高松 (練馬区)
高松(たかまつ)は、東京都練馬区の町名。現行行政地名は高松一丁目から高松六丁目。住居表示実施済み区域である。郵便番号は179-0075[3]。 地理練馬区の中部に位置する地域。住宅が立ち並び、耕作地も多く見られる。高松一丁目から高松四丁目までは北部が光が丘と隣接し、光が丘の南西部を包み込むように高松五丁目と高松六丁目が伸びた独特の形をしている。高松五丁目・高松六丁目は北部が土支田と旭町と隣接している。また南部は貫井、東部は春日町、西部は谷原と隣接している。笹目通りを北上すると約450mで埼玉県境となる。 世帯数と人口2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
小・中学校の学区区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]。
地価住宅地の地価は、2015年(平成27年)1月1日の公示地価によれば、高松4-7-22の地点で33万9000円/m2となっている。[6] 歴史江戸時代、現在の田柄・光が丘・春日町・高松・向山・貫井はまとめて武蔵国豊島郡上練馬村と呼ばれており、高松は村の中にあった小名(こな)のひとつであった。今も町名として残っている小名は他に貫井と田柄があり、それらは江戸時代初期の検地帳にも載っていることから、江戸時代以前からこの地域は高松と呼ばれていたことがうかがえる。なお、高松は大きく高松と大門(だいもん)という字に分かれていた。 1926年(大正15年)から1935年(昭和10年)まで、目白中学校(後の中央大学附属中学校・高等学校の母体)が、後の練馬区立練馬中学校地に所在していた。 1942年(昭和17年)、太平洋戦争は日本にとって厳しい状況へとなりつつあり、東京への爆撃が初めてあった。そのため翌1943年(昭和18年)に田柄・土支田・高松にまたがる陸軍の成増飛行場(高松飛行場とも呼ばれる)が建設された。終戦後、飛行場跡は米軍基地のグラントハイツになり、1969年(昭和44年)に光が丘となった。高松五丁目と高松六丁目が光が丘の南西部を包み込む腕のように伸びている奇妙な形状を成しているのはそのためである。 地名の由来高い松があったからとの言い伝えられているが、その松がどこにあったのかは分かっていない。 沿革1932年(昭和7年)の板橋区成立時に練馬高松町一丁目・練馬高松町二丁目となる。1947年(昭和22年)練馬区に所属[7]、1949年(昭和24年)1月1日に冠称を外して高松町となった。1969年(昭和44年)9月1日に住居表示が実施され、周辺の地域と境界を調整し現行の高松一丁目から高松六丁目となり、北東部は光が丘となった[8]。 町名の変遷
産業農業
(2000年(平成12年)2月1日現在、「練馬区統計書平成17年版 農業センサス」より。なお、ここに掲載したのは農業集落名が「高松町」となっている農家だけなので実際にはこれより若干数字は大きい)
工業
高松の工業は工業統計調査を見る限り縮小しつつある。2000年と比べ2003年では、工場数は12減(-26.0%)、従業者数は126人減(-24.2%)、製造品出荷額は33億3129万円減(-37.4%)と非常に厳しい状況にあり、練馬区全体に共通する工業の縮小を反映している。従業者数の内、事業主・家族従業者の割合が練馬区全体では7.5%なのに対し高松では2.7%と少ないのが特徴である。 商業
交通
バス
施設
史跡関連項目参考文献
脚注
外部リンク
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