織田 教長(おだ のりなが)は、室町時代の武将。通称は勘解由左衛門尉。尾張国守護代。尾張下津城主。
略歴
織田教信または織田常松の子として誕生。初名は朝長。後に教長(足利義教からの偏諱か)[注釈 1]。織田民部入道玄永は教長のことを指すともされる。
応永35年(1428年)閏3月23日、又守護代「織田勘解由左衛門尉」が織田常松から指示を受ける[2]。
正長2年(1429年)4月29日、「織田勘解由左衛門朝長」が守護代として活動[2]。
永享元年(1429年)11月28日、「織田教長」が守護代として活動[2]。
永享元年(1429年)12月27日、「織田勘解由左衛門尉」が斯波義淳から指示を受ける[2]。
永享3年(1431年)には守護代として織田淳広の活動が見えるので、それまでに交代したと見られる。
脚注
注釈
- ^ 斯波義教よりの偏諱との説もある。改名時期が斯波義教が死去してから11年後の正長2年であるため、当時、征夷大将軍であった足利義教からの偏諱と考えられなくもないが、教長より前の世代に織田教広や織田教信が見られるため、通字なのか偏諱なのかは結局のところは不明
出典
- ^ a b c d 『清洲町史』の織田氏推定系図
- ^ a b c d 大徳寺文書
参考文献
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織田氏 (平姓) | |
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伊勢守家 | |
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大和守家 | |
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因幡守家 | |
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藤左衛門家 | |
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弾正忠家 | |
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信長流 |
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信勝流 |
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信包流 |
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信治流 |
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長益流 |
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