1974年の日本ハムファイターズ(1974ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1974年の日本ハムファイターズの動向をまとめる。
このシーズンの日本ハムファイターズは、球団が日拓ホームから日本ハムに身売りされ、チーム名が「日本ハムファイターズ」に改称された最初のシーズンであり、中西太監督の1年目のシーズンである。
概要
先述の通り、球団が日拓ホームから日本ハムへ身売りされて球団名も変更、そして監督は前年までヤクルトアトムズのヘッドコーチだった中西太を迎え、球団社長には同球団の監督で中西の義父・三原脩が就任した。だが終わってみれば1968年以来の最下位、そこで三原球団社長はチーム改造に着手し、まずシーズン終了直後の10月22日に大下剛史が広島東洋カープの上垣内誠・渋谷通と交換トレード、続いて1週間後の10月30日には大杉勝男がヤクルトの小田義人・内田順三と交換トレード、他にも白仁天が太平洋クラブライオンズの東田正義と交換トレードとなり、東映時代からの主力3選手が一気に放出される事となった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1974年パシフィック・リーグ順位変動
前期
順位
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4月終了時
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5月終了時
|
前期成績
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1位
|
ロッテ |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
2位
|
阪急 |
1.0
|
太平洋 |
2.5
|
ロッテ |
4.5
|
3位
|
太平洋 |
4.0
|
ロッテ |
4.0
|
太平洋 |
6.5
|
4位
|
日本ハム |
4.5
|
近鉄 |
7.0
|
南海 |
7.0
|
5位
|
近鉄 |
5.5
|
日本ハム |
8.0
|
近鉄 |
9.0
|
6位
|
南海 |
6.0
|
南海 |
8.5
|
日本ハム |
12.0
|
|
後期
順位
|
7月終了時
|
8月終了時
|
後期成績
|
1位
|
ロッテ |
--
|
ロッテ |
--
|
ロッテ |
--
|
2位
|
南海
|
南海 |
2.5
|
南海 |
5.0
|
3位
|
日本ハム |
2.5
|
阪急 |
4.5
|
阪急 |
5.0
|
4位
|
太平洋 |
3.5
|
太平洋 |
7.5
|
太平洋 |
10.0
|
5位
|
近鉄 |
4.0
|
近鉄 |
9.5
|
近鉄
|
6位
|
阪急 |
5.0
|
日本ハム |
12.0
|
日本ハム |
15.0
|
|
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
[1]
オールスターゲーム1974
できごと
- 5月9日 - 3月26日に入団、4月25日に初給料50万円(年俸600万円の月割り)を支給され、4月27日に多摩川グラウンドでのイースタン・リーグの試合に先発する予定だったが突如失踪したバール・スノーが、パ・リーグから史上2人目(パ・リーグ及び外国人では現在唯一)の「無期限失格選手」とされる。なおスノーは後に、故郷・ユタ州に帰郷した事が判明した。
- 4月24日 - 張本勲が後楽園球場での対近鉄2回戦の1回裏に二塁打を放ち、プロ通算300二塁打を達成[2]。
- 5月8日 - 後楽園球場での日本ハム対太平洋3回戦の試合で、7回表に太平洋のファンが三塁手の阪本敏三めがけてビール瓶を投げつけ坂本は頭を裂傷し、日本ハムナインとファンが小競り合いする騒ぎが起きる[3]。
- 7月5日 - 後期開幕。この日からユニフォームはホーム・ビジターとも「縦縞無し」から「縦縞有り」に変更、1979年に「ベルトレスからベルト入り」と「ビジター用胸マークと背番号を白から赤」に変更し、リーグ優勝した1981年まで使用した。
- 7月17日 - テリー・レイが対近鉄後期一回戦の一回表に3つボークを取られ、1イニング3ボークのパ・リーグ新記録[4]。
- 8月18日 - 高橋直樹が日生球場での対近鉄後期7回戦で史上唯一の「一人で1試合の勝利投手とセーブ投手の両方を記録」を達成した[5]。この後、ルール改定が行われ、「勝ち投手になった場合、その人物にはセーブをあたえない」という規定が追加されたため、現在では達成不可能。
- 8月29日 - 張本勲が神宮球場での対太平洋後期8回戦に出場し、プロ通算2000試合出場を達成[6]。
- 9月29日 - 高橋博士が後楽園球場での南海ダブルヘッダー第二試合の後期13回戦で史上初の1試合全ポジションに付く[7][8]
- 10月2日 - 大杉勝男が1968年9月21日からこの日の試合まで、球団記録の798試合連続出場[9]。
- 10月22日 - 日本ハムと広島東洋は、大下剛史と上垣内誠・渋谷通のトレードが成立したと発表。
- 10月30日 - 日本ハムとヤクルトは、大杉勝男と小田義人・内田順三のトレードが成立したと発表[10]。
選手・スタッフ
[11]
表彰選手
ドラフト
脚注
注釈
出典
- ^ a b c “年度別成績 1974年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年6月5日閲覧。
- ^ 読売新聞1974年4月25日14面「張本300二塁打」読売新聞縮刷版1974年4月p752
- ^ 読売新聞1974年5月9日14面「後楽園でファン騒ぐ ビン当たり阪本(日本ハム)負傷」読売新聞縮刷版1974年5月p218
- ^ 読売新聞1974年7月18日15面「日本ハム・レイ投手が1イニング、ボーク3のパ・リーグ新記録」読売新聞縮刷版1974年7月p559
- ^ 読売新聞1974年8月19日14面「高橋直、勝利とセーブ」読売新聞縮刷版1974年8月p516
- ^ 読売新聞1974年8月30日15面「日本ハム・張本が2000試合出場」読売新聞縮刷版1974年8月p839
- ^ 読売新聞1974年9月30日15面「高橋博全ポジション」読売新聞縮刷版1974年9月p937
- ^ “【9月29日】1974年(昭49) 日ハム・高橋博士、日本初!1試合で全ポジション守る”. 日めくりプロ野球. スポーツニッポン新聞社. 2015年12月10日閲覧。
- ^ “個人打撃連続記録(1)”. パシフィック野球連盟公式サイト. 2015年12月10日閲覧。
- ^ 毎日新聞1974年10月31日15面「大杉がヤクルト入り」毎日新聞縮刷版1974年10月p889
- ^ ベースボールマガジン2002夏季号, ベースボールマガジン社, (2002), p. 123
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。 |