新谷 寅三郎(しんたに とらさぶろう、1902年〈明治35年〉10月30日 – 1984年〈昭和59年〉12月16日)は、日本の政治家、官僚。郵政大臣、運輸大臣を歴任。位階は正三位。1974年勲一等旭日大綬章受章。
来歴・人物
奈良県高市郡八木町(現・橿原市)に、新谷寅蔵の三男として生まれる。畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)4年修了、1922年3月第一高等学校文科甲類[1]を経て、1925年東京帝国大学法学部政治学科を卒業、逓信省に入省する。灯台局長、海務院総務局長を経て、運輸通信省海運局長時代に東條英機首相から木造船の増産を命じられるも、「船釘を作る鉄が不足? 隠匿物資を探して来い」式のむちゃな指示にたまりかね辞職する。
戦後の1945年、同期入省の松前重義の要請により、逓信院次長となる(総裁は松前)。その後同院総裁心得を経て、1947年第1回参議院議員通常選挙に無所属で全国区から立候補し当選する。以後7回連続当選を果たし、生涯参議院議員を務める。1950年からは奈良県選挙区から当選を重ねる。党派は緑風会 - 自由民主党に所属。
自民党では石井光次郎派に所属する。労働政務次官、参院内閣、地方行政、大蔵、予算各委員長を経て、1966年第1次佐藤第2次改造内閣で郵政大臣として初入閣する。1971年の参院議長選挙では、反重宗雄三グループ「桜会」の中心メンバーとして河野謙三議長実現に活躍した。
1972年第2次田中角栄内閣で運輸大臣。リニア中央新幹線の奈良経由に尽力した[2][3]。その後は自民党党紀委員長、同両院議員総会長を務めた。1984年12月16日、心不全のため大田区北千束の自宅で死去。享年82。
家族・親族
- 妻・茂子(1909年8月生 - 、子爵稲葉順通三女)
- 長男・尚(1929年11月 - )
- 次男・孝(1932年8月 - )
- 長女・康子(1935年4月 - )
- 三男・淳(1938年5月 - )
その他
脚注
参考文献
関連項目 |
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参議院大蔵委員長 (1963年-1964年) |
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参議院地方行政委員長 (1959年-1960年) |
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統合前 |
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統合後 | |
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2001年、運輸大臣、建設大臣、国務大臣国土庁長官は国土交通大臣に統合された。長官は国務大臣としての長官を表記。 |
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第1回 (定数100) |
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†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。 |
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