賀屋興宣
賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30日 - 1977年〈昭和52年〉4月28日)は、日本の政治家、大蔵官僚。主計局長、大蔵次官を経て、第一次近衛内閣大蔵大臣、貴族院勅選議員。東條内閣でも大蔵大臣として戦時財政における中心的な役割を担った(賀屋財政)。戦後、衆議院議員、池田内閣法務大臣、日本遺族会会長などを歴任した。 位階は正三位、勲等は勲一等(後者は1946年返上)。広島県広島市出身。旧姓は藤井。 生涯生い立ち父は国学者の藤井稜威(いつ)、母は愛国婦人会幹事を務めた漢学者の賀屋鎌子。4歳の時、母方の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗った。父方の祖父は山口県熊毛郡上関町長島の白井田八幡宮司・藤井厚鞆、父方の叔父に靖国神社第3代宮司・賀茂百樹がいる[2]。賀屋氏の遠祖は南北朝時代の武将である赤松則村といい、江戸時代には代々広島藩士として浅野家に仕えていた。江戸詰めとして江戸に居を構えていたが明治維新により広島に戻ったという。 1908年(明治41年)、旧制第一高等学校英法科入学。一高の同級生には英法科では河上丈太郎、神川彦松、河合栄治郎(経済学者)、渋沢正雄、ほか独法科の田中耕太郎、永野護など。また、一年下の後輩に近衛文麿、菊池寛、後藤隆之助など。 1911年(明治44年)、東京帝国大学法学部政治学科入学。東大法学部時代の成績は本人によれば、5、6番である[3]。結核と母の病死のため二度休学したため6年在学し、卒業時の年齢は28歳であった。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。法学士取得。 東大法学部では「永遠の師」と呼ぶほど筧克彦の法理学に多大な影響を受け、以下の様に回想している[3]。
また、山崎覚次郎の貨幣論に感銘を受け、日本銀行法は山崎の理論に依拠して作られたと述べている[3]。 大蔵官僚東大卒業後の1917年(大正6年)4月、大蔵省入省。産業に興味を持っていたため農商務省を志望していたが、広島一中・一高・東大法学部の先輩でもある同郷の長崎英造から大蔵省入りを勧められ、また早速整爾蔵相の影響もあり、大蔵省に入省した。入省同期には広瀬豊作(大蔵次官、鈴木貫太郎内閣大蔵大臣)、大野龍太(大蔵次官)がおり、大正6年入省組は賀屋含めて三名の次官を出したことになる[4]。同年10月、高等文官試験行政科合格(10位/124位)[5]。 入省直後から海外に渡航し、ニューヨークと欧州に勤務する。その後、主に主計畑を歩み、大蔵大臣秘書官、主計局司計課長、主計局予算決算課長、主計局長、理財局長、大蔵次官を歴任する。 大蔵官僚時代には陸海軍予算を担当し、少壮軍人達とも親しかった。1927年(昭和2年)ジュネーブ海軍軍縮会議、1929年(昭和4年)にはロンドン海軍軍縮会議に、それぞれ全権団の随員として参加。ロンドン会議では条約の締結賛成だったために、次席随員として参加していた山本五十六と鼻血を出す殴り合いを演じた。財政面で軍備の膨大な負担には耐えられないと主張する賀屋に対し、「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」等と怒鳴りつけて賀屋を黙らせた[6]。 その後は戦時経済政策を方向づけることなどに貢献、いわゆる革新官僚(新官僚)の一人と目され、またその線での活動が目立った。 戦時下の大蔵大臣1937年(昭和12年)には第一次近衛内閣で大蔵大臣となる。なお、近衛や後藤隆之助(近衛のブレーン)は一高の一年後輩である。いわゆる「賀屋財政経済三原則」を主張して日中戦争戦時の予算の途を開いている。この当時から、石渡荘太郎・青木一男とともに「大蔵省内三羽烏」と呼ばれるようにもなった。 1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時の東条内閣で再び大蔵大臣を務めて戦時経済を担当したが、東郷茂徳外務大臣と共に米英に対する開戦には終始反対だった。 戦時下には戦時公債を濫発し、増税による軍事費中心の予算を組み、戦時体制を支えた。その予算編成は、華北における資源開発や大東亜共栄圏を中心としたブロック経済を想定したものであり、A級戦犯に指名された理由もこの予算編成の責任者だったことに起因したものと考えられている。 終戦直後の1945年8月には、大蔵省が設置した戦後通貨対策委員会(インフレーションを阻止する通貨政策を確立するために設立)の委員長に就任した[7]。 A級戦犯から政界復帰へ戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となり、約10年間巣鴨プリズンに服役。児玉誉士夫によれば、獄中でも「これまで落ちれば、寧ろさっぱりして良いですね」等と悠然としていたという。また、岸信介は、お互い数年間規則正しい生活を強いられたおかげで持病等が無くなり、長生きできるようになったと回想している。賀屋は喘息持ちだったが、獄中生活で完治したという。 裁判では日本の共同謀議について戦勝国から問われたが、これについて賀屋は「軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北(北進論)だ、南(南進論)だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と語っている。 「逆コース」中の1955年(昭和30年)9月17日に鈴木貞一、橋本欣五郎らと共に仮釈放。1958年(昭和33年)4月7日付けで、同日までにそれぞれ服役した期間を刑期とする刑に減刑された。同年第28回衆議院議員総選挙に旧東京3区から立候補し当選(以後5回連続当選)。 首相となった岸信介の経済顧問や外交調査会長として日米安全保障条約の改定に取り組んだほか、池田内閣の法務大臣、自民党政調会長などを歴任し、自由民主党右派・タカ派の政治家として有名だった。池田勇人は大蔵官僚時代に同郷の先輩であった賀屋に近かった[8]とされ、総理就任後は彼を重用し、賀屋は熱心に岸の安保改定と池田の所得倍増政策に尽力した。 1972年(昭和47年)に政界引退(地盤は越智通雄が引き継いだ)。「自由日本を守る会」を組織、台湾を訪問し中華民国を擁護するなど独自の政治活動を続けた。 政界引退後は、アメリカ共和党や中央情報局(CIA)そして中華民国の蔣介石政権に広い人脈を持っていたり、日本遺族会初代会長となる等、国際反共主義勢力、自民党、右翼のトライアングルを結ぶフィクサーとして国内外の右翼人脈を築いた。2007年(平成19年)に開示されたアメリカ国立公文書記録管理局所蔵のある文書には、CIAが作成した日本の反共化を推進するのため現地協力者(行動員)のリストに賀屋の名が連ねられている[9][10]。賀屋のCIAにおけるコードネームは「PASONNET-1」であったとされる。 年譜
人物
栄典位階
勲章等
外国勲章佩用允許著書
伝記ほか
脚注出典
参考文献関連項目外部リンク
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