西都原古墳群
西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)は、宮崎県西都市三宅・童子丸・右松にある古墳群。国の特別史跡に指定されている。 標高70メートル程の洪積層の台地上に分布する日本最大級の古墳群である。第81号墳を現状最古として、4世紀初頭[1]から7世紀前半にかけての築造と推定されている。 概要現在、高塚墳319基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基[2]であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。 1912年(大正元年)から1917年(大正6年)にかけて日本で初めて本格的学術調査が行われた地としても有名である。調査は1912年(大正元年)12月25日から翌1913年(大正2年)1月6日に第1次調査、同年5月に第2次調査、1914年(大正3年)8月に第3次調査、1915年(大正4年)1月に第4次調査、1916年(大正5年)1月に第5次調査、同年12月から翌1917年(大正6年)1月に第6次調査が実施された。 1914年(大正3年)、出土品を収蔵するため宮崎県立史跡研究所が設立された。同研究所は後に市に移管され、1952年(昭和27年)に博物館法指定を受けた西都市立博物館となった時期を経て、現在は再び県立の西都原考古博物館として出土品の保管と展示を行っている。 1934年(昭和9年)に国の史跡に、1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定され、1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)にかけて、風土記の丘第1号として整備が進められた。 分布西都原古墳群は地形的に西都原台地上と、西都原台地と市街地との間に位置する中間台地上の二地域に区分でき、その中で更に11の集団、あるいは10~13の支群[3]に分けることができる。 西都原台地上
中間台地上
西都原台地上の主な古墳男狭穂塚・女狭穂塚男狭穂塚(おさほづか、175メートル)は日本最大の帆立貝形古墳。女狭穂塚(めさほづか、180メートル)は九州最大の前方後円墳。共に宮内庁陵墓参考地であり、特別史跡の指定範囲には含まれない[4][5]。 姫塚(202号墳)姫塚は「第1集団(第1-B支群)」の西端に位置する前方後円墳で、墳長50.2メートル、前方部幅30.8メートル、前方部高さ5.25メートル、後円部径28.4メートル、後円部高さ6.0メートルを測る。その形状の美しさから姫塚(ひめづか)と呼ばれ、周囲には周湟(周濠)が巡らされている。確認された埋葬主体は木棺直葬である。大正時代に発掘された30基のうちの一つで、直刀3本、刀子(とうす)1本、須恵器9個、ガラス製小玉、水晶製切子玉などが出土した[6]。前方部の発達具合や大正年間の発掘の際の出土品から築造年代は6世紀初頭(古墳時代後期)と考えられている。 鬼の窟古墳(206号墳)→詳細は「鬼の窟古墳 (西都市)」を参照
鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)は西都原古墳群内で唯一、埋葬施設に横穴式石室を採用している古墳である。鬼が一夜で造りあげたとする伝説が残ることが名の由来となっている。石室入り口付近に生えていた楠により石室崩壊の危機にあったため、解体修復作業が行われ、その際同時に発掘調査が実施された。石室内の水を排出するための暗渠の存在や土塁が完全に古墳を一周していたこと、追葬が行われていたことなどが明らかとなった。古墳の周囲に土塁を巡らしているのは中華人民共和国・朝鮮半島ではよく見られるが、国内では石舞台古墳が類似するのみで、関係が注目される。
その他13号墳、35号墳、56号墳、72号墳、81号墳、100号墳、169号墳(飯盛塚)、170号墳(雑掌塚)、171号墳、173号墳、265号墳
文化財国の特別史跡
重要文化財(国指定)関連文化財
関連施設
周辺の遺跡脚注
参考文献
外部リンク
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