アンドリー・シェフチェンコ
アンドリー・ムィコラーヨヴィチ・シェフチェンコまたはアンドレイ・ニコラーエヴィチ・シェフチェンコ[2](ウクライナ語: Андрій Миколайович Шевченко, ラテン文字表記:Andriy Mykolaiovych Shevchenko, ロシア語: Андрей Николаевич Шевченко, 1976年9月29日 -)は、ウクライナSSR・キーウ州ドヴィルキウシュチナ村出身[3]の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはFW(CF、LWG)。2024年1月からウクライナサッカー連盟の会長を務める[4]。 概要史上最高のストライカーの1人、あるいはウクライナ史上最高の選手とみなされ、ディモナ・キーウやACミラン、ウクライナ代表で活躍し、ウクライナをヨーロッパのサッカー強豪国のひとつに押し上げた[5]。 愛称はシェバ(Sheva)。ヘブライ語で数字の7を意味するため、本人も背番号は7番(もしくは7の入る数字)にこだわりがある。トップスピードから矢のようにゴールを奪うスタイルから「ウクライナの矢」とも称される。 2004年にバロンドールを受賞[6]。UEFAチャンピオンズリーグにおいて歴代10位タイとなる147試合に出場し、歴代5位の67得点を記録した。そのほか、ミラノダービーでは歴代最多得点となる14得点を挙げている。 来歴ディナモ・キーウ時代6歳でウクライナのディナモ・キーウのサッカースクールに入団。9歳の時、チェルノブイリ原子力発電所事故で罹災し一家で避難、幼年期を育った土地を離れて移住[3]。1992年にディナモ・キーウユースに昇格、1994年にトップチームでデビューを果たす。最初のクラブであるディナモ・キーウではチームを5年連続リーグタイトルに導き、自身は116試合で60得点した[3]。 シェフチェンコが国際的な注目を集めたきっかけは1997-98シーズンのUEFAチャンピオンズリーグにおける大活躍である。特にFCバルセロナとアウェーのカンプ・ノウで対戦した試合では、バルセロナの圧倒的優位という下馬評の中、シェフチェンコのハットトリックを含む0-4でディナモ・キーウが圧勝という番狂わせの立役者となった。シェフチェンコは次シーズンのチャンピオンズリーグでも大活躍し、10得点を挙げて1998-99シーズンのCL得点王を獲得。ディナモ・キーウをCLベスト4に押し上げる原動力となった。 ACミラン時代1999-00シーズンからは推定移籍金2600万ユーロでACミランに移籍をした。開幕戦のレッチェとの対戦でゴールを挙げ、5節のラツィオとの対戦では3得点、移籍初年度から高い順応性を見せた彼は、鋭い突破力と高い決定力で32試合で24得点を挙げていきなりセリエA得点王を獲得。ミランにおいてグンナー・ノルダールに次いで2人目、セリエA全体では6人目となる移籍初年度に得点王に輝いた外国人選手となった。また、シェフチェンコは1999年、2000年と2年連続でヨーロッパ年間最優秀選手の最終候補3名に名を連ねた。 2002-03シーズンは開幕前に負傷して開幕からの数試合を欠場するなど、大幅に得点が減少したが、チャンピオンズリーグ準決勝のインテルとの第2戦ではチームを決勝進出に導く得点を決め、決勝ではユベントスを破り優勝を果たした。2003-04シーズンには再び24得点を挙げて得点王となるなど完全復活を果たし、ACミランのスクデット獲得に貢献した。この年、ポルトガルのデコとブラジルのロナウジーニョを抑えてヨーロッパ年間最優秀選手を受賞した。ウクライナ人でこの名誉を授かったのは、オレグ・ブロヒン(1975年)、イーゴル・ベラノフ(1986年)に次いで3人目である。2004-05シーズン、チャンピオンズリーグ決勝まで進出したが、決勝のリヴァプールとの対戦ではクレスポの得点をお膳立てしたが、PK戦でデュデクにPKを止められて敗戦した[7]。 2006年2月8日、FCトレヴィーゾ戦で得点を挙げたことにより、ノルダールに次ぐクラブ史上2番目の得点数を記録した選手となった。最終的に、7年間で296試合に出場して173得点を記録した[7]。 チェルシー時代2005-06シーズン終了後、ACミランからの退団とFAプレミアリーグへの移籍を表明。5月31日、4500万ユーロ(約63億円)の移籍金、年俸900万ユーロ(約13億円)の4年契約でチェルシーFCへ移籍した[8]。しかし、プレミアリーグのサッカーやチェルシーの戦術に馴染めなかったためか、本来の実力を発揮したとは言えないパフォーマンスであった。ディディエ・ドログバは、巨額な移籍金に見合った働きをするために利己的なプレーをしていると批判した[9]。 2008年1月にニコラ・アネルカが加入してからは更に出場の機会がなくなっていき、リザーブチームの試合に出場することもあった[10]。 ACミラン復帰その後もなかなかチームに馴染めず出場機会が限られていたため何度も古巣ミラン復帰の噂がされていたが、2008年夏、得点力不足や前線のメンバーの負傷が相次ぐなど前線に問題をかかえていた古巣ミランがレンタル移籍での獲得を希望する。交渉は難航するが8月23日、レンタル移籍で両クラブ間が合意に達し、2シーズンぶりの復帰となった[11]。背番号は、すでにパトが背番号7番を背負っていたため、自身が1976年生まれであること、かつ彼の好む「7」という数字が入っていることから76番となった。しかしリーグ戦では1得点も奪えず、レンタル期間は終了。2009-10シーズンの開幕はチェルシーで迎えることとなった。 ディナモ・キーウ復帰2009年8月29日、10年ぶりに古巣ディナモ・キーウへ復帰することが発表された[12]。2年契約で背番号は7番。2009-10シーズンからキャプテンに就任したアルテム・ミレフスキーのサポート役として、シェフチェンコは副キャプテンに就任。11月4日のチャンピオンズリーグ・インテル戦では華麗なボレーシュートを決めてみせた。 代表ウクライナ代表としては111試合に出場して48得点を記録。同国の最多得点記録を保持している。 2006年のワールドカップにおいては、ヨーロッパ予選で6得点を挙げる活躍を見せ、ウクライナ史上初となる本大会出場へと導いた。本大会グループリーグでもチュニジア代表戦での決勝点となるPKを決めるなどし、初出場ながらベスト8まで駒を進めた。 ウクライナがポーランドと共催するUEFA EURO 2012を最後に現役から引退することを大会前に発表。サッカー界から退いた後は、ゴルファーへ転向を果たす計画であり、ゴルフが112年ぶりに正式競技に復活した2016年のリオデジャネイロ五輪への出場を目指す構えだという。そうして臨んだEURO2012ではグループリーグ初戦のスウェーデン戦では、後半7分にスウェーデンのエースであるイブラヒモビッチに先制点を許すも、3分後にヤルモレンコのクロスをヘッドで合わせて同点とし、その7分後にはコーナキックをまたしても頭で合わせて、勝ち越し点を挙げた。こうして2得点を挙げ、ウクライナのEURO初勝利に貢献した[13]。しかし、フランス、イングランドには敗れ、グループリーグ敗退に終わり、大会終了後の2012年7月27日に現役引退した。 引退後現役引退後は、政治家への転身を表明し、同年10月に行われたウクライナ最高議会選挙にウクライナ社会民主党から出馬したが、落選。その後、ウクライナ代表のスタッフ入りも報じられたが、趣味のゴルフでプロゴルファーへの転身も目指し、2013年から複数のツアーに参加したが、すべて予選落ちし大成できなかった。2015年にUEFAのプロライセンスを修得、2016年2月16日、母国ウクライナ代表のコーチ就任が発表された。その後、UEFA EURO 2016グループリーグ敗退で引責辞任したミハイロ・フォメンコ監督の後任として同年7月15日に代表監督就任が発表された。監督として臨んだ2018 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選では最終節でプレーオフ出場となる2位を争う直接のライバルのクロアチア代表に敗れ、予選グループリーグ3位で本大会出場を逃した。UEFA EURO 2020予選は10戦無敗でグループBを首位通過。EURO2020本戦では、グループCを3位で通過して決勝トーナメントに進出し、準々決勝まで駒を進めた。 2021年11月7日、ジェノアCFCの監督に就任したことが発表された[14]。 2022年1月15日、ジェノアCFC監督の解任を発表[15]。 2022年3月、ロシアのウクライナ侵略を受け、家族が残るキーウに帰国。 2024年1月25日、ウクライナサッカー連盟の会長に就任することを発表した。 選手としての特徴スピード、テクニック、体力、得点感覚という、フォワードとして必要な才能を全て兼ね備えたことから世界最高と謳われ、特にそのスピードから「ウクライナの矢」と呼ばれた[5]。 エピソード
・少年時代からのミラニスタであり、14歳の頃に1990 FIFAワールドカップを観戦しにイタリアのミラノにあるサン・シーロに来ていたシェフチェンコは「いつかロッソネロのユニフォームを着てプレーしたい」という夢があった。 個人成績
1 リーグカップ、スーパーカップ 代表歴出場大会試合数
得点
監督成績
記録クラブ代表ワールドカップ戦績タイトルクラブ
個人
背番号
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外部リンク
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