三億円事件
三億円事件(さんおくえんじけん)は、1968年(昭和43年)12月10日朝、東京都府中市で金融機関の現金輸送車に積まれた約3億円の現金が白バイ警察官に扮した男に奪われた窃盗事件である。正式な事件名は「現金輸送車強奪事件」である。通称では「三億円強奪事件」と呼ばれる。後に有楽町三億円事件・練馬三億円事件との区別のため、「府中三億円事件」とも称されることがある[1]。犯人検挙に至らなかったことから、1975年(昭和50年)12月10日に刑事訴訟法250条における公訴時効が成立し、未解決事件となった。また1988年12月10日には、除斥期間の経過により損害賠償請求権も消滅した。 日本犯罪史において最も有名な事件に数えられ、「劇場型犯罪」でありながら完全犯罪を成し遂げ、フィクションやノンフィクションを問わず多くの作品で取り上げられている。 概要現金輸送車に積まれた東芝府中工場の従業員4525人に支給される[2]ボーナス2億9,430万7,500円[3]が白バイ隊員に扮した男に奪われた事件である。「三億円強奪事件」とも言われているが、日本の刑法においては本件犯行は強盗罪には該当せず、窃盗罪となる。 盗まれた約3億円には保険が掛けられていたことから、日本の保険会社が給付した補償金によって全額が賄われ、事件の翌日には全ての従業員にボーナスが全額支給された。その保険会社もまた再保険をかけており、日本以外の保険会社によるシンジケートに出再していたことから給付した金額分が補填された[注釈 1]ために、直接的に日本国内で金銭的損失を被った者がいなかった[4]。犯人が暴力に訴えず計略だけで多額の現金強奪に成功し、保険による補償で金銭的に実害を被った者がいなかったことから、被害金額2億9430万7500円の語呂で現金強奪犯は「憎しみのない強盗」とも言われる。一方で、三億円別件逮捕事件を受けて後年自殺した人物や、捜査の過労で殉職した警察官が2名いるなど、事件の影響を受けて数奇な運命に翻弄されたり、不運に見舞われたりする人たちも一部でみられた。 警視庁の捜査において、重要参考人リストに載った人数は実に11万人にも達し、捜査に投入された警察官は延べ17万1,346人、捜査費用は7年間で9億7,200万円以上が投じられるなど、空前の大捜査となったが、最終的に犯人検挙には至らず、1975年(昭和50年)12月10日、公訴時効が成立(時効期間7年)した。1988年(昭和63年)12月10日に民事の時効も成立した(時効期間20年)。本事件は、日本犯罪史に名を残す未解決事件となった。 本事件により日本では多額の現金輸送を実施することに対する危険性が認識されるようになった。本事件が契機となり企業などでは従業員の給与や賞与等の支給について、各人が登録する金融機関の口座振込にすることが一般化するようになり、また専門の訓練を積んだ警備会社の警備員による現金輸送警備が常態化した。 盗難被害に遭った紙幣のうち、紙幣の番号が判明したのは五百円紙幣2000枚分(100万円分)のみであるが、これらの紙幣が使用された形跡はない[5]。 貨幣価値事件から半世紀以上が経った2020年代でも、被害金額3億円は豪邸の購入に匹敵する大金であり、現金窃取事件としては当時の最高金額であった[注釈 2]。これは、2014年(平成26年)の貨幣価値に直すと、消費者物価指数で見れば約3.5倍の約10億円の価値に当たる[6]。[独自研究?] 事件当時、大卒の初任給が約3万600円と言われ、2016年の初任給20万3800円と比較すると、約20億円の価値に相当する。その他、50~100億円の価値に相当するという意見もある。いずれにせよ、その後に起こった現金強奪事件と比べても[注釈 3]、貨幣価値においてはいまだ国内最高である。 経緯1968年(昭和43年)12月6日、日本信託銀行(後の三菱UFJ信託銀行)国分寺支店長宛に速達で郵便物が届いた。内容は「翌7日午後5時までに指定の場所に300万円を女性行員に持ってこさせないと、支店長宅を爆破する」というもので現金を要求する脅迫状であった。翌7日、銀行員に扮した女性警察官を脅迫状の指示通りに行動させ、警察官約50名が現金受け渡し場所の周辺に張り込んだが、犯人は現れなかった。 脅迫事件があった4日後の12月10日午前9時15分、日本信託銀行国分寺支店(現存せず)から東京芝浦電気(現・東芝)府中工場へ、工場従業員に支給するボーナス2億9430万7500円の現金が入ったジュラルミン製トランクケース3個を輸送する現金輸送車(日産セドリック1900カスタム)が銀行を出発した。輸送車は国鉄中央線のガード下を通り、国分寺街道を南下したのちに「明星学苑前」交差点を右折し、府中刑務所裏の府中市栄町、通称「学園通り」と呼ばれる通りに差し掛かった。 「学園通り」を半分くらい走行したところで、突然後方から警察の白バイが猛スピードで現れ[注釈 4]、走行中の現金輸送車を反対車線から追い抜き、警察官が左手を挙げながら輸送車の前を塞いで停車させた。その白バイは、なぜかバイクの後方に軽自動車用のシートカバーを引っかけたまま、それを引きずって走っていた。 現金輸送車の運転手は、白バイに捕捉されたことから「スピード違反でもしたのか?」と思い、スピードメーターを確認したが、時速30キロの制限速度を守って走行しており、なぜ止められたのかと疑問に思った。白バイから降りた警察官が小走りで車に近寄ってきたので、運転手は窓を少し開け「どうしたのか」と聞いた。すると警察官は「小金井署の者ですが、巣鴨警察署からの緊急連絡で、貴方の銀行の巣鴨支店長宅が爆破されました。この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので、車の中を調べて下さい」と言った。運転手が「昨日点検したが、そのようなものは無かった」と答え、後部座席に乗車していた行員二人も車内を確認したが、それらしき物は見つからなかった。白バイ警察官が「車の下に有るかもしれない」と言ったことから銀行員たちは念のため車の外に出ることになった。このとき運転手は輸送車のエンジンは切ったが、キーは差したまま車を降りた。そのキーには車のトランクやジュラルミンケースのキーも一緒に束ねて付けてあった。白バイ警察官は、車の前方へ回り、ボンネットを開けてエンジン周りを点検したあと、現金輸送車の下周りを捜索し始めた。 4日前に支店長宅を爆破する旨の脅迫状が送り付けられていた事もあり、銀行では不審物に警戒するように通達を出していた。その事により、ダイナマイト捜索という緊迫感がある雰囲気に銀行員たちは呑まれていた。白バイ警察官は、輸送車の車体下に潜り込んで捜索していた。すると輸送車の下から突然、白煙と赤い炎が吹き出し始めた。白バイ警察官は「有ったぞ!ダイナマイトだ!爆発するぞ!早く逃げろ!」と叫び、4人の銀行員を車から退避させた。銀行員たちは、爆発の危険から身を守ろうと現金輸送車から東へ100メートルほど遠ざかり、民家の物陰や垣根に身を伏せた。銀行員の一人は、後続車に爆発の危険を知らせようと道路上に立ちふさがり、トラックを停車させていた。陸上自衛隊車両を運転していた自衛官は、反対車線の車の下から煙と火が吹き出しているのを発見したため、消火器を持って駆けつけようとした。その直後に白バイ隊員は、現金輸送車の運転席に乗り込みエンジンを始動、自ら輸送車を運転して府中街道方面へ急発進させた。その後に現金輸送車は、府中街道「刑務所角」交差点を赤信号無視で右折し、大型ダンプカーと衝突しそうになりながらも恋ヶ窪方面へ走り去った。この間、わずか3分間の出来事だった。 この時、銀行員たちは白バイ警察官がダイナマイトによる爆発の危険を回避させようと現金輸送車を移動させたと考え「勇敢な白バイ警察官だ」と思ったという。しかし、現金輸送車は白バイ警察官諸とも現場から消え失せ、行方が判らなくなった。路上に落ちていた「ダイナマイト」は依然として煙と炎を吹いていたが、いくら待っても爆発はおろか、それ以上は何も起きなかった。銀行員たちは、恐る恐る「ダイナマイト」に近づいて確認したところ、それは単なる発炎筒が煙と炎を出しているだけのものだと判った。路上には、発煙筒とシートを引っ掛けたままの「白バイ」だけが残されていた。発煙筒が自然鎮火した後、オートバイに詳しい輸送車の運転手が乗り捨てられた「白バイ」が偽物だと気付いたことから「勇敢な白バイ警察官」は、実は白バイ警察官に扮したニセ者であり、約3億円の現金が窃盗犯によって持ち去られたことを銀行員たちはようやく認識した。 白バイ警察官に扮した犯人によって約3億円の現金が持ち去られてから既に10分が経過していた。銀行員たちは、現場の側に建っていた府中刑務所の監視塔刑務官に向かって大声で「車が盗まれた!通報してくれ!」と頼み、更に現金盗難現場から程近いガソリンスタンドに駆け込み、電話を借りて銀行へ事の顛末を報告した。報告を受けた銀行では支店長代理によって110番通報が為された。だが当初は、現金輸送車に対する検問を実施した警察官が実際にいるのかどうかという問い合わせが通報の内容だったことから、初動対応に遅れを生じさせる一因となった。検問を実施した警察官は存在しないと確認した警視庁は、9時50分に伊豆・小笠原諸島を除く東京都全域に緊急配備を敷いた。奇しくも、この日は毎年恒例の歳末特別警戒の初日であった。警視庁は要所で検問を実施したが、当初は自動車の乗換えを想定していなかった事もあり、現金輸送車と同型車種(黒色の64年型・日産セドリック1900カスタム)を発見することに重点が置かれていた。その後に自動車の乗換えが発覚してからは、都内の主要な道路において全車両に対する詳細な検問を実施した。その結果、激しい交通渋滞を招いて多くの車両を検問することはできなかった。検問による渋滞がより一層激しくなってきたことから、警視庁は夕方までに検問を取り止めた。夜になってからも捜索は続けられたが、犯人と現金は発見できず、事件当日中に犯人を逮捕することができなかった。 多磨農協脅迫事件三億円事件発生の半年ほど前、1968年4月25日から同年8月22日にかけて、多磨農業協同組合(多磨農協/現:マインズ農業協同組合)に対して現金恐喝や放火爆破予告をする脅迫事件が計9回発生した。手口は脅迫状送付、脅迫電話、壁新聞投げ込みによるものだった。 この事件は、脅迫日が東芝の給料日だったこと、脅迫状の筆跡が1968年12月6日に日本信託銀行国分寺支店へ送付された脅迫状の筆跡と同一とされたことなどから、3億円事件と関連があると分析された。 3億円事件を捜査する警視庁府中警察署・「現金輸送車強奪事件」特別捜査本部は、のちに「3つの事件」を同一犯による犯行であると結論付けた。 6月25日に多磨農協を脅迫する文章の中では「よこすかせんはひきょうもん」という文言が入った脅迫状を送っている。「よこすかせん」とは脅迫状を送る9日前の6月16日に国鉄横須賀線大船駅で発生した横須賀線電車爆破事件について触れたと言われている。なお、脅迫状作成当時は横須賀線電車爆破事件の犯人は不明だったが、三億円事件発生1ヶ月前の11月9日に純多摩良樹をペンネームとする犯人が逮捕され、1975年12月5日に死刑執行された。 遺留品犯人が犯行現場などに残した遺留品が124点もあったことから、捜査本部では犯人検挙について当初は楽観的ムードが漂っていた。ところが、遺留品や盗難品は一般市場に大量販売された大量生産品であったため、販売ルートから犯人を特定することは困難を極めた。捜査は大量生産時代の壁に突き当たってしまった。犯人の主な遺留品を「第一現場」「第二現場」「第三現場」「第四現場」「脅迫状」「2つ雑誌」に分類して以下に記述する。 第一現場府中市栄町、府中刑務所北側の「学園通り」路上が「第一現場」と呼ばれている。三億円強奪事件が起きた現場である。遺留品には偽装白バイと装備品、発煙筒などが残った。 偽装白バイ関連の遺留品
発煙筒関連の遺留品
第二現場東京都国分寺市西元町の国分寺史跡・七重塔跡近くの墓地入口および武蔵国分寺跡のクヌギ林が「第二現場」と呼ばれている。現金輸送車が乗り捨てられていた場所である。現金輸送車の中に現金およびジュラルミンケースは残されていなかった。第二現場では、事件当日の朝に濃紺のカローラ(第2カローラ)が駐車しているところを近隣の住人に目撃されていたことから、犯人は犯行現場で奪った現金輸送車を第二現場まで運転し、現金の入ったジュラルミンケース3個をあらかじめ用意していた「第2カローラ」に移し変えて逃走したと考えられた。犯人の「逃走車への乗換」という計略を捜査当局が早期に見抜けなかったことが、検問などの初動捜査で犯人を検挙できなかった一因である。 第三現場府中市栄町、明星高校近くの空地が「第三現場」と呼ばれている。犯行前に偽装白バイを停めていた場所である。犯行時間直前、カバーを被った状態でエンジンがかかっているオートバイ(カバーがかかった状態なので、偽装白バイとは気がついてなかった)を不審がった近所の主婦が目撃している。 捜査本部の見立てでは、犯人は銀行を出発した現金輸送車を「第1カローラ」と呼ばれる盗難車で追跡し、輸送ルートを確めたあとに「第三現場」で「第1カローラ」を乗り捨てた、と推測された。その後犯人は、あらかじめ用意していた偽装白バイに乗り換え、現金輸送車を追い掛けて犯行に及んだと考えられている。「第三現場」には、「第1カローラ」と「レインコート」が残されていた。
第四現場東京都小金井市本町の団地敷地内の駐車場が「第四現場」と呼ばれている。「第二現場」で犯人が現金輸送車から乗り換えた「第2カローラ」が乗り捨てられていた場所である。事件発生から4か月後の4月9日に発見された。乗り捨てられた「第2カローラ」の車内に現金を抜き取った後の空のジュラルミンケースが3個残されていた。現金をジュラルミンケースから抜き取った場所が「第四現場」である可能性もあるが、団地内の駐車場という人目につきやすい場所であるため、移し変えた場所は別の現場である可能性もあり、実際のところ断定するには至っていない。団地内に駐車していた他車も捜査したところ、別件の盗難車が複数台発見された。それらは犯人が犯行に利用した疑いがある車両だと断定された。多額の現金を移し変えるにせよ、盗難車両を隠匿するにせよ、それは団地の敷地内という人目には付くが他者への関心が及ばない場所を利用し、都会の死角や盲点を巧みに突くという、緻密で用意周到な犯人像を補強した。
脅迫状銀行に脅迫状を送付した封筒に貼られた切手に唾液の痕跡があり、B型の血液型が検出されている。また、脅迫状は雑誌の切り貼りと手書きで文章を作成していたが、その雑誌が発炎筒の巻紙に使われた雑誌と完全一致したことから、脅迫状を送った犯人と現金強奪犯が同じであることが明らかになった。 多磨農協脅迫事件と日本信託銀行脅迫事件の両事件で送られてきた脅迫状の文面の特徴として以下の特徴があった。
2つの雑誌脅迫状の作製と発炎筒の加工には「近代映画」と「電波科学」という2つの雑誌が使われていた。「近代映画」のページから文字を切り抜いて脅迫文を作製し、「電波科学」からは文字の切り取り以外に付録のページ全体を切り取り、発煙筒の外側に巻いていた。捜査本部は、2つの雑誌の読者層を分析して犯人を捜査した。しかし、2つの雑誌の読者の趣向は両極端であり、これらの雑誌を販売している書店に聞き込みをしても、2つの雑誌を同時に購読する読者は皆無で、結局犯人に辿り着けなかった。 捜査本部は、その後の捜査で「電波科学」の読者にとって一番重要だった「配線図」のページが犯行に使用されていたことから、本来の読者であれば違うページを使用した蓋然性が高いと推理した。犯人は捜査を撹乱するため、無作為に2冊の雑誌を入手して犯行に使用したものと結論付け、雑誌に関する捜査を打ち切った。 実行犯に関する目撃証言事件発生の少し前、犯行に使用された偽装白バイに関する目撃証言が集まっている。1968年11月下旬の朝8時頃に府中市の市道を走行していた青いオートバイ、更には同12月1日深夜に京王線高幡不動駅近くで一方通行の道路に対して逆向きに停めてあった青いオートバイがそれぞれ目撃され、2件の目撃情報とも4桁のナンバーが偽装白バイに使用されたオートバイ(ヤマハスポーツ350R1)と同じであった。また事件前日の12月9日20時40分には、府中市の交差点で不自然なスピードで走行する、本物の白バイよりもシートが高い「違和感がある白バイ」とすれ違った、とする目撃証言がある。 現金強奪前の第三現場では、シートを被せられた「白バイ」の目撃証言が寄せられた。現金強奪10分前の9時20分には何かを狙うように待機する「白バイ隊員」の姿が自宅にいた主婦に目撃されている。また現金強奪30分前の9時頃に日本信託銀行国分寺支店から50メートル離れた空き地で銀行の出入りを窺う不審なレインコートの男を目撃した人物が4人いる。4人の目撃者によると、不審な男は「身長165センチメートルから170センチメートル」「30代くらいの男」であると証言している。 直接の現金強奪の犯行現場となった第一現場では、4人の銀行員の他に府中刑務所の職員、近くにいた航空自衛隊員などの目撃証言者がいた。しかし、これらの目撃者の証言は曖昧だったり勘違いだったりすることもあった。 第二現場付近では、犯行直後に猛スピードで走る車に泥水を跳ねられた通行人の主婦がいた。主婦は、すぐに車のナンバーを控え、警察に通報した。警視庁がナンバーを照合したところ、泥水を跳ねた車は、第一現場で強奪された現金輸送車のセドリックだったことが判明している。 国分寺市の造園業者の親子が車を運転中に乱暴な運転の濃紺カローラとすんでのところで接触事故になりかけた。カローラは猛スピードで国分寺街道方面に走り去って行った。造園業親子の目撃証言では、カローラの運転手は長髪の若い男で、無帽かつ黒っぽい服を着用し、助手席は無人だったという。ジュラルミンケースは見ておらず、車のナンバーも確認していないが、無謀な荒い運転や濃紺色という目撃証言から、犯人が第二現場で逃走用に乗り換えた「第二カローラ・多摩五郎」であることが確実視されている。 東京都杉並区内の検問所で「銀色のトランクを積んだ灰色ライトバン」を捕捉したが、突破されて逃亡した。これが最後に目撃された犯人の姿とされる[8]。 捜査モンタージュ写真による捜査12月21日にモンタージュ写真が公表された。しかし、これは通常のモンタージュ写真のように顔のパーツを部分的につなげて作成されたものではなく、事件直後に容疑者として浮上した人物(後述する立川グループの少年S)が犯人に似ているという銀行員4人の証言を根拠とした上で、少年Sに酷似した人物の顔写真をそのまま無断で用いたものであった[注釈 6]。なお、捜査本部は実行犯を間近で目撃した4人の銀行員たちを刑事のふりをさせてSの通夜をしていたS宅に招き、Sの顔を面通しをさせて、4人全員がSが実行犯に「似ている」または「よく似ている」と答えている。 後に4人の銀行員は事件3日後の12月13日に銀行内での内輪の報告では警察の聴取とは異なり、犯人の人相記憶に一貫した説明ができなかったり、漠然としていて顔や形の説明ができなかったり、1人は車の窓の柱が邪魔になって実は犯人の顔を見ていなかったと語っていたこと等が判明したことなどから、現金を強奪される際に「キーを差し込んだまま逃げた」「通報が遅れた」というミスを犯した責任感に加えて「犯人の顔も覚えていない」では許されないという重圧から証言に大きなバイアスがかかっていた可能性が浮上した。また、後の警察の補充捜査で、4人の銀行員の目撃証言について4人が同室で証言させられたことで他の銀行員の意見に引きずられやすい雰囲気の中で調書が作成されたこと等の問題点が浮上している。 本来「このような顔」として示す程度のモンタージュ写真を「犯人の実写」と思い込んだ人が多く、そのために犯人を取り逃がしたのではないかという説もある。また、モンタージュ写真を見せて取材をしていた記者が捜査本部に「家にモンタージュ写真を持って男が話を聞きに来たが、その男が写真に似ていた」と通報されるなど、モンタージュ写真の公開によって膨大な情報提供が寄せられたことが却って捜査を混乱させたという指摘がある[4]。 1971年に「犯人はモンタージュ写真に似ていなくてよい」と方針を転換、問題のモンタージュ写真も1974年に正式に破棄されている。しかし、その後も本事件を扱った各種書籍などでこのモンタージュ写真が使用され続けており、犯人像に対する誤解を生む要因となっている。 なお、これらの経緯が初めて明らかになったのは、『文藝春秋』1980年8月号における小林久三・近藤昭二の共筆による記事によるものである。 ローラー作戦事件現場となった三多摩地区には当時学生が多く住んでいたことから、一帯にアパートローラー(全室への無差別聞き込み)を掛けた。警察において被疑者とされた者の数は十数万人に及んだ。事件現場前にある都立府中高校に在籍した高田純次や布施明の名前もあった。もっとも、2人とも事件とは無関係であることが後に判明した。 なお事件自体が、当時盛り上がりを見せていた学生運動の摘発を目的とする強引な捜査の口実として捏造されたとする陰謀論も存在する。 その他の捜査通常の事件と同様に遺留品などから検出された指紋の照合も行われていた。しかし、上記の通り遺留品はどれも大量生産されていたものだった影響から、照合する指紋の量が多すぎたことや、指紋の照合をした警視庁鑑識課の指紋係員がわずか3人と少数だったため大した効果は得られなかった[9]。 警察は事件当時に盗まれた3億円のうち、番号がわかっていた500円札2000枚分(100万円分)のナンバー(XF227001A~XF229000A)を公表した。これについても解決にいたらなかった。 犯人像事件当時から「単独犯説」と「複数犯説」が唱えられ、目撃者や脅迫状に書かれた文面、遺留品などから様々な犯人像が浮上した。ただし、「複数犯説」については以下の通り否定的な見解がなされ[4]、一般的には「単独犯説」が主流である。
立川グループ事件当時、立川市内で車両窃盗を繰り返した非行少年たち。その中でも、以下のメンバー2人が捜査線上に挙げられている。 少年S立川グループのリーダー格。事件当時は19歳。
事件当時、移送中に逃亡して行方不明になっていた少年Sだったが、捜査本部は立川市にある実家への張り込みを行い、部屋からレコードの大音量が流れていたことから、少年Sが実家へ帰っていることを突き止めた。ところが、周辺の警察署へ「手を出さないように」と連絡していたにもかかわらず周知徹底が不足しており、事件から5日後の1968年12月15日、立川署の刑事2人が少年Sの実家を訪問し、居場所を尋ねた。仕事で不在の父親に代わり対応した母親は 「息子はいません」 と答えた。 刑事たちが引き揚げた後、仕事を終えて帰宅した父親と大喧嘩する声が近隣住民に聞かれている。 同日深夜、父親が購入していた青酸カリで少年は自殺した。しかし、周りの人間は「Sは自殺するような人間ではない」と口を揃え、さらに青酸カリが包まれた新聞紙からは、父親の指紋しか残されていなかったため、疑問視する声が強い。 なお、現場には少年が妹に宛てて書いた遺書2通と母親が書いた遺書1通(「私の遺骨は実家の墓に入れて下さい」という内容)が残されていた。捜査員が母親に問いただすと、 「息子が便箋がほしいと言うので渡したが、まさか遺書を書くためとは思わなかった。私の遺書はずっと以前に書いたもの。息子を巡って以前から夫婦仲が悪く、死のうと思ったことがあった。遺書はその時のもので、便箋の中に挟んだまま、捨てるのを忘れていた」 という苦しい弁明に終始した。 捜査員たちは、「刑事が自宅を訪れたことから両親が少年を問い詰めたところ、三億円事件の実行犯であることを告白したため、一家の将来を悲観した両親は『一緒に死のう』と言ったにもかかわらず、少年だけを自死に追い込んだ」と考えた。事実、現場には2つコップがあったが、青酸カリの反応が出たのは1つだけだった。 1968年の12月21日、Sに酷似したモンタージュ写真が公開されたものの、Sの父親へ尋問を行った平塚八兵衛刑事の判断などによって警察はSを「シロ」と断定した。 その劇場型犯罪に相応しいインパクトからドラマや小説でこの説が取り上げられることが多いため、「警官の息子犯人説」は世間に広く知られることとなった[4]。 少年Z立川グループのメンバー。事件当時は18歳。
公訴時効寸前の1975年11月15日、別件の恐喝罪で逮捕され、金の出所を追求された。 当初は出所を説明していたものの、警察の捜査によって矛盾点や嘘がわかり、その点を問い詰めると度々叫び声をあげ、頭を机や床に打ち付けるなどの自傷行為に走った。取り調べにならず、時効の問題もあったため、上層部の判断により12月4日に釈放された。 ゲイボーイ以下K。少年Sと交際があったゲイ。事件当時は26歳。 親族を除き、事件当日のSに関する証言をした唯一の人物。Kの証言は、事件の2〜3日前から前日にかけて新宿の自宅マンションで夜を過ごし、明るくなった朝8時頃に自宅を出るのを見送ったと証言した。ただし、朝8時というのは時計を見ていたわけでなく冬における外の明るさで判断としており、雨が降っていたが傘やレインコートを貸した記憶がなかったなど、曖昧な点があった。 Kの証言では初めてSと会ったのは事件の20日前なのに夏(少なくとも4か月程度前)に一緒に旅行に行った時に撮影された少年Sの写真を飾っていたことなど不可解な点があった。さらに事件1年後に、外国に移住して、ゲイバーを開店したり、再び日本に戻った時には日本では自宅マンションや2軒目のマンションを購入したり、事件7年後には実家に豪邸を建てたりなど、明らかに金回りがよくなっていた。 もしKがSと共犯であれば、Sが鑑別所にいる間の脅迫書を出すこと、事件関連の30代の男に関する目撃証言や電話の声の証言、第4現場の盗難車に残されていた女性物のイヤリングにもつながる。 警察は捜査を進めるも、Kを「シロ」と断定した。Kは急に金回りがよくなった点について「外国のパトロンがついた」と述べている。 府中市の運転手→詳細は「三億円別件逮捕事件」を参照
府中市に住む運転手であった容疑者Fは、事件当時は25歳。住まいや過去の運転手の仕事から各現場の地理に精通していること、血液型が脅迫状の切手と同じB型、タイプライターを使う能力を持っていること、友人に送った手紙が犯行声明文と文章心理が似ていること、モンタージュ写真の男と酷似していることなどから容疑者候補として浮上。しかし、脅迫状の筆跡が異なっており、金回りに変化がないことから、警察は慎重に捜査をすることとしていた。 発生から1年後の1969年12月12日、『毎日新聞』が本人の顔と本名をモンタージュ写真にFの顔を合成するなどして犯人視する報道を展開。このため警察が逃亡を防ぐとの名目で別件逮捕。新聞各社も「容疑者聴取へ」などと実名報道で書き立てる。ところが、本人が場所を記憶違いしていたながらも事件当日に就職面接を受けていたアリバイが報道を見た会社の面接担当者からの連絡で証明され、完全なシロとして釈放された。 しかし、警察に容疑者として逮捕されたうえに、新聞各社が犯人扱いで学歴、職歴、性格、家庭環境まで事細かく暴露。このため本人は職を失い一家は離散。さらに、その後も真犯人の見つからない中で、「三億円事件の容疑者として逮捕された」との世間の偏見と、事件に関するコメントを執拗に求めるマスコミ関係者に悩まされ職を転々とし、2008年9月に自殺した[10]。 日野市三兄弟東京都日野市の電気工事会社を経営する三兄弟。事件当時は上から31歳・29歳・26歳。大きなガレージ風の物置がありオートバイの偽装のための塗装がしやすいこと、次男がオートバイマニアの不良グループに属していたこと、看板店の営業経験があり塗装技術があること、事件前に発炎筒がつけられた車を購入していたこと、兄弟の一人が事件前にハンチング帽を被っていたことが怪しいとされた。しかし、車の発炎筒やハンチング帽が事件のものと異なること、事件の4日後に借金していたことなどが判明。その後も警察は日野市三兄弟を捜査するも事件と結びつかなかった。 不動産会社社員不動産会社社員。事件当時は32歳男性。事件前に金に困っていたが事件後に金回りが良くなったこと、東芝府中に勤務経験があること、姉が東芝府中に12年勤務していること、自動車の運転が巧みなこと、モンタージュ写真の男と酷似していることが怪しいとされた。しかし、事件当日に杉並区から神奈川県横浜市に車で行く途中で非常検問にひっかかり、アリバイがあること、金回りの変化については不動産売買で1600万円を入手したことが明らかになったことから容疑者から外された。 会社役員以下P。三億円事件から13年前の1955年に銀行員1人を仲間にしたり仲間の1人が刑事を装うなどして、東京都千代田区にある銀行の現金輸送車を襲う計画を仲間3人と実行。この事件ではすぐに逮捕されたものの計画性や発想が三億円事件と類似するものであった。Pは出所後に刑務所の中で知り合った友人に「今度は1年がかりで大きなことをやる」と豪語。三億円事件発生後に土地や住宅や外車を購入して金回りが良くなったため、容疑者として浮上。しかし、金回りに関しては、不動産会社から合法的な資金提供を受けたことが判明した。ハワイへ移住しマンション暮らしをしていたことがわかった。後にハワイで病死した。 自称三億円事件犯人時効成立後、三億円事件犯人を自称する人物が何人か登場している。テレビ等で事件が取り上げられることが多いのが原因で時期は事件発生時と同じ12月に集中している。 なお、当時の担当刑事によると事件の際に発炎筒が通常通り点火しなかったが、犯人は通常とは異なる手法で発炎筒を点火させていることが遺留品から判明している。またジュラルミンケースには現金・ボーナス袋のほかにある特殊な「モノ」が入っていたという。発炎筒の特殊な点火手法やジュラルミンケースに留置された「モノ」は一般発表されておらず、捜査関係者と真犯人しか知らないはずである。 事件を扱った主な作品小説
演劇
映画
テレビドラマ
音楽
漫画
パロディ・オマージュ
事件のモデルになったと言われた作品
その他の関連する企画府中市のタクシー会社が、解説付きで事件の現場をたどるツアーを、事件発生から50年目の2018年に実施した[1]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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