北町 (練馬区)
北町(きたまち)は、東京都練馬区の町名。現行行政地名は北町一丁目から北町八丁目。郵便番号は179-0081[3]。 概要・地理練馬区の北東部に位置し、古くは旧川越街道の宿場町だった。北部を板橋区の徳丸・上板橋・赤塚新町(通称・赤塚)・西台など[5]、南部を練馬区平和台・田柄・錦など[6]と接している。かつては田柄川や田柄用水が流れ(後述)、終戦を挟んで東武啓志線も通った(後述)。 下練馬宿が置かれた、区内唯一の宿場町だったこともあり、東武東上線の東武練馬駅周辺や旧川越街道を中心に商業が賑わう。旧川越街道沿いには東上線沿線最長の北一商店街や、きたまち商店街 、ニュー北町商店街などが連なり、シネコンを備えた巨大複合施設「イオン板橋」(所在地徳丸)もある。また区内の工場の約12%(区内第1位)が集中するなど、東武練馬駅付近を中心に工業も比較的盛んだ(後述)。四丁目は陸上自衛隊練馬駐屯地となっている(後述)。 交通機関は、東上線のほか、東京メトロ有楽町線・副都心線が通り、さらに川越街道(国道254号)、富士街道(一部東京都道311号環状八号線と重複)という2つの大きな幹線道路が貫く。両道路に接する「トーホーボール」(所在地錦)やNTT北町ビル、旧島忠家具センターが入っていたビルは古く、地元のランドマーク的存在。国際興業バスの練馬北町車庫があり、北町小学校のブランコからバスの洗車が見られ、風がある日は水飛沫が飛んでくる。自衛隊駐屯地内では、夏の盆踊り(納涼祭)や運動会が開かれる(後述)。 旧川越街道の商店街では毎年、「きたまち阿波踊り」が開かれ、7万人程を集める。また2019年(令和元年)11月24日には「下練馬宿まつり・将軍綱吉と練馬大根〜練馬だいこん献上絵巻 再現劇」が行われ、2020年(令和2年)10月2日は「徳川御殿鷹狩りショー」が行われた。旧北町にはかつて徳川綱吉御殿があり(北町小学校横のグリーンベルトに記念碑がある)、将軍になる前に脚気を患いここに御殿を建て療養したことや、その徒然に練馬大根を栽培し5代将軍になった暁に大根を献上させ諸大名に振る舞ったこと、剰え鷹狩りにも利用し度々この地に逗留していたなどの逸話にちなむ。 その他田柄川緑道(グリーンベルト)は桜の名所になっている。 世帯数と人口2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
小・中学校の学区区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]。
歴史概略宿場町として旧・武蔵国豊島郡下練馬村。江戸時代から旧川越街道の宿場町として下練馬宿が置かれ賑わった。下練馬宿は川越のある北西(下赤塚)側から上宿・中宿・下宿の3つからなり、本陣、脇本陣、問屋場が揃っていた。本陣は後述する「下練馬の大山道道標・東高野山道標」(1753年、宝暦3年建立)の近くにあった。参勤交代で通る大名や鷹狩りに行く綱吉、富士や大山への参詣者、秩父巡礼者らが利用した(後述)。ただ宿泊者は少なく、休憩利用が多かったという。 区域と地名下練馬村時代は、下練馬宿を中心に西の方馬喰ケ谷戸、大松、久保、その南の農作地帯であった池ノ端、田柄谷、池ノ上、伊勢原、大山街道の北側になる御殿、桜台、庚申塚、大山、富士山、田柄前などと呼ばれた区域である[8]。その後北豊島郡練馬町を経て、1932年(昭和7年)に板橋区に編入された際、旧練馬町を練馬北町・練馬仲町・練馬南町に分けた。戦後は練馬の冠が外れた後、仲町と南町は消え、北町はそのまま残った。 町の発展北町が大きく変ったのは、田柄川の河川改修を含めた耕地整理を始めたことや、その終了後の1940年(昭和15年)、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が一万坪(3万3000m2)の土地にできた事がきっかけである。 練馬は純農村地帯で下練馬村も農地が多かったが、武蔵野台地に位置し水利が良くないため、農地としては適さなかった。地主も農作を諦めて土地を貸すなどした者もいて、洪水にも悩まされた。そうした中で後述の田柄用水事業も行われた。昭和初期から戦前にかけて、農業振興が目的であったが耕地整理事業が北町地区で施行され、整った道路形態の名残りを留めることになった[8]。農業では赤塚近くの久保に1902年(明治35年)、練馬大根種子販売合資会社が設立され、本格的に練馬大根種子の販売に乗り出した様子がうかがえる[8]。 東武練馬駅開業1914年(大正3年)に東上線が開通したが、上板橋駅の次は成増駅で当地に駅はなかったため、この町の発展は遅々たるものであった。かえって機関車の出す煙の火の子(粉)のため、東武練馬付近の農家の藁屋根に移り火して全焼したり枕木が燃え出すなど、東上鉄道の経営不振と相まって余り評判がよくなかった[8]。結局、1920年(大正9年)の東武鉄道との合併、1929年(昭和4年)の電化を経て2年後、1931年(昭和6年)12月に東武練馬駅が開業した。陸軍練馬倉庫の開設に続いて、翌1941年(昭和16年)に後の東京都立北野高等学校(当時・東京府立北野高等女学校)が徳丸に開校し、乗降客も多くなった[8]。 1941年(昭和16年)はまた、川越街道新道が開通(計画は1937年《昭和12年》)。同倉庫や朝霞の士官学校に通じる道路として重要となり、倉庫敷地も拡張されていった。 戦後戦後は倉庫跡が練馬駐屯地などになり官舎もできた(後述)。東武練馬駅周辺や旧川越街道の周辺なども宅地化は急速に進み、商店なども増えた。下練馬宿の旧本陣があった場所は駅からかなり離れているが、高度経済成長期以降に西友になり、近くにロッテリアなどもでき、東武練馬・北町地区の中心の一つとして賑わった。 1960年代(昭和30年代後半)以降の一時期の北一・きたまち商店街は、西台・高島平駅(1968年開業)や平和台駅(1983年開業)が未開業だったこともあり、広域から集客し一時雑踏と殷賑を極めた[8]。1980年代前半頃まで前に進めず前が見えないほどで、ラッシュ時の駅のホーム並に買い物客でごった返した。 ちなみに北町のマーケットには1981年(昭和56年)当時、「北町百貨店(1956年(昭和31年))、マルニストアー(昭和31年)、有山総合食品市場(昭和32年)、練馬ショッピングセンター西友(昭和38年)、東武練馬センター、東武ストア等がある」と区史に記述されている[8]。 下練馬宿
田柄川→詳細は「田柄川 (東京都)」を参照
北町には1977年(昭和52年)まで田柄川が流れ、田柄用水も戦前の昭和初期まで通っていた(同時期廃止)。田柄川は石神井川の支流の自然河川で、一方田柄用水は人工的に開削された。同用水は北町地区では旧川越街道(現商店街)などに沿って流れ、2021年現在の国道254号を垂直に南下して旧北町一丁目と旧仲町一丁目の境(現在の錦一丁目26と平和台一丁目4の交差点)辺りで田柄川に合流していた。また、田柄川は自衛隊駐屯地の西側と東側などに南北に流れる支流を持ち、田柄用水と田柄川を南北に直線的に繋ぐなどした水路敷も多くあった。水路敷は、現北町三丁目で田柄川支流を含めて3箇所ほど、同一丁目で同支流を含めて5箇所ほどあった(田柄用水の流路図[9])。 それも同川は、北町地区では1973年(昭和48年)に二丁目で暗渠化・緑道工事が始まり、1977年(昭和52年)までに完成(田柄川全体は1981年《昭和56年》完成)[10]。田柄川緑道(グリーンベルト)として整備され、川はその姿を没した。それまで同川は時々大水を起こし、南北の交通を遮断したり橋を流したりした[8]。同緑道は1970年代頃から桜の名所になっており、川はその下を下水道幹線として今も流れる。 東武啓志線→詳細は「東武啓志線」を参照
戦時中の1943年(昭和18年)、軍用路線が上板橋 - 陸軍第一造兵廠構内(2021年現在の陸上自衛隊練馬駐屯地内)間に開通した。戦後は東武啓志線・練馬倉庫駅と改称した。1959年(昭和34年)廃線。啓志線は上板橋方面から川越街道を越えて富士街道を現在のトーホープラザビルに沿って進み、自衛隊駐屯地内に入った。駐屯地内から見つかった線路の一部は北町地区区民館で展示されている(練馬区立北町小・中学校にも寄贈された)。当時、旧北町一丁目(現・錦二丁目)を蒸気機関車が走り、子供たちが耳を塞いで見物している写真は練馬区が保管している。 空襲1944年(昭和19年)以後、米空軍の本土空襲に際しては練馬区も対象となり、1945年(昭和20年)4月1日と同3日から14日にかけて、大型爆撃機「B29」延べ150機の空襲で区内各地に被害を出した。軍倉庫も火災を起し、その余波は中宿(北町一丁目の西半分)を中心とした民家におよび、多数の焼失家屋を出した。なお敵機撃墜の目的でこの地区の南、丸久保(現平和台)付近には高射砲陣地が設けられていた[8]。 1945年8月15日に終戦となるや、軍倉庫の物資の中で、戦時中に献納した金属製の用品などが野積みの状況であったので、その発掘等が盛んに行われ屑金属拾いが殺到した時期もあった[8]。練馬区は農地が多く住宅の密集地が少なかったことなどから、他区に比べてさほど大きな被害は受けなかった。しかし、このことが却って多くの引揚げ者を始めとする人々の招致に繋がることとなり、深刻な住宅問題が生まれるきっかけとなった[8]。 富士山信仰と史跡町内を通る富士街道は、かつて「ふじ大山道」と称し、大山や富士山などへの参詣者が通った[8]。その途中の休憩に下練馬宿が利用された。起点となる旧川越街道との交差点(北町若木トンネル上)に「下練馬の大山道道標・東高野山道標」(1753年(宝暦3年)建立)が置かれている[11]。富士参詣の歴史を偲ばせる北町浅間神社(明治期に築かれる)には富士塚(練馬のお富士さん)がある。1993年(平成5年)に「下練馬の富士塚」として練馬区有形民俗文化財に登録された。 ちなみに練馬春日町駅の高層ビルや練馬北町陸橋ができる前、トーホーボールと東京ガスの間の富士街道交差点から富士山が望めた(2021年時点で富士街道からやや反れてしまうが練馬春日町駅環八交差点やその南西先の環八沿いまで行かないと眺望できない)。 東武練馬駅前の旧川越街道沿いに「北町観音堂」があり、1682年(天和2年)建立で区内最大270cmの北町聖観音座像が鎮座している。台座には川越街道の二十九の地名が刻印されている。同像は練馬区指定有形民俗文化財である。他にも通行者のための馬頭観音像、区の登録有形文化財(国の登録有形文化財ではない)の北町の仁王像など小さな像が多くある。 自衛隊練馬駐屯地→詳細は「練馬駐屯地」を参照
四丁目は全体を自衛隊の練馬駐屯地が占めている。戦時中に東京第一陸軍造兵廠の練馬倉庫として造成されたが、戦後は区画整理され、1951年(昭和26年)警察予備隊(自衛隊)が横須賀市久里浜駐屯地から倉庫跡に一部移駐し、練馬駐屯地となった。倉庫跡には他に、北町小学校(1962年開校)、練馬北町電話局、都立養育院の練馬分院(1961年東村山へ移転)、国際興業バス車庫、練馬車検所[12]、トーホーボール(旧北町)、東京ガス(旧北町)などができた[8]。川越街道(254号)を挟んで官舎が立ち並ぶが、1990年代後半頃から順次高層化して建て替えられた。 同駐屯地の第1音楽隊が古くから近隣の小学校などで巡回演奏している。また夏に開かれる「練馬駐屯地 納涼祭」の歴史も長く[13]、盆踊りや花火、水ヨーヨーなどの模擬店のほか、各部隊のパフォーマンスなどが披露され賑わう。また町内会対抗の運動会も同駐屯地内で開催され、少年野球の練習などにもグラウンドが開放されている。 なお、第1音楽隊は練馬駐屯地に置かれ、東京、埼玉・神奈川・千葉・茨城・山梨・静岡の7都県を演奏担任区域にし、自衛隊の各種行事や定期演奏会、ファミリーコンサート、震災被災者への慰問演奏、各地での巡回演奏など年間100回ほどの音楽演奏を行っている。過去には東京オリンピック(1964年)でも演奏した。 交通鉄道このほか、過去には東武啓志線の練馬倉庫駅が存在した(1959年に廃止)。 路線バス(国際興業バス)
道路
施設東武練馬駅や線路周辺には1970年〜1980年代頃まで「旅館 富士屋」(線路沿いステーキフジの近く、所在徳丸)、「さかゑ庵」(駅北口交番の所に看板が出ていた)など旅館が点在していた。宿場町だったことの名残りやキャバレー(ロンドンなど)その他の風俗店がいくらかあったからだとみられる。また1951年(昭和26年)に自衛隊(当時警察予備隊)が移転して来てからは、自衛隊員対象の飲食店が多くなった[8]。 北町一丁目
北町二丁目
北町三〜八丁目
平和台駅(所在早宮・平和台)近く。元は丸久保と呼ばれたところで、近くに戦争中高射砲をもった防空陣地があった[8]。
産業農業
北町の農業は区内では小規模な部類に入り、耕作地のほとんどはキャベツを生産している。 工業北町では練馬区内の工場の約12%(区内第1位)が集中し、製造品出荷額等の約14%(第2位。1位は大泉学園駅がある東大泉)を生み出すなど練馬区で最も工業が盛んな地域の一つである。特に東武東上線付近の一丁目・三丁目・五丁目では町内の工場の約57.5%、労働者の約81%が集中し、製造品出荷額の約91%を占めている。工場は従業者数が1人〜9人の小工場が約91%と圧倒的で、30人を超えるのは3工場のみ。
史跡・名所・公園史跡など
公園・緑地
イベント#概要・地理参照 きたまち阿波踊り
自衛隊納涼祭などその他
脚注
関連項目外部リンク脚注
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