富士スピードウェイ
富士スピードウェイ(ふじスピードウェイ、Fuji Speedway)は、静岡県駿東郡小山町にあるサーキットである。略称は「FSW」。 概要富士スピードウェイは、国際自動車連盟(FIA)から最高位の「グレード1」(フォーミュラ1の開催が可能)の認定を受けている国際格式のレーシングサーキットである[W 2]。 富士スピードウェイは1965年12月に完成し、1966年1月に営業を開始した。日本国内の現存するレーシングサーキットでは、1962年開業の鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)に次いで、2番目に長い歴史を持つサーキットにあたり、その鈴鹿と並び、日本の自動車レースの萌芽と開花に貢献してきたと評価されている[4]。(→#歴史) 東京都心からは車で通常1時間半程の立地で、首都圏からも中京圏からも近く[W 3]、所在地である小山町や、隣接する御殿場市にファクトリーを構えるレーシングチームやメンテンナンス会社も多い(→#周辺)。サーキットそのものは、山間かつ天候が不安定な土地にあることから、霧の発生や大雨に悩まされがちで、荒天によってレースの開催や運営に大きな支障を来たした例は少なくない(→#立地)。 運営会社の富士スピードウェイ株式会社は、開業当時は三菱地所の子会社で、2000年からはトヨタ自動車の傘下となり、2023年に同社系列の完全子会社となっている[W 1]。 主なイベント→詳細は「§ 主な開催レース・イベント」を参照
様々なレースを開催しており、2023年現在、国際レースでは世界耐久選手権(WEC)、GTワールドチャレンジ・アジアなどを開催し、国内選手権では、スーパーフォーミュラ、SUPER GT、スーパー耐久といった日本の主要な選手権の開催サーキットのひとつとなっている。国内選手権においては、多くの選手権で年に(1戦ではなく)複数戦の開催を受け持っている。 サーキットの歴史の中でも、1976年に日本で初めてフォーミュラ1(F1)を開催したこと(1976年F1世界選手権イン・ジャパン)や、1970年代から1980年代にかけて人気を誇った富士グランチャンピオンレース(富士GC)を主催・開催していたことは特筆される。伝統的に耐久レースの開催が盛んで、1967年に日本初の24時間レース(富士24時間レース)を開催したほか[5]、1980年代以降には世界耐久選手権(WEC)、インターTECといった国際格式の耐久レースを開催している。 また、アマチュアレースの富士チャンピオンレース(富士フレッシュマンレース)を1966年のサーキット開業時からFISCOクラブとともに開催しており[6]、多くのドライバーを輩出している。 自動車レース以外では、マラソン、自転車競技などの会場として使用されることもある。それらは基本的に小規模な開催(ローカルイベント)だが、2021年には「東京オリンピック・パラリンピック」の自転車競技会場として使用された。 コースレイアウトの特徴オーバルトラック(スーパースピードウェイ)として企画された経緯もあって高速なコースレイアウトで設計され(→#建設計画の端緒)、開業以来、日本有数の高速サーキットとして知られている。開業初期は、名物区間だった「30度バンク」を有することでも知られた(→#30度バンク)。 全長1.475 kmに及ぶ長大なメインストレートを大きな特徴とし、このストレート区間は、日本のサーキットでは最も長く、世界的に見ても、グレード1の常設サーキットが有するストレート(全開区間)の中で最も長いものとなっている[W 3][注釈 3]。世界中の古今のサーキットでもこの長さを超えるストレートは稀である[注釈 4]。 現在のコースレイアウトは、2005年にヘルマン・ティルケによって再設計されたもので、テクニカルコースとしての要素も加わったが、高速寄りな性格は変わっていない。(→#リニューアル後のコースレイアウト) 名称「スピードウェイ」という名称はレーシングサーキットの中でもオーバルトラック(楕円形のコース)において広く用いられるもので、この名称は富士スピードウェイの建設が元々はオーバルトラックとして計画されていたこと(→#建設から開業までの経緯)に由来する。 開業以来、サーキットを運営する「富士スピードウェイ株式会社」の英語社名「Fuji International Speedway Co.,Ltd」にちなんだ「FISCO」(フィスコ)を公式の略称としており、サーキットの愛称としても広く用いられていた。2000年にトヨタ自動車の傘下となり、2001年春から、略称は「FSW」に改められている[7]。その一方、愛称として親しまれていた「FISCO」の使用は2000年代以降も一部で継続され、サーキットを走行するための「FISCOライセンス」などで用いられ続けている。 歴史建設から開業までの経緯建設計画の端緒1960年代の日本で自動車用部品の輸入業を営んでいたドン・ニコルズが、母国である米国で開催されていたNASCAR方式のストックカーレースを日本に持ち込もうと考えたことがサーキット建設の端緒となる[8][9][10][注釈 5][注釈 6]。 ニコルズはNASCAR社の経営者であるビル・フランス・シニアとも話し合った上で、日本の総合商社各社にサーキット建設についての話を売り込んで回った[9][14]。そうした総合商社の中でも丸紅飯田(現在の丸紅)の会長である森長英がこれに関心を示したことから[注釈 7]、丸紅飯田の後ろ盾を得て、1963年(昭和38年)12月18日に「日本ナスカー株式会社」(Nippon NASCAR[17])が設立された(社長は森長英)[18][9][14]。同社の役員には、森のほか、堀内光雄(富士急行社長。後に通産大臣)、小林節太郎(富士写真フイルム経営者)といった政財界の大物が名を連ねた[16]。 翌1964年(昭和39年)1月15日、日本ナスカー社は、NASCAR社との間で、日本及び極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する契約を締結した[18][19]。期間は3年間で、契約料は3万ドルだった[18][注釈 8]。 この契約は森らが米国に赴いて締結したもので、この際にサーキットの設計について、1周2.5マイルで、時速320 kmで走行可能なバンク(バンク角は最大31度から34度)を備えたオーバルトラック(スーパースピードウェイ)として建設するという詳細が両社の間で取り決められた[16][19]。 当初設計案の頓挫日本ナスカー社による建設計画は、NASCAR社と契約を結んだ時点でサーキットの建設用地をまだ確保しておらず、上記の取り決めのため広大な用地が必要となる[16][19]。 サーキットを建設するにあたり、富士山麓、箱根、伊豆といった数か所が候補地となる[19]。検討の結果、静岡県駿東郡小山町 コースレイアウトは、上記の取り決めにより、NASCARのレースが行われるアメリカのデイトナ・インターナショナル・スピードウェイに似たトライアングル・オーバルトラック(おむすび型)を予定しており[W 6]、1964年7月にはデイトナを設計したチャールズ・マネーペニーが来日し、設計を始めるために現地視察を行った[28][W 7][注釈 13]。 しかし、上記の経緯で、用地が確定したのはマネーペニーの訪日直前の時期となり、建設予定地が山麓の傾斜地にあることが判明したことで、オーバルトラックの建設は現実的ではないことが発覚する[28][W 7][注釈 14]。マネーペニーはレイアウト再検討のための助力をニコルズに要望し、スターリング・モスが日本に招聘された[28][W 7]。現地を視察したモスは「この地形でデイトナ型のオーバルコースを作るのはナンセンスで、ヨーロッパ型のロードコースを作るべき」と指摘し[1][20][29]、ニコルズ、マネーペニーと話し合い、ロードコースのレイアウトを提案した[23][注釈 15]。この時のモス案はそのまま採用されることはなかったが、コースを再設計するにあたり大いに参考にされた[29]。 FISCO設立サーキット建設についての話が具体的に進むにつれて、当初予定していた予算では完成は到底不可能という判断に至り、社長の森長英から前建設大臣の河野一郎に相談が持ち込まれた[18][29][注釈 16]。 河野グループの参画によって1965年(昭和40年)1月に日本ナスカー社の経営陣は刷新され、社長の森は退任し、河野の息子で丸紅飯田の社員だった河野洋平が副社長として入社し、以降、実務の担い手となり、建設計画の陣頭指揮を執ることになる[31][29][注釈 17]。河野洋平は、NASCAR社との契約料が高額であることに不満を持っていたことや、NASCAR方式の経営が日本で通用するとも考えていなかったことから、NASCAR社との契約をやめることにした[30]。NASCAR社としても、現地についての報告を受けてからは特に後者の理由について河野と同じ考えで、山間の雨がちな地域かつ傾斜地でオーバルトラックの経営をすることは現実的ではないと考えていたことから[28][W 7]、両社は契約を破棄することに円満に合意するに至る(1965年2月)。 NASCAR社との契約を終了したことに伴い、社名を現在の「富士スピードウェイ株式会社」に改めた[36]。「サーキット」ではなく「スピードウェイ」という名をつけたのはオーバル建設計画の名残である[W 6]。それからサーキットの愛称について河野洋平らは考え、呼びやすい愛称にするため、英語社名には日本語社名やサーキット名には存在しない「インターナショナル」を加え、「フジ・インターナショナル・スピードウェイ・カンパニー(Fuji International Speedway COmpany)」とすることで、それを略した「FISCO」(フィスコ)を愛称とした[36](以下、この記事では、会社としての富士スピードウェイを「FISCO」と表記)。 サーキットはヨーロッパ式のロードコースとして建設するということで仕切り直され、施工を請け負った大成建設がモスの案を軸にコース設計をやり直すこととなった[37]。(→#開業時のコースレイアウト) 三菱地所傘下へFISCOが確保した土地はそのままではサーキット建設には使えず、2つの尾根を切り崩した上で3つの谷を埋めるという造成作業が行われ、土地の造成だけでも、移動した土量が300万㎥に及ぶ大工事を要することになった[38][24]。建設費用は借入金によるところが大きく、実務を担っていた河野洋平は建設資金集めのために銀行や企業回りをし、非常に苦労する[35]。借地した150万坪の敷地全てをサーキットとして開発する資金を捻出することはできなかったため、土地を有効活用するため、敷地の半分はゴルフ場(東富士カントリークラブ)として開発を進めることにした[39]。 しかし、建設工事が進む中、1965年7月8日に河野一郎が急死するという想定外の出来事が起き、サーキット建設はまたしても大きな転機を迎える。河野の死により、建設計画は政治面と資金面の後ろ盾を失うとともに、実務の中核を担っていた河野洋平も、亡父の跡を継いで政界に入るため、FISCOを退職せざるを得ない事態となった[38][32][注釈 18]。河野の死により資金調達はなお一層困難となり[注釈 19]、建設代金が不払いとなることを恐れた大成建設の仲立ちで[31]、三菱地所社長の渡辺武次郎に相談が持ち込まれ、三菱地所としても東富士地域一帯の経営に関心を示して参加を承諾する[42][注釈 20]。 河野の死から3ヶ月後の10月には、三菱地所がFISCOに出資するという方向で、FISCO社長の鈴木九平と三菱地所との間の交渉がまとまる[38]。これを受けて計画当初から経営に関わっていた丸紅と毎日新聞社、富士急行は手を引き、以後は三菱地所に経営を託すことになる[44][注釈 21]。 サーキットは土地造成に伴う大工事とサーキット建設の突貫工事の末、1965年12月5日に完工した[45]。総工費は当初は15億円と見積もられていたが、三菱地所の参画後に観客席などの付帯設備の充実が図られた結果、21億円を要した[31]。 大成建設はサーキットを再設計するにあたって、当初案のアメリカ式とモス案のヨーロッパ式のバランスについて検討を重ねた末[37]、アメリカ的な要素も残しつつヨーロッパ式のサーキットとして富士スピードウェイを完成させた[37][46]。鈴鹿に続いて富士もヨーロッパ式となったことは、その後の日本のモータースポーツが進む方向にも影響を与えたと言われている[46]。 オープン1966年(昭和41年)1月3日にオープン。最初のレースイベントは3月12日に開催された、アマチュアライダーによる2輪レースである「第7回全日本モーターサイクルクラブマンレース」だった。この時、まだ一部の観客席が建設中であったにもかかわらず、1万人の観客を集めた[47]。3月27日に行われた4輪の開業イベント「第4回クラブマンレース富士大会」にはF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。 さらに5月3日に開催された第3回日本グランプリ決勝には9万5千人の観客を集め、サーキット周辺には大渋滞が発生したが[48]、レースは日産自動車、トヨタ自動車、プリンス自動車、いすゞのワークス対決で盛り上がった。 また、1966年の「インディアナポリス・インターナショナル・チャンピオンレース」(通称:インディ富士200マイル)や1968年、1969年の「ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレース」(通称:日本Can-Am)のような海外招待レースも企画されるなど、船橋サーキット(1967年閉鎖)や1970年にオープンした筑波サーキットと並んで、関東、東海地方におけるモータースポーツの中心的な場所となった。 富士GC開催アメリカで導入された「大気浄化法(マスキー法)」対策のため自動車メーカーのモータースポーツ活動が停滞すると、富士は1971年(昭和46年)にプライベーター主体の「富士グランチャンピオンレース(富士GC)」を創設して看板イベントに育てる。またこの頃にはサーキットの周辺にメンテナンスガレージが集まるようになり、「大御神レース村」と呼ばれるようになった。 しかし、1973年(昭和48年)と1974年(昭和49年)には富士GCで死傷事故が起こり、名物の30度バンクが閉鎖された(→#30度バンク)。さらに同年に起きた「オイルショック」で自動車メーカーによるモータースポーツ活動が冷え込むが、1977年(昭和52年)には耐久レースの「富士ロングディスタンスシリーズ(富士LDシリーズ)」もスタートする。 F1開催 (1976年・1977年)1976年(昭和51年)には、F1日本初開催となる「F1世界選手権イン・ジャパン」、1977年には正式に「日本グランプリ」の名を冠して第2回大会を開催した[注釈 22]。第2回は星野一義や高原敬武、高橋国光などの日本人ドライバーの活躍もあったものの、1コーナーでロニー・ピーターソン(ティレル)のマシンと接触したジル・ヴィルヌーヴ(フェラーリ)のマシンが宙を舞い、立ち入り禁止区域にいたカメラマンとそれを排除しようとしていた警備員に激突、あわせて2名が死亡する事故が起きた[21]。 主催者に加わっていた日本自動車連盟(JAF)は、赤字開催となったことや、この一件によって新聞の主要各紙をはじめとするメディアから猛烈な批判を浴びたことに嫌気して主催を降り[51][50]、翌年以降の開催はキャンセルされる[52]。結果、1987年(昭和62年)に鈴鹿サーキットで開催されるようになるまで、F1の日本開催は9年間中断することとなった。 1977年の事故への大手メディアからの批判はサーキットにとっても大きな痛手となり、「富士スピードウェイは危険なサーキット」という評判がモータースポーツに興味のない人々にまで刷り込まれることとなった[53]。 廃止の危機1979年(昭和54年)7月、御殿場青年会議所(御殿場JC)が、静岡県知事(山本敬三郎)に富士スピードウェイ廃止の意向を陳情する[54][55][56]。この動きに呼応して、経営権を持つ三菱地所は、サーキットの廃止とゴルフ場などを中心にしたレジャーランドへの転用を検討し始めた[注釈 23]。このことを契機として、サーキットの存廃を巡る論議が始まり、1986年まで続くことになる[27]。 三菱地所の動きに対して、1980年(昭和55年)12月には、レーシングドライバーやレーシングチーム、モータージャーナリストなどが「日本モータースポーツ振興会」を設立し廃止反対運動を開始した[58]。 この陳情の背景には、富士GCの観戦を目的とした暴走族(グラチャン族)が、サーキット周辺で集会や暴走行為などを繰り返すことにより周辺環境が悪化するという問題があった。当時の世間におけるモータースポーツの認知度の低さから、「モータースポーツ自体暴走行為を助長するものであり、好ましいものではない」との意見も一部には見られた。 その後、事態は3年ほど沈静化していたが、1984年(昭和59年)1月のNHK報道をきっかけとして、廃止論議が再燃し[58]、1985年(昭和60年)4月末には、FISCOが1986年末をもってレーシングサーキットを廃止すると発表するに至る[25][59][60][注釈 24]。ここに至って、敷地の地権者たちの大部分はサーキットの存続を支持していたことから、三菱地所に対抗して「富士スピードウェイ協力委員会」を組織し[25]、「日本モータースポーツ振興会」ともタッグを組む形で反対運動を展開した。反対運動の中、高橋国光や星野一義、長谷見昌弘をはじめとするレーシングドライバーや、モータージャーナリスト、サーキット地権者等が都内で富士スピードウェイ廃止反対を訴えるデモ行進を行い、その後公開シンポジウムを開いたこともある[59][61][62][注釈 25]。 1986年(昭和61年)には、三菱地所が富士スピードウェイのある小山町長に対し調停を申し立てたが(5月)[21][62]、同年7月30日、「この件は白紙に戻す」という町長裁定が下り、正式にサーキットの存続が決定した[21][注釈 26]。 その後もサーキットの身売りの話は散発的に出たものの[65]、サーキット廃止の話は、廃止騒動終結とほぼ同時に始まったバブル景気と、後述するモータースポーツブームによる隆盛を受けて、その後一度も話題に上ることはなくなった。 モータースポーツブーム期1980年代に入ると、世界選手権の開催や海外の有力チーム・ドライバーを招いた「輸入レース」の企画も増加した。1982年(昭和57年)には世界耐久選手権の日本ラウンド(WEC-JAPAN)、1985年(昭和60年)にはツーリングカーのインターTEC、1990年(平成2年)にはF3のインターナショナルF3リーグといったイベントが創設され、それぞれが複数年開催され国内のレース関係者に刺激を与えた。 さらに1980年代後半から1990年代前半にかけては、バブル景気下でモータースポーツブームが起き、全日本F3000選手権や全日本F3選手権、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権などの全日本選手権クラスのレースから下級カテゴリーに至るまで参戦台数、および観客数が増え隆盛を誇った。一方で、これらの全日本格式のカテゴリーの人気のあおりを受けて、バブル景気が頂点を迎えた1989年(平成元年)には富士GCが廃止された[W 8]。GC廃止後のFISCOはコースを貸し出す事業に徹することになる[51]。 老朽化1992年(平成4年)にピットガレージやコントロールタワーなどが改修されたとはいえ、殆ど更新されないままでいた施設の全体的な老朽化は否めず、1997年(平成9年)の横山崇と光貞秀俊、1998年(平成10年)の太田哲也、2002年(平成14年)の道上龍の大事故にも繋がるソフト、ハード両面の旧態化が進行し、FIAの基準を満たしていない施設が幾つも存在していたなど安全性の面でも懸念が高まっていた。 来場した観客が利用する設備も、屋根部分が少なくコンクリートむき出しのグランドスタンド席や汲み取り式トイレ、老朽化したレストランや建物など、いずれも約30年前のオープン当時のままで、バブル期のモータースポーツブームが終わり集客に苦心していた中、子供連れや女性客の獲得だけでなく、バリアフリーの観点からも早急な改修を望む声が観客やエントラント側からも多く上がっていた。 大幅な改修が必要なことは認識されていたものの、そのための資金の当てはなかった。サーキットの経営は1980年代こそどうにか黒字という状態を保っていたものの[65]、バブル崩壊によりモータースポーツブームが終息したことで、サーキットの収支は1992年をピークに、1994年以降は赤字が続くようになっていた[65]。親会社の三菱地所も地価の下落に苦しんでいたこともあり、多額の投資を必要とする大幅改修は行われないままとなる。 リニューアル2000年(平成12年)11月、トヨタ自動車がFISCOの発行済み株式の49%を三菱地所から買い取り、資本参加し[66][57]、サーキットの経営を三菱地所から引き継いだ[注釈 27]。トヨタ自動車の意向と出資により、サーキットには大改修が施されることになり[注釈 28]、2003年(平成15年)9月からサーキットの営業を全て停止して改修工事を行い、2005年(平成17年)4月10日にリニューアルオープンした[注釈 29]。 新コースは、1990年代後半から2000年代にかけて新規にF1を開催しているサーキットのほとんどでそのコースのデザインを担当したヘルマン・ティルケによって設計された。(→リニューアル後のコースレイアウト) 旧コースの特徴の一つだった約1.5 kmの直線は残されつつ、コースが現代的に改良された。大きな変更点としては、ランオフエリアを拡大した上で舗装したことにより安全性が向上したほか、旧コースでホームストレートへと半円を描いてスムーズにつながっていた最終区間が、新コースでは急勾配のつづら折れとなって入り組んだ複合コーナーの連続に変更され、難易度が増している。この改修により、F1開催を可能とする「グレード1」の認定を国際自動車連盟(FIA)から受けた(2005年5月)[4][注釈 30]。 コース以外の施設も老朽化が著しいものが多く、その改善は改修の最優先課題となり[70]、全面的に見直しが図られた。オープン当時から変わっていないグランドスタンドや、グランドスタンドとパドックを結ぶ地下通路、1992年に建て替えられたばかりのピットガレージを含み、ほとんどの旧施設が解体撤去され、新たに作り直された。(老朽化による悪評が多かった)観客が利用する設備の根本的な改善も図られ、観客用の歩道の増設、トイレの水準の引き上げ、自販機の販売価格の値下げ、各所のバリアフリー化といった、様々な部分に手が入れられた[4][71]。 トヨタ自動車の資本参加後も、大成建設と三菱地所はこの時点では引き続き株主として残っており、このリニューアル工事の施工設計は2社の協力を得て実現した(路面はNIPPOが担当)[69]。 F1の復活と再撤退鈴鹿サーキットで1987年(昭和62年)から行われていた「F1日本グランプリ」の契約が2006年シーズンで終了する予定だったことから、富士スピードウェイは2007年以降の日本GP開催の誘致を決定し、F1側との交渉の末、2007年の開催権を獲得した。その後、2007年になって、鈴鹿側も2008年以降の開催を希望したことから、2008年は富士での開催、2009年は鈴鹿での開催とし、以降も隔年で交互に開催するという予定を発表するに至った[W 9]。 F1開催にあたり、観客を駅や駐車場からシャトルバスで往復輸送する「チケット&ライド方式」を採用した。この方式は、周辺の道路交通への負担をかけないようにするためのものだったが、復活開催の初年度となる2007年の日本グランプリでは、悪天候によりバス輸送が大混乱に陥り、予選終了後に観客が長時間にわたって場内に閉じ込められたり、決勝スタートまでに来場できないという不祥事が発生した。その他にも1コーナー仮設観客席からコースが見えないなど、サーキット側の不手際による諸問題を発生させ、日本GPの歴史に汚点を残す結果となった。この一件は、レース後に、観戦者よりチケット代の返還と慰謝料を求める民事訴訟を起こされ、「大規模イベントの主催者として調査、管理を怠った」として、最終的に富士スピードウェイは賠償を命じられた(2013年)[W 10]。 2年目の2008年(平成20年)は約20数億円を投じて対策を行い、1コーナー等の場内施設を改修して開催に臨んだ[W 11]。決勝観客動員数を14万人から11万人相当に縮小し[W 11]、「チケット&ライド方式」にも運用面で改良を加え、シャトルバスを会場内や周辺に待機させる「留め置き方式」を採用したことで、前年ほどの混乱は見られなかった。この時に実施された「チケット&ライド方式」並びにバスの「留め置き方式」は、2020年東京オリンピックの自転車競技の際にも行われた。 2年目の開催は成功させたものの、2009年(平成21年)7月7日、富士スピードウェイは、2010年の開催権を返上し、日本GP開催から(再)撤退することを発表した[W 12][W 13]。この撤退について、FSW社は、世界同時金融危機以降の不況等に伴う経営環境の悪化のほか、「SUPER GTやフォーミュラ・ニッポンも含め、国内のレース観戦客数が激減している」、「看板スポンサーも減少している」ことが理由だと説明した[W 13]。これにより日本GPは2009年より再び鈴鹿で毎年開催されることになった。 現在F1世界選手権の開催がなくなった後も、富士スピードウェイはFIAの「グレード1」を引き続き維持し、世界選手権としては、FIA 世界耐久選手権の富士6時間レースの開催を継続(2012年シーズンから)しており、GTワールドチャレンジ・アジアやアジアン・ル・マン・シリーズなどの国際レースシリーズ、スーパーフォーミュラ、SUPER GT、スーパー耐久などの国内のトップカテゴリーのレースを開催し、それぞれが数万人の観客を集めるという盛況を見せている。(→#主な開催レース・イベント) 2018年(平成30年)6月には、スーパー耐久シリーズのレースとして、富士スピードウェイにとって50年ぶりとなる富士24時間レースが開催され、以降はシリーズの1戦として毎年開催されている[W 14][W 15]。 2022年(令和4年)4月、トヨタ自動車はトヨタグループの東和不動産(現在のトヨタ不動産)と共同で、富士スピードウェイを中心にホテルやミュージアム、レース車のガレージなどを備えた「富士モータースポーツフォレスト」を構築する構想を発表した。その一環として、同年10月に、サーキットの隣接地に富士スピードウェイホテルが開業し、ホテルの1階・2階に併設された富士モータースポーツミュージアムも、同日に開業した。 2023年(令和5年)4月3日、トヨタ自動車は新会社「富士モータースポーツフォレスト株式会社」を設立した[W 1]。同社の設立に伴い、三菱地所と大成建設がそれまで保有していた富士スピードウェイ株式会社(FSW社)の残りの株式全てをトヨタ自動車が取得した上で新会社への譲渡が行われ、FSW社はトヨタ自動車系列の完全子会社となった[W 1][注釈 31]。 コース5種のコース2023年現在、場内には「本コース」の他にも、「ショートサーキット」、「マルチパーパスドライビングコース」、「ジムカーナコース」、「カートコース」という合計5つのコースがあり、種目および目的別に使い分けられている。(「#場内設備」を参照) 本コースは、全長1,475mという世界有数のロングストレートを持ち、コース幅も15〜25mと広い(鈴鹿は10〜14m)[W 3]。かつては直線と高速コーナーからなる超高速コースだったが、時代とともにコーナーを増やす方向で走行速度の減速が図られている。リニューアル前はトップスピードを重視して、マシンにドラッグの少ないウィングやボディカウルが装着されたほか、1990年から1993年にかけて開催されたインターナショナルF3リーグの際に海外から来たチームは、リアウィングのアッパー部分を外して速度を稼ごうとしていた。現在は、低速テクニカルセクションがあるため、ある程度ダウンフォースを付けたセッティングが必要となっている。 開業時1966年の開業当時のホームストレートは1.6 kmあり[2][37]、1974年の30度バンク廃止以降(1.5 km)よりも長い[注釈 32]。ストレートから全開のまま、30度バンクに突入。ぐるりと半円を描き、バンクを通過すると右、左と大きく旋回するS字コーナーを抜けて、現在の2コーナー出口に位置していた合流地点へ。左の超高速コーナー、250Rを通過して右の100Rへ。フルブレーキでヘアピンを抜け、300Rから最終コーナーまでの長い全開区間からホームストレートへ戻り1周となる。1周は6 kmであり、当時の鈴鹿サーキット (6.004 km) とほぼ同距離。フルブレーキポイントはヘアピンのみというハイスピードコースであった。 周回方向は、右回り(時計回り)を基本としつつ、1966年のインディ富士200マイルや1973年の日本GPでは、30度バンクを通らないショートコースを使用し、普段とは逆の左回りでレースが行われた。 30度バンク30度バンクは、富士スピードウェイの開業時の第1コーナーで、最大30度のカントがついたバンクコーナーである。全長1.6 kmのホームストレートから、速度をほとんど緩めることなく突入するという迫力のある区間で[注釈 33]、サーキットの名物となっていた。 このコーナーは、サーキットがオーバルトラックとして計画されたことの名残で、サーキットの当初の設計者であるチャールズ・マネーペニーが考案した最初の案が、大成建設による再設計後も残ったものである。マネーペニーによる初期案(最大バンク角32度)は平坦な土地に建設することを前提に設計されたものであり、傾斜地に建設することを想定してはいなかった[16][28][W 7]。そのため、このバンクは工事が始まった後の時期までバンク角を最大30度にするか10度程度の緩やかなものにするか検討が続けられ[16][注釈 34]、最終的に当時の副社長である谷藤正三がバンク角を30度とすることを決定した[1][16]。 路面の舗装施工も大成建設(子会社の大成道路)が手掛けた[37][73]。バンクの舗装にあたってはNASCAR社との契約時にもたらされたノウハウが活用され、バンクの上に平坦な路面(助走路)を作り、そこを走るブルドーザーからアスファルトフィニッシャやタイヤローラ―をワイヤーで吊って引っぱるという工法が用いられた[37][12][注釈 35]。 30度バンクが使われた期間は10年に満たないものだったが、開業以来、事故の多発と数々のエピソードから、誰言うともなく「魔の30度バンク」と呼ばれるようになっていた[20]。 開業から10年足らずの間に30度バンクだけでも下記の重大事故が発生し[注釈 36]、1974年6月の事故を受け、同年7月以降、30度バンクは使用されなくなった[56]。
このバンクには以下の「欠陥」があったと指摘されている。
レースで30度バンクが使用されることはなくなったが、旧コース時代の末期にイベントの一環として、体験走行会が何度か行われたことがある。現在は、一部の路面がモニュメントとして遺されたメモリアルパークとなっている。 30度バンク廃止後1974年7月に30度バンクが廃止され、ショートカットコースをメインとしたレイアウトとなり、コース長は4.359 kmになった。バンクとそれに続くS字区間がなくなり、それに伴い、ホームストレートは約1.5 kmに短縮され、1コーナーはヘアピンとなるという変更が生じたが、それ以外はコースレイアウトに変更はなく、超高速コースである事には変わりない。1976年と1977年のF1開催時もこのコースが使われた。 また、1970年代前半までは、一部のレースがコースを左回りで周回するレイアウトで開催されることがあったが、30度バンクの使用終了に伴い、以降のレースは全て右回りで行われる形に改められている[注釈 41]。ただし、ファン感謝デーや全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)、自転車のロードレースなど、自動車レース以外のイベントで本コースが使われる場合には、2020年代の現在でも左回りで周回することがある。 1980年代には4箇所の改修工事が行われた。
この1980年代の時点で、三菱地所はサーキットへの追加投資には消極的で、運営会社のFISCOはかろうじて黒字という財務状況だったことから、大金が必要な改修に費用を投じる余裕はなく[79]、事故が発生する都度、主にシケインを設置するという形で、部分的な改修が繰り返された。基本設計は1966年の開業当時からひきずったものであるため、サーキットの国際的な安全基準の高まりに追従することができておらず、1990年夏には、1コーナーのコンクリートウォールについて、危険すぎるとして来日外国人ドライバーたちから改修の要望書が提出されるといった事態にも発展した[74][注釈 42]。 リニューアル後2000年にサーキットを買収したトヨタ自動車が、200億円とも言われる多額の費用を投じて[68]、サーキットは全面的に刷新された。全面リニューアルされたサーキットは2005年から使われており、同年にFIAの「グレード1」を取得[4]。コース長は4.563 km、コーナー数は16となる。 ヘルマン・ティルケが再設計をするにあたり、富士スピードウェイ側からはメインストレートは残すよう要望が出され[80]、他の区間はティルケの裁量に任された。リニューアル以前、安全対策として各所に間に合わせのシケインが設置されていった一方、ランオフエリアは狭く[81]、サーキットの性格は曖昧なものになっていた。そのため、ティルケは、サーキットの安全性は高めた上で[81]、Aコーナーが設置される前の「超高速コース」という個性を復活させることを設計コンセプトにした[82]。 この再設計により、1コーナーから100Rにかけての区間が1983年以前の形状に近い高速寄りのレイアウトに戻ったほか、コース終盤の登り区間である第3セクター(ターン10以降)が大きく変更され、中低速コーナーの連続するテクニカルセクションへと姿を変えた。
ピットレーン入り口はホームストレートの中間にあるため、ピットに入る速度を大きく抑制するためにシケイン状のコーナーになっている。このピット入り口のシケインを上手く通過する事でピットのロスも減らせる形になっている。また、ピットロード出口が以前と比べ1コーナー寄りに改められ、ピットアウト時のスピードを下げる工夫がなされている。
コーナー名ネーミングライツが導入されており、各コーナーには以下の名称がある。ターンは現在のターン数による。
立地富士山の東裾野、標高545-580mの土地にあり、天候が不安定であることで知られる。夕方以降には気温が急激に下がることも多い。また、気圧が低い関係からターボチャージャー搭載車が有利となり得るため、一時期のSUPER GTでは自然吸気車にハンデが与えられたこともあった。霧の発生も多く、緊急時用のドクターヘリの飛行が困難になることもある。 霧の発生や大雨により、レースの中止やスタートの遅延などが起きる場合もある。全日本ツーリングカー選手権ではスタートが大幅に遅延し、午後5時過ぎになってようやく中止裁定が下されたり、フォーミュラ・ニッポンではスタート遅延後に僅か5周で「レース成立」として終了した事例もある[注釈 44]。悪天候に見舞われたケースは以下の例がある。
コースレコード
主な開催レース・イベント現在開催中
過去に開催
場内設備コース場内には本コースの他に、種目および目的別に下記の4コースがある。
本コースでレースなどのイベント・搬入が行われない日には、持ち込んだレース専用車(ナンバー付き車輌も含む)による時間貸しの練習走行枠が設けられている(サーキットライセンスの取得が必要)ほか、貸し切り走行や自家用車での走行、オフィシャルカーの同乗走行を行うことができる[W 21]。 また、N1仕様のトヨタ・GR86のレンタルや、プロドライバーによるレッスンプログラムも用意されている(サーキットライセンスの取得が必要)[W 22]。カートコースではレンタルカートによる走行ができる[W 23]。 観客スタンド
その他、サーキット内には観客エリアが複数設けられており、グランドスタンド以外は全て芝生席となっている。 グランドスタンドを含む主な観客エリアの周辺には、バリアフリー対応のトイレや自動販売機、駐車場などが備えられている。 ピット及びパドックエリアピットを含むパドックエリアは、メインストレートを挟んでグランドスタンドの反対側に位置している。ヘアピン付近の観客エリアとグランドスタンド(イベント広場)との間には歩行者用の地下通路を備え、そこを介して行き来することができる[注釈 49]。地下通路には上りのみのエスカレーターもある。 パドックエリア内への入場は大規模なレースがある時は制限され、有効なパスを持っていないと入場できない。
トヨタ関連施設
「モビリタ」や「CGパーク」を含む各エリアは、レースやオーナーズクラブイベント、新型車試乗会などの自動車イベント以外にも、音楽イベントなどの様々なイベントの会場としても供用されている。なお、レースなどのイベントが開催されない時、特にオフシーズン時期には、一部の駐車場をトヨタ自動車の出荷前の新車のモータープールとしても使用していることがある。 サーキット事務所東ゲート脇に運営会社である富士スピードウェイ株式会社の本社とサーキット事務所が設けられており、サーキットライセンスの取得やコース貸し切りの申し込み、プレス受付や広告看板の掲出申し込みなどに対応している。また、コントロールタワーにも事務所が設けられており、サーキット走行券の購入などはこちらで行う。東京都千代田区内にも富士スピードウェイの東京営業所がある。 西ゲート周辺
かつて存在した施設
場内放送レース開催時には周波数「79.7MHz」のミニFMで場内実況される。 2016年より一部レースが地元のコミュニティ放送局エフエム御殿場(富士山GOGOエフエム)の周波数「86.3MHz」でも場内実況が放送される。 過去には、テレビジョン放送の実験も行われた。東通が総務省のホワイトスペース特区募集に提案し[W 34]、特区として認定され、2011年11月の富士スプリントカップからワンセグ放送を実験[W 35]、2012年5月のSUPER GTからワンセグ放送のほか、場内に設置されたデジタルサイネージへのフルセグ放送の実験も行われた。これらは実験試験局によるものであった[W 36]。実験結果から、地上一般放送局を開設するには設備投資の費用を捻出することが最大の課題とわかり、広告収入のみで投資の回収は困難という判断に至り[W 37]、結局エリア放送は開始されなかった。 入場料/走行料入場料金レースやイベントが開催されていない日でも入場が可能で、入場料は大人(18歳以上)が1,200円、高校生900円、中学生以下やFISCOライセンス保持者・FISCOクラブ会員は入場無料である[W 38]。入場料には場内駐車場代が含まれている[W 38]。 レースやイベントが行われている日は、それぞれのレースやイベントの入場料に準じる。また、指定されたレースについて自由観戦エリアで観戦できる、「チェカパス」と名付けられた年間パスがある[W 39]。 走行料 / 利用料各コースごとに走行料金が設定されており、イベントが開催されていない平日・休日に有料で走行が可能[W 38](FISCOライセンスの取得が必要[W 40])[注釈 51]。 時間ごと、もしくは全日で、コースや、イベントスペース、駐車場エリアを貸し切りで使用することも可能で、それぞれ料金設定がされている[W 38]。 周辺現在富士スピードウェイに隣接して、ゴルフ場「東富士カントリークラブ」と、大型公園墓地の「冨士霊園」があり、どちらもFISCO時代の親会社である三菱地所が経営している[注釈 52]。 西ゲート周辺の大御神地域は、ノバ・エンジニアリング、シフト、近藤レーシングガレージなど、多数のレーシングガレージやメンテナンス工場が集中しているため、「大御神レース村」と呼ばれている[89][57]。やや離れた御殿場市内の国道246号沿いのトムス御殿場ファクトリーが所在する一帯は、「レース村御殿場支部」とも呼ばれた[57]。他にも、小山町内には東名スポーツ[注釈 53]、セルモ[注釈 53]、御殿場市内にはムーンクラフト[注釈 53]、チーム・ルマン[注釈 53]、ホシノインパル、中嶋企画、KONDO Racing、ほか、多くのレーシングチームやメンテナンス会社の関連施設が点在している。 計画2027年度に完成予定の新東名高速道路の小山PA(仮称)とスマートICの開発に伴い、同エリアが「モータースポーツ関連産業エリア」として、再開発される計画もある[W 42]。 アクセス市街地や観光地に囲まれていることから、国内の他のサーキットと比べ交通手段は比較的恵まれており、高速道路のインターチェンジに至近な上に、近隣の複数の鉄道駅からのバス便もあるほか、鉄道駅からタクシーでもアクセスできる。 観客は「東ゲート」もしくは「西ゲート」の2つの入場ゲートから自家用車、シャトルバスもしくは徒歩でサーキット内に入るのが一般的である。2023年現在、東ゲート(メインゲート)と西ゲートのどちらも営業時間中は常時オープンしている[W 30]。 自動車/オートバイ自動車で来場する場合は西ゲート/東ゲートから入場し、場内に複数ある駐車場(15か所の自動車用駐車場と1か所のオートバイ専用駐車場)が使用できる。大規模レースの際は各ゲートと主要観客席、駐車場を結ぶ場内シャトルバスが運行される。 サーキット周辺の国道として、国道246号と国道138号(御殿場バイパス)が通っている。休日は富士山や富士五湖方面の観光地に向かう観光客や、ゴルフ客、御殿場プレミアム・アウトレットに向かう買物客が訪れる地域であるため、御殿場インターチェンジ周辺は非常に混雑する。そのため、富士スピードウェイも、SUPER GT開催時などは帰路についての案内を出している。 遠方からの主要なアクセスルートとなる高速道路について、東名高速道路の御殿場インターチェンジと大井松田インターチェンジがサーキット開業4年目の1969年3月に開設され、同年5月に東京から御殿場ICまでが開通した(東名高速道路の全線開通)。2012年には、新東名高速道路の御殿場ジャンクション以西が開通した。2019年には、東名高速道路において御殿場ICよりサーキットにより近い位置に足柄サービスエリアのスマートICが設けられ、東名高速道路の上下路線への所要時間が大幅に短縮された。 将来的には、新東名高速道路の小山スマートインターチェンジが、東西ゲートからそれぞれ数百メートルの距離に設置される予定であり、これによる利便性の向上が期待されている[W 42]。 鉄道サーキット近傍に鉄道駅は存在せず、最も近いJR御殿場線の御殿場駅、駿河小山駅のどちらからも、車で20分ほどの距離がある[W 45]。駅から公共交通機関を使ってサーキットにアクセスする場合、路線バスかタクシーを利用することになる(下述)。 バスサーキットにアクセスするバス路線があり、以下の通り。
タクシーJR御殿場駅や駿河小山駅からタクシーでアクセスすることも可能で、どちらの駅からも各ゲートまでの所要時間は約20分[W 45]。サーキット内にタクシー乗り場はないものの、電話でサーキット場内にタクシーを呼ぶことは可能。 ヘリコプター北ゲート付近にヘリポートがあり、事前に予約することで一般のヘリコプター(チャーターヘリ)が有料で利用することが可能<[W 38]。AIROS社、静岡エアコミュータ、トヨタ自動車系列の航空会社である朝日航洋といった数社が、チャーターヘリの案内を出している。所要時間は、東京ヘリポートまで30分、中部国際空港まで50分程度。 また、世界耐久選手権(WEC)やスーパー耐久の開催に際して、このヘリポート発着でレース期間中の遊覧飛行が行われている[W 47]。 北ゲート付近にある物とは別に最終コーナー内側にもヘリパッドがあるが、こちらはドクターヘリ専用で一般の利用はできない。 宿泊敷地に隣接して「富士スピードウェイホテル」が所在する。また、地元の小山町及び御殿場市周辺は元々避暑地や富士登山の拠点であり、ビジネスホテルやシティホテル、リゾートホテルや旅館、民宿やユースホステルの他にも、会員制リゾートホテルをはじめとする宿泊施設が多数点在する。また、周辺には山中湖や河口湖、箱根といった日本有数の観光宿泊施設の集積地があるため、通常時は宿泊施設の確保が比較的簡単にできる。 一方、富士スピードウェイの世界選手権大会や全日本格式のレースの開催日や連休、富士急ハイランドでの野外コンサート、御殿場市のゴルフ場でのプロゴルフトーナメント(三井住友VISA太平洋マスターズ)の時期は、観客や関係者により早くから予約が埋まる。 富士スピードウェイが登場した作品
関連項目
脚注注釈
出典
参考資料
雑誌 / ムック
外部リンク |