸旨を受けて、義良親王を奉じた奥州の北畠顕家の軍勢[16]は、途中、鎌倉の足利の軍勢を破り、建武3年1月12日に5万騎が東坂本に着き、新田氏の軍勢4万5千騎や楠木正成の軍勢と合流した。足利氏に組した三井寺の戦いを制した義貞・顕家・正成の軍勢は2月6日、豊島河原の戦いも制すと、足利勢は味方についた300艘余りの船で敗走、九州に向かった(『太平記』第15巻)。
建武3年(1336年)1月、九州に落ち延びた尊氏の軍勢は多々良浜の戦いの後、建武政権に不満の九州などの武士を集め京を目指し東上を開始した。後醍醐天皇も1月、供奉の者らと再び比叡山へ入った。同年、5月25日、湊川の戦いに敗れた義貞の軍勢は京を離れた後醍醐帝に従って叡山に立て篭もり、反尊氏の武士や奥州からの顕家の軍勢を再び待ったが、尊氏は京に入り光明天皇を即位(北朝)させた。
しかし奥州の顕家の軍勢の出立は1年以上遅れ、10月、後醍醐帝は若宮の東宮を新田義貞に預け、持明院統の豊仁親王(後の光明天皇)を推し立てて北朝を開いていた尊氏は建武政権との和睦に応じた。しかし後醍醐帝の一行は捕らえられ帝は幽閉され、供奉の武士の多くは殺害された。和睦に同意せず帝の一行から離れ恒良親王を伴っていた義貞は北国へ向かっていた。12月、後醍醐帝は幽閉されていた花山院を脱出して吉野に向かい、吉野朝廷(南朝)を開く。
南北朝時代
南朝南部氏
―奥州軍の2度目の西上―
一方南部師行ら、顕家の第二次西上の南朝の西上軍には『南部史談会誌』によれば、伊勢から駆けつけ、顕家の命で男山に陣取った顕家の弟・北畠顕信に従っていた三戸南部氏第11世の南部信長や、南部茂行・南部信行兄弟もいた[17]。延元2年(1337年)8月11日に、奥州の霊山を発した顕家率いる第2次西上軍には、南部師行、結城宗広、伊達行連、下山、信夫、など6千騎が駆け付け、程なく10万騎になる[18]と東北から尊氏の傘下にあった京都を目指して進軍し戦勝を重ねた。新田義興や北条時行が加わったとされる[19]鎌倉での足利義詮が守る戦いでは、大将の斯波家長を自決させた。
延元3年1338年1月2日、西上軍は義良親王を奉じると鎌倉を発し、青野ヶ原の戦いでも小笠原貞宗、高重茂、今川範国、上杉憲顕、桃井直常、土岐頼遠らの足利勢の大軍を破っていたが、背後から立て直した鎌倉の足利勢8万騎や、黒血川を背にした足利直義が率いた新たな足利勢の挟み撃ちを避けて、義良親王を後醍醐帝の開いた吉野に送り届けた[20]。しかし京都の目前で男山救援に軍勢を分けていた顕家は、般若坂の戦いで待ち受けていた高師直率いる北朝軍と交戦(『太平記』第19巻)、師行は顕家とともにその家士108名が戦死している。日蓮宗関係の史料によれば引き続き甲斐の河内地方に居住し続けている複数系統の南部氏一門がおり、南朝方に属していたと伝えられる。
政長は戦死した兄師行の跡を受け、子の信政らと糠部の根城で南朝側として戦い続ると、興国元年(1340年)伊勢に戻っていた顕信が南朝立て直しのため奥州に鎮守府将軍として派遣された[21]。この年より尊氏や直義から政長へ投降を促す書状が実に7回も送られることになるが、政長・信政親子は山辺の合戦の後も糠部や鹿角の合戦で功をあげ、一族の南朝支持の動静は、孫の信光・政光の時代の南北朝の合一まで変わることはなかった。
正平22年(1367年)1月11日、甲斐の波木井城に在った南部信光は、同国神郷の領主・神大和守の襲来を退け、6月、後村上天皇から褒賞として、神大和守跡や甲冑を授かっている[22]。文中3年(1374年)、信光は弟の政光を糠部から甲斐に呼び寄せ家督を譲る[23]。天寿2年(1376年)1月12日、波木井城の南部信光は、八戸に置いた嫡子・長経が幼少のため、弟・政光へ八戸の譲り状を記し、翌日同地で逝去した[23]。
北朝南部氏と北朝に合流した南部氏
南部宗継[24]は、矢矧の戦い以降「多々良浜の戦い」などで足利尊氏に従い、康永4年(1345年)8月29日には天竜寺供養の随兵となる。その弟の次郎左衛門尉(宗冶)は根城南部氏の南部信政が戦没したとの説がある貞和(1348年)4年1月5日の「四條畷の戦い」から、兄と共に高武蔵守師直の手勢となり、南遠江守、南次郎左衛門尉と南姓になって[25]<太平記>に度々登場する。
後村上天皇の時世、貞和5年(1349年)以降甲斐国が鎌倉公方の足利基氏の支配下になると、観応の擾乱の正平一統を機に、尊氏軍に合流した甲斐南部氏、北畠顕信の南朝軍の一角から直義派の吉良貞家に合流した三戸南部氏の南部信長と推定されている南部伊予守などがおり、甲斐の南部氏一門は観応2年(1351年)から足利氏のもとで戦っている様が<太平記>に記され、南部為重の嫡男とみられる波切遠江守は「薩埵山の戦い」で、観応2年1351年12月27日に今川勢に参じている。観応3年(1352年)2月25日には同じく、南部義重の子とされる南部常陸介は[26]武蔵野合戦で、甲斐源氏の衆として、武田氏、小笠原氏などとともに「笛吹峠軍」の将軍足利尊氏方に参じている。
なお南北朝合一が行われた元中9年/明徳3年(1392年)頃、将軍足利義満の密命を受けた南部守行は、南朝を支持する根城南部氏の南部政光の元をたずね、降伏勧告を行っている。波木井にいた南部政光は南北朝合一に際して奥州へ移住したとされるが、根城南部氏の八戸への本拠移転以降、総じて甲斐の南部氏一族は衰退に向かうことになり、一戸南部氏系とされ、甲斐南部氏の嫡流ともみられる南部清政の系統は南北朝末期の頃から武田氏に圧迫され奥州に戻るが内紛で滅び、惣領は根城南部氏から三戸南部氏へ移ったとされる。
室町時代
足利勢となった南部義重の後胤[27]、なども垣間見られるが、同じく足利方の南部宗継の弟の次郎左衛門尉宗冶は「観応の擾乱」の際に北陸に向い、今の富山県の砺波市に逃れて八伏山城を築いたことが地元に伝わる。伊勢・北陸の両南部氏とも戦国時代に勢力を減じるが子孫は今に残る。南部宗継から2世後の頼村は伊勢南部氏[28]を実質的に起こした武将[29]とされる。
根城(八戸)南部氏を配下に加えた南部守行の三戸南部氏は室町期の陸奥北部における最大の勢力に伸長するが、100年前の鎌倉時代末期の波木井南部氏の南部長継の討伐から続く安東氏などの従来の在地勢力などに加え、大浦氏など一族内の実力者の統制が上手くいかず内紛が頻発したとされ、惣領家の具体的な移動時期など、この頃の南部氏の動向については不明な部分も多い。
甲斐の南部氏
戦国時代には義重系・河内南部氏の一族は甲斐守護・武田氏に従属する。『甲斐国志』によれば、大永3年(1523年)3月13日には八代郡小山城主・穴山伊予守信永が南部某の攻勢により自害したという[30]。一方、波木井に居た波木井南部氏の義実は、大永7年(1527年)に駿河国の今川氏に通じて武田信虎に敵対したため滅ぼされている。
甲斐国では天文10年(1541年)6月に信虎の嫡男・晴信が父を駿河に追放して家督を継承する。戦国期の武田一門には「南部信登」の存在が知られる[31]。信登は「蓮華定院文書坤」に含まれる年未詳10月18日の断簡に「武田下野守信登」として記載され、武田姓を名乗る人物であったことが確認される[31]。
『甲陽軍鑑』巻十四によれば宗秀は、父・信虎を駿河に追放して家督を相続していた武田晴信に、天文17年(1548年)「南部殿」「南部下野守殿」が足軽大将・山本勘助を誹謗中傷したことにより晴信の不信を買い、国外に追放されたとする逸話が記されており、これが信登に該当すると考えられている[31]。
一方、公家・山科言継の日記である『言継卿記』には、元亀元年(1570年)3月24日に織田信長のもとに「武田下野守」が参礼したことを記している[31]。将軍足利義昭を推戴した織田信長はこの時期まで武田家とも友好的関係だったが、「武田下野守」を信登とすれば上洛して、信長包囲網を築いていた将軍義昭に仕えていた可能性も考えられている[31]。国替えや波木井南部氏が成敗された後、河内地方には武田氏の一族の穴山氏が入部して国衆となる。
甲斐南部氏の主君である武田勝頼率いる武田氏は、織田・徳川連合軍との天正3年(1575年)の長篠の戦いに敗れた後、7年後甲州征伐で滅びている。しかしその織田信長の織田氏も同年に明智光秀の謀反により実質滅びている。南部下野守の跡取りで、10代目当主の河西満秀は長篠の戦いで討ち死にしたと伝わる。
陸奥の南部氏
陸奥では南部守行の後、三戸南部氏の第24代当主である南部晴政が現われると、他勢力を制して陸奥北部を掌握した。晴政は積極的に勢力拡大を図り、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われた南部氏の最盛期を築き上げた。晴政は中央の織田信長とも誼を通じるなどの外交を展開するが、家中では晴政とその養嗣子だった従兄弟の石川信直が対立するなど、内訌も存在していた。
晴政の晩年には南部氏の一族とされる大浦為信が挙兵した。広大な南部氏の領地では、国人の家臣化と中央集権化はあまり進んでおらず(南部氏の中央集権が進むのは利直の時代に入ってから)、津軽地方の国人衆、浪岡御所(浪岡北畠氏)、蝦夷管領(檜山安東氏)の残党[32]、石川城の津軽郡代(石川南部氏)らは為信に各個撃破されていった。
天正10年(1582年)に晴政、晴継父子が没し、南部一族内の家督争いの結果、石川(南部)信直が相続するが、その際に晴政親子は信直によって暗殺されたとする説もある。天正16年(1588年)、紫波郡と岩手半郡を持つ高水寺(斯波御所)と雫石(雫石御所及び猪去館)の両斯波氏を降し、閉伊郡に蟠踞する田鎖の閉伊氏と、遠野保横田の阿曽沼氏を臣下とした。 一方で津軽地方、外ヶ浜と糠部郡の一部を押領した大浦為信は豊臣秀吉に臣従し所領を安堵されたために、三戸南部氏は元々不安定だった大浦南部氏の統制を完全に失うことになる。
天正18年(1590年)、南部氏第26代当主である南部信直は八戸直栄を随伴し兵1000を率いて、豊臣秀吉の「小田原征伐」に参陣する。これは八戸政栄(直栄の父)が、根城南部氏が三戸南部氏の「付庸」であることを認めて自らの小田原参陣を諦め、領内で対立する九戸政実や大浦南部氏への牽制を委ねることができたからである。信直はそのまま奥州仕置の軍に従軍し、秀吉から宇都宮において、7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、そして遠野保か?)についての覚書の朱印状を得る[33]。
翌年に九戸政実が起こした「九戸政実の乱」が豊臣政権の手で鎮圧され、失領していた津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、南部氏は9ヶ郡10万石の所領が確定した(実高20万石[34]ともいわれる津軽地方に対し、和賀・稗貫の両郡は合わせても数万石のため晴政の全盛期よりは石高は大幅に減少している)。
ただし、旧領を召し上げられた和賀義忠と稗貫広忠は数度にわたり遺民を蜂起させ、南部氏を苦しめた(和賀・稗貫一揆)。一揆の鎮圧で和賀義忠は戦死、稗貫広忠は逃亡した。広忠の娘は出家したが南部信直に見初められて還俗し、稗貫御前と呼ばれる側室になった。一方、義忠の子・和賀忠親は尚も屈せず、関ヶ原の合戦時には伊達政宗に扇動され、南部領に侵攻した(岩崎一揆)[35]。
江戸時代
盛岡藩主家
慶長4年に三戸南部家の家督を相続した南部利直は、翌年の関ヶ原の戦いに勝利して将軍の座に就いた徳川家康より、北、三戸、二戸、九戸、鹿角、閉伊、岩手、紫波、稗貫、和賀10郡における529村10万石の本領を安堵された。
利直の子重直の代の寛永12年に三戸を改め盛岡城に移った。寛文4年に重直の子重信が2万石を弟直房に分与したことにより、8万石に減るが、天和3年に10万石に復帰。南部利敬の代に蝦夷地の警備にあたったことで文化5年に20万石への高直しがおこなわれた。しかし旧領10万石のままの格上げだったので藩財政は苦しくなった[40]。
幕末の盛岡藩主利剛は戊辰の役において松平容保に党して政府に反逆した罪を以て、明治元年11月に官位褫奪および城地収公となったが、翌12月には息子の利恭に改めて磐城国白石藩13万石が下賜されることによって家名再興が許された。さらに翌年には旧領である陸中国盛岡藩へ再移封を許された。維新後華族の伯爵家に列する(→南部伯爵家へ)。
分家の大名家
- 寛文4年に盛岡藩主の重直が、弟直房に三戸・九戸・志和の三郡のうちにおいて2万石を分与したことで陸奥国八戸藩主家が成立した。幕末の当主信順は奥羽越列藩同盟に加わったものの、歩調は合わせず、政府への敵対を避けた[42]。そのため、大名南部家3家の中では唯一蟄居も減封も受けず、2万石を維持して廃藩置県を迎えた。維新後子爵(→南部子爵家(八戸)へ)。
- 元禄7年に盛岡藩主行信が弟政信に和賀郡のうちにおいて新田5000石を分与したことで分家の旗本南部家が成立した(宝永3年から宗家からの5000俵の支給に替えられる)。信鄰の代の文政2年に宗家の利敬が6000石を追加で分与したことにより、都合1万1000石に達して陸奥国七戸藩主家が成立した。幕末の七戸藩主信民は、奥羽越列藩同盟に加わって政府に反逆を行ったため、朝譴を蒙って位階褫奪・蟄居となったが、養子(宗家の利恭の弟)の信方に1000石を減封した1万石が下賜されることにより家名存続が許された。維新後華族の子爵家に列する(→南部子爵家(七戸)へ)。
明治以降
維新後、南部氏からは、伯爵家1家、子爵家2家、男爵家2家の合計5家の華族家が出た。
南部伯爵家
明治元年12月に磐城国白石藩主に任じられた利恭は、明治2年6月18日の版籍奉還で白石藩知事に転じた後、7月22日に旧領盛岡への再移封を許され、盛岡藩知事に転じた。明治3年7月10日より以前に藩知事を辞して郡県の制に復せんことを請う上表を提出しており、同日にこの上表が嘉納され、知事を免じられた。
版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で6858石[注釈 1]。
明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、23万8183円7銭2厘(華族受給者中27位)。
明治前期の頃の利恭の住居は東京市神田区西小川町にあった。当時の家扶は波岡茂元、瀬山資愛、田鎖高景[49]。
明治17年(1884年)7月7日に華族令により華族が五爵制になると旧中藩知事[注釈 2]として利恭は伯爵に列せられた。
利恭が明治36年に死去した後、長男の利祥が爵位と家督を相続。利祥は陸軍騎兵中尉であったが、明治38年3月4日に日露戦争で戦死したため、利祥の弟利淳が養子として爵位と家督を相続。利淳は東京府多額納税者に列している富豪だった。
昭和5年に利淳が死去した後、利淳の娘の夫である利英(一条実輝公爵の三男)が娘婿として爵位と家督を相続。利英の代の昭和前期に南部伯爵家の邸宅は東京市淀橋区戸塚町にあった。
南部子爵家(八戸)
最後の八戸藩主南部信順は、明治2年6月27日に版籍奉還で藩知事に転じた後、明治4年7月15日に廃藩置県に伴って解任されるまで同藩知事を務めた。
版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で944石[注釈 1]。
信順は明治4年に隠居し、嫡男の栄信が家督相続したが、明治9年には死去。その妻で宗家の南部利剛の次女である麻子が一時的に家督相続したのを経て、明治9年に南部利剛の十一男である利克が幼くして彼女の養子として家督相続。
明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、2万3018円35銭5厘(華族受給者中205位)。
明治前期の頃の利克の住居は東京市芝区本芝にあった。当時の家令は、中里安衛、家扶は、寺崎康能[56]。
明治17年(1884年)7月7日に華族令により華族が五爵制になると、翌8日に旧小藩知事[注釈 3]として利克が子爵に列せられた。利克は明治30年に慶応大学法律科を卒業後、宮内省に勤仕して式部官を務めた。彼の代の昭和前期に子爵家の邸宅は東京市世田谷区北澤にあった。
南部子爵家(七戸)
明治2年正月に家督して最後の七戸藩主となった信方は、明治2年6月24日に版籍奉還で藩知事に転じた後、明治4年7月14日に廃藩置県に伴って解任されるまで同藩知事を務めた。
版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で162石[注釈 1]。
明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、5100円(華族受給者中440位)。
明治前期の頃の信方の住居は東京市神田区西小川町にある宗家邸。当時の家扶は斎藤長固[61]。
明治17年(1884年)7月7日に華族令により華族が五爵制になると、翌8日に旧小藩知事[注釈 4]として信方は子爵に列せられた。
信方は福島県尋常中学校教諭、華族女学校教師を経て、学習院、東京府、農商務省山林局の各嘱託を務めた。大正12年に信方が死去した後、娘の正の夫である信孝(鍋島直大侯爵三男)が婿養子として爵位と家督を相続。しかし信孝は、昭和4年に隠居して南部家から離籍したため、伊賀氏広次男信俊が養子として爵位と家督を相続。信俊の代の昭和前期に子爵家の邸宅は東京市世田谷区若林町にあった。
南部男爵家(南朝忠臣)
当家は、南部氏の家祖である南部光行の三男実長を祖とする南部氏分流である。南北朝時代の子孫の師行・政長兄弟は南朝の武将北畠顕家に属して勤王の功を挙げ、その子孫も南朝方として功績があった。江戸時代には盛岡藩の重臣家となり、遠野を領した。
維新後は士族に列していたが、明治16年に宗家の南部利恭が、同家の当主である南部行義は南朝忠臣である南部師行の子孫にあたるので華族に列せられるべきことを請願。しかし宮内省は翌17年2月26日付けで「(南部師行は)新田以下数氏に対比し得るべき者にこれなきは論弁を要せず。右等褒贈相成り候ては際限もこれなきに付、本件は御採用相成らざる方然るべきと存じ候」としてこの段階では請願を却下している。
『授爵禄』(明治三十年)によれば明治28年3月にも、南部利恭伯爵、南部信克子爵、従三位南部利剛、従四位南部信民が連名で宮内大臣土方久元に宛てて、行義の先祖師行は南朝に奉仕し、賊将足利尊氏・高師直と戦って戦死した忠臣であるとして、行義の華族編列を求める請願書を提出。
この請願は一旦却下されたか、しばらく審議されなかったようだが、明治30年5月3日付け『五条頼定・南部行義ヲ華族二列セラレ男爵ヲ授ケラルゝノ件』によれば、宮内省は「(南部師行の)その大節烈義、菊池・名和氏に過ぐるあるも及ばざるなし。而してその家系に正確なる血統の連続せる。また疑を容れず」として、行義を華族の男爵に列することについて天皇に上奏して裁可を仰ぐことを決定した。
その結果、南部師行は、菊池・名和と同功ありと認められ、同年7月1日付けで行義は華族の男爵に叙せられた。
明治35年に行義が死去した後、長男の義信が爵位と家督を相続。義信は陸軍騎兵少尉だった。大正10年に義信が死去した後、その長男の日実が爵位と家督を相続。日実は昭和前期に日蓮宗の鏡円坊の住職であり、そのため当時の男爵家の本拠も山梨県南巨摩郡身延町梅平にあった。日実は後に東京の東郷寺住職に転じている。
南部男爵家(勲功華族)
司法官僚南部甕男の勲功により華族の男爵に叙された家。南部氏の分流の一つであり、高忠の代に陸奥国から土佐国米之川に移住したと伝わる。長宗我部氏に仕えていたが、関ヶ原後に長宗我部氏が改易されると、代わりに土佐へ移封されてきた山内氏に仕えたが、大阪の陣では大阪城に籠城したため、子孫は土着することになり、明和7年から土佐藩郷士の家系となった。
幕末から大正期の当主甕男は、幕末に藩命で京都に出て三条実美に随行して長州や九州へ赴いた。戊辰戦争でも官軍に従軍して戦功を挙げ、賞典金100両を下賜された。維新後、兵部省・東京府に出仕し、明治4年に司法省へ異動し、熊本や神戸の各裁判所所長などを歴任してから本省に戻り、諸法典の編纂に参画しつつ、明治24年には東京控訴院院長となる。明治29年6月に勲功により華族の男爵に叙せられた。その後大審院院長となり、さらにその後枢密顧問官、会計検査官懲戒裁判所長官を務めた。
大正12年に甕男が死去した後、甕男の娘と結婚していた婿養子の光臣(烏丸光徳三男)が爵位と家督を相続。光臣は内務省に入省し、土木局長や群馬県知事などを務めた後に、宮内省に異動し、帝室林野管理局長、宮中顧問官、梨本宮別当、貴族院議員などを歴任。
光臣が昭和6年に死去すると、その長男の健夫が爵位と家督を相続。彼の代の昭和前期に男爵家の住居は東京市品川区上大崎中丸にあった。健夫が昭和15年に死去した後、その長男の忠男が爵位と家督を相続した。
歴代当主
※ 以下は三戸南部氏(盛岡南部氏)の当主である。
系譜
※ 凡例 数字は『南部系譜』による南部宗家の当主、太線は実子、細線は養子。※は同一人物。
(ただし、第26代当主の南部信直以前の系譜は諸説あって一定しない。ここでは一例を示す)
『尊卑分脈』
○出典:『尊卑分脈』
南部光行 (南部二郎) |
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朝光 (太郎) | 実光 (二郎) | 行朝 (三郎) | 実長 (小四郎) |
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初代・光行から信直まで
○出典:『寛政重修諸家譜』
(ただし、第26代当主の南部信直以前の系譜は諸説ある)
- 実線は実子、点線(縦)は養子など、点線(横)は婚姻関係。太字は当主。数字は代数。*は同一人物。
信直以降
○出典:『寛政重修諸家譜』、『盛岡市史』、『藩札図録 付・藩史抄』、『昭和新修華族家系大成』、『現代華族譜要』
- 実線は実子、点線(縦)は養子など、点線(横)は婚姻関係。太字は当主。数字は代数。*は同一人物。
庶族
その他にも、津軽や岩手郡にも今井氏などの支族があったが岩手郡の南部氏支族は没落し、津軽の南部氏支族は全て大浦氏に滅ぼされた。
南部氏家臣団
戦国時代
脚注
注釈
- ^ a b c 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事の個人財産の家禄と定められた。
- ^ 旧盛岡藩は現米6万8580石(表高13万石)で現米5万石以上15万石未満の中藩に該当。
- ^ 旧八戸藩は現米9440石(表高2万石)で現米5万石未満の小藩に該当。
- ^ 旧七戸藩は現米1620石(表高1万348石)で現米5万石未満の小藩に該当。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
自治体史