腰越
腰越(こしごえ)は神奈川県鎌倉市の腰越地域(市南西部)に位置する大字および町名。ほか埼玉県比企郡小川町腰越もある(〒355-0327)。 鎌倉市腰越地域の現行行政地名については腰越一丁目から腰越五丁目と大字腰越。住居表示は一丁目から五丁目は実施済み区域、大字腰越は未実施区域[5]。郵便番号は248-0033[3]。古くから鎌倉への入り口(宿駅)、そして漁業の村として栄えてきた。 鎌倉市腰越地域はもともと、津村に所属する字だったが、寛文6年(1666年)11月に「腰越村」として分離した。以降明治時代までは相模国鎌倉郡津村郷腰越村と呼ばれたが[6]、廃藩置県後に神奈川県鎌倉郡腰越村となる。なおこの頃の行政区画が現在の大字としての範囲とほぼ一致している。1889年(明治22年)に津村と合併し腰越津村が誕生したため、腰越村は消滅し大字となった。 腰越および津の両大字はその分離の過程(歴史の項にて詳述)によって非常に入り組んだ飛び地だらけとなっている。このため住宅地図をのぞくほとんどの地図では「腰越・津」とまとめて記載されていることが多い。 概要鎌倉市の最南西に位置し、南部は相模湾に面し、西部は藤沢市と接している。北部は西鎌倉・津(津村)・津西と接し、東部は小動岬をはさんで七里ヶ浜と接している。 海岸線を国道134号と江ノ島電鉄線が平行して走る。また大字を縦断するように神戸川が走り、神奈川県道304号腰越大船線と旧江の島道が川をほぼ併走している。域内には江ノ島電鉄線腰越駅・鎌倉高校前駅、腰越漁港(明治以前は腰越浦と呼ばれた)、腰越行政センター、腰越海水浴場などの施設があり、また龍口寺や満福寺、腰越村の鎮守として信仰を集めた八王子社(現在の小動神社)など寺社も多い。 地価住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、腰越字猫池ヶ谷1330番33の地点で16万2000円/m2、腰越1-8-6の地点で17万7000円/m2となっている[7]。 歴史腰越村成立以前鎌倉幕府成立以前の古代腰越については史料が残存していないため、不明な点も多い。しかし鎌倉が古代から地域政治の中心として栄えていた事や、三浦半島を経由し海路で房総半島へ向かう古代の海道が腰越を走っていたらしい事が考古学の分野から判明しており、このことから腰越は古代から宿駅(腰越駅[8])として栄えていたと推測されている。 元暦2年(1185年)、源平合戦(治承・寿永の乱)において活躍した源義経は、念願の平家討滅を成し遂げたにもかかわらず兄・頼朝から面会を拒絶され続けた。そして旧暦5月24日(6月23日)、腰越の満福寺に逗留していた義経は頼朝の近臣・大江広元に兄への心情を訴え、執り成しを依頼する書状を認めたとされる。これが有名な腰越状である。 腰越村成立江戸時代初期、腰越一帯は江戸幕府の代官がおさめる直轄地だったため代官がおかれ、村の政務一般に関する業務は実質的に土地の土豪島村氏が代わりに取り仕切っていた。しかし島村氏は苛烈な徴税をはじめ、数々の横暴をおこなったため、多くの村民が島村氏の支配に反発していた[9]。このため一部の村民が村の分離を幕府に訴えた。その後寛文6年(1666年)11月に幕府は腰越を村として扱う事を決め、津村は腰越村と津村の二村にわかれた。 二村に分かれる際、島村氏とその縁者が持つ土地は津村、それ以外の者が持つ土地は腰越村に所属したため、村の内部に大量の飛び地が生まれる原因となった。 腰越村成立後から消滅まで
→「漁業権 § 漁業法制の歴史」も参照
腰越村消滅以降
→「腰越町」も参照
町名の変遷
産業腰越には漁港があり、しらすなどが捕れる。詳しくは「腰越漁港」を参照。 世帯数と人口2023年(令和5年)7月1日現在(鎌倉市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。なお、大字腰越は除く。大字腰越の人口は津 (鎌倉市)を参照。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2017年7月時点)[21][22]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[23]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
交通鉄道道路
伝説昔、鎌倉の深沢には大きな湖があり五頭竜が住んでいた。十六人の子供がいた津村の長者の子供達も一人残らず五頭竜の犠牲となり“子死越”が腰越の地名の起こりだという。その後、五頭竜は、江の島の弁財天に悪業を戒められ守護神として龍口明神社に祀られたとされている[25]。 腰越を舞台とした作品
その他日本郵便脚注出典
参考文献
関連項目
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