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ジャンボリー作戦

ジャンボリー作戦

ジャンボリー作戦のため行動中の米空母「ワスプ」の甲板に並ぶF6Fヘルキャット艦上戦闘機(1945年2月12日)。
戦争太平洋戦争/大東亜戦争
年月日1945年2月16日 - 2月17日
場所関東地方静岡県
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
菅原道大
寺岡謹平
吉田喜八郎
マーク・ミッチャー
戦力
第10飛行師団
第3航空艦隊
高射第1師団
空母 16, 戦艦 8
巡洋艦 15, 駆逐艦 77
航空機 1200
損害
商船・小艦艇 約10沈没
航空機 120以上損失
中島飛行機太田・武蔵製作所に損害
航空機 88損失
日本本土の戦い

ジャンボリー作戦(ジャンボリーさくせん、英語: Operation Jamboree)は、太平洋戦争末期の1945年2月にアメリカ海軍空母機動部隊関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を標的として行った航空攻撃作戦である。硫黄島の戦いの援護及び日本軍航空戦力の減殺を目的として実行され、日本軍航空隊と工場設備に相当の被害を与えた。ドーリットル空襲や島嶼部の事例を除けば、初めての空母による日本本土空襲であった。

背景

1944年(昭和19年)8月にマリアナ諸島を占領したアメリカ軍は同年11月以降、マリアナ諸島に配備したB-29爆撃機により東京などに対する本格的な日本本土空襲を開始した。B-29による初期の空襲は工場などを目標とした高高度精密爆撃を中心としたが、命中率が低く工場の被害はさほど大きくなかった。アメリカ軍はB-29による空襲に先立って、空母機動部隊の小型機による空襲で日本側の航空戦力を撃破する計画であったが、空母機動部隊がフィリピンの戦いにかかりきりとなったために実現しなかった[1]

1945年(昭和20年)2月、フィリピンの戦いが一段落したアメリカ軍は、硫黄島攻略に着手した。そして上陸戦開始に先立ち、攻略部隊を守るための陽動と航空戦力の減殺を目的として、高速空母機動部隊である第58任務部隊(司令官:マーク・ミッチャー中将)により関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃することになった[2]。このときの第58任務部隊は大型正規空母11隻・軽空母5隻を基幹として、戦艦8隻をはじめとした多数の護衛艦艇を伴う強力な艦隊であった(詳細後述)。部隊は空母2-4隻を基幹とする5個任務群に分かれており、うち第58.5任務群は夜間戦闘機を積んでいた[3]。搭載航空隊は日本軍迎撃機との空中戦を想定して、各大型正規空母の搭載機約100機のうち73機以上をF6F戦闘機F4U戦闘機に割いた戦闘機中心の編制としている[3]。航空隊の約半数は本作戦が初めての実戦任務であったことが、アメリカ側の懸念材料であった[3]。このほか、第58任務部隊を支援するため、第50.8任務群の多数の補給艦も出動した[4]。1942年4月に陸上用爆撃機を空母から発進させて行ったドーリットル空襲以来2年10ヶ月ぶりの空母による日本本土空襲であり[3]、通常の艦上機による初の本土空襲であった[5][注 1]

一方、日本軍も硫黄島へのアメリカ軍来攻が近いと予想していたが、陸海軍とも航空隊がフィリピンの戦いで消耗した状態であり、教育部隊を実戦部隊化するなどして戦力の回復を進めている途上であった。陸軍航空隊は第10飛行師団(師団長心得:吉田喜八郎少将)、海軍航空隊は第三航空艦隊(三航艦、司令長官:寺岡謹平中将)を関東地区に展開して、高射第1師団などの対空砲部隊とともにB-29爆撃機に対する迎撃に当たらせていた。日本本土と小笠原諸島の間には特設監視艇が哨戒線を張って、主にB-29爆撃機に対する警戒に当っていた。また、連合艦隊司令部では、アメリカ海軍機動部隊が本土方面に来襲する可能性が高いと警戒しており、捷三号作戦計画に基づき三航艦を中心とした迎撃戦闘を準備していた[7]。なお、このころには日本側は深刻な航空燃料不足に悩まされており、飛行訓練も実施困難で戦力再建の足かせとなっていた[8]

2月上旬に日本軍は陸海合同で硫黄島攻防戦の図上演習を行った結果、硫黄島の防衛は困難で、航空隊がかなり大きな損害を受けてしまうとの予想に達した。そのため、防衛総司令部は硫黄島にアメリカ軍が襲来しても本格的な航空反撃は実施せず、戦力を温存する方針で指導したが[9]、現場の第10飛行師団は積極的な迎撃を考えていた。また、三航艦も新たに編入された第六〇一海軍航空隊(六〇一空)を硫黄島攻防戦に投入することにし、六〇一空に他隊からかき集めた彗星艦爆零戦と搭乗員を増強、2月14日に香取飛行場への転進を下令した[10]。なお、館山飛行場には、横須賀鎮守府が発令した対潜掃討作戦「S21作戦」のため、対潜航空部隊が集結中であった[注 2]

戦闘経過

第58任務部隊の出撃

ウルシー環礁を出撃するアメリカ軍第58任務部隊の第58.3任務群(1945年2月10日)。

1945年2月10日、第58任務部隊はウルシー環礁を出撃した。途中の2月12日にテニアン島に立ち寄って、航空隊が第3海兵師団と硫黄島上陸の予行演習を実施した[12]。2月14日に第50.8任務群グループAの補給艦と洋上合同して、翌日までに給油を完了[4]。2月15日午後7時、第58任務部隊は、前衛に5隻の駆逐艦を配置した隊形で攻撃隊発進地点に向けて高速航行に移った。マリアナ諸島から発進した陸空軍のB-29爆撃機及び海軍のB-24爆撃機と、潜水艦による前路偵察が実施され、針路上に日本軍の哨戒艦艇が存在しないことが確認された[12]

日本側は通信解析により、1945年1月末ころからアメリカ軍が大規模作戦を準備中であることを察知していた。2月13日、連合艦隊司令長官豊田副武大将は、通信解析に基づいてアメリカ海軍機動部隊がウルシー環礁を出撃したと判断、麾下部隊に警戒を命じるとともに、三航艦などの航空部隊に索敵を実施させた[13]。アメリカ軍は悪天候が幸いして日本軍に発見されていないと考えていたが[12]、2月14日には硫黄島から発進した日本軍索敵機がサイパン島西方95海里(約176km)付近に北上中の大艦隊を発見しており、三航艦の寺岡中将は対機動部隊警戒と特攻隊の準備を下令した[13]。陸軍部隊も2月15日から警戒態勢に入った[14]

2月16日の戦闘

2月16日未明、第58任務部隊は東京から南東125海里(約232km)・本州沿岸からわずか60海里(約111km)の地点まで接近し、攻撃隊を発進させた。天候は不良状態で、雲が低く垂れ込めてみぞれが降り、ビューフォート風力階級6-7の強風が吹いていた[12]。気温の低さのため、出撃したアメリカ軍機の搭載機銃のうち相当数が凍りついて動作不能に陥っている[15]。午前中にいずれも制空任務の戦闘機から成る5波の攻撃隊が発進し、関東・東海各地の日本軍飛行場を攻撃した。第1波である第58.2任務群の攻撃隊は房総半島上空に侵入、第5波である第58.3任務群の攻撃隊は悪天候の合間を縫って西方まで進出し、アメリカ軍艦上機として初めて東京上空に達した[12]

午前7時5分に千葉県白浜防空監視哨がアメリカ軍小型機の飛来に最初に気付いた。八丈島などに配備された日本側のレーダーサイトは、高度400mの低空飛行で接近したアメリカ軍機を探知できなかった[14]。レーダー網を潜り抜けた結果、アメリカ軍は日本軍の飛行場を奇襲することに成功し、日本側は海軍機だけで50機(日本側記録)が離陸前に地上で炎上させられた[注 3]

日本陸軍の第10飛行師団は防衛総司令部の温存方針を破り、対戦闘機の空中戦が苦手な夜間戦闘機装備の飛行第53戦隊松戸飛行場などへ退避を命じた以外、全力での迎撃戦を試みた[14]。その結果、第10飛行師団は敵機62機撃墜・27機撃破の戦果を報じたものの、37機を失う大損害を受けた[14]。その他、陸軍では独立飛行第17中隊が数機を失った。日本海軍は、午前8時前に豊田連合艦隊司令長官が捷三号作戦警戒と基地航空部隊による同作戦発動を命じ、関東所在の航空兵力を三航艦指揮下に入れた[13]。三航艦は、薄暮通常攻撃と特攻隊を中心とする対艦反撃と、戦闘機による迎撃戦闘を命じた。例えば千葉県茂原海軍基地では、零戦8機(指揮官岩本徹三少尉)が要撃にあたり、F4U戦闘機8機の撃墜を報じた。三航艦は空中戦で敵機55機撃墜を報じたものの、麾下部隊は二一〇空の発進させた零戦14機中1機未帰還・12機被弾などの被害を出した[13]。地上部隊では陸軍第1高射師団が敵機19機撃墜・17機撃破[16]、横須賀海軍警備隊が41機撃墜・31機撃破[17]、八丈島海軍警備隊が16機撃墜・50機撃破[17]を戦果として主張している。対するアメリカ側の記録では、第1波である第58.2任務群の攻撃隊が房総半島沿岸で日本軍機約100機と交戦し、うち40機を撃墜したと主張している[12]

第58任務部隊は午前11時30分には地上施設に対する攻撃に移り、中島飛行機太田製作所及び小泉製作所を目標として爆撃機を発進させた。しかし、大部分の爆撃隊は悪天候により目標を発見できず、飛行場を狙って爆弾を投下した[18]

洋上では空襲により特設駆潜艇「通海丸」(日本海洋漁業統制:88総トン)と特設監視艇等4隻が沈没[注 4]第211号駆潜特務艇が浸水擱座し、多数の小型艇が損傷した[17]。船舶運営会の記録によると、伊豆大島近海で客船「萩丸」(東海汽船:230総トン)も空襲で沈没している[19]

2月16日夕刻、日本陸軍の防衛総司令部は迎撃戦闘による航空隊の損害拡大を懸念し、第10飛行師団の主力である飛行第47戦隊飛行第244戦隊を取り上げて、第6航空軍(司令官:菅原道大中将)の指揮下に移した。第6航空軍は戦力の温存を図り、これら2個の飛行戦隊に分散退避を命じた[16]

三航艦麾下の第一三一海軍航空隊の艦爆隊(芙蓉部隊)は2月16日昼ごろから犬吠埼東方の索敵攻撃に出撃していたが、効果的な攻撃には至らなかった[13]。2月16日薄暮、第58.5任務群は夜間戦闘機を飛ばして日本軍飛行場上空の制圧を実施した。この夜、第58任務部隊に日本機の飛来はなかった[18]

2月17日の戦闘

2月17日午前、アメリカ軍は第58.5任務群の夜間戦闘機による未明の洋上哨戒を手始めに、その他の任務群の戦闘機による制空飛行、さらに陸上施設に対する爆撃を再開した。この日の空襲では、中島飛行機の武蔵製作所や多摩立川市方面の航空機工場に爆撃機が差し向けられた[18]

日本側の第10飛行師団は指揮下の残存戦力で迎撃を続けたが、撃墜36機・撃破18機を戦果として報じたのと引き換えに14機を失った[20]。三航艦は迎撃戦で敵機12機撃墜を報じたが、零戦3機が撃墜されたほか、藤枝飛行場を中心に各種航空機合計11機が地上で炎上した[13]。第1高射師団は敵機14機撃墜・26機撃破[20]、横須賀海軍警備隊は18機撃墜・10機撃破[17]を記録している。豊田連合艦隊司令長官は、第58任務部隊がウルシー環礁に帰還する時機に攻撃しようと考え、17日に三航艦の爆撃機や攻撃機をひとまず退避させた[13]。そのため、三航艦は戦闘機による迎撃戦闘に終始し、艦艇に対する反撃を行わないままに終わった。

このほか、哨戒中の特設駆潜艇「和風丸」(日本海洋漁業統制:88総トン)と特設監視艇「第二十八南進丸」(西大洋漁業:83総トン)他2隻が空襲で沈没し、特設監視艇2隻が機動部隊との水上戦闘で撃沈された[注 5]横浜港では特TL船山汐丸」(山下汽船:10,600総トン)が空襲で大破着底した[19]

作戦打ち切り

2月17日午前11時15分、第58任務部隊司令官ミッチャー中将は天候の悪化を考慮して本作戦の打ち切りを決心した[18]。第58任務部隊は攻撃隊を収容すると、硫黄島に向かって転進した。硫黄島に向かう途中、第58.4任務群は小笠原諸島を空襲し、日本の小型船舶と父島飛行場に損害を与えた[15]。船舶運営会の記録では、2月17日に陸軍徴用船「大美丸」(大阪商船:530総トン)、2月18日に「日吉丸」(広南汽船:1287総トン)が父島で空襲により沈没しているほか[19]、18日に鳥島北東沖で特設監視艇「勝栄丸」(柳下彌三郎:156総トン)が空襲で被弾沈没し、鳥島南西沖で特設監視艇「第五萬栄丸」(中村岩五郎:99総トン)が消息を絶った。また、2月18日にかけての夜に駆逐艦が特設監視艇など4隻の撃沈を報じているが、駆逐艦「ドーチ」(en)」が反撃を受けて3人の戦死者を出した[注 6]

本作戦を終えた第58任務部隊は、2月19-20日に第50.8任務群のグループA及びグループBと洋上会合して補給を受けた。航空機の損耗分は、第50.8任務群の護衛空母ブーゲンビル」がグアム島から運んできた機体により補充された[4]。そして、第58任務部隊は硫黄島の上陸地点などに対する攻撃に加わった。なお、硫黄島では、第52任務部隊(司令官:ウィリアム・ブランディen)少将)が、すでに2月16日からジャンボリー作戦と並行して護衛空母搭載機による空襲と戦艦以下各種艦艇による艦砲射撃に着手していた。

結果と影響

本作戦の結果、アメリカ軍は日本軍航空隊にかなりの損害を強いることに成功した。日本軍航空隊の損失は、少なくとも被撃墜60機・地上撃破60機に上った。例えば、館山飛行場に集結していたS21作戦部隊は、未帰還7機・炎上10機・被弾18機の損害を受けて作戦中止に追い込まれた[11]。陸軍の第10飛行師団は、地上にあった機体こそ無事だったものの、迎撃戦闘に出動した練度の高いパイロットの戦死が多かった[20]。なお、アメリカ側では、空中戦で敵機341機撃墜・190機地上撃破と過大に戦果判定していた[15]

対するアメリカ軍機の損害は、戦闘による航空機損失60機とその他作戦中の損失28機の合計88機であった[15]。なお、日本側は2日間の総合戦果として、陸軍が敵機175機撃墜・81機撃破、海軍が98機撃墜・3機撃破の合計273機撃墜・84機撃破と過大に判定していた[20]

その他、日本側は地上施設と艦船も攻撃を受け、中島飛行機の太田製作所と武蔵製作所が相当の被害を出した[20]。ただ、飛行場の設備は一部の格納庫が破損した程度にとどまった[13]。基地在泊中の艦船被害は多数に上ったものの、程度はおおむね軽微であった[17]。一方、洋上行動中の艦艇は被害が大きく、特に北緯31度線付近を哨戒中の特設監視艇は6隻が空襲と水上戦闘で失われた[17]。アメリカ側の最大の艦船戦果は、横浜停泊中の特TL船「山汐丸」(山下汽船:10,600総トン)の撃破であった[18]

本作戦は日本軍の航空部隊と航空機工場に痛手を与えたが、硫黄島の防衛力を弱めることはできなかった[23]。ただ、硫黄島攻防戦に備えて香取飛行場に移動中の六〇一空は戦力の大部分を失い、投入可能な兵力が減少した[10]。六〇一空は兵力不足と硫黄島までの距離の遠さから、攻撃隊に十分な護衛戦闘機を付けることはできず、少数機を小刻みに発進させていずれかが成功することを期待する戦法を選んだ[10]。六〇一空は神風特別攻撃隊第二御盾隊を編成し、2月20日に5次・計30機を硫黄島方面に出撃させて、護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈、空母「サラトガ」撃破など一定の戦果を上げている。

また、豊田副武連合艦隊司令長官の命令により第七六二海軍航空隊から梓特別攻撃隊を編成、ウルシー泊地に帰還した第58任務部隊を狙った第二次丹作戦を決行し、空母「ランドルフ」を損傷させた。

参加兵力

第58任務部隊[3]
司令官:マーク・ミッチャー中将 - 空母バンカー・ヒルに座乗。
第50.8任務群(兵站支援部隊)[4]
司令官:ドナルド・ベアリーen)少将
  • グループA(司令官:D. Curry, Jr. 大佐
  • グループB(司令官:H.F. MacComsey 大佐)
    • 護衛空母 - 4隻(うち3隻は輸送任務)
    • 護衛艦艇 - 駆逐艦7隻、護衛駆逐艦6隻、高速輸送艦4隻
    • 支援艦船 - 給油艦12隻、給兵艦2隻、汎用補給艦1隻
  • 予備 - サイパン島で待機。
    • 給油艦 - 6隻

脚注

注釈

  1. ^ ただし、日本の内地のうち島嶼部に対する機動部隊による空襲は、本作戦以前にも1943年9月1日・1944年5月20日など小笠原諸島に対して数回行われているほか[6]、1944年10月の南西諸島に対する十・十空襲がある。
  2. ^ 1944年2月14日、横須賀鎮守府は特設監視艇隊の潜水艦による被害続出に対抗してS21作戦を発令し、第九〇三海軍航空隊(第903空)大湊派遣隊・串本派遣隊の各一部と横須賀海軍航空隊増援兵力が館山に集結していた[11]
  3. ^ 2月16日、館山飛行場・香取飛行場・茂原飛行場(現茂原市)・神ノ池飛行場(現鹿嶋市)・木更津飛行場・八丈島飛行場の各海軍基地が、アメリカ軍機により低空からの機銃掃射を受けて、彗星艦爆7機・銀河陸爆1機・天山艦攻4機・零式輸送機1機・九九艦爆1機・陸攻18機・零戦12機・その他小型機6機が地上で炎上した[13]
  4. ^ 2月16日、伊豆諸島に向けて輸送任務中の補助監視船「第一若丸」、八丈島哨戒線に配備の特設監視艇「第二長周丸」(尾藤竹三:60総トン)、「第五盛秋丸」(山本芳松:99総トン)、「安波丸」(加澤一造:92総トン)が空襲により沈没した[17]。また、15日に鳥島南東沖で特設監視艇「第三朝洋丸」(西大洋漁業:74総トン)が消息を絶っており、日本側はこれも空襲により沈められたものと記録した。
  5. ^ 戦史叢書』によると、空襲により、神津島東方を哨戒中の補助監視船「第十一号正栄丸」(四宮爲藏:53総トン)と八丈島哨戒線の特設監視艇「第二栄福丸」(小野田八郎右衞門:99総トン)が沈没、特設監視艇「第三松福丸」(鳥守岩松:66総トン)が小破した。また、八丈島哨戒線の特設監視艇「栄福丸」(澤助司:98総トン)と「第五宝栄丸」(内山政次郎:90総トン)が機動部隊との水上戦闘で撃沈された。ただし、アメリカ海軍の『公式作戦年誌[21]』では、2月17日にアレン・M・サムナー級駆逐艦ヘインズワース」(en)が特設駆潜艇「和風丸」(日本側記録では空襲による沈没)と特設監視艇「第三十六南進丸」(日本側記録では2月18日沈没)を撃沈したとしている。
  6. ^ 戦史叢書』によると、八丈島哨戒線で特設監視艇「第三十六南進丸」(西大洋漁業:86総トン)、「第十七長運丸」(山田博吉:95総トン)、「第三共和丸」(加藤文吉:154総トン)が沈没している[17]。ただし、アメリカ海軍の『公式作戦年誌[21]』及び『モリソン海戦史[15]』によると、2月17-18日の夜に駆逐艦「バートン」(en)、「イングラハム」、「モール」が特設監視艇「第三十五南進丸」(西大洋漁業:86総トン)、「第三共和丸」、「第五福一丸」(昭和漁業:150総トン)を撃沈、駆逐艦「ドーチ」、「ウォルドロン」(en)が特設駆潜艇「鮎川丸」(極洋捕鯨:198総トン)を撃沈したが、「ウォルドロン」は体当たりをした際に損傷、「ドーチ」も3インチ砲で反撃されて3人戦死としている。また、「鮎川丸」は実際には14日に台湾方面にて座礁し放棄された[22]
  7. ^ 第5艦隊司令長官のレイモンド・スプルーアンス大将座乗[3]

出典

  1. ^ 防衛研修所(1975年)、308頁。
  2. ^ Morison (1960) , p. 20
  3. ^ a b c d e f Morison (1960) , p. 21
  4. ^ a b c d Carter, Worrall Reed. Beans, Bullets, and Black Oil - The Story Of Fleet Logistics Afloat In The Pacific During World War, Washington DC : Department of the Navy, 1953, pp. 283-284.
  5. ^ 防衛研修所(1975年)、317頁。
  6. ^ 防衛研修所(1975年)、165、191頁。
  7. ^ 防衛研修所(1975年)、268-269頁。
  8. ^ 防衛研修所(1975年)、270-271頁。
  9. ^ 防衛研修所(1975年)、325頁。
  10. ^ a b c 防衛研修所(1975年)、331-333頁。
  11. ^ a b 防衛研修所(1975年)、279頁。
  12. ^ a b c d e f Morison (1960) , p. 22
  13. ^ a b c d e f g h i 防衛研修所(1975年)、319-323頁。
  14. ^ a b c d 防衛研修所(1968年)、477頁。
  15. ^ a b c d e Morison (1960) , p. 25
  16. ^ a b 防衛研修所(1968年)、478頁。
  17. ^ a b c d e f g h 防衛研修所(1975年)、281-283頁。
  18. ^ a b c d e Morison (1960) , p. 24
  19. ^ a b c 船舶運営会 『戦時喪失船舶一覧表』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08050010100、画像38枚目。
  20. ^ a b c d e 防衛研修所(1968年)、480頁。
  21. ^ a b Cressman, Robert, The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II, Annapolis MD: Naval Institute Press, 1999, pp. 623-626.
  22. ^ 鮎川丸
  23. ^ サミュエル・モリソン 『モリソンの太平洋海戦史』 光人社、2003年、399頁。

参考文献

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