ティレル・012(Tyrrell 012)は、モーリス・フィリップ(英語版)を責任者として設計されたF1マシンで、1983年シーズンから1985年シーズンにかけてティレルチームが使用した。
概要
ティレルチームは1983年シーズンの序盤は前年モデルの011で参戦していたが、後半のオーストリアGPで初めて012がミケーレ・アルボレート用に投入された。ダニー・サリバンのために2台目の012が投入されたのは、最終戦の前戦ヨーロッパGPだった。
012の新車発表会で装着されていた奇妙な形状のV型リヤウイング(ブーメランウイング)が、012のデビュー戦である1983年オーストリアGPにも登場した。しかし、ダウンフォースが極端に不足したため、コンベンショナルなストレートタイプのものが以後使用された。また、サイドポンツーンが極端に小さく、マシン後部に斜め型に設けられた形状は、「矢印」との異名で呼ばれることもあった。
1983年はベネトンがタイトルスポンサーであったため、緑色のカラーリングをしていた。1984年シーズン前半は黒色主体のカラーリングになり、「ブラックアロー」という愛称でファンに親しまれた。なお、シーズン途中からマーティン・ブランドルの車のみヤードレー・オブ・ロンドンがスポンサーに付き、マシンカラーを赤茶色に変更。シーズン終盤にはコンピュータ関連企業のシスタイム(SISTIME)がメインスポンサーに付き、ステファン・ベロフ、ステファン・ヨハンソン(ブランドル負傷休養の代役)両者のマシン共に青いカラーリングへと変更された。1985年は「水タンク事件」の影響でほぼ全てのスポンサーが撤退してしまったため、チーム伝統の「ティレルブルー」にチームロゴのみのデザインになっていた。
シャーシ履歴
012は1983年に2台、1984年に3台、1985年に2台が製造され、3年間で7台がレースに投入された。シャーシナンバー1と4の2台は1985年のシーズン前にバロン・レーシングに売却され[2]、ロベルト・モレノとクラウディオ・ランジェスがこのマシンでF3000に参戦した。
F1における全成績
012は勝利を挙げることはできなかったが、ティレルチームは1983年にコンストラクターズランキング7位(12ポイント)、1985年が同9位(4ポイント)となった。1984年はマーティン・ブランドルがアメリカ東GPで2位、ステファン・ベロフがモナコGPで3位の活躍を見せるも、チームの不正(水タンク事件)によりリザルトを全て無効とされた。
(key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
* 1983年の11ポイントは011によるポイント。
* ティレルは1984年シーズンの成績から除外された。
脚注
- ^ “STATS F1 - Tyrrell 012”. Statsf1.com. 2010年8月23日閲覧。
- ^ Hamilton, Maurice (ed.) (1985). AUTOCOURSE 1985-86. Hazleton Publishing. pp. p.197. ISBN 0-905138-38-4
|
---|
創設者 | |
---|
主なチーム関係者 | |
---|
主なドライバー |
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
太字はティレルにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。 |
|
---|
車両 | |
---|
主なスポンサー |
|
---|