火垂るの墓
『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如の短編小説。1967年(昭和42年)10月、『オール讀物』に発表され、1968年(昭和43年)3月に刊行された短編集『アメリカひじき 火垂るの墓』(文藝春秋)に収録された[1]。同年には『アメリカひじき』と共に、第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。 野坂自身の戦争体験を題材とした作品で、兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描く。愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた2つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現している[2]。 本作を原作とした、同名タイトルの映画(アニメーション、実写)、漫画、テレビドラマ、合唱組曲などの翻案作品も作られている。特にアニメーション映画は、戦災孤児が直面する厳しい現実を一切の妥協なしに描いたことから、戦争の酷さを後世に伝える作品として高く評価された。イギリスでも実写映画化が予定され、撮影は2014年から行われるはずだったが[3]、結局実現しなかった。 作品発表までの経緯1967年(昭和42年)、雑誌『オール讀物』10月号に掲載され、同時期発表の『アメリカひじき』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は両作併せて1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より刊行された。文庫版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はAlycia Davidson訳(英題: Grave of the Fireflies)をはじめ、各国で行われている。 作品は、刊行時に結末部に変更が加えられており、末尾の一段落が削除される一方、主人公の少年の遺体がほかの浮浪児たちの遺体とともに「布引の上の寺」で荼毘に付された日時「昭和20年9月22日午後」[注釈 1]が加えられている[4]。削除された一段落には、布引の谷あいから飛び立った無数の蛍が、打ち捨てられた妹の骨のまわりを飛び交うという以下の文章があり、妹の鎮魂にかかわる表現がより強く描かれていた[5]。このためこの改筆は作品全体の評価や解釈にも関わるという指摘がある[6]。
この最後の段落の削除は、直木賞の選考における海音寺潮五郎の選評(結末が「明治調すぎて、古めかしすぎ」る、というコメントを含む)を受けたものとも説明することも可能であるが[5]、この段落は、この作品の主題でもある野坂自身の妹への贖罪の念や鎮魂の思いを表現する重要な部分でもあり、作品全体に対する直木賞の選評での高評価にも影響を与えていたものであるため、この段落を削除し、無縁仏として多くの浮浪児の遺体と共に荼毘に付された清太の死で作品を終らせる末尾に変更したことの意味は、野坂個人の妹に対する鎮魂と悔悟に根差した兄妹固有の物語であったものを、主人公を多くの戦災孤児たちの一人と描くことで、戦災孤児たちの鎮魂の物語として拡大したという解釈もある[8]。 作品構成・文体文体は、関西弁の長所を生かした「饒舌体」の文体ながらも、無駄のない独特のものとなっている[2][9]。 物語の構成は、冒頭にまず物語の結末部分が描かれ、駅構内で死んでいった主人公の少年の腹巻きの中から発見されたドロップ缶を駅員が放り投げると、その拍子に蓋が開いて缶の中から小さい骨のかけらが転げ出し、蛍が点滅して飛び交う。そして、その骨が少年の妹の遺骨であることの説明から、カットバックで時間が神戸大空襲へ戻っていき、そこから駅構内の少年の死までの時間経過をたどる効果的な構成となっており、印象的で自然な流れとなっている[2]。 作品背景『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。 野坂は幼児期に生母と死別したのち、神戸で貿易商を営んでいた叔母夫婦の養子となったが、前述の神戸大空襲で住んでいた家は全焼。当時14歳だった野坂は1歳の義妹とともに西宮市満池谷町の親類宅に身を寄せたり、あるいはその近くのニテコ池の南側に広がる谷間に10カ所ほどあった防空壕で過ごすなどの経験を実際にしている[10][11]。 ただし、「空襲で父母をなくした」は脚色であり、養父は実際に空襲で行方不明となっていたが、養母は重傷を負いながらも一命を取り留めており、元から一緒に暮らしていた養祖母も健在だった[11]。 野坂は戦中から戦後にかけて2人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかし西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の2歳年上の美しい娘(三女・京子)に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6カ月で、8月22日に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実はない[11]。 野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという[12]。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している[13]。こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いた。「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあった[14]。「恵子」という名前を、『エロ事師たち』の主人公の義娘の名前に付けたのは、妹への思いがあったからだという[14]。 野坂は妹の恵子について次のように述べている。 あらすじ(小説)1945年(昭和20年)9月21日、清太は省線(現在のJR東海道本線(通称・JR神戸線))三ノ宮駅構内で、14歳の若さで衰弱死する。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中にはわずか4歳で衰弱死した妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。 太平洋戦争末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区[注釈 2])に住んでいた清太とその妹・節子は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。 最初のうちは順調だった共同生活も戦争が進むにつれて、2人を邪魔扱いする説教くさい叔母との諍いが絶えなくなる。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心し、近くの満池谷町の貯水池のほとりにある防空壕の中で暮らし始めるが[注釈 3]、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていく。清太は畑から野菜を盗んだり、空襲で無人となった人家から火事場泥棒し、時には私人逮捕され殴られた上に派出所に突き出されながらも飢えをしのぐ。 ある日、川辺で倒れている節子を発見した清太は、病院に連れていくも医者に「滋養を付けるしかない」と言われたため、銀行から貯金を下ろして食料の調達に走る最中に日本の降伏と敗戦を知り、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされ衝撃を受ける。戦後の物不足の中、清太はやっとの思いで入手した食べ物を節子に食べさせたが既に手遅れで、節子は終戦から7日後の8月22日に短い生涯を閉じる。節子を火葬して荼毘に付した後、あたりにはたくさんの蛍が飛び、清太は節子に「蛍と一緒に天国へいき」と言って節子の白い骨のかけらを拾い集めて防空壕を去る。その清太も栄養失調に侵され、身寄りも無いため三ノ宮駅に寝起きする戦災孤児の1人として野垂れ死に、死体は他の死亡した30人の死体と共に荼毘に付され、無縁仏として納骨堂へ収められた。 直木賞の選評『アメリカひじき』と一緒に受賞し、選考委員の評価は総じて高いもので、反対派はいなかった。 海音寺潮五郎は、「大坂ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない」と評し[9]、「後者(火垂るの墓)の結末は明治調すぎて、古めかしすぎて乗って行けなかったが、自伝的なものがありそうだから、こうせざるを得なかったのであろう」と述べている[9]。 水上勉は、「出来がよく、野坂氏の怨念も夢もふんだんに詰めこまれて、しかも好短篇の結構を踏み、完全である。感動させられた」と述べ[9]、松本清張は、「私の好みとしては『アメリカひじき』よりも『火垂るの墓』をとりたい。だが、野坂氏独特の粘こい、しかも無駄のない饒舌体の文章は現在を捉えるときに最も特徴を発揮するように思う」と評している[9]。 川口松太郎は、「直木賞作家の本命とはいい難く、君の技量は逆手だ。文章のアヤの面白さに興味があって事件人物の描写説得は二の次になっている」とし[9]、「野坂君が独特の文体の上に、豊かな内容をもり込む作家になってくれたらそれこそ鬼に金棒だ」と助言をしている[9]。 大佛次郎は、「この装飾の多い文体で、裸の現実を襞深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向けていない」とし[9]、「作りごとでない力が、底に横たわって手強い」と評している[9]。柴田錬三郎は、「さまざまの話題をマスコミにまきちらし乍ら、とにもかくにも、文壇へふみ込んで来たその雑草的な強さは、敬服にあたいする。私は、『火垂るの墓』に感動した。劇作者的文章が、悲惨な少年少女の最後を描いて、効果をあげたことは、われわれ実作者に深く考えさせるところがあった」と高い評価をしている[9]。 登場兵器アニメ映画
『火垂るの墓』(ほたるのはか、英題:Grave of the Fireflies)は、1988年(昭和63年)4月16日 に公開されたスタジオジブリ制作の日本のアニメーション映画作品。高畑勲監督の長編アニメーション映画第6作。雑誌『オール讀物』に連載していた野坂昭如の同名小説(『火垂るの墓』)を原作とする。同時上映は『となりのトトロ』。キャッチコピーは「4歳と14歳で、生きようと思った」、「忘れものを、届けにきました」。 概要物語は概ね原作同様であるが、多少の差異がある。清太の死が冒頭で描かれ、幽霊になった清太の「僕は死んだ」というナレーションから始まってカットバックしていき、神戸大空襲から清太が死地となる駅構内へ赴くまで原作の構成をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写(原作では清太が池で泳いでいる間に死んでいる)や、冒頭で現代の三宮駅から過去の三宮駅に切り替わるところやラストで現代の神戸の街のシルエットに繋がる構成などはアニメオリジナルであり、幽霊となった清太が自分が死ぬまでの数カ月間を現代まで繰り返し見ていることやこれが「心中物」であるのが冒頭だけでわかるように緻密に計算されて描かれている。 また、登場人物の会話は関西出身の俳優や声優を起用したネイティヴな関西弁である。「キイキ悪い(体調が悪い、病気の意)」、「(二本松の)ねき(脇、近くという意味)」などといった現在ではほとんど使われることがなくなった古い表現も、原作小説のままに使用されている。ただし、いわゆる神戸弁ではなく、大阪弁に近い言い回しに統一されている点が異なる。 公開当時、日本のアニメーションはSFファンタジーが大人気で、本作は“文学を原作に戦時下の日本をリアルに描く”という極めて異端の企画だった[16]。本作のドキュメンタリーのような再現性(詳しくは後述)は徹底した下調べの賜物であり、それまでのアニメーションではほとんど見られないものだった[16]。一般的にアニメーションは、短い秒数のカットで繋いでいくことが多いが、本作では1カットが30秒を超えるものがいくつかあり、特に節子が亡くなるカットは52秒にも及ぶ[16]。 製作の経緯本作は、1988年(昭和63年)の公開時、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』と同時上映されているが、先に企画された『となりのトトロ』は、当初、60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった[17]。そこで鈴木敏夫の発案として同時上映作品として高畑勲監督作品『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。 最終的に、両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で公開された。アニメ映画界の二大巨頭の代表作、しかも作風も物語も印象も全く相反する内容の作品を一緒に観ることができたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや[18]、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。評論家からは好評で『キネマ旬報』誌の日本映画ベストテンでは6位に食い込んでいる。 両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行した。東映動画でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった[19]。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であった。結果として宮崎側が新しく参入したスタッフを中心に制作したのに対し、高畑側は近藤や美術監督の山本二三など旧知のベテランを集めた。高畑は後年の回想で、近藤を獲得することが(人材面での)「最優先、いや絶対的な課題」であったと述べ、それ以外のメンバーについては自ら勧誘には動かなかったとしている[20]。 当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び[21]、結果的に長編2本の同時進行となった。しかし、彩色の作業がどうしても公開までに完了しないことが判明する[20]。高畑は、大幅なカットで破綻させることなく観客の鑑賞に堪える方法を百瀬義行とともに検討し、「『演出意図』としての必然性が感じられれば、見る人に受け入れてもらえるのではないか」という「苦肉の策」で、1988年(昭和63年)4月の公開時点では清太が野菜泥棒をして捕まる場面などを色の付かない白味[注釈 4]・線撮り[注釈 5]の状態で上映することとなった[20]。これらの箇所は公開後も制作を続け、後に差し替えられている。鈴木敏夫によると、公開が間に合わないという話になった際、高畑は同様に未完成版を公開したポール・グリモーの『王と鳥』(『やぶにらみの暴君』)のように未完成になった経緯の説明を冒頭に付けて公開する提案をして、鈴木がそれを断ると、2箇所彩色が抜けることを明かし、鈴木はその状態での公開を承諾したという[22]。 わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年(平成3年)に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰することになる(おもひでぽろぽろも本作と同じように過去の思い出しである)[23]。 出版権と著作権徳間書店社長・徳間康快の要請を受け、野坂の原作小説を文庫として販売している新潮社が『火垂るの墓』の出資・製作となっている。新潮社がメディアミックスで映像製作に携わる初めてのケースとなった。こうした経緯もあって、スタジオジブリは原作の出版権並びに著作権を保有しておらず、新潮社と野坂がそれぞれ保有・管理している[24][25]。 そのため、ビデオやレーザーディスクは徳間系列ではないパイオニアLDCから発売され、その後リリースされたDVDも、ジブリ作品としては例外的にワーナー・ホーム・ビデオの扱いとなっていた[注釈 6][26]。また、2020年から順次開始しているジブリ作品の場面写真配布でも2023年8月時点で本作品のみ対象外となっている[27][28]。 定額制動画配信サービスでも2020年からNetflix(アメリカと日本を除く世界約191カ国)とHBO Max(現・Max。アメリカ)にてジブリ作品のサブスクリプション配信が相次いで開始されたが、両サービス共に本作品のみ除外となっていた[25][29][30][31]。しかし、2024年9月16日からNetflixにて本作品の配信を開始した[32][33][34]。なお、本作品におけるNetflixでの配信に関してはアメリカを含む世界190カ国以上が対象となるが、日本では他のジブリ作品と同様に配信の対象外となる[33][34][35]。 監督の意図高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べた。また、「本作は決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」とも語っていた[36]。「高畑勲・宮崎駿作品研究所」代表の叶精二によると、高畑は「この映画では戦争は止められない。映画で反戦を訴えるのであれば、“戦争を起こす前に何をすべきか”と観客に行動を促すことが必要だ」と言っていたという[16]。高畑自身はこの映画を心中物として描いており「戦争の悲惨さを出すんだったらもっと激しくやらなければおかしいんじゃないか。」と述べている[37]。ただし、反戦アニメと受け取られたことについて、高畑は「やむを得ないだろう」としている。 高畑は、「本作では兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものである」と解説し、「特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたい」と語っている[38][39]。また、「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と述べている[40]。 美術監督の山本二三はある時、高畑に「家の中の柱の角が擦れて丸くなっている様子など、生活の感じを細部に描きたい」と提案したことがあった。しかし高畑は、厳しい口調で「この映画にヒューマニズムはありません」と却下した[16]。山本は後年、「戦時下の悲哀を描くにあたり、ここまで徹底して厳しく冷静な目線を持っていた人は高畑監督しかいません。だからこそ『火垂るの墓』は、高い芸術性を持った作品になったのだと思います」と語っている[16]。 本作の製作発表で、高畑は「この物語は戦時中だけの話ではなく、現代にも続く」ということを語っていた[16]。このため本作のラストでは、幽霊の清太と節子が丘の上から現代の神戸の夜景を眺めるシーンが描かれている[16]。 時代描写本作は第2次世界大戦を扱っているが、高畑を除けば主要スタッフのほとんどが戦争を経験していない比較的若い世代である[16]。山本二三が高畑から美術監督の打診を受けた際、「当時の状況を知る戦争経験者の方がよりリアルに描けるのでは?」との理由から断ろうとした。すると高畑から「戦争を知らないからこそ、君たち若い方にやってほしいのです」と説得されたという[16]。 こうして始まった本作の制作は、高畑勲のリアリズム志向により、1945年(昭和20年)当時の風景が忠実に再現された[注釈 7]。戦時下の風景をどう描写するかが製作スタッフの課題だったため、事前に原作者の野坂昭如の案内で西宮市や神戸市でロケハンが行われた[16]。 また、製作スタッフたちは小津安二郎監督の映画『東京物語』や『お早よう』を見て、昭和20年頃に一般的だった狭い日本家屋の映し方やじっくり演技を見せる点などを参考にした[16]。本作の小道具には、節子が持つサクマ式ドロップスやマーマ人形[注釈 8]など実在の物が描かれている[16]。 劇中の空襲の描写についてもリアリズム志向は徹底されており、高畑は自身が1945年6月29日の岡山大空襲を経験していたので、そのときの記憶が劇中の空襲の描写に活かされている[41][16]。ただし、焼夷弾がどのように落ちて家屋などに火が付くのかという部分は、戦争を知らない制作スタッフ陣の頭を悩ませ、戦時下の風景描写において特に苦労した部分である[16]。作画に参加した庵野秀明が、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦「摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写することを求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった[42]。 また、神戸大空襲で神戸を焼き払ったアメリカ軍爆撃機B-29についても、空襲のシーンで登場するテールマーク「Z」のB-29はサイパン島に配置されていた第500爆撃団第883飛行隊の所属機であるが、機体番号が確認できる6機は、「41」機(愛称マイプライドアンドジョイ)、「42」機(愛称スパイン・シュー)、「44」機(愛称なし)、「47」機(愛称なし)、「50」機(愛称ファンシーディティール)、「51」機(愛称テイルウィンド)で実在の機体であった。高畑はB-29がどの方向から神戸に侵入してきたかなどを徹底的に調査してこのシーンを描かせており、実在機を描いたのにも高畑のリアリズムへの強いこだわりを感じられるが[43]、実際の史実ではこの日出撃していたのは「41」(マイプライドアンドジョイ)機、「42」(スパイン・シュー)機、「50」(ファンシーディテール)機、「51」(テイルウインド)機であり、「44」機は1944年11月29日の東京市街地への夜間空襲で、単機で東京市街地に突入したが帰路に行方不明となって、機長ハロルド・M・ハンセン少佐以下11名が戦死して以降は欠番となっており、「47」機は出撃していない。次の爆撃任務となった2日後の6月7日の大阪大空襲では「47」機も出撃している[44]。ちなみに6月5日の神戸大空襲では530機のB-29が空襲に参加したが[45]、日本陸軍航空隊飛行第111戦隊の五式戦闘機13機が迎撃してB-29を5機撃墜6機撃破を報告している[46]。アメリカ軍の記録でも11機のB-29を損失し、うち3機が日本軍戦闘機により撃墜、3機が日本軍高射砲で撃墜、3機が戦闘機と高射砲協同で撃墜、1機が損傷が大きく硫黄島で墜落、1機が原因不明の損失と記録されており、飛行第111戦隊の報告と符合する[45]。この日がB-29が一回の出撃で10機以上の損失を被った最後の日となった[47]。 美術監督の山本によると、空襲の後の清太と節子が避難する小学校の校庭のシーンでは、なかなか納得できるカットが描けなかった。高畑に相談すると黒田三郎の詩集『小さなユリと』を渡されて読んでみた所[注釈 9]、“どこか白昼夢を見ているようなイメージ”が湧いた。そのイメージで本作の校庭シーンを描き、地面を乳白色でパッと明るく飛ばしたものを見せると、ようやく高畑からOKをもらえた。 幽霊となった清太と節子の描写本作はいきなり主人公の死から始まることで、観客は“本作は幸福な結末がない”ということを冒頭で知らされる。続けて、幽霊となった清太が自分の最期を眺めているという二重構造により、客観的な視点が加えられている[16]。これらの演出により、観客は自然と幽霊の清太・節子と同じ目線で本編の兄妹の運命に立ち会い、どう生きたかを客観的に見ることとなる[16]。この二重構造の演出は、高畑のアイデアによるもの[16]。 美術監督を務めた山本二三によると、高畑は幽霊となった清太と節子のシーンにこだわり、脚本の段階から生前の清太と幽霊の清太は明確に書き分けられていた[16]。また、幽霊の清太と節子が三ノ宮駅から電車に乗るシーンは当初、高畑の指示で全体的にセピア色で描かれた。しかし高畑自身「いまいちイメージと合わない」と納得できず赤色に変更したところ、より強い印象を出すことができたためこの配色に決まった[16]。 作中で画面が赤くなる時は、清太と節子の幽霊が登場し近くで見ており、記憶を何度も繰り返し見つめていることを意味し、阿修羅のように赤く演出されている[48][注釈 10][注釈 11][注釈 12]。ただしアニメ絵本ではこの部分は大幅に省略され、ラストで現代の神戸の街を見ている2人が赤い状態の幽霊であることを示唆する場面があるのみである。アニメ絵本は概ね映画本編を忠実になぞっているが、唐突に出てきたセリフ・行動・場面など説明がなされている。 収録現場節子役は「節子と同年輩で関西弁の子役」という監督の要望のもと、オーディションが行われ[16]、当時5歳の白石綾乃が選ばれた。製作委員会のプロデューサーの村瀬拓男によると、白石の声の録音テープを初めて聞いた高畑は、イメージ通りの声に思わず「節子がいる!」と興奮したという[16]。起用後白石は、マネージャーから口伝えにセリフの指導を受けてから、(声の収録後に絵を完成させる)プレスコで収録を行った[49]。志乃原は白石について「本当にいい子でした」と述べている[50]。プレスコによる収録方法は、高畑の「演者の発声のタイミングやアクセント、息づかいまで絵作りに活かしたい」との思いがあった[注釈 13]。 幼かった白石はセリフの意味がまだよく分からず、収録開始時はシーンやセリフ内容に関係なくとにかく元気よく発声していた[16]。そこでスタッフたちは明るいシーン以外では、意図的に白石に同じセリフを何度も繰り返させ、疲れて声に力がなくなってきた頃にようやくOKテイクが録れるという形で収録した。この結果上記のような節子のセリフは、ほぼ毎回20~30テイクも録音した[16]。このため収録時に白石が時々泣き出すことがあったが、そういう時は清太役を演じた辰巳努が自然となだめ、その様子を見たスタッフから「本当の兄妹のようだ」と評された[16]。後日、本作の収録を振り返った辰巳は、「あの子(白石)のおかげでだいぶやりやすかった。あの子の声やから、最後の節子が死にそうになるところで、思わず素直にセリフが出てしまったのかもしれません」と述べている[49]。 キャスト公開当時、清太の声を担当した辰巳努は16歳1カ月、節子の声を担当した白石綾乃は5歳11カ月で、共に作品舞台と同じ関西地区の出身者である。清太、節子の母の声を担当した志乃原良子も大阪出身であり、他にも、同じ関西が舞台である高畑勲の作品『じゃりン子チエ』に出演経験のある山口や表淳夫も含めた関西出身の俳優が多数出演しており、通常のアニメで起用されている俳優・声優はほとんど起用されていない。
その他の主な人たち
スタッフ映像制作
製作委員会
音楽挿入歌
その他劇中曲『お山の杉の子』 『あわて床屋』 『あめふり』 『七つの子』 『こいのぼり』 『かたつむり』 『軍艦行進曲』 『出征兵士を送る歌』 スタッフ
イメージアルバム
1987年11月25日にCD(32ATC-158)とLP(25AGL-3054)が徳間ジャパンコミュニケーションズから発売され、1997年4月5日にCD(TKCA-71115)が2022年11月3日(TJJA-10051)にLPが再販されたた。
サウンドトラック集
1988年6月25日にLP(25AGL-3059)とCD(32ATC-166)が徳間ジャパンコミュニケーションズから発売され、1997年4月5日にCD(TKCA-71116)が2022年11月3日にLP(TJJA-10052)が再発された。
賞歴
テレビ放映日本テレビ系列(一部の局を除く)で放送の『金曜ロードショー』で1989年と1990年に2年連続で放送した後、1993年以降は2年に1度(奇数年)[注釈 18]、8月の終戦の日前後[注釈 19]にこの作品を放映していた[注釈 20]。2009年に放送された後、2013年11月22日に高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』公開記念で約4年ぶりに放送された[54]。本作はジブリ唯一の戦争作品[注釈 21]であるため、基本的には8月中に放送されるが、9・11・13回目は8月以外に放送された[注釈 22]。このうち、11回目の放送は11月であり、『かぐや姫の物語』の公開記念という要素以外に特別の理由もなく[55]夏以外の時期に放送された唯一の例外である[注釈 23]。戦後70年にあたる2015年には、終戦の日前後としては6年ぶりとなる8月14日に放送された[56]。3年ぶり13回目の放送である2018年は、4月5日に逝去した高畑の追悼特別番組として同月13日[57][注釈 24]に放映された。高畑の死去以降、追悼放送された13回目の放送を最後に現在まで5年以上放送されていない。 なお、前述の通り、他のジブリ作品とは版権が異なるためか、日本テレビ系列以外のテレビ局でも放送されており、2021年8月にはCS放送局である日本映画専門チャンネルでも本作品が放映されている[58]。 視聴率
反響・評価など原作者の野坂は、映画公開前年に発表した文章「アニメ恐るべし」の中で、「いわゆるアニメの手法で飢えた子供の表情を描き得るものかと、危惧していたのだが、これはまったくぼくの無知のしるし、スケッチをみて、本当におどろいた。(中略)ぼくの舌ったらずな説明を、描き手、監督の想像力が正しく補って、ただ呆然とするばかりであった」とその緻密さに驚き、場所も含めたその描写によって自分が「眼をそむけつづけてきた」過去と「今は、少し正直に向き合っている」と記している[59]。 『となりのトトロ』のような楽しいアニメを見ようと映画館を訪れ、楽しいトトロを見た後に『火垂るの墓』を見て、衝撃を受ける、涙が止まらない、茫然自失で席から立ち上がれない観客が続出したという[60][注釈 26]。当時は入れ替え制ではない映画館が主流であったため、1日中交互に上映されている映画館であれば2本の鑑賞順は観客が自由に選択することができた。ただそれでも時期や時間帯によっては選択の余地がない場合もあり、(『となりのトトロ』→『火垂るの墓』の順で終わる上映に対しては)「上映の順番を逆にしてくれればよかったのに」という声も少なくなかった。実際には『火垂るの墓』→『となりのトトロ』の順で終わる上映も存在していた。 舞台となった西宮市の西宮回生病院、香櫨園浜・夙川駅・夙川公園、ニテコ池(貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川などを、モデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともある[注釈 27]。 日本で「ジブリがいっぱいCOLLECTION」シリーズとして発売されたセルビデオは、40万本を出荷した[61]。海外でも多く視聴されており、英国の映画雑誌『エンパイア』誌が発表した「落ち込む映画ベスト10」の第6位にランクインされた。 黒澤明は『火垂るの墓』を見て感動するが、宮崎駿監督の作品と勘違いしてしまい、宮崎に賞賛の手紙を送っている。受け取った宮崎は複雑な顔をしたという[62]。ただ、一番好きだというわけではなく、最近の作品の中ではよかったということで褒めていたのだと、娘である黒澤和子が語っている。 日本国外ではベネット・ザ・セージのオンラインレビュー[63] を元に高畑勲の悪評も様々なサイトで事実として広められている[64][65][66]。その内容は、高畑がバブル景気で豊かに暮らしてる若者を憎み、反抗行為を罪悪感で捻じ伏せ年長者の言いなりにさせようと戦争時代の苦しみを見せ、全ての責任を若い主人公に被せるよう被害者の野坂昭如を唆しその物語を書換えたなど、ネガティブ・キャンペーンも含んだ個人仮説である。この他、DVDコラムニストのジョシュア・クラインは、本作を子供だけのものと思われがちなアニメを高度な芸術に仕上げた作品であると評しており、また、アニメが生身の俳優を凌ぐ場合もあることを、本作が証明しているのも述べている[67]。 また海外レビューに多くは映画レビューサイト「Rotten Tomatoes」の評価で『火垂るの墓』97%という高評価が多い。[68]一方で「二度と見たくない名作」という声がよく占める。[69] 一方で、反日的な思想特に日本軍に侵略されたアジア人からは「この映画は日本軍の戦争犯罪・侵略などの行為の隠蔽しているように見える」と指摘される。[70] 特に韓国では、他の多くのジブリ作品が上映済みの中、「日本は戦争加害国なのに、戦争被害者を装うための映画だ」として、反日感情の高まりとともに当初2005年の上映予定が無期限延期となり、2014年になってようやく上映された[71]。 関連商品作品本編に関するもの
外部リンク
舞台1995年(平成7)年の10月から11月にかけて戦後50周年特別公演として舞台化された。 キャストほか スタッフ
会場テレビドラマ
終戦60年スペシャルドラマ『火垂るの墓―ほたるのはか―』として2005年(平成17年)11月1日の火曜日21:00 - 23:54に日本テレビ系で放送された。 「ドラマ・コンプレックス」第一弾番組でもある。 撮影は当時の風景を可能な限り再現するために、神戸周辺のみならず日本各地をロケして行われた。視聴率は21.2%を記録した。アニメでは描写されなかった部分(清太達の名字、父親がいかにして戦争に出掛けたか、叔母が清太達を引き取ることになった経緯、清太が通う学校描写)が描かれた。本編のDVDは2006年(平成18年)2月22日発売された。 ドラマ版の製作に当たって、野坂昭如は「ドラマは、原作を離れて自由である。ぼくの小説が戦後60年経った現在、違う形となり、今を生きる人たちに、戦争の惨たらしさを少しでも伝えられれば、原作者として有難いこと」とのメッセージを寄せている。 松嶋菜々子と井上真央は同時期にTBS系列の「金曜ドラマ」枠で放送されていたドラマ『花より男子』でも共演している。 エンディングでは、現在の戦争下の国での子どもたちの笑顔のカットが使われ、「このドラマはフィクションですが、世界中には今も清太や節子のように戦火の中に暮らしている子供たちが数多くいます。」とのメッセージでクローズしている。 2006年12月30日には日本テレビ・静岡第一テレビ・ミヤギテレビ・テレビ新潟・山梨放送・テレビ金沢・青森放送・秋田放送・中京テレビ・読売テレビ・西日本放送・福岡放送・長崎国際テレビ・熊本県民テレビでも再放送された。 キャスト(ドラマ)澤野家
横川家
町の人々
現代
その他
スタッフ(ドラマ)
撮影協力
外部リンク
実写映画
原作者の野坂によると、アニメ映画製作の段階までに何度か実写映画化の企画は存在した[75]。もっとも具体的だったのは、KKベストセラーズ創業者の岩瀬順三によるものだった[75]。岩瀬は、アメリカ・アリゾナ州に戦災を受ける前の神戸の街を再現し、アメリカで保存されている飛行可能なB-29から実際に焼夷弾を投下、出演者には断食をさせて栄養失調を再現するといった壮大なプランを描き、野坂自身も取材をかねてB-29に乗りに行ったりしたが、実現することなく岩瀬は亡くなった[75]。 その後、2000年代になって改めて実写企画が発足し、2008年(平成20年)7月5日に公開された。黒木和雄監督により企画が進行していたが、黒木の死去により、黒木を師と仰ぐ日向寺太郎が監督となった。叔母役の松坂慶子は事実上の悪役ということから一度はオファーを断ったと告白している。 全ての撮影が舞台となる兵庫県内で行われた。池の土手を歩くシーンや池辺で飛び交う蛍をとる印象的なシーンは、西脇市黒田庄町喜多字秋谷口の秋谷池[1] で撮られた。また西脇小学校でも撮影が行われている[76][77]。メイキングのDVDは公開同年の8月8日、本編DVDは翌2009年(平成21年)3月27日発売。 特徴アニメ映画とは異なり、登場人物による回想を廃止し、現在進行形のストーリーに変更している。一部原作でのみ描かれた部分、本作オリジナルの部分も多い[注釈 28]。清太は喘息を持病に持ち、剣道が得意という設定が追加された。原作では駅で亡くなっていたが、実写映画では1人で生きようと雨の中歩いて去っていき、生死不明のまま終わる。 原作やアニメ映画などでは、当初はうまく行っていた叔母の家での共同生活が次第に悪くなる展開だったが、実写映画は最初から最後まで叔母の態度が悪い。「家に置くのを半年前に夫が戦争で戦死し大変なため、一度は追い返そうとするも食料を持っていたことから態度を変えて置く」流れで共同生活が始まっている[注釈 29]。 清太の父の消息(生死)については特に触れられていない。日向寺監督は、「姓名は亡くなった人物にだけ付ければいい」との考えで、作中で亡くなった人物にしか姓名は設定されていない。清太の父は姓名が設定されていないため、生きているのではないかとも言える。 原作、アニメ映画などでは空襲の被災により意識不明のまま亡くなった母を、実写映画では一瞬だけ意識を取り戻し、その後亡くなると言う形へ変更している。これに伴い叔母の家に向かう場面をやや変更し、到着するまでの道順が初めて描写された。今までは最初しか出番がなかった清太の地元の町内会長や西宮に住む原作の登場人物などがクローズアップされオリジナル化されて、あまり描かれなかった清太と他者との交流シーンが大幅に追加されている。同じ野坂の小説『アメリカひじき』では、主人公の回想部で終戦直後の町内会の人々の様子が少し描かれている。 アニメ版、ドラマ版では節子が死んだ際は火葬シーンがあるが、映画では火葬せずに土葬のみとなっている。 キャスト(映画)
スタッフ
外部リンク
漫画化『火垂るの墓』は吉森みきを、滝田ゆうなどにより漫画化されている。
合唱組曲2010年(平成22年)に、新実徳英により混声合唱組曲が作られている[78]。
おもな刊行本
オーケストラ演奏&朗読2023年(令和5年)9月17日に、兵庫県立芸術文化センター KOBELCO(大ホール)にて、オーケストラ演奏と朗読、アニメ映画の静止画像で披露する音楽詩の公演が開催される。公演名「音楽詩『火垂るの墓』 -速水奨&石川由依」 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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