田中 秀征(たなか しゅうせい、1940年〈昭和15年〉9月30日 - )は、日本の政治家。福山大学経済学部客員教授。
衆議院議員(3期)、経済企画庁長官(第52代)、内閣総理大臣特別補佐(細川内閣)、新党さきがけ代表代行、学習院大学法学部特別客員教授等を歴任した。
1990年代前半の新党ブームの火付け役の一つ、新党さきがけの理論的指導者であった。
長野県更級郡篠ノ井町(現:長野市篠ノ井[1])生まれ。 早稲田大学第4代総長の田中穂積は一族にあたるという[2]。長野県長野高等学校、東京大学文学部西洋史学科卒業[3]。哲学、歴史、経済、法律を一通り学びたいと考えていたが、ウィンストン・チャーチル、石橋湛山、吉田茂、緒方竹虎に関心を抱いていたことから、まず歴史から学ぼうと考え、東大在学中は林健太郎ゼミに所属し[4]、近代ヨーロッパ政治史を専攻、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの「危機の20年」が最大の関心事だった[5]。また東京大学駒場寮の第三十二期寮委員長を務めた[6]。
東大卒業後、永井陽之助教授を頼って北海道大学法学部に学士入学したが、永井が東京工業大学に移籍してしまう。恩師の林健太郎に近況報告すると、「そろそろ大学を切り上げて政治の現場に近いところに身を置いて勉強したらどうか。君は石橋湛山さんの信望者だろう。ちょうど石田博英から政策関係の仕事ができる人を紹介してくれと頼まれている。」と言われ[5]、北海道大学中退後、石田博英衆議院議員の秘書を務める[7]。田中はリベラルな保守政治家であった石橋湛山を「理想の政治家」に挙げており、石田は石橋内閣で内閣官房長官を務めていた。石田の事務所では、三日に一冊本を読んで、ダイジェストを石田にメモ出しするのが田中の仕事だった。石田が1970年に『中央公論』に寄稿した論文「国民生活政府の提唱」は実質的に田中が執筆した[8]。なお、田中の着任前には山口敏夫が通常の秘書業務をしていた。
1972年12月の第33回衆議院議員総選挙に旧長野1区(定数3)から無所属で出馬した。 当時の旧長野一区は、自由民主党の有力議員だった小坂善太郎、倉石忠雄と長野県内で勢力が強かった日本社会党の中沢茂一の3議席で長年の間、全国でも有名な無風区であった。 総選挙に先立つ11月に長野市民会館で「田中秀征の三時間徹底演説」を開催、招待券で観る映画は真剣に観ないということで、入場料100円を取り、一つの時代が終わったという時代認識と新しい時代の課題に我々の世代が挑戦しようという趣旨を語ると、演説が二時間を過ぎる頃から、会場は熱い雰囲気になり、演説後に協力を申し出た人たちのほとんどがその後の選挙の主軸となる[9]。のちにこの話を聞いた小泉純一郎がそれで人が来るのかと仰天した[8]。
初出馬は最下位の得票数5位で落選した。この総選挙では、東大1959年入学同期の3人(加藤紘一、与謝野馨、田中秀征)の若手候補が立候補すると週刊誌に取り上げられた[10]。
以後、34・35・36回の各総選挙に無所属で立候補するも、落選を繰り返す。この間、一時的に新自由クラブに籍を置いていた時期があるが、党内の路線対立により離党した。 36回の選挙後、「あなたには北信の草一本、木一本に至るまで覚えていただきたい。」という支持者からの手紙を読んで、選挙区内各地区の役員を表敬訪問することを考え、訪問前に分厚い村史や農協の総会資料など地域の歴史を読み、二年半かけて郡部全域を含め二万軒を訪問する。工場や農場も見せてもらいながら、過疎地の惨状や農村の苦悩を実際に見て、島津忠貞、松本忠雄、倉石忠雄など明治以来の長野一区の政治家の話を訪問先から学んだ[11]。
石田の政界引退決定後、宮澤喜一に師事したいと石田に報告すると、「宮澤も石橋湛山の信望者だ」と喜ばれる。石橋、石田、宮澤の3人とも田中同様にジョン・スチュアート・ミルの「自由論」の愛読者だった。1983年の第37回衆議院議員総選挙の前に京都大学教授の高坂正堯が田中を伊東正義に紹介、伊東が宮沢に引き合わせる[12]。 第37回衆議院議員総選挙では旧長野1区でトップ当選を果たし、当選後、自民党から追加公認を受けた(当選同期に田中直紀・熊谷弘・二階俊博・額賀福志郎・野呂田芳成・衛藤征士郎・金子原二郎・尾身幸次・北川正恭・町村信孝・伊吹文明・自見庄三郎・大島理森・野呂昭彦・中川昭一・鈴木宗男・甘利明らがいる)。なお、この選挙において、新人の田中、若林正俊(自民公認)がそれぞれ得票数1位、2位で当選した一方で、最も得票数の少なかったベテランの小坂(自民公認)が日本社会党の清水勇の後塵を拝し、得票数4位で落選した。
同年12月26日の初登院で、本会議場の議席に座っていると突然回りがざわついた。顔をあげると、なんと目の前に田中角栄が立っていて、「君が田中秀征君か。10年間よくがんばった。立派、立派。期待しているぞ。」と声を掛けられ、隣席の二階俊博に「田中先生と初対面なのか。他の派閥だけでなく、他の党まで挨拶に行くのに、あなたは挨拶に行かなかったのか。」と驚かれた。若輩が最高実力者に表敬の挨拶に行かないならば、軽視、無視するかいじわるするのが普通なのに、わざわざ席にきて激励する意外な出来事に驚き、田中角栄をかなり誤解していたことに気づく[13]。当選後、宏池会に入会、宮澤喜一に師事し、宮澤が執筆した「国連常設軍の創設と全面軍縮」の論文を手伝うなど側近として行動する[14][15]。
1985年2月、田中角栄が倒れる前々日の演説で、「ひとの事業を引き継ぐなんて簡単なことだ。自分の力で創業することがどんなに大変か。あの田中秀征を見てみなさい。」と話をしていたことを本会議場の隣席にいた二階俊博から聞き衝撃を受ける。翌日花束を持って田中角栄が入院する東京逓信病院に見舞いに出かけた。面会謝絶なので記帳だけして帰ってきたが、田中角栄とじっくり話す機会がなかったことを悔やむ[16]。この年、自民党結党30周年で、党の機関紙を通じて「昭和60年綱領をつくろう」と呼びかける。金丸信幹事長に直談判すると賛成してくれ、政綱等改正人事委員会の人事により、井出一太郎委員長、渡辺美智雄委員長代理、海部俊樹事務局長、小渕恵三委員の体制で、一年生議員にもかかわらず委員に抜擢され、綱領の起草一切を任される[17]。草案は改正委員会を通ったが、「われわれは憲法を尊重する」「時代の変化に応じて絶えず見直しの努力を続けていく」の条項に他の党機関が待ったをかけ袋叩きにされ、選挙区には極左であるような怪文書が舞かれた[18]。この時、思想的に隔たりがある平沼赳夫は田中の努力を認め異論を唱えず、浜田幸一は「石垣に爪を立てて登ってきたのは俺とあんたの二人だけだ。」と常に文句なしに賛成してくれたという[19]。
1986年の第38回衆議院議員総選挙では、前回2位の若林がトップ当選し、約1千票差で社会党の清水が続いたが、3位に捲土重来を期した小坂善太郎が滑り込み、小坂の得票を約2千票下回った田中が落選した。浪人中、周囲に内緒で、学士入学して中退していた北海道大学に再入学した。直後に、天安門事件が起こり胡耀邦、趙紫陽など進歩的な指導者が台頭、ミハイル・ゴルバチョフの手でペレストロイカが進んでいたこともあり、行政法や社会主義経済論、中国現代史を学び、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターの教授陣と議論した[20]。
1990年の第39回衆議院議員総選挙では再び旧長野1区でトップ当選を果たし、4年ぶりに国政に復帰した。前回トップ当選の若林は得票数4位で落選し、奇しくも旧長野1区では、前回トップ当選した候補者が落選する構図が3回続いた(1983年に落選した小坂善太郎は、その前回の第36回衆議院議員総選挙ではトップ当選)。またこの総選挙では小坂善太郎が引退し、次男の小坂憲次が当選した。当選を果たした翌日、札幌へ行って北海道大学の卒業試験を受けた。当選をしたのに当の本人がいなくなったと地元で大騒ぎになった。卒業式の日の懇親会に参加したら、共同通信に入社する学生が田中を見つけて通信社に報告、「現職代議士、北大を卒業」と地方紙や北海道のテレビ局で大々的に報道された[21]。
1991年11月、宮澤内閣が誕生すると、生活大国構想を政府の正式な経済計画にするため、経済企画政務次官に就任し、数十回に及ぶ経済審議会の会合に休むことなく出席し、宮澤の手伝いをした[22]。
1992年、文藝春秋(1992年6月号)で新党樹立宣言をした細川護熙と週刊東洋経済(1992年9月12日号)で対談し意気投合、対談後に細川の希望でパレスホテルでじっくり話をし、[23]師事する宮澤喜一の内閣が終わったら行動を共にすると約束する[24]。
1993年4月、武村正義と新党結成を決断。二人は鳩山由紀夫を最初に誘い[25]、そこから離党する仲間は計10人なった。6月18日、宮澤改造内閣の不信任決議案の採決では反対票を投じたものの、同日、他の9人の仲間とともに自民党を離党。武村正義は宮澤内閣不信任案に賛成を迫ったが[26]、首班指名で宮澤の名を書いたのだから自分にも責任がある、宮澤のごく近くで政治活動をしてきた自分が、野党の出した不信任案に同調するなんてもっての外と、宮澤内閣の不信任案に反対して離党した。挨拶に行った際に、宮澤から「筋を通したんだね。立派だよ。」と激励された[27]。
同年6月21日、新党さきがけを結党。武村正義代表の下で党代表代行に就任党名を「新党・さきがけ」としたのは、隣に座っていた井出正一の前に置いてあった井出後援会機関誌の名称が「先駆け」なのを見て、さきがけにしようと言い出した。井出は周囲が離党についてなかなか納得せず悩んでおり、言葉の響きがいいのと、井出の機関誌の名を党名にすれば井出のプラスになるのではと思ったからだという[28]。
新党さきがけの政治理念は田中秀征が原案をつくり、結成議員全員で討議して決めたという。田中は、五項目の政治理念を、所属していた宏池会の政治姿勢を念頭に置き、保守本流のバトンを引き継いでいくという意識を強く持ちながら起草した[29]。
田中は、冷戦が終わったことと、保守本流の神通力だった財政金融政策がいままでどおりの効果を持たなくなったことから、自民党の時代的役割は終わったのではないかという危機感を持っていた[30]。また、やみくもな経済成長至上主義に疑問を抱いていたこと、地球環境問題が1990年代初めから人類史的課題になっていたことを念頭に執筆[31]、皇室の尊重と全体主義の進出を許さないという点は、日本人として常識的な路線であり、自分たちが保守勢力であるという強い自覚に基づくという考えが背景にあった[31]。
「質実国家」は、昭和元年12月28日、昭和天皇の践祚後朝見式ノ勅語にある一節「それ浮華を斥け質実を尚び・・・」が由来である。田中秀征は、この勅語の一節は昭和をこういう時代にしたいという昭和天皇の夢であり、浮華を退けては虚飾を排してという意味と捉え、「背伸びせず内容本位で自然体」と説明していた[32]。 この当時は冷静終結から間もない時期で、今更質素な小国を目指すのかと思う人が多かったため、あまり共感を呼ばなかったが、読売新聞編集委員の吉田清人はこの政治理念発表から29年後の2022年に、「今になってこの旗印が時代を見据えて「日本の針路」を指し示していた、掲げるのが早すぎた。」と論評している[33]。
新党さきがけ結党時、日本新党との合流を考えており、細川護熙、武村正義と三人で会った時に、「われわれが一緒に党をつくる時、細川さんが代表、武村さんは幹事長」と二人の前で念押しした。この事実は歴史に残しておきたいと言っている[34]。
1993年7月の第40回衆議院議員総選挙では、旧長野1区で3度目のトップ当選を果たした。自民党が過半数を割り込んだため、細川率いる日本新党と新党さきがけは新政権樹立のキャスティング・ボートを握ることとなった。田中は、「自民党政権」か「非自民政権」のどちらにつくか注目される中、思想信条の違う政党の連立政権は臨時・緊急の事態にしか通用しない、経済対策など懸案事項を遅らせている政治改革を早期に処理する「特命政権」として、院内会派「さきがけ日本新党」が「政治改革政権の提唱」という第三の選択肢を打ち出す。昔から数学が得意で、幾何が好きだったが、この時は難問を一気に解く補助線を発見した感じだったという[35]。その考えをワープロで打ってまとめたペーパーを細川護熙と武村正義に見せると、二人とも瞬時に確信、細川はその日のうちに田中がまとめたペーパーを持って小沢一郎に会いに行った。小沢はその場で細川さん、総理になれ」と勧めたという[36]。7月23日に細川が提唱文を読み上げると、各党の対応が明確になり、新生党代表幹事・小沢一郎の動きとは別に、細川内閣樹立の理論的構築を行った。この記者会見では田中も同席する予定だったが、車の渋滞で遅れ細川と武村が読むことになった[24][37]。
同年8月に発足した細川内閣では武村が内閣官房長官、鳩山が内閣官房副長官に就任する。当初は内閣官房副長官を打診されるも党務を理由に辞退した田中は内閣総理大臣特別補佐に起用され[38]、細川が所信表明演説で用いたキャッチフレーズ「質実国家」を発案した。政権樹立後の8月17日に軽井沢で宮澤喜一と細川護熙の会談を仲介している[39]。この会談には別荘が近い鳩山由紀夫と選挙区である井出正一も同席している[40]。
首相特別補佐の部屋には、記者や官僚など様々な人が集まり、小泉純一郎もよくやってきて、「この政権を長くやってくれ。自民党はそうじゃないと変わらないから。」と言って新聞や雑誌を読んでいた[41]。 内外からの規制改革の要請が強まったことから、内閣に「経済改革研究会」を立ち上げ、平岩外四を座長にし、細川とメンバーの人選をした[42]。
1994年1月、政治改革四法の成立を見届けた後、内閣総理大臣特別補佐を辞任。これは細川政権樹立時の「特命政権論」の立場によるもので、細川に対し、政治改革が一応の成立を見た段階での内閣総辞職を勧めていた。国民福祉税騒動の時には、宮澤喜一から「増税というのは、アナウンスするだけで足元の景気を冷やす。」と助言されている[43]。
ただ、いわゆる小選挙区制導入に基づく政治改革には無関心であり、冷戦の終結で世界の政治体制、安全保障、軍事の秩序、グローバル経済が始まり経済のあり方が変化した中で、戦後日本を支えてきた政治、行政が制度疲労を起こしている中で、日本の新しい進路を論じるべきであり、選挙制度改革にかまってばかりいるべきでないという考えだった[44]。 中選挙区連記制がいいと公言し、自民党時代に会合で中選挙区連記制がいいのではないかと発言すると、小選挙区の旗を振っていた後藤田正晴 や羽田孜に怪訝な顔をされたという[45]。その理由として、各選挙区で一人を支援する小選挙区だと、候補者はあらゆる団体から支援を受けたいので、あえて政策論争には踏み込まなくなる、その結果として政策の調整はすべて霞が関の官僚に頼るようになり、自民党の政策調整機能は明らかに低下しており、そもそも地方分権を徹底しないで、財源、権限を国が持ったままだと、小選挙区選出議員が予算や許認可の運び屋になってしまうと指摘している。小選挙区推進論者は二大政党信仰、政権交代信仰を持っていたが、英国と違って戦後の日本は二大政党が存在せず、「もともと異なる二つの流れがあって初めて、その間に土手をつくる意味があるのであって、先に川の真ん中に土手を作って、二つの流れを無理に作るのはおかしい。」と批判していた[46]。
同年4月、細川内閣の総辞職に伴い、新党さきがけは非自民連立政権を離脱し、羽田内閣では予算の成立に責任があるので野党にはなれないが、国民福祉税構想や国連安全保障理事会の常任理事国入りで異なる考えを持っていたため閣外協力に転じた。
羽田内閣発足後、日本社会党の村山富市委員長、久保亘書記長が面会に来て、「君が代と日の丸をそろそろ認めようと思っている。」と相談された。「国旗とは、過去の輝かしいことを思い起こすと同時に、逆に大きな失敗を思い出させるものでなくてはならない。もし、社会党がそうなれば、本当にありがたい話で日の丸はみんなの日の丸になる。万国旗の中であんなに明確な国旗はない」と田中が答えると、村山は「いい話を聞いたな。」と久保に言ったという。その後、付き合いを深め、村山を信頼できる人物と思うようになった田中は、全日空ホテルで武村正義、 園田博之に「村山さんを担ごうじゃないか。」と話す。武村と園田は驚いたがすぐ賛同した。すぐに党議で村山首班の方針を決め、田中が記者会見をして発表した[47]。
1994年6月30日、村山内閣が発足。野坂浩賢建設大臣から村山首相のブレーン役をして欲しいと要請され、「21の会」を結成して座長に就任、斎藤精一郎立教大学教授を常任にして、学者や専門家に引き合わせた[47]。また、超党派で「国連常任理事国入りを考える会」(小泉純一郎が会長、田中が代表幹事)を立ち上げた[48]。
1996年1月、自社さ連立政権の第1次橋本内閣で経済企画庁長官に任命され、初入閣を果たした。武村正義と鳩山由紀夫から1995年の暮れに、「代行を辞めて入閣してくれ」と説得され、橋本内閣では入閣が既定路線だった。経済企画庁長官を希望すると、大蔵大臣を望んでいると考えていた橋本は、「秀征さん、経済企画庁長官でいいの?」と言われた[49]。経済企画庁長官として、金融など6分野の規制緩和案を検討するため、経済構造改革に取り組み、経済審議会の行動計画委員会の中に6つのワーキンググループを新設し、メンバーを選定、橋本構造改革につながった[50]。また、1996年2月には、細川護熙と小泉純一郎の三人で、「行政改革研究会」を立ち上げ、堤清二、斎藤精一郎、山口二郎、小倉昌男、速水優をメンバーにして議論した[51]。
大蔵省改革では、「自分からは言えないことが多いから、何でも田中さんが言ってください」と大蔵大臣の久保亘と通商産業大臣の塚原俊平から頼まれていた。大蔵省が省内に「大蔵省改革チーム」を作ると言い出した時、「まな板のコイが包丁を握ろうとしている」と田中が発言すると、久保は「うまいこというねえ」と笑っていたという[52]。
しかし同年10月、小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された第41回衆議院議員総選挙では、現職閣僚ながら長野1区で新進党の小坂憲次に敗れ、落選した。この総選挙に際しては、連立与党内での候補者調整が不調に終わり、長野1区から新党さきがけの田中、自民党の若林正俊が出馬し、票の分裂を引き起こした(田中、若林の票の合計は小坂の得票を上回る)。
落選により経済企画庁長官を退任する。梶山静六内閣官房長官より、「頼みたいことがある。落選しても行政改革だけはやってくれよ。」と言われる。梶山は田中に行政改革会議の事務局長に考えていたが、結局は水野清が就任した[53]。1996年には松下電工の社外監査役に就任した[54]。 その後、武村との意見の対立から新党さきがけを離党し、その後は同党唯一の党友。1998年の第18回参議院議員通常選挙では、東京都選挙区から出馬したTHE・サンデー司会の中村敦夫(無所属・新党さきがけ推薦)の当選に尽力。なお中村は1995年の第17回参議院議員通常選挙に新党さきがけ公認で出馬したが、次点で落選していた。 学習院大学法学部政治学科特別客員教授や福山大学経済学部客員教授を務める傍ら、1999年9月からNPO法人「田中秀征の民権塾」を主宰する。
2010年6月にはみんなの党の選対本部特別顧問に就いた[55]。2014年の東京都知事選挙では、制度改革研究会の同志であった小泉純一郎と共に脱原発を掲げて立候補した元首相の細川護煕を支援したが、細川は舛添要一らに敗れ、落選した。