無上瑜伽タントラ無上瑜伽タントラ(むじょうゆがタントラ 、梵: Anuttarayoga-tantra, Yogānuttara-, Yoganiruttara-、蔵:bla na med pa'i rgyud、無上ヨーガ・タントラ)とは、8世紀後半以降に作られたインド後期密教経典群のチベット仏教における総称。 概説チベット仏教の大学者であるプトゥンが確立した分類法によると、密教経典は以下の4つに分類される[1]。 無上瑜伽タントラはこのように、最後の究極的な経典群として位置付けられる。
この四分説は、チベット仏教の四大宗派の内、新訳派であるゲルク派、サキャ派、カギュ派において受容されている。一方、旧訳派であるニンマ派では、九乗教判の教義による独自の分類法が行われる。 種類無上瑜伽タントラは以下のように「父(ふ)タントラ」「母(も)タントラ」「双入不二(そうにゅうふに)タントラ」の3つに分類される。 「父タントラ」は方便を、「母タントラ」は智慧(般若)を、表すものとされる。また、ここに挙げた無上瑜伽タントラの経典は、その灌頂だけでも2日間から7日間かかり、最終期の『時輪タントラ』を除く全てのタントラが、灌頂の参加人数を「25人以下」と定めているのもその特徴のひとつである。なお、参加人数が25人を超えた場合には、その灌頂とタントラに付随する全ての教えが無効となる。
プトゥンは『時輪タントラ』を不二タントラに分類したが、ゲルク派では『バジュラバイラヴァ』を不二タントラとする見解もあり、また、開祖であるツォンカパは『時輪タントラ』を母タントラとしている。サキャ派は『ヘーヴァジュラ』を不二タントラに位置づけている[3]。 尊格金剛界五仏(五智如来)の一仏である阿閦如来は、中期密教まで(金剛界曼荼羅の)東方に置かれていたが、後期密教では大日如来に取って代わり、秘密集会聖者流の阿閦三十二尊曼荼羅では中心を占めるようになった。 この他にも本初仏[注釈 2]として法身普賢(ニンマ派の本初仏)[注釈 3]、金剛薩埵(ヴァジュラ・サットヴァ:カギュ派の本初仏)[5]、持金剛(ヴァジュラ・ダラ、執金剛:ゲルク派やカギュ派の本初仏)[5]などが崇敬された。 また、各タントラ経典の内容や生理的ヨーガを象徴化した密集金剛(グヒヤサマージャ、秘密集会・阿閦金剛)、大威徳金剛(ヴァジュラバイラヴァ、金剛怖畏)、呼金剛(ヘーヴァジュラ)、勝楽金剛(チャクラサンヴァラ、勝楽尊)、時輪金剛(カーラチャクラ)、更に、『理趣経』に説かれた大楽と空性に、「マハームドラー」を始めとする四印の成就を結合させた尊格の「五秘密尊」における発展形となる大幻化金剛(マハーマーヤー)[6][7][8][9]といった忿怒相の歓喜仏(ヤブユム)[注釈 4]が、チベット密教の各宗派における教義や僧侶達の修法等の根本を支える「守護尊」(yi dam:イダム)[注釈 5]として尊ばれた。これらは仏像・曼荼羅・タンカ等における美術などでもよく題材にされる。 五大金剛法チベット密教では以下のように「五大金剛法」が成立した[要出典]。
評価チベット仏教最高の学僧であるプトゥンは、『時輪タントラ』を経典の頂点に位置付けた。しかし、弟子のレンダワは、イスラームの影響を受けた『時輪タントラ』を、仏陀の教えではないと主張した[11]。 その弟子、つまりプトゥンから見て孫弟子に当たり、チベット仏教で最も高名な僧であり、また最大宗派ゲルク派の祖であるツォンカパもまた、『時輪タントラ』を高く評価しなかった。彼は『秘密集会タントラ』を最高の密教経典と評価し、密教に関する著作のほとんどをこの経典の註釈のために費やしている(他には『勝楽タントラ』など)[12]。 成立経緯仏教は、そもそもインド征服集団であるアーリヤ人が持ち込んだヴェーダを奉じる、司祭階級バラモンを中心としたいわゆるバラモン教に対するカウンターの1つとして、クシャトリヤ階級の自由思想家の一人である釈迦によって興されたとされる宗教であり、両者は(類似部分も多いものの)潜在的な対立関係にあった。ただし初期仏教はヴェーダの一部であるウパニシャッド哲学からの引用が多い。 仏教教団はマウリヤ朝からクシャーナ朝にかけて、国家の庇護を受け、隆盛を誇る。ただし保護されたのは仏教だけでなくジャイナ教やバラモン教もであり諸々の王朝では仏教ではなくバラモン教主体の王朝も多々存在していた。 その文化は続くグプタ朝においても花開くが、一方で、この頃形としてまとまった『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』などを契機として、民間伝承を取り込んだ庶民的な宗教として変化していきバラモン教も内包する宗教すなわちヒンドゥー教が台頭してくることになる。そもそも民衆の間ではそれ以前からそれぞれの土地土地の神が存在していた。こうして出家者中心の理論的・瞑想的な仏教が一般庶民の求心力を失っていくのとは対照的に、ヒンドゥー教が勢力を広げることになった。 この状況に危機感を募らせた仏教側のリアクションとして、5世紀頃から登場したのが、ヒンドゥー教的要素を積極的に取り込み、壮大な神々の体系(曼荼羅)と儀礼、呪術、超能力、動的な身体・象徴操作、現世利益などを備えた、いわゆる密教である。 その体系は徐々にまとめられ、7世紀に『大日経』『金剛頂経』が成立するに至り、一応の完成を見る。これが日本にも真言宗として伝わっている中期密教(純密)である。 しかし、インド仏教界はこれに飽き足らず、さらなるヒンドゥー教への対抗、庶民に対する訴求力・求心力の維持・強化、そして仏(世界)との合一手段探求・強化の一手として、「性」と「チャクラ」(つまるところ「クンダリニー・ヨーガ」および「シャクティ信仰」)に、よりいっそう深く踏み込んでいくことになる。こうして生み出されたのが、後に無上瑜伽タントラと総称されることになる後期密教経典群である[13]。 『幻化網タントラ』(マーヤージャーラ・タントラ)や『大幻化網タントラ』(グヒヤガルバ・タントラ)が登場したのを皮切りに[注釈 10]、8世紀後半には「ブッダは一切の如来達の身・語・心の源泉たる、諸々の金剛女陰に住したもうた」[14]という衝撃的な文言から始まる『秘密集会タントラ』が成立し、11世紀の『時輪タントラ』に至るまで様々な経典が作られ、それに基づいて「性的ヨーガ」が実践されてきた。性行為は初期仏教以来の戒律と真っ向から衝突するため、僧院においてはあくまでも観想として、身体・思考操作を駆使してその状態を再現するという、伝統の立場に立つ無上瑜伽タントラの各種の三昧耶戒[注釈 11]に基づく解釈・試行がなされた。しかし、最終的な解決をみないまま、12世紀末から13世紀初頭にかけて、イスラーム王朝であるゴール朝による北インド侵攻によって、ナーランダー大僧院、ヴィクラマシーラ大僧院といったインド仏教拠点が次々と破壊され、インド仏教はその歴史を閉じることになり、その課題は後継であるチベット仏教に残されることになる[15]。 性的ヨーガ後期密教における性的ヨーガの扱いは、後期インド仏教、そしてチベット仏教においては大きな課題であった。特に、性的な節制を要求する初期仏教以来の戒律と衝突する点が大きな問題であった。とはいえ、インドの密教が至上の教えと信じられていた当時は、まだ無上瑜伽タントラの教えや密教の戒律である三昧耶戒の口伝は十分に理解されておらず、後期インド仏教における数々の課題を受け継いだままであり、女性パートナーを伴う性的ヨーガがしばしば行われていた。 チベット仏教の復興者であり、顕密統合志向であったヴィクラマシーラ大僧院(インドの密教大学)出身のインド僧アティーシャの考えを継承し、顕教と密教、戒律と性的ヨーガを体系化したツォンカパは、性的ヨーガの有効性を認めつつも、その実践を事実上禁止しあくまで観想でのみ行うよう求めた[16]。彼を祖とするゲルク派は僧侶の基本である具足戒を始めとする数多くの厳しい戒律を持ち、また、出家として生涯独身を貫く清新さを保つことで多くのチベット人の支持を得たために、モンゴルへの布教も成功し、チベット仏教の最大宗派へと成長した[17]。ニンマ派やサキャ派、カギュ派等の三大宗派もこれに倣って僧院を中心とする組織化を充実させることに成功し、現在に至る。 信仰上での位置付け密教経典を学ぶ際は灌頂を正しく受けるべきだとされるが、特に無上瑜伽タントラの場合は、灌頂と密教の三昧耶戒を含む種々の戒律を受けずに学ぶことは極めて危険とされる。ツォンカパは灌頂なしで無上瑜伽タントラを行っても無意味とし、灌頂をせずに学ばせたラマと弟子は必ず地獄に堕ちると警告している。 脚注注釈
出典
参考文献
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