青野武
青野 武(あおの たけし、1936年〈昭和11年〉6月19日[11][12][13][14] - 2012年〈平成24年〉4月9日[4][13][15][14])は、日本の俳優、声優、ナレーター。青二プロダクションに所属していた[7]。 生涯生い立ち北海道旭川市[3]で誕生。後日、青野家に養子に出されるが、幼少期の青野はそれを知らなかった[16][13]。 小学4、5年の頃、友人の実家が経営していた映画館「冨士館」に通うようになり、映画好きとなる[17]。 少年時代は「悪ガキ」であり、「青鬼」というあだ名が付けられていた[13]。だが、小学6年生の時、近所のおせっかい焼きの少年から「青野はもらいっ子」と言われ、青野は「そんなバカな!」と怒りその少年を殴り倒すが、その後それが真実であることを知る[13]。その日まで本当の「とうちゃん」「おっかあ」とばかり思っていた人が全く血の繋がりの無いと分かったことで、身体中の血が一時に逆流するようなショックを受けたといい、その日を境に性格は暗くなり、黙ってふさぎ込んでいるような少年になっていったという[13]。 中学校進学後、孤独感や苦しみから抜け出すため、野球部に所属し熱中していた[13][17]。当時は「どうせ生みの親から見放された人間なら、1人で立派に生きていけるプロ野球選手になってやろう」と思っていたという[13]。 キャリア初期中学3年生の時、担任教師に「ファーストで球を受ける時の君の体の線が美しい。今度の文化祭で演劇やってみないかい?」と誘われ、初めて芝居をする[6][13][17]。作品は菊池寛作『父帰る』で、長男・賢一郎役だった。青野は後年「野球をやっている体の線と演劇と、どう結びつくのか良くわからなかった」と語り、芝居もその時はそれで終わりだった[18]。 その後、北海道旭川東高等学校に入学[19]。野球部に所属し野球をしていたが、間もなく耳を患ったことで激しいスポーツを禁じられてしまう[13][17]。この時、中学時代の青野の舞台を見ていた演劇部の先輩の女性が誘ったことで演劇部に入り、ヘンリック・イプセン作『幽霊』のオズワルド役で出演したところ、それが全国演劇コンクールで三位に入賞[17][18]。翌年の高校2年生の時にジャン=ポール・サルトル作『出口なし』のガルサン役を演じたところ、今度は同コンクール二位を獲得[6][13][17][18]。次第に演劇にはまり込む[17]。 高校3年生時には、自身が出演や演出などを全て行いコンクールへ出場したが、本人曰く「調子にのった」ため圏外となる[6][17]。だがこの時、審査員の一人から「僕は上京して夢破れ、挫折して都落ちしたが君達の前途は洋々だ。僕達の分まで頑張ってもらいたい」という言葉をかけられたことで勇気づけられ、役者として生計を立てることと上京を決意したという[17][18]。 上京を決意後、本屋の店頭で週刊誌をめくり俳優養成所の記事を読んでいたところ、記載された三つの劇団の中で「地方の人物が多くアルバイトしながら学んでいる」とあったのが舞台芸術学院だったことで「もう舞芸しかない」と思い、高校卒業後は家出同然の旅立ちで単身上京[17][20]。願書を貰うため同芸術学院に行った際に芝居の稽古中の声が聞こえたといい、その素晴らしい声に「その修練を積んだ声、これがプロになる人の声か!」とショックを受けると同時に、「なにがなんでもここに入って、絶対役者になってやろう」と思っていたという[6][17]。 学院では、同じ北海道出身の俳優である松山照夫に初めて声をかけられ、最初は「悪い事は言わんから、クニに帰れ」と言われたという[6][17]。しかし、青野の意志を汲み取ったのか、松山は願書の手続きをはじめ色々面倒をみたといい、松山の縁から同じ北海道出身の山田吾一や宮内幸平、後の妻と知り合ったという[17]。 同芸術学院に入学後は劇を学びながら、喫茶店の風月堂やサンドイッチマン、レストランの出前持ち、バーテン、ストリップの照明係、アルサロのボーイなど様々なアルバイトを経験していた[17][2]。学院卒業の際、クラス担任の教師から「君は暗すぎる。そんなに暗くちゃこれからの役者人生、とてもやっていけないよ」と言われ暗くなったが、その教師は卒業後も青野の芝居を欠かさず観劇し、絶えず暖かく励ましてくれたといい、後に「感謝で一杯」と語っている[2]。 声優として劇団青俳の研究生[13]を経て、劇団七曜会に所属した際に主役を務めた『欲望という名の電車』での演技が認められ、観劇していたTBSのディレクターから「一時間物の西部劇の主役の声を演ってみないか」と声が掛かり、海外ドラマ『ブロンコ』の主役であるタイ・ハーデンの吹き替えを担当した[2]。 『ブロンコ』の放送中、劇団七曜会が解散。3、4年は作品座[21]の所属を経て[注 1]、劇団新劇場[13]など複数の劇団を渡り歩き、腰の落ち着かない日々を送ったことでアテレコの仕事も遠のいてしまったという[13][22]。その中でも、七曜会に一緒に所属していた高橋正夫との勉強会は楽しく、月に一、二度、高橋の宅で岸田國士の戯曲の読み合わせをしていた[22]。 ある時、高橋の誘いから劇団芸協の芝居を見るようになり、しばらくして高橋から「うちの演出家が僕に言うんだ。あなたの切符でいつも一番後ろの席で、芝居を観ている青年がいる。ひとつ会わせてくれないかってね。どうだい、会ってみるかい」と言われる。その演出家が、あずさ欣平だった[22]。青野と対面したあずさは青野の昔の舞台を見ており「君、芝居はやらないの?役者を目指して上京したのなら、役者を続けなきゃダメじゃない」、「埋もれさせておくには惜しい人材」と入団を誘ってくれたという[6][13][22]。そして、30歳の時に劇団芸協へ入団[20][23][10]に所属した[22]。初舞台は久米正雄作『地蔵教由来』となる[22]。後年にはあずさの他、劇団仲間であった雨森雅司、宮内幸平[16]、田中和実[19]など死去した友人の遺志を継ぎ、同劇団の主宰を務めた[24]。 劇団芸協に入団後、吹き替えやアニメーションのディレクターもしていたあずさの縁で再び声優業を行うようになり、徐々に増えていった[6][13][22]。以後多くのアニメ・吹き替えなどで声優として活躍した。また俳優としても、大河ドラマ『北条時宗』やNHK教育の『このまちだいすき』などの映像作品に出演した。 声優としての所属は演協プロ[25]、河の会[26]、江崎プロダクション[27]、オフィス央[28]を経て、青二プロダクションに所属していた[10]。 闘病・死去2003年7月6日、突然背中に激痛が走り病院を訪れた結果、急性大動脈解離と診断される[16]。手術なしで済み二週間程で退院できたものの、退院時には医者から「大きな声を出さない事、過激な運動は駄目、ストレスや緊張状態は極力避けること、とにかく血圧が上がらないように。舞台?一番悪いでしょう。今度破裂したら助かりませんよ。」と告げられる[6][16]。その時に青野は「先生、言葉を返すようですが、大きな声を出すなと言われても、役者をやっている以上、役によっては出さない訳には参りません。役者をやれないのだったら生きてる甲斐がありません!」と反論したものの、退院後の舞台は出番の多い役を避け演出面での活動が中心となる[6][16]。一方、声優業は大丈夫だったため、以前同様に継続して行っていた。 2010年5月15日、解離性大動脈瘤の手術を受ける。その後一旦退院するが、同年6月26日に脳梗塞が判明して入院。療養で復帰の目処が立たないことから、当時演じていた全ての持ち役を降板した[29](後述)。2年近い闘病生活の末、2012年4月9日午後4時38分、解離性胸部大動脈瘤術後多発性脳梗塞のため、東京都八王子市の病院で死去[30]。満75歳没(享年77)[15][4]。 2013年、第7回声優アワード「特別功労賞」を受賞[31]。 人物育ての父は建具指物師だったが、飲んだくれで母を泣かせていた[13][16]。家計は苦しく、その日その日を暮らしていくのが精一杯だったという[13]。 妻は女優の板橋真砂子[8]。夫婦そろっての映画ファンであった。女優の板橋七生は妻の妹[9]。娘がいる[2]。 特技はジョギング[10]。30代から60代まで約20年間していた[18]。ある時、喫煙の影響で体力が落ち辛くてしかたなかったところ、妻から「もう年なんだから歩けばいいじゃない」と言われたことで、以降はウォーキングに切り換えていた[18]。ただし、体力作りのため、仕事がない時は朝に、8キロから10キロほど歩いたという[18]。 座右の銘は、ウィリアム・スミス・クラークの「少年よ、大志を抱け」[6]。幼い頃からこの言葉をことあるごとに聞いて育ったといい、若手時代に挫折して夢を断念しそうになった時は、この言葉を聞いて頑張っていたという[6]。 特色・役柄悪役や落ち着いた老人役[6]をはじめ、ひねった役、異常者の役、ハイテンションな役などを演じることが多かった[18][20]。本人も「悪役や様々な感情を演じられる役は演じていて面白い」とも発言している[33]。 20代の頃は、一作の中で5~6もの端役を兼役で演じていたという。当時は声の使い分けを意識し「あ、こいつ、こういうふうなこともできるのか」と思われるように工夫していたといい、そのうちに「こいつ、フケも結構やるな」と評価されたことでそういう役も演じるようになったといい、30半ばくらいで『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王役を務めたことを機に、異常な役も演じるようになった[18]。 アニメ出演に関して、初期は『宇宙戦艦ヤマト』の真田志郎のようなリアルな演技の役が多かったが、『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王役、『キテレツ大百科』の熊八役など、次第に演技のデフォルメが強い役も増えていった[6]。青野は元々、吹き替えでは狂気を帯びたり型破りな役の声を当てることがあり好きだったため、演技の起伏が激しい役は最高で楽しくてしょうがなかったという[6]。 エピソード若い頃は酒癖が非常に悪く、飲みに行った際に酔っ払って他の客とケンカになったが、同行していた富山敬が朝まで介抱してくれたことがあった。1995年にその富山から『ちびまる子ちゃん』のさくら友蔵役を引き継いだ際は、「役が決まった際は複雑な心境だったが、富山敬の名を汚さないように頑張ろうと思った」と語っている[34]。 劇団仲間だった肝付兼太と組んで、スナックでバーテンとして働いていたこともある[13]。肝付とはウマが合い、2人でアドリブを連発し、「漫才バーテン」と呼ばれて評判となっていたといい、当時は巧みなシェーカー振りが客に受けたという[13]。 競艇をテーマにした出演作である『モンキーターン』のDVD6巻に収録されたオーディオコメンタリーでは、同じく競艇ファンであった麦人とともに、競艇場の試乗体験でペアボートに試乗したことがあるという体験談や、最初に名前を覚えた選手から彦坂郁雄が解雇されたエピソードなど競艇のオールドファンならではの話などをしていた。 出演作に関して声優デビュー作となった海外ドラマ『ブロンコ』の吹き替えは苦労し、終わるたびに己の力のなさを痛感していたという[2]。当時は北海道訛りが酷く友人たちにも酷評されたが、ディレクターだけは「青ちゃん気にするな。西部劇ってのはね、『アメリカの東北』なんだよ。向こうの役者だって訛りがひどいよ、土の臭いが出ていればいいの」と励ましたという[2]。ある日の収録後、帰り支度をしていた際に共演していた先輩から「青野君一寸!」と呼ばれアドバイスを受けた際は、吹き替えを始めたばかりの駆け出しで右も左もわからず心細かった時期だったことから、帰り道で涙が止まらないほど、たまらなく嬉しかったという[2]。これらの経験から、『ブロンコ』を一番思い出のある作品としており、前述のディレクターも大恩人と語っていた[20]。1979年には「もし『ブロンコ』がなかったら、今の青野はいなかったかもしれない」としている[20]。 『ウルトラマン』のザラブ星人のアテレコでは、キャラクターの特徴をつかむために着ぐるみの中に入って実際に演技していた[6][35]。また後年のウルトラシリーズでも死去するまでザラブ星人の声を担当。 『宇宙戦艦ヤマト』では真田志郎役を演じていたが、オーディションでは当初は別の役で受けていた[6][36]。だが、終えて帰ろうとしていた時にプロデューサーの西崎義展から「ちょっと君、こっちの役も演ってみなさい」と言われたのが真田役であり、真田役に決まったという[6][36]。後年、『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』でも真田役を演じることとなった際は、自らが演出をすることになった西崎から「青野さん久しぶりです。あれから大分経っているので、ちょっと声を聞かせてくれませんか」と声が掛かり、初収録から30年以上経っていたことため「正直一寸ビビった」という[36]。だが、セリフを読み終えたところ「ヤー青野さん、全然声が変わってないじゃないですか、驚いたな」と西崎の声がスタジオに響き、その一言は役者として少し誇らしく、そして嬉しくもあったという[36]。 『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王役を演じた際は、悪になるところでは怪演を披露し、ディレクターの小松亘弘から「やっぱり、ああいうのは青野だ」と言われたという[18]。また、その時に「ガアッ」と演じていたことから、周囲には「ウワッ」と顔を背けられてしまったりしていたという[18]。ピッコロ大魔王が自分の分身であるピッコロを産み出す場面では「産みの苦しみだ」と力を入れすぎたため、胃を悪くしてしまったという[37]。 独創的なアドリブを入れることが多いが、『勇者王ガオガイガーFINAL』のギムレット役は、監督が「青野さんならこんな言い回しをするだろう」と考え、元からセリフにアドリブを組み込まれた趣向であったため、イントネーションを工夫することでしか対抗できなかったことを明かしている。 『ONE PIECE』ではテレビシリーズでミホーク役などで出演しており、同作の劇場版では第10作まで毎回異なる役柄で出演していた。原作のリメイク作品では、ラッスーやイッシー20のひとりといった、テレビシリーズで声優が決められていなかった人物の声を担当した。 吹き替えでの持ち役はマイケル・ペイリンを始めクリストファー・ロイド、ジョー・ペシ、ダニー・デヴィート、ラム・チェンインなどがある。穂積隆信や樋浦勉とは同一作品の別音源で同じ役を演じる機会が多かった[注 2]。 今まで演じていた中で一番好きだった役には『刑事トマ』のトマ(トニー・ムサンテ)の吹き替えを挙げている[18]。同作以前に『ある戦慄』でのムサンテの異常性格的な演技に魅せられていたため、『刑事トマ』のオーディションの時、ムサンテが主演と知って驚き、その後自分がムサンテの吹き替えと決まって再度驚き、同時に嬉しかったという[20]。トマは劇中で変装するため役柄がバラエティーに富み、吹き替える声にも変化を加えたことから面白かったという[20]。 井伏鱒二作の舞台『へんろう宿』には何度か出演。最初に出演した高橋正夫が故郷へ帰郷したため、出演したという[16]。同作で登場する子供もおばァさんも生みの親を知らない設定であり、似た家庭環境であることから、青野は『へんろう宿』に愛着を感じていたという[16]。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
劇場アニメ
OVA
Webアニメ
ゲーム2013年以降の出演作品は生前の音声を引用したライブラリ出演。
ドラマCD
吹き替え担当俳優
映画(吹き替え)
ドラマ
アニメ
人形劇
その他
ボイスオーバー
特撮
ラジオ
テレビドラマ
映画
テレビ番組顔出し
声の出演
人形劇
CM顔出し声の出演
その他コンテンツ
後任青野の療養に伴う降板および死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。 ただし、声優を総入れ替えした作品[注 5]については趣旨から外れるため、対象外とする。
脚注シリーズ一覧注釈
出典
外部リンク
|