1957年には代表作の小説『肩をすくめるアトラス』を出版。その後は自らの思想を伝播するノンフィクションに転向した。自ら雑誌を刊行し、いくつかのエッセー集を発表し、1982年に死去した。ランドは理性を知識を得る唯一の手段として擁護し、信仰や宗教を拒絶した。合理的かつ倫理的なエゴイズムを支持し、倫理的利他主義を拒絶した。政治においては「実力への着手」(Initiation of Force、自分の側からの強制力の行使)を非難し[3]、集産主義および国家主義に反対した。また、無政府主義にも反対した。最小国家主義および自由放任資本主義を、個人の権利を守る唯一の社会制度と信じ、支持した。芸術においてはロマン主義的写実主義を唱道した。一部のアリストテレス派哲学者や古典的自由主義を除き、殆ど全ての思想家及び思想的伝統を辛辣に批判した[4]。
当初ハリウッドでの生活は苦しく、生活費を稼ぐために雑多な仕事に従事した。著名映画監督セシル・B・デミル (Cecil B. DeMille) との面識を得て、彼の映画「キング・オブ・キングス」(The King of Kings)でのエキストラに採用され、その後も下級シナリオライターとしての仕事を獲得した[26]。「キング・オブ・キングス」での仕事中、若く野心的な俳優フランク・オコナー(Frank O'Connor)と出会い、1929年4月15日に結婚。1931年にはアメリカ市民権を取得した。1930年代、ランドは作家業の補助として様々な職業に就いた。その中には、当時の5大映画会社の一つ、RKOスタジオの衣装部門の責任者の仕事もあった[27]。両親と2人の妹を米国に呼び寄せようと何度か試みたが、彼らは移住許可を取得できなかった[28]。
初期のフィクション
ランドが作家として最初に成功した作品は、1932年に映画会社ユニバーサル・スタジオに買い取られた脚本「レッドポーン」(Red Pawn)であった。ただしこの脚本は結局映画化されなかった[29]。次に書かれた法廷ドラマ「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、まず1934年にハリウッドでエドワード・E・クライヴ (Edward E. Clive) によって映画化され、1935年にはブロードウェイで上演され成功を収めた。劇場版の「1月16日の夜に」では、毎晩観客の中から「陪審員」が選ばれ、陪審員の「評決」に応じ、2つ用意された別々の結末の一方が演じられた[30]。1941年には、映画会社パラマウント・ピクチャーがこの劇の映画版を制作した。ランドはこの映画の制作に参加せず、その結果に対しきわめて批判的だった[31]。
ランドの最初の小説は、1936年に出版された半自伝的作品『われら生きるもの』(We the Living)である。ソビエト政権下のロシアを舞台にしたこの小説は、個人と国家の対立に焦点を当てている。この小説の1959年版のまえがきでランドは、「(『われら生きるもの』は)私の小説の中で最も自伝に近い作品である。文字通りの意味での自伝ではないが、知的な意味での自伝とは言える。筋書きは創作だが、背景は創作ではない[‥‥]」[32]と述べている。出版当初の売れ行きは悪く、アメリカの出版社はこの作品を絶版にした[33]。ただしヨーロッパでは売れ続けた[34]。後に『水源』等がベストセラーになったことにより、ランドは1959年にこの小説の改訂版を出版できた。以来『われら生きるもの』の販売部数は300万部を超えている[35]。1942年にはイタリアでこの小説を元にした2部作の映画、『ノア・ビビ』(Noi vivi)および『アディオ・キラ』(Addio, Kira)が制作された。ランドはこの映画化について知らなかった。この2部作映画は1960年に再発見され、ランドの承認の下、1本の映画『われら生きるもの』(We the Living)に再編集され、1986年に発表された[36]。
1940年代、ランドは政治活動に積極的に関与するようになった。1940年の大統領選挙でランドは、夫と共に、共和党ウェンデル・L・ウィルキー (Wendell Lewis Willkie) 陣営のボランティア専従スタッフとして活動した。この活動の過程で、ランドは初めて公衆を前に演説する経験をした。ニューヨーク市では、ウィルキー支持のニュース映画を見たばかりの聴衆から、時に敵意をむき出しにした質問を受けることもあった。ランドはこうした敵意ある質問にも当意即妙に答えた。これはランドにとって非常に楽しい経験だった[39]。またこの活動により、自由市場資本主義を支持する知識人達との交流も生まれた。ジャーナリストのヘンリー・ハズリット (Henry Hazlitt) 夫妻と友人になり、ハズリットの紹介でオーストリア学派の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises) とも知り合った。ランドと彼らの間には思想的相違があったが、ランドはハズリットとミーゼスの著作を生涯にわたり支持し、彼らもランドへの賞賛を表明した。ミーゼスはランドのことを「the most courageous man in America(アメリカで最も勇敢な人)」と述べたことがある。この賛辞はランドを特に喜ばせた。ミーゼスがランドを「woman」ではなく「man」と呼んだからである[40]。ランドはリバタリアンの作家イザベル・パターソンとも友情を育んだ。二人は幾度となく会った。博識なパターソンに、ランドは夜遅くまでアメリカの歴史や政治について尋ねた。パターソン唯一のノンフィクション『The God of the Machine』には、ランドが与えたアイデアが反映されている[41]。
『水源』は最終的に世界的成功を収め、ランドに名声と経済的安寧をもたらした[47]。1943年、ランドはこの小説の映画化の権利をワーナー・ブラザース社に売却し、同映画の脚本を書くためハリウッドに戻った。『水源』映画版(邦題「摩天楼」)の脚本を完成させると、ランドは映画プロデューサーのハル・ウォリス (Hal Wallis) に、脚本家兼スクリプトドクターとして雇われた。ウォリスの下でランドが脚本を書いた映画には、アカデミー賞にノミネートされた「ラブ・レター」(Love Letters、1945年)や「大空に駈ける恋」(You Came Along、1945年)などがある[48]。この間、ランドには他のプロジェクトに関わる余裕ができた。こうしたプロジェクトの一つに、彼女の思想をノンフィクションの形で論じた『個人主義の道徳的基礎』(The Moral Basis of Individualism)の執筆計画があった。計画された本は完成しなかったが、この本の内容を要約した『明日への唯一つの道』(The Only Path to Tomorrow)というエッセイが、「リーダーズ・ダイジェスト」(Reader's Digest)誌の1944年1月号に発表された[49]。
ハリウッドで働く間、ランドは、自由市場を擁護し共産主義に反対する政治活動への関与を深めた。ハリウッドの反共産主義グループ「アメリカの理想を守るための映画同盟」 (Motion Picture Alliance for the Preservation of American Ideals) と関係を持つようになり、このグループの立場からの記事を複数書いた。反共産主義アメリカ作家協会 (the anti-Communist American Writers Association) の一員にもなった[50]。イザベル・パターソンがランド宅を訪れ、カリフォルニアに住むランドの盟友たちに会った時、パターソンは、ランドの大切な盟友たちに向かって無礼な(とランドが見なす)発言をした。パターソンとランドの不和はこの発言で決定的となった[51]。1947年、第二次赤狩りの間、ランドはアメリカ合衆国議会下院の非米活動委員会 (Un-American Activities Committee) で「友好的証人」(friendly witness) として証言台に立った。ランドは、ソ連での彼女の個人的経験と、映画「Song of Russia」(1944年)で描かれたソ連像がかけ離れていることを証言した[52]。ランドはこの映画が、ソ連での生活を実際よりもはるかに良好かつ幸福に描くことで、ソ連の状況を著しく歪めていると主張した[53]。ランドはまた、当時評判だった映画「我等の生涯の最良の年」(The Best Years of Our Lives、1946年)がビジネス界をネガティブに描いている(と彼女が解釈した)点の批判も希望したが、この点についての証言は許可されなかった[54]。聴聞の後、調査の有効性をどう思うか尋ねられたランドは、このプロセスは「無駄骨」(futile) だったと答えている[55]。
形而上学においては実在論を支持し、神秘主義あるいは超自然主義(と彼女が見なす立場)には、あらゆる形態の宗教を含め、すべて反対した[96]。認識論においては、感覚を通じた知覚、および理性を、すべての知識の基礎と見なした。ランドは、感覚を通じた知覚の妥当性を、自明と見なした[97]。理性を、「人間の五感を通じて提供される素材を識別し、統合する能力」と説明した[98]。「直覚」、「直観」、「啓示」、あるいは「ただわかる」といった、非知覚的知識あるいは先験的知識の存在を主張する立場を、すべて拒絶した[99]。ランドは「オブジェクティビズム認識論入門」(Introduction to Objectivist Epistemology)において概念形成の理論を提示し、分析/総合の二分論の否認を支持した[100]。
倫理学においては、道徳原理として合理的エゴイズム(合理的利己)を主張した。ランドは、個人は「自己を他者の犠牲にすることも、他者を自己の犠牲にすることもなく、自己自身のために存在する」べきであると述べた[101]。ランドは『利己主義という気概』(The Virtue Of Selfishness)という著書で、エゴイズムを「自己本位であることの美徳」(the virtue of selfishness) と呼んだ[102]。この著書でランドは、is-ought問題(「-である」という命題からの推論で「-すべき」という命題を導く矛盾)に対する彼女の解決を示した。その解決は、道徳の基盤を「人間が人間として生存する必要性」[103]に置くメタ倫理学に依拠するものであった。ランドは道徳的利他主義を、人間の生命および幸福に対する要求と相容れないとして、非難した[104]。自分の側からの強制力の行使 (the initiation of force) は邪悪かつ不合理であると考え、『肩をすくめるアトラス』の中で「強制と精神は相反する」 (Force and mind are opposites) と書いた[105]。
ランドの政治思想においては、財産権を含む個人の権利が強調された[106]。ランドは、自由放任資本主義を唯一の道徳的な社会システムと見なした。彼女の見解では、自由放任資本主義が、個人の権利を保護を基盤とする唯一の社会システムだったからである[107]。国家主義には反対した。ランドが考える国家主義には、神権政治、絶対君主制、ナチズム、ファシズム、共産主義、民主社会主義、独裁制も含まれた[108]。ランドは、強制力による権利の実現は、憲法による制限を受けた政府のみが行うべきであると信じた[109]。政治に関するランドの見解は、しばしば保守またはリバタリアニズムに分類されるが、彼女自身が好んだ呼称は「資本主義徹底派」(radical for capitalism) であった。ランドは政治運動で保守派と協働したが、宗教や倫理などの問題では、保守派に同意しなかった[110]。リバタリアニズムを無政府主義と同類視して非難した[111]。無政府主義は、主観主義に基づくナイーブな理論であり、実践においては集産主義にしかつながらないとして退けた[112]。
ランドの美学は、「芸術家による形而上学的価値判断に基づく、現実の選択的再創造」(selective re-creation of reality according to an artist's metaphysical value-judgments)として定義される。芸術は、哲学的概念を、人々が把握しやすい形式に具現化することによって、人間の意識のニーズを満たすものであると述べた[113]。作家としてランドが最も力を注いだ芸術形式は文学であり、ロマン主義を、文学において人間の自由意志の存在を最も正確に反映するアプローチと見なした[114]。ランドは自分の文学へのアプローチを「ロマン主義的写実主義」(romantic realism) と称した[115]。
ランドはアリストテレスに最も大きな影響を受けたと認めている[116]。哲学の歴史上推薦できるのは、アリストテレス、アクィナス、アイン・ランドの「3人のA」だけだとも述べた[117]。事実ランドがアリストテレスに負うところは大きく、マイク・ウォレスによる1959年のインタビューで、ランドは「私が精神的に恩義を受けていることを認めるのは、アリストテレスだけです。アリストテレスは、私がこれまで影響を受けた唯一の哲学者です。アリストテレスの影響による部分を除き、私は自分の思想を、自分自身で築き上げました」と答えている[118]。ただしランドは、若い頃にフリードリヒ・ニーチェからインスピレーションを受けてもいる[119]。研究者によると、ニーチェの影響は、ランドの日記の初期の記述や[120]、後にランドが改訂した『われら生きるもの』(We the Living)の初版の文章や[121]、彼女の叙述スタイル全体などに見いだされる[122]。ただしランドは、『水源』(The Fountainhead)執筆時までには、ニーチェの考えを拒絶するようになっている[123]。また、初期ランドがどの程度ニーチェの影響を受けたかについては、疑問が出されている[124]。ランドが特に軽蔑した哲学者の中には、イマヌエル・カントもいた。ランドはカントを「モンスター」と呼んでいる[125]。ただし、哲学研究者のジョージ・ウォルシュ (George Walsh)[126]とフレッド・セドン (Fred Seddon)[127]は、ランドがカントを誤解し、見解の相違を誇張していたと主張している。
ランドの作品は、彼女の存命中から、強烈な賞賛と非難の両方を巻き起こした。最初の小説『われら生きるもの』(We the Living)は、文芸評論家H.L.メンケン (H.L. Mencken) に賞賛された[131]。ブロードウェイで上演された演劇「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、批評家からも観客からも好評だった[132]。『水源』(The Fountainhead)は、「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙のレビューアーから「偉大」(masterful) と評された[133]。ランドの小説の出版当時には、冗長でメロドラマ的であると嘲る批評家もいた[5]。それでもランドの小説は、主に口コミを通じてベストセラーになった[134]。
ランドが最初にレビューを受けた作品は「1月16日の夜に」(Night of January 16th)だった。この劇に対しては、おおむね肯定的なレビューが寄せられた。しかしランドは、肯定的なレビューにも決まりの悪い思いをしていた。この劇の上演にあたり、プロデューサーが彼女の脚本を大幅に変更していたからである[132]。ランドは、最初の小説『われら生きるもの』(We the Living)には多くのレビューが書かれなかったと信じていた。しかしランド研究者のマイケル・S・ベルリナーは、この小説に対して、200以上の出版物で約125件のレビューが公開されていることを明らかにした。ベルリナーは、「『われら生きるもの』はランドの作品の中で最も多くのレビューが書かれた小説である」と述べている。『われら生きるもの』に対するレビューは、全体として、後のランドの作品に対するレビューよりも肯定的だった[135]。1938年に出版された短篇小説『アンセム』(Anthem)は、イングランドで出版された初版も、その後の改訂版も、レビューアーにはほとんど注目されなかった[136]。
ランドの最初のベストセラー『水源』(The Fountainhead)は、『われら生きるもの』に比べ、書かれたレビューの数がはるかに少なかった。レビューアーの意見もまちまちだった[137]。「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙に掲載された肯定的なレビューの一つは、ランド自身も高く評価した[138]。このレビューの書き手は、ランドを「きらびやかに、美しく、痛烈に」書く「すばらしい力を持つ作家」と呼び、「この偉大な作品を読めば、我々の時代における基本的な概念のいくつかについて考え抜かずにはいられないだろう」と述べた[133]。他にも肯定的なレビューはあったが、ランドはそれらのほとんどを、自分のメッセージを理解していない、もしくは掲載紙誌がマイナーであるとして、無視した[137]。否定的なレビューのいくつかは、この小説の長さを批判していた[5]。たとえば、あるレビューアーはこの小説を「本の鯨」と呼び、別のレビューアーは「この小説に入れ込む人間には、紙の配給に関する厳しい授業を受けさせる必要がある」と書いた。登場人物に同情心がないと批判するレビューアーや、ランドの文体を「不快なほど単調」と批判するレビューアーもいた[137]。
ランドとその作品は、アニメ、ライブコメディ、ドラマ、ゲームショーを含むテレビ番組[161]や、映画、ビデオゲーム[162]など、様々なメディアで取り上げられている。ランドやランドをベースにしたキャラクターは、米国の著名な作家達による様々な文芸作品やSFに登場し、(肯定的であれ否定的であれ)大きな存在感を示している[163]。「リーズン」(Reason)誌の編集主幹であるニック・ギレスピー (Nick Gillespie) は、「ランドの名声は、虐げられた形で不滅になっています。様々な作品に登場しているランドには、まるで主人公のようなインパクトがあります」、「ランドを冷酷で非人間的と非難することは、大衆文化に浸透しきっています」と述べている[164]。ランドの生涯については2本の映画が制作されている。ドキュメンタリー映画「アイン・ランド:ア・センス・オブ・ライフ」(Ayn Rand: A Sense of Life、1997年)は、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた[165]。1999年に制作されたテレビドラマ「ザ・パッション・オブ・アイン・ランド」(The Passion of Ayn Rand)は、バーバラ・ブランデン (Barbara Branden) による同名の伝記(1986年)をドラマ化したもので、複数の賞を受賞した[166]。ニック・ガエターノ (Nick Gaetano) がデザインしたランドの肖像画は、米国の切手にもなった[167]。
妊娠中絶合法化を支持し、神の存在を否定するなど、ランド自身は保守派としては典型的ではない立場も取っている[173]。しかし政治の世界でランドからの影響を公言する人物は、一般に保守派で、共和党の党員であることが多い[174]。1987年に「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙に掲載された記事で、ランドはレーガン政権の「桂冠小説家」(novelist laureate) と呼ばれていた[175]。共和党連邦議会議員や保守派の政治評論家も、ランドの影響を受けたことを認め、ランドの小説を推薦している[176]。
ランドの死去後、ランドの作品への関心は徐々に高まった[186]。歴史家のジェニファー・バーンズ (Jennifer Burns) によれば、これまでランドに対する研究者達の関心には「重なり合う3つの波」があり、その内最も新しい波は2000年以来の「学問的研究の爆発」(an explosion of scholarship) である[187]。ただし現在、ランドやオブジェクティビズムを哲学上の専門や研究分野に含める大学はほとんど存在しない。多くの文学科や哲学科では、ランドは大衆文化現象と見なされ、真剣な研究の対称として扱われていない[188]。
学術機関でランドの作品について教授している研究者としては、グラッドスタイン (Gladstein)、クリス・マシュー・スカバラ (Chris Matthew Sciabarra)、アラン・ゴットヘルフ (Allan Gotthelf)、エドウィン・A.ロック (Edwin A. Locke)、タラ・スミス (Tara Smith) などがいる。スカバラは、ランドの哲学的および文学的業績の研究に貢献する超党派の査読付き定期刊行誌である「ザ・ジャーナル・オブ・アイン・ランド・スタディーズ」(The Journal of Ayn Rand Studies)の、共同編集者を務めている[189]。1987年、ゴットヘルフは、ジョージ・ウォルシュ (George Walsh)およびデヴィッド・ケリー (David Kelley) と共に「アイン・ランド・ソサイアティ」(Ayn Rand Society) の創設を支援した。ゴットヘルフは、ランドおよびランドの思想に関するセミナーを積極的に後援している[190]。スミスはランドの思想に関する学術的な本および論文を複数書いている。ケンブリッジ大学出版局 (Cambridge University Press) から出版されたランドの倫理論に関する書籍、『アイン・ランドの規範倫理:有徳のエゴイスト』(Ayn Rand's Normative Ethics: The Virtuous Egoist)はその1つである。ランドの思想は、クレムゾン大学およびデューク大学でも研究対象になっている[191]。英米文学の研究者はランドの作品をほぼ無視している[192]。ただし1990年代以降は、ランドの作品に注目する研究者が増えている[193]。
ランド研究者のダグラス・デン・アイル (Douglas Den Uyl) とダグラス・B.ラスムッセン (Douglas B. Rasmussen) は、ランドの思想の重要性と独自性を強調する際、ランドの文体が「文学的、誇張法的、かつ感情的」であると述べた[194]。哲学研究者のジャック・ホイーラーは、ランドの倫理学には「絶え間ない大言壮語とランディアンの噴怒の絶え間ない発散」があるが、この倫理学は「きわめて巨大な業績であり、その研究は他のどの現代思想の研究よりはるかに有益である」と述べた[195]。2001年にジョン・デヴィッド・ルイス (John David Lewis) は、オンライン文学百科事典「リテラリー・エンサイクロペディア」(Literary Encyclopedia)のランドの項で、「ランドは同世代の作家の中で最も知的に挑戦的なフィクションを書いた」と断言した[196]。「ザ・クロニクル・オブ・ハイアー・エジュケーション」(The Chronicle of Higher Education)紙の1999年のインタビューで、スカバラは「彼らがランドを笑うことはわかっている」と述べながら、学術界でもランドの業績への関心が高まると予言した[197]。
ランドはオブジェクティビズムが統一された思想体系であると主張したが、哲学研究者のロバート・H.バス (Robert H. Bass) は、ランドの中心的な倫理思想が彼女の中心的な政治思想と一貫せず矛盾すると主張した[201]。
オブジェクティビズム運動
1985年、ランドの相続人レナード・ピーコフは、ランドの思想および作品の伝播を目的とする非営利組織「アイン・ランド協会」(Ayn Rand Institute) を設立した。1990年、哲学研究者のデヴィッド・ケリー (David Kelley) は、「アトラス・ソサイエティ」(The Atlas Society) として知られる「オブジェクティビズム研究所」(Institute for Objectivist Studies) を設立した[202]。2001年、歴史家のジョン・マカスキー (John McCaskey) は、アカデミズムの世界で行われる学問的なオブジェクティビズム研究に資金を提供する「オブジェクティビストの奨学のためのアンセム基金」(Anthem Foundation for Objectivist Scholarship) を組織した[203]。BB&T社の慈善基金も、ランドの思想や作品の教授に資金を提供している。資金の提供を受けている学校には、テキサス大学オースティン校 (The University of Texas at Austin)、ピッツバーグ大学 (University of Pittsburgh)、およびノースカロライナ大学チャペルヒル校 (University of North Carolina at Chapel Hill) などがある。これらの資金提供がランドに関連する研究や教授を条件としていることが、議論になるケースもある[204]。
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