シャビエル・アロンソ・オラーノ (Xabier Alonso Olano, バスク語: [ˈʃaβi aˈlons̺o oˈlano] , スペイン語: [ˈ(t)ʃaβj aˈlonso oˈlano] ; 1981年 11月25日 - ) は、スペイン ・バスク州 ギプスコア県 トロサ 出身の元サッカー選手 、現サッカー指導者。ブンデスリーガ ・バイエル・レバークーゼン の監督を務める。現役時代のポジションはミッドフィールダー 。元スペイン代表 。
元スペイン代表でもある父のペリコ・アロンソ は80年代にリーガ2連覇を達成したレアル・ソシエダ のスター選手で、兄のミケル・アロンソ もレアル・ソシエダに所属したサッカー選手である。
クラブ経歴
レアル・ソシエダ
幼少期に6年間バルセロナ で過ごした後、サン・セバスティアン へと移った。サン・セバスティアンのビーチ、ラ・コンチャでミケル・アルテタ らと遊ぶうちにテクニックを身に付けた[ 2] 。
サン・セバスティアンの育成の名門アンティグオコ (英語版 ) で才能を見せ、レアル・ソシエダ の下部組織へと入団。1997年にレンタル先のエイバルでデビュー。2部リーグでのプレーだったが多くの出場機会を与えられプレーメーカーとしての能力を磨くと、再びレンタルでエイバルに放出された2001-02シーズンを機にレギュラーの座を確保した。2001年11月17日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ 戦でプロ初ゴールを決めた[ 3] 。
2002-03シーズン開幕当初、2部降格候補の一角でしかなかったレアルの中で、アロンソは期待の一若手に過ぎなかったが、レイノー・ドヌエ 監督の下ラ・レアルは大躍進。アロンソは非常に正確なパスで攻撃を自由自在に操り、4月13日、第29節のレアル・マドリード戦でゴールを決めて勝利するなど[ 3] 、終わってみればシーズンを2位で終える成功を収め[ 4] 、UEFAチャンピオンズリーグ 出場権を獲得する原動力となった。そして、その年のドン・バロン・アワード ・最優秀スペイン人選手に選ばれた。
翌の2003-04シーズンは、リーガ・エスパニョーラ とチャンピオンズリーグに並行して出場するという「二足のわらじ」が足枷となり、リーガでは2002-03シーズンと比べると明らかに見劣りする12位という結果に終わったが、チャンピオンズリーグではチームをベスト16に引き上げる原動力になった。
リヴァプール
レアル・マドリード やリヴァプールFC など、数々のクラブが彼を獲得しようと動いた。本人は残留の意を表していたが、クラブ側の都合で放出されることが決定し、ラファエル・ベニテス が指揮を執ることとなったリヴァプールに1600万ユーロ で移籍する決意をする。アロンソ本人は、過去バレンシア で2度のリーグ優勝や1度のUEFAカップ 制覇を遂げたベニテス監督の下で指導を受けたかったという。
移籍1年目の2004-05シーズン、ボルトン・ワンダラーズFC 戦にてプレミアリーグ デビューを果たすと、1-0で破れはしたもののアロンソはパスの技術をメディアから賞賛された[ 5] 。フラム 戦では、2得点を奪われた状態で折り返した後半から途中出場すると、フリーキック からリヴァプールでの初ゴールを記録[ 3] 。その試合、リヴァプールは後半4得点を挙げて逆転勝利した[ 6] 。また11月28日のアーセナルFC 戦においても、ペナルティエリア外から右足を振りぬき、ゴールに突き刺さる見事な先制ゴールを決め勝利に貢献した[ 7] 。元日のチェルシーFC 戦でフランク・ランパード にタックルを受け、左足首を骨折した。全治5カ月で戦線離脱を余儀なくされるが、驚異的な回復力を見せシーズン終盤に復帰。チャンピオンズリーグでは決勝に出場し、決勝のACミラン 戦ではPKのこぼれ球を押し込む同点ゴールを挙げ[ 3] 、チームの逆転優勝に貢献した。
2005-06シーズン、1月7日に行われたFAカップ 3回戦、ルートン・タウンFC 戦では、ロングシュートで2ゴールを挙げたが[ 3] 、自陣から60ヤード 強のロングシュートを決めたゴールは[ 8] [ 9] 。この試合、アロンソが自陣からゴールを決めることに200スターリング・ポンド を賭けていたリヴァプールファンがこのゴールで25,000ポンドを得た[ 10] 。ウェストハム・ユナイテッドFC とのFAカップ決勝でもフリーキックからスティーヴン・ジェラード の同点ゴールをアシストし、タイトル獲得に貢献。また、2006-07シーズン、9月20日、第2節のニューカッスル・ユナイテッドFC 戦でも70ヤードのロングシュートを記録、このゴールはBBC から「常軌を逸した」と表現され[ 11] 、インデペンデント 紙からはクラブ史に残るゴールの一つと評された[ 12] 。
リヴァプールで同僚のディルク・カイト (2007年4月)
2007-08シーズン初めは、怪我によるジェラードの不在のため、本来の位置よりも前のポジションでプレー。6-0で勝利したダービー 戦では2ゴールを挙げた[ 13] 。ポーツマス戦で軽傷を負ってしまい、更にその後のトレーニングで悪化。6週間の離脱を余儀なくされた[ 14] 。2007年の終わりに怪我から復帰したが、その後の数ヶ月間はハビエル・マスチェラーノ 、ルーカス・レイヴァ らとの激しいポジション争いが続いた[ 15] 。2008年1月12日、ミドルズブラFC との試合でリヴァプール100試合出場を達成した。
2008年の夏の移籍市場では、中盤の補強を進めるユヴェントスFC が強い興味を示し[ 16] 、また、ベニテスがアストン・ヴィラ のギャレス・バリー 獲得のための移籍資金捻出のため放出の意向を示し、移籍間近とも言われたが、リヴァプールに残留した。
2008-09シーズン、夏の市場でチームが自身を放出をしようとしたことに対し、10月26日、スタンフォード・ブリッジ でのチェルシーFC 戦では決勝ゴールを挙げてチェルシーの過去4年間(86試合)のホーム無敗記録を破るなど[ 17] 、中心的存在として活躍し、マンチェスター・ユナイテッド との熾烈な優勝争いを演じる原動力となった。
レアル・マドリード
前年同様に2009年夏の移籍市場では移籍が騒がれ、特に銀河系軍団 の再構築を目標としているレアル・マドリード 会長のフロレンティーノ・ペレス や、前年の夏同様ユヴェントス、そして莫大な資金力をバックに持つマンチェスター・シティFC が強い興味を示した。これに対しベニテス監督は移籍の可能性を否定していたが、アロンソは移籍を直訴し[ 18] 、8月に移籍金推定3000万ユーロでレアル・マドリードへ移籍。クラブにはすぐに馴染み、スペイン・マルカ にてリーガ・エスパニョーラ のベストイレブンに選ばれる、シャビ・エルナンデス 、ハビ・マルティネス らと共にスペインプロリーグ機構 の選ぶLFPアワード 、最優秀MFにノミネートされるなどの活躍を見せた[ 19] 。また、いくつかのスペインの報道機関やサポーターからはLa Barba Roja (赤髭)というニックネーム もつけられた[ 20] 。
副キャプテンであるグティ がベシクタシュJK へ移籍したことにより、2010-11シーズンから背番号は22番から代表でも付けている14番に変更になった。ジョゼ・モウリーニョ からは不在がチームに大きな影響を与える選手と評価された[ 21] 。チャンピオンズリーググループリーグアヤックス・アムステルダム 戦で、4-0でリードした後半終了間際にアロンソとセルヒオ・ラモス が相次いで遅延行為で退場となった[ 22] 。退場の直前にイェジー・ドゥデク がイケル・カシージャス に耳打ちをしていたシーンも流され、トーナメント前に累積警告を消化するため故意に反則を犯した疑いがあるとしてUEFA の調査が入ることとなった[ 23] 。そして、アロンソ自身には2万ユーロの罰金が科せられた[ 24] 。2011年、2010 FIFAワールドカップ で優勝したことなどを評価され、地元からタンボール・デ・オロ(金の太鼓)を受賞した[ 25] 。W杯後のシーズンであったもののキャリア最多となる公式戦52試合に出場し、スペインでの自身初タイトルとなったコパ・デル・レイ 優勝にも貢献した[ 1] 。
2011-12シーズンのリーグ開幕前、ホームエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ にFCバルセロナ を迎えた2011年のスーペルコパ・デ・エスパーニャ では同点ゴールを記録した。2011年9月21日のラシン・サンタンデール 戦で、レアル・マドリード100試合出場を達成。2011-12シーズンには、キャリア初のリーグ優勝を経験した。
レアル・マドリードでプレイするアロンソ(2012年2月)
2013-14シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ では優勝に大きく寄与したが、準決勝のバイエルン・ミュンヘン 戦第2試合でイエローカードを受けたことにより、累積警告によって決勝 に出場することは出来なかった[ 26] 。
バイエルン・ミュンヘン
バイエルンでのアロンソ
バイエルンで練習をするアロンソ(2015年)
2014年8月、ドイツ・ブンデスリーガ のFCバイエルン・ミュンヘン へ完全移籍した[ 27] 。2014年9月27日、リーグ戦第6節の1.FCケルン 戦で206回のボールタッチを記録。同僚のチアゴ がもっている185回のブンデスリーガ記録を更新した。第8節のヴェルダー・ブレーメン 戦にてFKから直接ゴールを決め、これがブンデスリーガ初ゴールとなった[ 28] 。同シーズンのブンデスリーガ優勝に重要な役割を果たし、リーグの年間ベストイレブンに選ばれた[ 29] 。
2015-16シーズンから背番号を3番から14番に変更。2015年12月18日にバイエルン・ミュンヘンとの契約を2017年まで延長したことを発表した[ 30] 。2016-17シーズンの開幕戦ブレーメン 戦で前半9分にボレーでゴールを決めた[ 31] 。第3節のインゴルシュタット 戦でゴールを決め、12月21日のライプツィヒ 戦でもゴールを決めたが[ 32] 、このゴールが現役最後のゴールとなった。
2017年3月9日、自身のTwitterアカウントとクラブの公式サイトで「フットボールを生き、フットボールを愛した。美しいゲームよ、さらば。 (Lived it, Loved it, Farewell Beatutiful Game.) 」との言葉とともに現役引退を発表した[ 33] [ 34] 。2017年5月13日のライプツィヒ 戦で通算700試合出場を達成した。現役最後の試合となった5月20日、ブンデスリーガ最終節のフライブルク 戦で先発出場、ロッベン の先制点をアシストして勝利に貢献、82分にスタンディングオベーションを受け、リベリー との交代でピッチを後にした[ 35] 。
かつてリヴァプールで共にプレーしたスティーヴン・ジェラード はアロンソの引退にビデオメッセージで「引退に際して心からのお祝いの言葉を送りたい。君は素晴らしいキャリアを過ごしたし、すごいプレーヤーだった。僕のキャリアの中で、最も楽しめる中盤のパートナーだった。一緒にプレーした選手で君よりパスが上手な選手はいなかった」
「色々な人が称賛しているが、君はそれに値することを成し遂げた。僕は君のW杯でのメダル。それにスペインやドイツでのタイトル獲得をうらやましく思う。でも君は全くもってふさわしい活躍をしたね。君が(リバプールを)去った時、僕の心は折れたよ。しかし、このクラブは君に特別な場所をいつでも用意する。いつでも訪問を歓迎する」と述べた[ 36] 。
代表経歴
スペインのU-21チーム で活躍し、2003年4月に代表監督を務めるイニャキ・サエス からエクアドル との親善試合に招集され先発出場、71分までプレーした(試合は4-0で勝利)[ 37] 。ポルトガルで行われたEURO2004 に参加、2試合に出場した[ 37] 。ウクライナ 戦で初先発したが、当時、リーガ・エスパニョーラ 最高のドブレ・ピボーテ とも言われていたバレンシアの双頭、ルベン・バラハ とダビド・アルベルダ からレギュラーの座を奪うことはできなかった。2006 FIFAワールドカップ に向けたメンバーにも招集され、グループリーグの初戦ウクライナ 戦では代表初得点を記録[ 37] 、第2戦のチュニジア 戦ではフル出場[ 37] 、ラウンド16のフランス 戦でも先発フル出場したが、敗れた[ 37] 。
EURO2008 ではスペイン代表の中盤のポジションには「クアトロ・フゴーネス」と称されるシャビ・エルナンデス 、イニエスタ 、セスク・ファブレガス 、ダビド・シルバ ら優秀なMFが多くいるためレギュラーを掴めていなかったが、彼らにない守備力を生かしスーパーサブとしてスペインの優勝に貢献した。グループリーグ最終戦となるギリシャ 戦ではマン・オブ・ザ・マッチにも選ばれた[ 38] 。
大会後、監督がビセンテ・デル・ボスケ へ交代してからは、広い視野と展開力を買われ、中盤司令塔のポジションでレギュラーに定着。2010 FIFAワールドカップ においても全試合に先発出場した[ 37] 。決勝 のオランダ 戦では、28分にナイジェル・デ・ヨング からタックルを受けて負傷。しかし、その後も87分にセスク・ファブレガスと交代するまで試合に出続けた。その試合は両チーム合わせて14枚(内スペイン5枚)ものイエローカードが出る荒れた試合となり、またオランダの元選手であるヨハン・クライフ もラフプレーの多い母国代表を批判した[ 39] 。試合後、デ・ヨングのタックルについてアロンソは「これまでに受けたタックルの中でも最悪のものの一つ」と語った[ 40] 。
EURO 2012でプレーするアロンソ
EURO2012 でもすべての試合に先発出場、大会優秀選手の一人に選ばれる活躍で優勝に貢献した。過去国際大会で6度対戦して一度も勝利したことのなかったフランスとの準々決勝では2得点を記録し、自身の代表通算100試合目を祝った[ 41] 。
2014 FIFAワールドカップ ではグループリーグの3試合に出場、オランダ 戦でPKによるゴールを決めたが[ 37] 、そのオランダ戦とチリ戦で敗北し、チームは最終節のオーストラリア戦でようやく初勝利したが、決勝トーナメントにも進めなかった。クラブでのプレーに専念するため大会後にスペイン代表を引退した[ 42] 。
また、2001年12月29日のガーナ 戦では、バスク代表 としてもプレーした[ 43] 。
監督経歴
レアル・マドリードユース
現役引退後の2017年9月に指導者の道を歩むことを表明、休養の後、マドリードに在住しながらUEFA のコーチングコースを履修した。2018年に監督ライセンスを取得、1年間の育成年代での指導が義務づけられていることから、2018年8月、古巣レアル・マドリード のインファンティルA(U-14カテゴリー)の監督に就任した[ 44] 。その際には自身のTwitterアカウントにて「Back in the game.」とコメントしている[ 45] 。アロンソが指揮したU-14チームは2018-19シーズンにリーグ戦無敗優勝を達成、レアル・マドリード側もフベニールA(U-18カテゴリー)への昇格をオファーしていたが、2019年6月1日に古巣レアル・ソシエダB の監督就任が発表された[ 46] 。
ソシエダB
レアル・ソシエダB を率いるアロンソ(2021年)
レアル・ソシエダBを率いて2シーズン目には、チームを半世紀ぶりのセグンダ・ディビシオン に昇格に導いた[ 47] 。
しかし、2部では思うような結果が出せず、最終的にリーグ戦を20位で終えて3部 に降格。2022年5月31日、アロンソは自身のTwitter とInstagram にてソシエダBを去ることを発表した[ 48] [ 49] 。なお、彼のソシエダBでの3シーズンでの成績は、98試合を指揮し40勝23分35敗だった[ 50] 。
レバークーゼン
2022-23シーズン
2022年10月、ソシエダBの監督を退任しフリーとなっていたアロンソは、当時降格権内にいたレバークーゼン の監督に就任することを発表された[ 51] 。アロンソにとってトップチームを率いるのはこれが初めてだったものの、アロンソはチームを立て直してリーグ戦 6位、この年のEL ではベスト4に導いた。低迷していたチームを立て直した手腕が評価され、アロンソにはプレミアリーグ のトッテナム などが関心を示していたが、2023年8月4日にレバークーゼンとの契約を2026年夏まで延長した[ 52] 。
2023-24シーズン
2023-24シーズン は破竹の勢いで勝利を積み重ね、第6節に首位に立って以降一度も首位を渡すことなく、リーグ戦開幕29戦無敗というブンデスリーガ新記録を樹立。リヴァプール 、バイエルン などが関心を示すも2024年3月に2024-25シーズンも指揮を取ることを明言した[ 53] 。
5月9日、ヨーロッパリーグ 準決勝2ndレグでASローマ と2-2で引き分けたことで、1963年から1965年にかけてSLベンフィカ が記録していた48試合無敗を更新するヨーロッパ新記録の49試合無敗記録に導いた[ 54] 。
18日、最終節のアウクスブルク 戦を2-1で制したことで、ブンデスリーガ史上初のリーグ戦無敗優勝(28勝6分け)とクラブ史上初のブンデスリーガ優勝を果たした[ 55] 。これにより、アロンソはレバークーゼンを率いて2年目でありながら、21世紀以降アーセナル とユヴェントス しか成し遂げていないリーグ戦無敗優勝に輝いた[ 56] 。
一方、ヨーロッパリーグ決勝 ではアタランタBC に0-3で敗れ、無敗記録は「51」でストップしたものの[ 57] 、25日に行われたDFBポカール 決勝ではカイザースラウテルン を1-0で下したことで優勝を果たし、アロンソは国内2冠を成し遂げた[ 58] 。
プレースタイル
中盤底のポジションで、広い視野とレンジが広く精度の高いパスで守備と攻撃を繋ぐ役割を担う[ 1] [ 59] 。ピッチ上での状況判断に優れており、パスのアイディアも豊富である[ 1] [ 59] 。アロンソはユース時代、強いキックを習得するために練習後も壁にボールを蹴っていた[ 60] 。ジョゼ・モウリーニョ からは「ジョゼップ・グアルディオラ に似ている」と絶賛され、「ピッチ上の指揮官」と評された[ 61] [ 62] 。フランツ・ベッケンバウアー からも、「インテリジェンス があり、完璧に試合を支配することのできる選手。デットマール・クラマー の教え(オフ・ザ・ボールの動き )を完璧にこなすことができる」と評価されている[ 63] [ 64] 。
シャビ やアンドレス・イニエスタ らFCバルセロナ の選手が中心となった当時のスペイン代表 のパスサッカーの中で決して引けを取らない技術を持ち、さらに183センチの体格からなるフィジカルとディフェンス能力も備えていることからチームに守備力をプラスできる存在だった[ 65] 。
私生活・エピソード
個人成績
クラブ
クラブ
シーズン
リーグ
カップ
リーグカップ
欧州カップ
その他1
通算
出場
得点
出場
得点
出場
得点
出場
得点
出場
得点
出場
得点
R.ソシエダ
1999-00
0
0
1
0
—
0
0
—
1
0
SDエイバル (loan)
2000-01
14
0
0
0
—
0
0
—
14
0
R.ソシエダ
2000-01
18
0
0
0
—
0
0
—
18
0
2001-02
29
3
0
0
—
0
0
—
29
3
2002-03
33
3
1
0
—
0
0
—
34
3
2003-04
34
3
0
0
—
8
1
—
42
4
合計
114
9
2
0
—
8
1
—
124
10
リヴァプール
2004–05
24
2
0
0
0
0
8
1
—
32
3
2005–06
35
3
5
2
0
0
10
0
3
0
53
5
2006–07
32
4
1
0
2
0
15
0
1
0
51
4
2007–08
19
2
3
0
1
0
4
0
—
27
2
2008–09
33
4
3
0
1
0
10
1
—
47
5
合計
143
15
12
2
4
0
47
2
4
0
210
19
R.マドリード
2009–10
34
3
0
0
—
7
0
—
41
3
2010–11
34
0
7
1
—
11
0
—
52
1
2011–12
36
1
4
0
—
10
0
2
1
52
2
2012–13
28
0
7
0
—
10
0
2
0
47
0
2013–14
26
0
7
0
—
9
0
0
0
42
0
2014–15
0
0
0
0
—
0
0
2
0
2
0
合計
158
4
25
1
—
47
0
6
1
236
6
B.ミュンヘン
2014–15
26
2
4
0
-
10
2
0
0
40
4
2015-16
26
0
4
1
-
8
1
1
0
39
2
2016-17
27
3
3
0
-
7
0
1
0
38
3
通算
79
5
11
1
-
25
3
2
0
117
9
総通算
508
33
50
4
4
0
128
6
11
1
701
44
1 UEFAスーパーカップ , FIFAクラブワールドカップ , FAコミュニティ・シールド , スーペルコパ・デ・エスパーニャ など.
代表歴
出場大会
試合数
国際Aマッチ 114試合 16得点(2003年-2014年)[ 71]
スペイン代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
2003
5
0
2004
11
0
2005
6
0
2006
11
1
2007
6
0
2008
14
2
2009
12
4
2010
16
2
2011
11
3
2012
14
3
2013
3
0
2014
5
1
通算
114
16
得点
出典
監督成績
2024年6月2日現在
チーム
就任
退任
記録
試合
勝
分
負
得
失
差
勝率(%)
レアル・ソシエダB
2019年6月1日
2022年5月28日
7001980000000000000♠ 98
7001400000000000000♠ 40
7001230000000000000♠ 23
7001350000000000000♠ 35
7002140000000000000♠ 140
7002120000000000000♠ 120
+20
0 7001408200000000000♠ 40.82
レバークーゼン
2022年10月5日
—
7001910000000000000♠ 91
7001610000000000000♠ 61
7001190000000000000♠ 19
7001110000000000000♠ 11
7002211000000000000♠ 211
7001900000000000000♠ 90
+121
0 7001670300000000000♠ 67.03
通算
7002189000000000000♠ 189
7002101000000000000♠ 101
7001420000000000000♠ 42
7001460000000000000♠ 46
7002351000000000000♠ 351
7002210000000000000♠ 210
+141
0 7001534400000000000♠ 53.44
タイトル
選手時代
クラブ
リバプール
レアル・マドリード
バイエルン・ミュンヘン
代表
スペイン代表
個人
指導者時代
レバークーゼン
脚注
関連項目
外部リンク
タイトル・受賞歴 最優秀スペイン人選手 最優秀外国人選手 ブレイクスルー選手 最優秀監督 最優秀審判