ジョアン・ミル・マイラタ (Joan Mir Mayrata, 1997年9月1日 - ) は、スペインのバレアレス諸島パルマ・デ・マヨルカ出身のオートバイレーサー。身長181 cm、体重68 kg[1]。
2015年よりロードレース世界選手権に参戦。2017年のMoto3クラスチャンピオン。2019年よりMotoGPクラスにチーム・スズキ・エクスターから参戦し、2020年にMotoGPクラスチャンピオンを獲得した。
経歴
初期の活動
ミルは6歳の頃、初めて小型オートバイに乗ったが、同世代のライバルたちに比べ、レースキャリアの始まりは遅かった[1]。父親はマヨルカ島でローラースケートショップを営んでおり[1]、ミルの少年時代はローラースケートやスケートボード、キックスクーターと共にあった[2]。やがて、世界GP125ccクラスのライダーだった叔父のジョアン・ペレロ(英語版)に影響され、10歳の頃からレースに取り組むようになった。チーチョ・ロレンソ(ホルヘ・ロレンソの父親)が運営するスクールや、バレアレス・モーターサイクル連盟のスクールでライディングの基礎を学び、バレアレス選手権やバンキアカップで経験を積んだ[2]。
2013年より若手ライダーの登竜門、レッドブルMotoGPルーキーズカップ(英語版)に参戦。2014年は3勝を挙げ、ホルヘ・マルティンに次ぐランキング2位を獲得した。2015年はFIM CEVレプソルMoto3ジュニア世界選手権に参戦し、4勝を挙げてランキング4位。同年のMotoGP第16戦オーストラリアGPに尾野弘樹の代役として出場し、世界選手権Moto3クラスにデビューした[3]。
ロードレース世界選手権参戦
Moto3クラス
2016年、レオパード・レーシングよりMoto3クラスにレギュラー参戦を開始。前半戦は苦戦するも、第10戦オーストリアGPで初ポールポジションからポール・トゥ・ウィンで初優勝。後半戦はコンスタントに上位を走り、2位1回・3位1回を加え年間ランキング5位でルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
2017年はマシンをKTMからホンダ・NSF250RWにスイッチ。接戦でアクシデントの多いMoto3において全18戦中17戦でポイント獲得、うち優勝10回・2位2回・3位1回という卓越した成績を収め、ランキング2位に93点差をつけMoto3クラスチャンピオンを獲得した[3]。軽量クラスで年間2桁勝利を記録したのは、125 cc時代のバレンティーノ・ロッシ(1997年11勝)とマルク・マルケス(2010年10勝)以来となる。
Moto2クラス
2018年はMoto2クラスにステップアップし、2017年王者フランコ・モルビデリの後継としてマークVDSレーシングチームに加入。4度の表彰台(2位2回・3位2回)、ランキング6位でルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
シーズン前半の第5戦フランスGP後に、早くも2019年からMotoGPクラスにステップアップすることを発表した[4]。ミルはホンダと仮契約を交わしていたが、スズキから好条件のオファーを受け、Moto2クラスのタイトルを狙うよりも、最高峰のMotoGPクラスにファクトリーライダーとして昇格するチャンスを選択した
[5]。
MotoGPクラス
2019年はチーム・スズキ・エクスターへ加入し、アレックス・リンスのチームメイトとしてスズキ・GSX-RRをライディングする[6]。第10戦チェコGP後のブルノテストで転倒し、肺挫傷のため2戦を欠場[7]。復帰後は7戦連続ポイントを獲得し、オーストラリアGPでシーズン最高5位を記録。初年度をランキング12位で終える。2019年のルーキー・オブ・ザ・イヤーにはファビオ・クアルタラロ(ペトロナス・ヤマハSRT)が選ばれ、ミルの3クラス連続受賞はならなかった。
2020年も同じ体制で2年目のシーズンを迎えた。新型コロナウイルス感染症によるカレンダー再編、王者マルク・マルケス(レプソル・ホンダ)の長期欠場という混迷のシーズンにおいて、ミルは優勝争いに浮上する。序盤3戦で2度の転倒リタイアを喫したが、第5戦オーストリアGPで2位初表彰台を獲得。続くスティリアGPではレース中盤までトップを快走するも、赤旗中断・再スタートの時点で新品のフロントタイヤが残っておらず、4位に後退した。その後も表彰台の常連に定着し、アラゴンGP終了時点でクアルタラロを抜きポイントリーダーに立つ。第13戦ヨーロッパGP(バレンシア)ではMotoGPクラス初優勝をリンスとのワンツーフィニッシュで達成[8]。続く第14戦バレンシアGPでシリーズチャンピオン獲得が決定した[9][10]。グランプリレギュラー参戦開始から5年目、23歳75日での最高峰クラス制覇は史上7番目の若さ[11]。また、2000年のGP500 ccクラスのケニー・ロバーツJr.以来20年ぶりにスズキのチャンピオンライダーとなり、同社の創業100周年・世界GP参戦60周年に花を添えた[12]。
2021年はチャンピオンとして3年目のシーズンを迎えた。第9戦スティリアGPでファステストラップをマークする活躍を見せるが、王者ながらも未勝利のままランキング3位でシーズンを終えた。
2022年も同じ体制で4年目のシーズンを迎えた。しかし、スズキの撤退に伴って来シーズンのシートは不明のままになっていた。第13戦オーストリアGP時点では契約締結は近いと明かしていたが、8月30日にホンダと2年契約締結を発表。ワークスチームであるレプソル・ホンダにマルケスとの体制で戦っていくことが決まった[13]。第14戦サンマリノGPではオーストリア戦の決勝レース時に右足首の距骨の小さな骨折と距骨靭帯を損傷し15日間の安静を要することとなったため欠場。渡辺一樹が代走することが決まった。
人物
スペイン語の"J"の発音から「ホアン・ミル[14]」と表記される場合もあったが、本人は「ジョアン」が正しいとのこと[15]。
出身地はホルヘ・ロレンソと同じマヨルカ島だが、憧れのライダーはバレンティーノ・ロッシだった[2]。また、母国スペインのテニス選手ラファエル・ナダルがコート内外で見せるふるまいを尊敬している[2]。
レース前の準備では必ず新品の青いパンツを履き、靴下やライディングスーツを右から着るというルーティンを通じて集中力を高めていく[15]。
ステップアップの過程で苦戦する選手も多いなか、ミルは1年目に環境に慣れ、2年目にはチャンピオンを争うという適応力を示しており、「クレバーでハイレベルなライディングをコンスタントにできるライダー」と評価されている[16]。2017年のMoto3タイトルを制したときは、ポールポジション1回ながら優勝10回を記録した。2020年は最高峰クラスでは史上最も少ないシーズン1勝でチャンピオンを獲得した(それまでの最少記録は2勝が4回)[11]。ポールポジション0回でのチャンピオンは1992年のウェイン・レイニー以来28年ぶり[11]。
おもな戦績
世界選手権
シーズン別
クラス別
年別
* 現在進行中
脚注
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
ジョアン・ミルに関連するカテゴリがあります。
外部リンク
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マシン | |
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ワールドチャンピオン | |
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1 サテライトチームでのチャンピオン獲得。 |
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125 ccクラス |
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Moto3クラス |
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500 ccクラス |
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