京都大学複合原子力科学研究所
京都大学複合原子力科学研究所(きょうとだいがくふくごうげんしりょくかがくけんきゅうしょ、英: Kyoto University Institute for Integrated Radiation and Nuclear Science、略称:KURNS)は、京都大学の附置研究所で、「原子炉による実験およびこれに関連する研究」を行うことを目的に全国大学等で共同利用するための施設として1963年に発足した研究所である。共同利用・共同研究拠点に指定されている。大阪府泉南郡熊取町に所在する。 2018年3月までは「京都大学原子炉実験所」(きょうとだいがくげんしろじっけんしょ、英: Kyoto University Research Reactor Institute、略称:KURRI)という名称であった。 概要1963年に設立。原子力に関する京都大学の共同利用・共同研究拠点であり、設置以来一貫して原子力と放射線の利用に関する研究教育活動が行われている。 保有施設として、京都大学研究用原子炉(Kyoto University Research Reactor, 略称:KUR)と京都大学臨界集合体実験装置(Kyoto University Critical Assembly, 略称:KUCA)の2つの原子炉施設を有している。かつては5つの大学が計6つの原子炉施設を有していたが、立教大原子力研究所の立教大炉 (RUR)、武蔵工大(現東京都市大学)原子力研究所の武蔵工大炉 (MITRR)、東京大学工学系研究科附属原子力工学研究施設の東京大炉(弥生)の運転が終了したため、2018年現在では大学が有する原子炉施設として近畿大学原子力研究所(近大炉 (UTR-KINKI) を保有)とともに貴重な存在となっている。また、原子炉施設だけでなく、FFAG加速器やサイクロトロン加速器等の加速器施設やコバルト60ガンマ線照射装置等のRI使用施設も有しており、これらの施設を活かした複合的な原子力科学分野の研究が行われている。 研究分野は原子力基礎科学から粒子線物質科学や放射線生命医科学まで広範囲に渡っており、中性子捕捉療法 (BNCT) の臨床研究においては、研究炉を用いた臨床研究で世界最多の実施件数を誇り[3]、30MeVサイクロトロン加速器を用いて世界初となる加速器中性子源によるBNCTの治験を開始する[4][5]など、世界をリードしている。 沿革略歴京都大学複合原子力科学研究所の前身である京都大学原子炉実験所の歴史は、1955年9月に研究用原子炉の設置計画案が京都大学工学研究所(現・京都大学エネルギー理工学研究所)から文部省に提出されたことに始まる。同じ頃、大阪大学からも実験用原子炉の設置が文部省に申請されたため、文部省は両者を併合して認可する方針を採り、京大・阪大合同で実験用原子炉の設置をすることとした。また、1956年1月に発足した原子力委員会は、同年9月に原子力開発長期基本計画を策定し、その中で京大・阪大が共同利用する研究炉を設置することを定めた。こうして、関係機関(関係大学、科学技術庁、日本学術会議)と協議の上、1956年11月5日に京都大学に原子炉設置準備委員会が設置され(委員は京都大学、大阪大学からそれぞれ4名、科学技術庁原子力局長、文部省大学学術局長、日本原子力研究所副理事長)、同月30日に文部省で第1回委員会が開かれた。翌1957年1月9日に準備委員会は敷地場所を京都府宇治市に定めたが、淀川を水源とする市町村の猛反対に遭い、湯川委員長が辞任に追い込まれた。このため同年8月の第5回委員会で宇治案の撤回を決定し、大阪府高槻市阿武山付近を候補地としたが、ここでも隣接の茨木市をはじめ周辺市町村の反対を受けた。その後、交野町、四条畷町、美原町と候補に挙がったものの、思うような成果は得られず、ようやく1960年12月9日に現在の熊取町朝代地区への建設が決定した。1962年には、原子炉の建設に伴う業務を統一的に処理するため、学内に研究用原子炉建設本部が設けられた(建設本部は工学研究所の中に置かれたが、研究所とは別のものとして運営)。工学研究所内に設置予定であった研究用原子炉については、その規模から見て全国共同利用にすることが望ましいという政府見解の下、関係委員会において慎重審議された。その結果、全国利用の実を上げるには工学研究所とは別個の独立した機関として運営することが望ましいとの結論になり、原子炉実験所が新たに附置されることになった。施設の建設は1961年12月の起工式以来3年計画で進められ、工事期間中の1963年4月1日には原子炉実験所が正式に京都大学に附置された。 原子炉については、1958年9月に京大・阪大両大学のほか関西諸大学・日本学術会議から推薦された委員で構成する関西研究用原子炉建設委員会が設置されて、原子炉ならびに関連施設に関する技術的計画が推進された。そして、1961年9月に研究用原子炉(KUR, 1号炉)の原子炉設置承認申請書が京都大学から科学技術庁原子力局へ提出され、翌1962年3月に承認された。1964年6月25日にKURは初臨界に成功し、さらに同年8月には定格出力1,000kWに到達し、1968年7月には熱出力5,000kWへ出力上昇した。KURの出力上昇も順調に終わると、次の研究炉の計画が持ち上がり、2号炉として大出力・高中性子束密度の原子炉を建設することとなった。2号炉については、まずその炉心の核的特性を調べる臨界実験装置から計画することとなり、原子炉物理の研究に幅広く使えることを念頭に複数炉心を持つ京都大学臨界集合体実験装置 (KUCA) が建設されることとなった。KUCAについては1972年度を起点とする2年計画で予算が措置され、1972年5月KUCA増設の原子炉設置変更承認申請を提出し、同年8月に承認された。そして、1974年8月6日にC架台で初臨界に成功した。その後、1976年10月、高中性子束炉(Kyoto University High Flux Reactor, 略称:KUHFR、2号炉)増設の原子炉設置変更許可申請書が提出され、1978年10月に承認された。しかし、同年12月に反核団体・原水爆禁止全面軍縮大阪府協議会より計画に異議が出され、翌1979年3月には米国スリーマイル島原子力発電所事故が発生、4月には原子炉実験所の排水が流れる小川から放射性同位元素のコバルト60が検出されるなど、2号炉計画は大きな打撃を受けた。建設に着工することができないまま、実験所は2号炉計画の撤回を決定し、1990年12月にKUHFR増設撤回の原子炉設置変更承認申請が提出され、翌1991年2月に国に承認された。 福島第一原子力発電所事故を受けて試験研究炉の規制基準も厳格化されたことから、KUR、KUCAとも2014年の定期検査入りから運転を停止していた[6]が、新規制基準に対応する工事を終え、KUCAは2017年6月21日に[7]、KURは同年8月29日に[8]再稼働した。 2018年4月、研究所名を「研究ツール」を冠したものから担うべき「研究分野」を表すものとするため、原子炉実験所から複合原子力科学研究所へ改めた[9]。 年表
教育と研究組織
研究教育大学院理学研究科、医学研究科、工学研究科、農学研究科、エネルギー科学研究科における協力講座として講義や研究指導を行っている。また、全学共通科目等の提供や、全国の原子力系大学院生を対象にKUCAを用いて夏期1週間の炉物理実験を実施している[14]。 イベント毎年4月頃に研究所の一般公開を行っている[15]。また、学術公開を毎月1回実施している[16]。 その他、毎年10月にアトムサイエンスフェアを開催している[17]。 研究施設および設備等
→詳細は「京都大学研究用原子炉」を参照
→詳細は「京都大学臨界集合体実験装置」を参照
歴代所長歴代所長は以下の通り[22]。所長は京都大学の教授をもって充てられ、任期は2年で再任は妨げられない[23]。
所員現所員元所員
脚注
関連項目外部リンク
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