喜界島
喜界島(きかいじま)は、鹿児島県の離島で、鹿児島市と沖縄本島の間に連なる奄美群島内で最も北東部に位置する。鹿児島県大島郡喜界町に属し、人口は7千人弱。 地理喜界島は奄美群島内で最も鹿児島市に近いが、同市から約380km離れておりプロペラ旅客機で1時間、フェリーで11時間かかる。行政や経済等については喜界町を参照。 奄美大島に近い東の沖約20kmの、東経130度線(島の中央よりも東寄りでε形の複雑な入江に面した早町集落と北側の小野津集落(海岸近くに位置を示すモニュメントあり)を通っており、真北に長崎市がある)上に位置している。東側の沖にはフィリピン海プレートが沈み込む位置に深い琉球海溝があるが、喜界島は珊瑚礁に囲まれており、景観の良さから百之台、阿伝集落、トンビ崎海岸、荒木海岸などが奄美群島国立公園に指定されている[1]。 隆起性サンゴ礁の島で、全島ほとんどがサンゴを起源とする石灰岩で出来ている。フィリピン海プレートの潜り込みによって約12万年前に海底から島として現れたと見られ、現在もプレートの影響を受けて年間約2mmという高速で隆起を続けている。海岸段丘など、低い丘陵地が多い。 自然オオゴマダラ、アサギマダラなどの蝶が舞い飛び、近年はスクーバダイビングやホエールウォッチング[2]などのマリンレジャーのスポットとしても注目されつつある。 サトウキビ畑などの開発が進んでいるため、手付かずの山林が少なく、原生林が残る奄美大島などと比べると固有の動植物が少ないが、カタツムリや昆虫などに固有種が見つかっている。 ハブは生息していない。
歴史喜界島南部の先山遺跡[6]から、約6000年前の縄文時代前期にあたる条痕文土器などが出土しており、その頃から島に人が定住していたとされる。 古代(平安時代)には大宰府と密接に繋がっていたことが、文献上記録されている。『日本紀略』長徳4年(998年)の記述として、大宰府が貴駕島(喜界島)に対して、暴れ回っている南蛮人を捕えるように命じている(南蛮賊)。ここで記述されている「南蛮人」とは、西に位置する奄美大島の島民を指しているものと『小右記』長徳3年(997年)の記述から判断されている。また、長徳5年(999年)に大宰府が朝廷に対して、南蛮人を追討したと報告しているが奄美群島の中心部から離れた喜界島に拠点が設けられたのは、島に有毒のハブが棲息していないことが理由の一つではないかと見られている。 9世紀から15世紀にわたる城久遺跡群からも、白磁器や徳之島カムィ焼土器など、島外の遺物が多く、南西諸島の中でも独自性が強いとされる[7]。最近の調査では12世紀の製鉄炉跡も多数発見された[8]。 江戸時代に薩摩藩重臣にあて『薩摩経緯記』を著した佐藤信淵は、喜界島・屋久島・種子島の島民気質について「豊かになろうと心がける気持ちが弱く、産業に励む者は希」としつつも、島の経営方針について「島民は愚昧であるが誠実をもって教化し、よく島民に勉強を勧めて物産を多く産出させるべき」と説いている[9]。 1853年にマシュー・ペリーが日本に到来した際に喜界島を「クレオパトラ・アイランド」と名付けたとして地元の観光業などがPRしていたが、2000年に文献が再検討された結果、喜界島は「バンガロー・アイランド」と名付けられていたことが判明した(「クレオパトラ・アイランド」は十島村の横当島、上ノ根島ではないかとされる)。 平安時代から中世にかけて流罪の島として存在した鬼界ヶ島をこの島に比定する説が古くから唱えられているが、喜界島は『平家物語』に記述された様な火山島でなく高山もないなど記述との齟齬があることから硫黄島とする説も有力視されており疑問が多いが、島内には『平家物語』において鬼界ヶ島に流された逸話で知られている俊寛の像が建てられている。江戸時代には薩摩藩の遠島先の一つとして確かに使われている。 沿革
産業
文化言語→詳細は「喜界島方言」を参照
喜界語は、国際SILでは、琉球語の中の喜界島方言とひとまとめにされてKZGというコードが与えられているが、現地調査に基づけば、主に母音などの音韻的特徴から北部喜界島方言(小野津、志戸桶など)は奄美大島方言、徳之島方言とならぶ北奄美方言に属すが、南部喜界島方言(湾、阿伝、上嘉鉄など)は沖永良部島方言、与論島方言とならぶ沖永良部与論沖縄北部諸方言に属すとする説[17]が有力である。北部喜界島方言には中舌母音2種があり、母音は7種(i、ɪ、u、e、ɘ、o、a)であるが、南部喜界島方言では5種(i、u、e、o、a)である。本土の単母音の[e]は[ɪ]に、単母音の[o]は[u]に対応し、[e]、[o]、[ɘ]はそれぞれ [ai]、[au]、[ae] など、母音の連続(連母音)から変化した例が多い。また、北部喜界島方言ではハ行の子音が [p](パ行音)または [ ɸ ](ファ行音)と対応する例が多いが、南部喜界島方言ではハ行音である(例:蝿は北部で [peː]、南部で [heː])。北部喜界島方言ではツ、ヅの音が[ tsu ]、[ dzu]である例が多いが、南部喜界島方言ではトゥ [tu]、ドゥ [du] と対応する例が多く、キの音が南部喜界島方言ではチ [ tɕi]と対応する例が多いが、北部喜界島方言ではキ [ki]である(例:傷は北部でキズ [kidzu]、南部で チドゥ [tɕidu] など[18])。これらの各音韻の違いの境界線は一致しておらず、アクセントの違いを含め、島内各集落間でグラデーションのように徐々に異なっている。カの音がハ [ha](または [ xa])となる例は、全島共通している(例:金は北部でハネィ [hanɪ]、南部でハニ [hani])。 音楽食文化→詳細は「奄美料理」を参照
建造物台風の被害を避けるため、珊瑚礁の石を使った石垣が民家の周りに作られた。また、アカテツの木も防風林として集落に植えられた。 水源に乏しい土地のため、横穴式斜面井戸が掘られ「ウリガー」「ウリハー」(降り川)と呼ばれた。近年は農業に利用するための地下ダムが多く作られている。水位を肉眼で見ることができる国内唯一の地下ダムもある。 第二次世界大戦時に戦闘機を格納するための掩体壕(えんたいごう)が数多く作られた。湾集落には現在も残されている。 宗教祖霊信仰、自然崇拝が主で、女司祭ノロによる祭礼が行われていた。民間では巫女であるユタに霊的に各種問題の解決、判断を依頼していた。 葬法に関しては、琉球王国とも共通する風葬の風習が中世から20世紀まではあった。1966年に火葬場ができてからは全て火葬に代わっている。崖下に喪屋(ムヤ)と呼ばれる横穴墓を掘り、そこに遺体を安置する[19]。 その他19世紀末から20世紀初頭も首里など、沖縄本島からの文化移入は盛んで、泡盛の製法、赤土を使った陶器の窯などの技術が移入されている。現在島内には純黒糖と米麹を原料とする奄美黒糖焼酎の蔵元が二社ある。 交通空路現状、上記の便に乗り継ぐため、まず、鹿児島行または奄美行の便を利用することになるが、 喜界島での滞在時間を有効に使うためには、 午前中に鹿児島空港に着く便を使うと良い。 奄美空港での乗り継ぎは、当日中にできない場合も多く、奄美大島に1泊してから喜界島入りするか、名瀬港まで移動して、夜遅い船に乗ることになるためである。 道路航路
江戸時代元禄年間は、奄美大島との間は、笠利の節田と湾泊の間で渡しが行なわれていた。 路線バス
観光奄美群島では与論島、沖永良部島と並んでハブがいない島である。
その他
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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