原晋
原 晋(はら すすむ、1967年3月8日 - )は、日本の陸上競技指導者、大学教員、タレント、コメンテーター、評論家、スポーツ解説者、コンサルタント、パネリスト、司会者、元陸上選手、元中国電力営業職員。妻は青学大町田寮・寮母の原美穂[1][2]。 青山学院大学陸上競技部・男子長距離ブロック監督、青山学院大学相模原キャンパス・地球社会共生学部・地球社会共生学科教授[3][4]、関東学生陸上競技連盟・駅伝対策委員長[5]、GMOアスリーツ・元アドバイザー[6][7]、埼玉医科大学・客員教授[8]、スポーツ産業化推進議員連盟・アドバイザリーボード[9]、アディダス・キャンペーンアンバサダー[10]、プロ・フィッツ名誉監督[11]、HLBスポーツ・顧問[12]、バディ企画研究所・社外取締役[13]、アスリートキャリアセンター・会長[14][15](三重県桑名市と連携協定)[16]、日本トライアスロン連合・理事[17][18]、ジョリーグッド・社外取締役[19]、神奈川県相模原市・スポーツ宣伝大臣[20]、熊本県球磨郡水上村・アドバイザー[21]。 2015年正月の第91回東京箱根間往復大学駅伝競走では、青山学院大学の監督として史上初の往復路・総合優勝を果たす。それ以降も同陸上部は箱根駅伝競走で合計8回の総合優勝を達成し、「大学駅伝界の名将」として知られている[22]。それと同時に講演会講師の活動[23][24][25][26][27][28]と、数多くのマスメディア出演等を頻繁に行っている[29][30][31][32][33]。
経歴陸上競技、現役時代瀬戸内の古い港町である広島県三原市糸崎町松浜東の出身[34][35]。小学生の頃から、ソフトボールは4番でピッチャー、相撲は主将と運動万能であった。原が小2の頃、漁港で遊んでいる時に不慮の事故で足を複雑骨折し、長期入院。これを機にリハビリを兼ねて、町内を走るジョギングを始めた。なお、幼馴染みによると、雨の日でも休まずに毎日走っていたそうで、自分で決めた事はやり通す、意志の強い少年だったとのことである。 中学校に入学後、野球部に入部するか迷っていたが、幼稚園から彼を知る近所の同級生からの勧めもあって陸上部に入部し、長距離走を始めた。中学1年生のマラソン大会では上級生を抑えて校内1位になり、中学3年生の県総体1500m競走では2位に入賞した。広島県立世羅高等学校3年生時の1984年には、主将として第35回全国高等学校駅伝競走大会に出場。4区で6人抜きの区間2位と総合2位に貢献した[36](優勝校は報徳学園高校)。 世羅高校OBが陸上競技部の監督を務めていた中京大学に進学し、3年時に日本インカレ5000メートル3位[37]。但し、原曰く「大学時代の1・2年生の頃はパチンコと飲み会に明け暮れてしまい、私が希望した実業団からは門前払いでした」と、中途半端だった旨を明かしている[38]。 1989年、郷里の中国電力(広島県広島市)に入社し、陸上競技部の創設に参加[35]。1993年には主将として、全日本実業団駅伝への初出場にも貢献した。しかし捻挫などの故障が完治せず、さらには監督との軋轢などで成績不振が続いたことにより、入社5年目の1995年に27歳の若さで選手生活を現役引退[38]。 競技引退後は10年間、中国電力でサラリーマン生活を送っていた[35]。同期が本社で活躍する中、配属されたのは支店の下の山口県徳山市(現・周南市)の営業所[34][39]。ここで蓄熱式空調システム「エコアイス」を社内で一番売り上げて評価を上げ、新規事業を立ち上げた[34]。「伝説の営業マン」を自称する[39]。この間、中国電力陸上競技部は坂口泰監督の手腕と有力選手の加入により実業団トップチームへの道を歩む事となった。 青学大陸上部・監督時代箱根駅伝本選へ33年ぶり出場・41年振りシード権獲得箱根駅伝の出走経験はなく、出場校OBではなかったが、36歳の時に母校・世羅高校陸上競技部の2年後輩、青山学院大学陸上競技部OBであり中国放送勤務の瀬戸昇から大学に推薦され[40][41]、2004年に中国電力を突如退職の後、青山学院大学・陸上競技部監督に就任した[42][43]。当初の条件は3年契約の嘱託職員。妻のためにも、ダメになった時は中国電力に籍を置いて出向という形を取れないかという話を親会社に持ち掛けたが、そんな都合のよい話はないといって断られる。そのやりとりが、勤務先である子会社、ハウスプラス中国住宅保証の吉屋文雄社長の耳にも入り、吉屋から「箱根駅伝で出場を狙うのなら、それなりの覚悟がいる。覚悟を示さなければ、部員たちもついてこない。退路を断て。」という言葉をもらい、きっぱり退路を断ち、覚悟を持って3年契約の嘱託職員として監督に就任した[44][45][46][47]。 なお、妻の美穂は仕事を始めたばかりで、突然「中国電力を退社し、青学陸上部監督になって箱根駅伝で優勝を目指す。ついては夫婦で寮に住み込むことになる。」と言われて吃驚仰天、猛反対したという[48]。 青学大・陸上監督就任から間もない頃、駅伝強豪校に行くと「大学は素晴らしいけれど、駅伝は箱根に出ていないでしょう」と断られ、選手のスカウティングには苦労した[35][42]。だが、自身の出身校である世羅高校と出身大学の系列校・中京大中京高校からは継続的に好選手を入部させていった[49]。「箱根駅伝に3年で出場、5年でシード権、10年で優勝争い」と宣言したため、就任3年目の2006年の第82回箱根駅伝予選会での16位惨敗に大学幹部から「話が違う」と責められ、長距離部門も廃部寸前になった時期もあった[34][50]。 迎えた就任5年目の第84回箱根駅伝(2008年)で関東学連選抜の監督としてチームを総合4位に導くと[51]、箱根駅伝出場を目指す大学の強化支援もあって[52]、第85回箱根駅伝(2009年)記念大会に於いては、史上最大のブランクとなる33年ぶりに同陸上部を箱根駅伝出場に導いた(22位)[52][53]。 第86回箱根駅伝(2010年)大会では8位に躍進させ、41年ぶりのシード権獲得をもたらす[54]。 第87回箱根駅伝(2011年)の復路ではアンカーの10区において、青学大を含めた合計4校がゴール直前迄熾烈なシード権争いを展開。結果8位の日本体育大学とは1秒差の9位で、2年連続でシード権獲得となった(10位は3秒差に國學院大学、11位に國學院大から僅か3秒の差で遅れた城西大学がシード権落選となった)[55]。 第88回箱根駅伝(2012年)では、往路・復路共に7位ながら青学大として当時最高位となる総合5位に入った。2012年10月、第24回出雲駅伝では青山学院大学として「大学三大駅伝」において、初めての総合優勝を達成する[56][57]。 第89回箱根駅伝(2013年)でも初優勝が期待された。だが、往路は6位だったものの復路では9位に下がって総合8位に終わり、箱根駅伝初制覇はならなかった。2013年10月の第25回出雲駅伝は5位、同年11月の第45回全日本大学駅伝は6位に終わった。 2014年1月の第90回箱根駅伝では往路5位・復路6位の総合5位と、前々回と同じ最高順位タイに留まった。続く同年11月の第46回全日本大学駅伝は明治大学との2位争いに敗れ、3位だった(2014年10月の第26回出雲駅伝は平成26年台風第19号の接近による影響で開催中止)。 第91回箱根駅伝・総合初優勝、第92回箱根駅伝・総合2連覇達成2015年1月の第91回箱根駅伝では往路・復路共に首位でゴールインし、青山学院大として念願だった史上初めての箱根駅伝・総合優勝へついに導いた[39][58]。 この箱根駅伝初制覇を機会に、原は自らタレントとしてテレビや新聞などを媒体としたマスコミ陣営への登場を急増させる事と成る[59][60]。 2015年10月に第27回出雲駅伝で3年ぶり2回目の優勝も、同年11月は第47回全日本大学駅伝では、優勝した東洋大学とは1分2秒差の2位に終わる。 2016年1月の第92回箱根駅伝では、2年連続して往路・復路共に首位でフィニッシュ、完全優勝に導いた[61][62]。同年2月、原は箱根駅伝優勝メンバーと共に首相官邸へ出向き、安倍晋三内閣総理大臣より表敬を受けている[63]。 青学大在学中の2選手が東京マラソン2016で大健闘・リオ五輪候補へ2016年2月のリオデジャネイロ五輪・男子マラソン選考会を兼ねた東京マラソン2016では、日本有力選手が相次いで優勝争いから脱落する中、当時・青学大2年生の下田裕太が10代マラソン日本記録を更新する2時間11分34秒で総合10位(日本人2着)、青学3年生の一色恭志も11秒遅れの2時間11分45秒で総合11位(日本人3着)と2選手共に大健闘。ゴール後の原は「特に下田はリオ五輪・男子マラソン日本代表の最有力候補ですよ。彼の伸び代は120%、200%有るし将来性も計り知れません。4年後の2020年東京五輪を見据えて、下田をリオ五輪に必ず選出するべきです」と監督自ら猛烈にアピール[64][65]。然し下田・一色揃ってリオ五輪マラソン代表は落選した事に、日本陸連の強化委員会へ対して「信頼が置けない」と憤慨しながらコメントした[66]。 2016年10月、第28回出雲駅伝で2年連続3回目の優勝を皮切りに、同年11月の第48回全日本大学駅伝でも同大会初優勝。 第93回箱根駅伝・総合3連覇、及び三大駅伝完全制覇2017年1月の第93回箱根駅伝で完全優勝による3連覇と、青学大としても歴代初の「大学駅伝三冠」を達成する[67]。さらに同年3月には、サプライズ・特別ゲストとして東京都内の自民党大会に出席、昨年2月に引き続き安倍首相と対面し笑顔で握手を交わしていた[68]。2017年4月、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科・トップスポーツマネジメントコース(修士課程1年制)に入学。だが2017年10月の第29回出雲駅伝は2位、同年11月の第49回全日本大学駅伝も3位に終わり、2年連続の大学駅伝3冠は成らなかった。 第94回箱根駅伝・史上4校目の総合4連覇成就2018年1月の第94回箱根駅伝では往路でも東洋大に先を越され、36秒差で往路2位と4年連続での箱根駅伝・往路優勝を逃す[69]。それでも、復路6区で東洋大を逆転して以降は完全独走となり、結果日本大学(1935年 - 1938年)・順天堂大学(1986年 - 1989年)・駒澤大学(2002年 - 2005年)と並び、史上4校目の箱根駅伝・総合4連覇を成就した[70]。 2018年3月、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科卒業[71]。2018年10月の第30回出雲駅伝で2年ぶり4回目[72]、及び同年11月の第50回全日本大学駅伝でも2年振り2回目の優勝をそれぞれ達成[73]。 第95回箱根駅伝・総合5連覇ならず2019年1月の第95回箱根駅伝では、中央大学(6連覇・1959年 - 1964年)と日本体育大学(5連覇・1969年 - 1973年)に引き続く、史上3校目の総合5連覇と及び2年振り2回目の大学駅伝3冠が期待された。往路の2区は8位と出遅れたものの、3区で一時は首位に立った。ところが4区では2年連続で往路優勝の東洋大と、同回において箱根駅伝・総合初制覇を達成した東海大学に追い抜かれて3位に落ち、5区の山登りでも竹石尚人が大ブレーキとなり3校(國學院大・駒澤大・法政大)に次々かわされてしまう。青学大は往路6位に沈み、往路首位の東洋大はと5分30秒の差、往路2位・東海大にも4分14秒差をつけられる厳しい状況となり[74]、まさかの展開に原は往路終了後渋い表情を浮かべた[75][76]。翌日の復路では奇跡の大逆転を目指して、6区の山下りで5位、7区でも2校追い越し3位に浮上。最終10区では東洋大にも逆転して総合2位へ上昇、結果5年連続での復路優勝は果たしたが[77]、総合優勝の東海大とは3分41秒の差で、青学大の箱根駅伝総合連覇は「4」でストップとなった[78]。 同年4月より、青山学院大地球社会共生学部・地球社会共生学科の大学教授に就任[79]。 青学大OBが2019年MGC・3名出場、東京五輪代表実らず2019年2月の別府大分毎日マラソンでは、昨年同様に2年連続でセンターゲスト解説として生実況を担当。かつて青学大時代の教え子だった橋本崚(GMOアスリーツ)が、総合5位(日本人2着)ながら2時間9分台の好記録でゴール、更に青学大出身者では初めてマラソングランドチャンピオンシップ(MGC・東京五輪男子マラソン選考会)獲得を達成。その快挙に「橋本の故郷・大分県の皆様の声援が、彼の大きな力になった事でしょう。応援有難う御座います」と大いに喜び感謝の言葉を述べつつ、「ほか原軍団の卒業生も橋本に続けろよ!お前達ならば出来るぞ!!」と青学OBらに対し奮起を促している[80]。 2019年3月の東京マラソン2019でも、青学大出身の藤川拓也(中国電力)と神野大地(プロランナー・セルソース所属)の2人追加してMGC出場権を獲得。青学大OBとしては、東洋大・駒澤大出身者と並ぶ3選手がMGCの出場を果たし、同マラソンに応援へ駆けつけた原は「青学大は箱根駅伝だけではないことを証明してくれた」と手放しで喜びを表していた[81]。更に同年4月のハンブルクマラソンでは、一色恭志(GMOアスリーツ)もワイルドカードでMGC出場権獲得、此れで青学大OBのMGC出走予定選手は合計4人と成った[82][83][84]。 2019年9月15日開催のMGC本番レースでの青学出身者は、一色が調整不足による欠場の為に3選手(橋本・藤川・神野)が出走となる[85]。結果は終盤まで優勝争いに加わっていた橋本の5位が最高順位で、神野は17位・藤川も24位と、青学OBからの東京五輪男子マラソン日本代表選出はならなかった[86]。 第96回箱根駅伝・2年ぶり5回目の総合優勝達成2019年10月14日開催の第31回出雲駅伝では5位[87][88]、同年11月3日開催の第51回全日本大学駅伝でも2位[89][90]と、両駅伝共に昨年に続く2連覇を逃した。それでも、11月9日のイベント「青トレコンディショニング」に出席時の原は「箱根駅伝ではやはり『山登り』と『山下り』だが、其処にようやく光が見えてきた。後は冷静に走れれば再び優勝も狙える」と、自信に満ちたコメントを述べている[91]。 2020年1月2日開催の第96回箱根駅伝・往路は、最初の1区で7位とやや出遅れたが、2区のルーキー・岸本大紀で首位に立つ。3区では2位に下がるも、4区では吉田祐也の区間新記録達成で再び首位に。5区の山登り区間も無難な走りで、青学大チームとしては3年ぶり4度目の往路優勝、及び5時間21分16秒の往路大会新記録を達成[92]。翌1月3日の復路でも、6区の山下り区間から最後の10区まで一度も首位を譲らずに独走状態のまま、2年振り5度目の総合優勝、及び10時間45分23秒の大会新記録で圧倒的な勝利を成し遂げた(ただし復路優勝は東海大に譲り、わずか20秒差で復路6連覇は逃した)[93]。 新型コロナウイルス感染拡大による公式レースの中止・規模縮小2020年2月、新型コロナウイルス・感染症拡大の影響により、同年3月15日に開催予定だった青学大の「箱根駅伝祝勝会」が中止された[94]。それについて原は、ワイドショー番組で「ウチの学生達は常に意識が高いので、今迄に16年間も箱根(駅伝)に挑戦しましたが、インフルエンザやノロウイルスの集団感染は一度も有りません。それだけ意識を持ちつつ、(コロナ)ウイルスを勉強して対策すれば、人間の抵抗力は有る程度強いので全く感染しないんです」と胸を張りつつ、「寮生活はだめ、クラブ活動もダメと言い張って大人の固定観念だけで言い訳し続ける、無責任な指導者が多いのですよ」と非難している[95][96]。さらには自身のTwitter等において、「国難の中どの世代に目線を置き施策を考える!? 私は若者だと思う。教育活動も課外活動も全てストップ。高々スポーツが…と言う人も居るであろうが、今後の日本を背負う若者がスポーツを通じて、人格形成を養う大切な徳育の場が失われる事が有っていいものか??」等と疑問視している[97]。 2020年7月、同年10月11日に決行予定だった第32回出雲駅伝が中止を検討していると報道に関して、原は「毎年島根県へ行く度に『お帰り』『感動有難う』『いつも生きる勇気頂いてる』と、多くの出雲市民様から温かく迎えて下さっている。選手達は規則正しい生活をし日々練習に励んでいる。なんとか実現を!」と述べた[98]。しかし結局、当回出雲駅伝は同年7月27日に正式中止が公表された事に、「大変に残念。多くの若者がチャレンジの機会を失っている。今後は学生達に是非ともチャンスを与える場を設けるべきだ」「出雲駅伝はコロナ禍でボランティアが足りないとの理由だが、幾らでも簡素化できた筈。余裕が無くても最低限で運営出来るやり方は絶対に有る。新型コロナウイルスを必要以上に恐れ過ぎて『100%安全確保』を言い出したら、いつまで経っても大会は断念せざるを得ない。良い意味での適当さが今の日本に必要不可欠だ」と、箱根駅伝を始めとする公式レースの開催復活を熱望し続けている[99][100][101]。さらに、2020年10月4日開催予定の「第1回奥球磨駅伝」(熊本県球磨郡・多良木町役場発着)も1年延期となった[102]。 2020年9月20日、第97回箱根駅伝(翌2021年1月2日・3日)が「無観客試合」で開催する事を公表[103]。これに関して原は、「多くのスポーツイベントが中止される中、特に大学4年生らは凛とした態度でチームを引っ張った事に、指導者として誇りに思います。学生達に箱根駅伝を走るチャンスを与えてくれて嬉しい」と笑顔を見せていた。但し、関東学連から「感染状況や今後の社会情勢の変化等で、大会中止の可能性も有る」と言及した事については、「今回は沿道観戦に来ないように自粛し、テレビでの応援に協力して貰いたい」[104]「学生達を沢山預かる立場として、いつ我々も感染するか分からない。政治家の皆様は『気の緩み』と国民に責任を押し付けてる気がするので、誰もが安心出来る医療の整備体制を作って頂きたい」[105]等と述べている。 第97回箱根駅伝・再び総合優勝を逃す一時は中止が危ぶまれながらも開催された2020年11月1日の第52回全日本大学駅伝[106]では、7区で暫定首位に立つも、アンカー・8区で後続の選手に次々と追い抜かれ、4位留まりだった[107][108]。 2年連続6回目の総合優勝を目指した2021年1月の第97回箱根駅伝では、往路1区は6位発進だったが、2区で13位・3区も11位各通過と後手に回る。4区の1年生・佐藤一世の区間4位で10位通過へ浮上したが、5区山登りでは実質5年生(1年留年)の竹石尚人が4度も足の痙攣による立ち止まりで、区間17位と大ブレーキとなってしまう。青学大はシード権外の往路12位と大きく出遅れ、往路首位の創価大と7分35秒、往路2位・東洋大は5分21秒、往路3位・駒澤大も5分14秒の大差をそれぞれつけられ、よもやの展開に原自ら「ゲームオーバー」と、当回の総合優勝は絶望的となった[109][110][111]。翌日の復路では6区山下りで10位、7区で7位、8区で5位各通過と徐々に順位を上げていった。9区では東海大を追い越し4位通過に浮上、10区では東洋大を追い越し一旦3位に浮上したが、ゴール手前で東洋大に再逆転されてしまい、結局総合優勝の駒澤大とは5分12秒の差で総合4位に留まる(青学大は2年振り6回目の復路優勝を達成、2秒の僅差で駒澤大が復路2位)。これにより、2013年度以来7年ぶりに「大学三大駅伝」の制覇を逃した[112][113][114]。 2021年3月5日、競技人口拡大など目的とした一般社団法人活動の一環で、クラブチームを創設した事を公表した。チーム名は「絆ランニング倶楽部」で、市民ランナーや実業団選手のセカンドキャリアをサポートする方針で活動すると共に、毎年元日開催の全日本実業団対抗(ニューイヤー)駅伝への初出場をも目指す予定である[115][116]。 第98回箱根駅伝・2年ぶり6回目の総合優勝達成2年振りに実施となった、2021年10月10日決行の第33回出雲駅伝では1位・東京国際大に1分57秒差をつけられ2位[117][118]、同年11月7日決行の第53回全日本大学駅伝でも優勝・駒澤大学に僅か8秒差の2位[119][120]に留まった。それでも同年12月17日、箱根駅伝に向けて壮行会の場で原は「青学大としては史上過去最高の状態に仕上がっています。『パワフル大作戦』、一緒に断行していきましょう!」と強い自信をのぞかせていた[121][122]。 2022年1月の第98回箱根駅伝では、往路1区は5位、2区で2位の通過だったが、3区のルーキー・太田蒼生が区間2位(1年生としては歴代最速)の好走でついに首位通過へ。4区に当時の主将・飯田貴之と、5区山登りも1年生・若林宏樹が2人共に区間3位の安定した走りで、青学大は2年ぶり5度目の往路優勝(往路記録・5時間22分06秒)を成し遂げる[123]。翌1月3日の復路も、6区山下りから最後のアンカーまで完全無欠の独走状態、特に7区・岸本大紀、9区・中村唯翔、10区・中倉啓敦の3年生トリオが区間賞(中村と中倉は区間新記録樹立)の大活躍で、青学大は2年振り6回目の総合優勝返り咲きと、更に10時間43分42秒の大会新記録で往路・復路共に完全勝利をも達成した[124][125]。優勝フィニッシュ後の原は、自らTVカメラに向い満面の笑顔でガッツポーズ[126]、更に部員達から歓喜の胴上げをされていた[127]。 2022年4月1日、新型コロナウイルス感染防止として3回目のワクチン接種を勧告する政府広報のCM出演へ、元サッカー日本代表の内田篤人に引き続き放送された[128]。 第99回箱根駅伝・総合3位で連覇に届かず、9年ぶりの無冠2022年10月10日開催の第34回出雲駅伝では優勝した駒澤大、2位・國學院大、3位・中央大に遅れを取り、1分46秒差の4位[129][130]。 同年11月6日の第54回全日本大学駅伝では、1区こそ2位で通過したものの2区でトップと2分11秒差の13位に後退し、早くも優勝に黄信号が灯る。ただその後は怒涛の追い上げを見せ、7区では2分27秒差の2位まで浮上。しかし8区の15km過ぎで3位・國學院大に抜かされてしまい、ゴール直前では4位・順大に猛迫されたが辛うじて1秒差で振り切った。だが3連覇を果たした駒澤大には3分58秒の大差をつけられてしまった[131][132]。 2023年1月の第99回箱根駅伝は、往路で1区が7位発進。2区は4年生エース・近藤幸太郎が区間2位で3位に浮上。3区も3位通過、4区は2年生・太田蒼生が区間2位(歴代3位)の記録で、1位・駒澤大と1秒の僅差で2位へ順位を上げた。だが、5区山登りの出走予定だった若林が体調不良により、本来6区に出走予定だった4年生・脇田幸太朗へ変更。しかし2km手前から駒澤大・山川拓馬に抜け出されると、4km過ぎには中央大・阿部陽樹にもかわされる。脇田は下りに入ってから立て直したものの区間9位に終わり、青学大は往路3位ながら往路優勝の駒澤大と2分03秒、往路2位・中央大とは1分33秒差で原曰く「危険水域を超えた」と総合優勝に危機感を募らせつつ、「でも最後まで諦めない」と復路での逆転に望みを掛けた[133][134]。 ところが翌日の復路は、6区山下りで4年生・西川魁星が序盤からペースが全く上がらず、早大・國學院大・法政大・創価大に次々追い越され、7位まで転落。レース後半で西川はフラフラの状態ながら辛うじて襷を繋いだが、まさかの区間最下位と大ブレーキで1位・駒澤大と7分4秒もの大差をつけられ、青学大は2年連続7回目の総合優勝が絶望的となってしまう[135][136]。続く7区の佐藤一世も順大・浅井皓貴に抜きさられ8位に後退、8区の田中悠登は3km手前で12秒前の法政大と順大の6位集団に追いついたが、14km手前で再び差をつけられ結局順位を上げられず。それでも9区・岸本大紀が唯一の区間賞で5校を追い抜き、3位まで浮上。しかし前回10区で区間記録を打ち立てた中倉は区間7位と振るわず、先頭の青柿響(駒澤大)に差を41秒広げられてしまう。結局青学大は総合優勝の駒澤大と7分14秒の大差で、総合3位(往路3位、復路9位)と表彰台を守るのが精一杯。また、第90回大会以来9年ぶりに総合・往路・復路のいずれも首位を逃しての無冠で終わった。当回駅伝終了後記者陣に対し「人生いろいろ、箱根も色々。箱根駅伝には登り坂、下り坂、『まさか』の坂が有りますが、その2ピースが上手くハマりませんでした」と微笑みつつ総括した[137][138][139]。 青学大生が第71回別府大分マラソンで当時の学生記録を更新2023年2月5日、2024年パリ五輪男子マラソン・2023年MGC出場権選考会を兼ねた第71回別府大分毎日マラソンでは、当時青学大4年生だった横田俊吾が、従来の藤原正和(中央大学卒業・現中大陸上部監督)が持つ学生男子マラソン日本記録を、20年振りに25秒更新する2時間07分47秒で総合4位(日本人2着)でフィニッシュ。当大会にて実況解説者を務めた原はゴール後、教え子の横田と共に「大アッパレ。よこたっきゅう(横田の愛称)、全開です!」等とTVカメラに向ってVサインしていた[140][141]。 青学大OBが2023年MGC・7名出場、パリ五輪代表成らず2024年パリ五輪男子マラソン・2023年MGC出場権選考会の有資格者は67選手で、そのうち青学大出身者は合計7名(神野大地・吉田祐也・下田裕太・中村祐紀・橋本崚・横田俊吾・飯田貴之)と、駒澤大OBの7人と並び最多タイとなる。原は「大事なのはここから。パリ五輪を目指して果敢に挑戦して欲しい」とエールを送った[142]。 しかし、期待された2023年10月15日開催のMGC男子本番レース(パリ五輪選考会)は強い冷雨が降り続く悪条件の中、結局横田の30位が青学OBでの最高順位に終わり、ほか飯田38位・橋本43位・下田45位・吉田50位・中村52位・神野56位(完走者最下位)と、青学出身者は20位以内にゴール成らずの惨敗だった[143]。 第100回箱根駅伝・2年ぶり7回目の総合優勝2023年10月9日の第35回出雲駅伝は駒澤大に2連覇を許し、創価大・城西大・國學院大に次いでの5位だった[144]。しかし当初総合2位だった創価大学のリーキー・カミナが、同9月の日本インカレ5000m終了後にドーピング検査で違反薬物が検出されて抹消、青学大の順位が4位に繰り上がった[145]。同年11月5日の第55回全日本大学駅伝でも、駒澤大に1区から先行されたまま3分34秒差で4連覇を成し遂げられ、アンカー区間は3位・國學院大と4位・中央大にゴール手前迄争って僅差の2位に甘んじた[146][147][148]。 2024年1月の第100回箱根駅伝では、往路1区は9位とやや出遅れるも、2区は黒田朝日が7校を追い抜き区間賞の快走で、暫定首位の駒澤大学とは22秒の差まで短縮。そして3区では太田蒼生が駒澤大・佐藤圭汰に追い付いた後デッドヒートを繰り広げ、終盤で突き放し逆転に成功。さらに4区・佐藤一世も青学大チームとして3人連続の区間賞を獲得、5区山登りは雨天の中若林宏樹が区間2位の好走で、青学大は2年ぶり6度目の往路優勝(往路記録・5時間18分13秒)を達成[149]。翌1月3日の復路も青学大チームは、往路2位の駒澤大学と大きく差を広げ、8区・塩出翔太と9区・倉本玄太の2人連続して区間賞を受賞などで完全独走に。結果青学大チームは、2年振り7度目の箱根駅伝総合優勝(復路も2年振り8度目の優勝)に返り咲き、さらに10時間41分25秒と大会記録をも更新した[150]。優勝インタビューの原は「箱根駅伝100年、青山学院創立150年、そして私の監督就任が20年目という節目のタイミングで優勝させて頂き大学関係者を始め、特に妻の美穂に支えられ迎えられた事を嬉しく思う」[151]「私自身20年間の『原メソッド』を体系化させた基本軸が有るからこそ、年末のトレーニングを柔軟に対応しながら、大会新記録で優勝することが出来ました!」と、TVカメラに向い人差し指でNo.1ポーズを作りながら屈託ない笑顔を浮かべていた[152]。 タレント・コメンテーターの活動について原は現在、評論家・コメンテーター・タレントとして、テレビ番組やスポーツ新聞等でも積極的に活動している。原曰く、「出過ぎた杭は絶対に打たれない」[153][154]「周囲の空気を読めずに発言出来る人を育成」[155]をモットーに、「陸上競技以外の話題に関してはあくまでも素人だが、常日頃から『おかしい』と大変疑問に感じる事が沢山有る。日本の将来の為に、今後は是非とも思い切った改革をするべき」などと、メディアを通じて独自の意見で提言や苦言・持論展開を述べ続けている[156][157]。 その一方では、原が自ら「政治家への転身」[158][159][160]及び「高校野球の監督就任」[161][162]へのオファーを、以前から受け続けている事を肯定していた[163]。 発言・エピソードなど2016年
2018年
2019年
2020年
2021年
2023年
2024年
駅伝大会スローガン・大作戦名
テレビ出演歴NHK総合・Eテレビ系列
日本テレビ(NNN)系列
テレビ朝日(ANN)系列
TBS(JNN)系列
テレビ東京(TXN)系列
フジテレビ(FNN)系列
日本BS放送
CM
ラジオ出演歴
舞台著書
関連人物脚注
参考文献・外部リンク
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